以下、ネタバレがあります。
【あらすじ】
Welcome to this crazy time このイカレた世界へようこそ!
【その有り余るバイタリティで平成の世を駆ける君よ!】
「なぜ映画を作るのか?」映画人にこう尋ねたとき、色々な答えが返ってくるだろう。しかし、どんな映画人のどんな角度からの回答も、この一言に集約されるのではないだろうか。それは「サバイブするため」つまりは「生きるため」だろう。それは生活のためでもあるし、自分らしく生きるとか、そういう意味でもある。
本作「マッドマックス 怒りのデスロード」はサバイブする話である。世紀末のカリスマであるイモータン・ジョーが支配する砦(シタデル)から、ジョーの子供を産む機械として扱われている女たちが逃げ出す。そこになりゆきで合流した流れ者のマックス。ふたりが協力して、ジョー軍団の追跡から全力で逃げる。あらすじを説明すると、これだけである(その中では小粋かつ濃密なドラマが描かれるが)。あとはマックスらの常軌を逸したサバイバル模様が描かれる。
では、ここで描かれるサバイバルとはどういうものか?登場人物のサバイバルの方向性は全員同じである。「生きたいように生きる」だ。それは主人公のマックスは勿論、「私たちは物じゃない!」と砦を脱走する5人の子産み女もそうだし、そんな彼女らを助 ける女戦士フュリ オサもそうだ。 さらには悪役のイモータン・ジョーやウォーボーイズも生きたいように生きている。そして、では生きたいように生きるためにはどうするべきか?という問いに対して、監督のジョージ・ミラーはこういう結論を出している。「最速で走りぬけ」目的を達成するためなら無駄なことは一切しない。無駄口は叩かず、できることは全てやる。そして、もしも自分が無理だと思ったら、すぐに出来る他人に助けを求める。すべては目的を果たすためであり、そのために必要なことを速攻で実行する。この部分は本作の肝であり、最も気持ちの良いところである。マックスは銃が上手く当たらないと思ったら、すぐにフュリオサに任せるし、ウォーボーイズのニュークスも、ミスはするがバカはしない(現実世 界の常識と照らし合わせるとバカに見えることはあるが、あの世界のあの常識の中ではバカではない)。映画を観ているときにありがちな、「このバカ野郎何をしてるんだ!」みたいなストレスは感じない。
生きたいように生きる。そのためにやるべきことをやる。一見すると無茶なことでもやってみせる。メタ過ぎる視線かもしれないが、それは映画を作るという行為自体にも被さってくる。そもそも映画を作るという行為自体が、安定とは程遠い仕事である。成功すれば良いが、失敗する可能性の方が高い。毎年無数の映画作家が出てきては、いつの間にやら消えてゆく。巨匠だった人ですら、「そういえばアイツどこに行った?」となることもしょっちゅうだ。実際に失敗する人の方が多いだろうし、芽が出ないまま野垂れ死 にした人もいるだろう。ジョージ・ミラーが映画監督を志した当時のオーストラリアの就職事情は分からないが、たぶん安定という意味では、普通に公務員とか会社員とかを目指した方が良かっただろう。だがジョージ・ミラーは映画を作ることを選択した。砦を飛び出した5人の子産み女よろしく、生きたいように生きると決断したわけである。そしてデビュー作「マッドマックス」で徹底的にやり切り、「マッドマックス 怒りのデスロード」でも再びやり切った。十数年の準備期間を費やし、膨大な設定とド迫力のアクションを作り出した。すべてはジョージ・ミラーが現実世界をサバイブするためだ。安全かもしれないが望まない人生、そんな人生を捨て、リスキーでも自分のやりたいように生きる。それは劇中のマックスらの行動にも重なってくる。
この世界をサバイバルしたいなら、とにかく最速で走りぬけ。徹底的にやれ。そうすれば無茶なことでも何とかなる(何とかならなかったら、そのとき考えようというアバウトさも含む)。……この映画には、そんな厳しくも力強く、そしてポジティブなメッセージがある。男、女、子供、青年、老人、真面目な人、不良の人、会社勤めの人 、自営業の人……種類は問わない。とにかく、自分なりに現実をサバイバルしようとする全ての人に捧げられた傑作だ。
【マッドマックス 怒りのデスロード】…★★★★★
Welcome to this crazy time このイカレた世界へようこそ!
