母乳と育児:あふれる情報に振り回され…のしかかるつらさ
毎日新聞 2015年07月08日 19時15分(最終更新 07月08日 20時46分)
我が子を母乳で育てたいと願う母親は多い。厚生労働省の調査(2005年)では出産前に96%の母親が希望し、国も母乳育児を推進してきた。だが、出産1カ月後で、母乳のみで育児する人は約半数。その陰には、思うように授乳できずにつらい思いをする人がいる。悩みにつけ込むようにインターネットでは偽「母乳」が販売されていたことが判明した。改めて母と子、そして母乳をめぐる現状を5回にわたって追う。
「まだまだ完母(完全母乳)というわけにいかない。焦りすぎなのか、努力が足りないのか……」(生後12日)
「(1カ月健診で体重増加が足りず)今の状態がダメ宣言をされた。母乳で我が子を育ててやりたいという親心を全て否定された気分」(生後31日)
「1時間おきの授乳で休まるひまがない。○○(娘の名)も私も疲れている」(生後60日)
奈良県に住むNPO法人職員の女性(35)は10年7月に長女を出産した。当時の育児日記には、母乳育児が軌道に乗らない焦りや不安が、連日したためられている。
◇何を信じたら
妊娠中は兵庫県に住み、「母乳育児をサポートします」とうたう産婦人科で妊婦健診を受けた。その後、実家がある奈良県の病院で出産した。娘はうまく吸えず、入院中は母乳を飲めなかった。退院後も30分〜1時間おきの「頻回授乳」を試みたが体重は増えない。「粉ミルクを足すと、母乳を飲まなくなる」「母乳でないと免疫機能に影響が出る」「母乳で育つと情緒が安定する」−−。インターネットでそんな