【その有り余るバイタリティで平成の世を駆ける君よ!】
「なぜ映画を作るのか?」映画人にこう尋ねたとき、色々な答えが返ってくるだろう。しかし、どんな映画人のどんな角度からの回答も、この一言に集約されるのではないだろうか。それは「サバイブするため」つまりは「生きるため」だろう。それは生活のためでもあるし、自分らしく生きるとか、そういう意味でもある。
本作「マッドマックス 怒りのデスロード」はサバイブする話である。世紀末のカリスマであるイモータン・ジョーが支配する砦(シタデル)から、ジョーの子供を産む機械として扱われている女たちが逃げ出す。そこになりゆきで合流した流れ者のマックス。ふたりが協力して、ジョー軍団の追跡から全力で逃げる。あらすじを説明すると、これだけである(その中では小粋かつ濃密なドラマが描かれるが)。あとはマックスらの常軌を逸したサバイバル模様が描かれる。
では、ここで描かれるサバイバルとはどういうものか?登場人物のサバイバルの方向性は全員同じである。「生きたいように生きる」だ。それは主人公のマックスは勿論、「私たちは物じゃない!」と砦を脱走する5人の子産み女もそうだし、そんな彼女らを助 ける女戦士フュリ オサもそうだ。 さらには悪役のイモータン・ジョーやウォーボーイズも生きたいように生きている。そして、では生きたいように生きるためにはどうするべきか?という問いに対して、監督のジョージ・ミラーはこういう結論を出している。「最速で走りぬけ」目的を達成するためなら無駄なことは一切しない。無駄口は叩かず、できることは全てやる。そして、もしも自分が無理だと思ったら、すぐに出来る他人に助けを求める。すべては目的を果たすためであり、そのために必要なことを速攻で実行する。この部分は本作の肝であり、最も気持ちの良いところである。マックスは銃が上手く当たらないと思ったら、すぐにフュリオサに任せるし、ウォーボーイズのニュークスも、ミスはするがバカはしない(現実世 界の常識と照らし合わせるとバカに見えることはあるが、あの世界のあの常識の中ではバカではない)。映画を観ているときにありがちな、「このバカ野郎何をしてるんだ!」みたいなストレスは感じない。
生きたいように生きる。そのためにやるべきことをやる。一見すると無茶なことでもやってみせる。メタ過ぎる視線かもしれないが、それは映画を作るという行為自体にも被さってくる。そもそも映画を作るという行為自体が、安定とは程遠い仕事である。成功すれば良いが、失敗する可能性の方が高い。毎年無数の映画作家が出てきては、いつの間にやら消えてゆく。巨匠だった人ですら、「そういえばアイツどこに行った?」となることもしょっちゅうだ。実際に失敗する人の方が多いだろうし、芽が出ないまま野垂れ死 にした人もいるだろう。ジョージ・ミラーが映画監督を志した当時のオーストラリアの就職事情は分からないが、たぶん安定という意味では、普通に公務員とか会社員とかを目指した方が良かっただろう。だがジョージ・ミラーは映画を作ることを選択した。砦を飛び出した5人の子産み女よろしく、生きたいように生きると決断したわけである。そしてデビュー作「マッドマックス」で徹底的にやり切り、「マッドマックス 怒りのデスロード」でも再びやり切った。十数年の準備期間を費やし、膨大な設定とド迫力のアクションを作り出した。すべてはジョージ・ミラーが現実世界をサバイブするためだ。安全かもしれないが望まない人生、そんな人生を捨て、リスキーでも自分のやりたいように生きる。それは劇中のマックスらの行動にも重なってくる。
この世界をサバイバルしたいなら、とにかく最速で走りぬけ。徹底的にやれ。そうすれば無茶なことでも何とかなる(何とかならなかったら、そのとき考えようというアバウトさも含む)。……この映画には、そんな厳しくも力強く、そしてポジティブなメッセージがある。男、女、子供、青年、老人、真面目な人、不良の人、会社勤めの人 、自営業の人……種類は問わない。とにかく、自分なりに現実をサバイバルしようとする全ての人に捧げられた傑作だ。
【マッドマックス 怒りのデスロード】…★★★★★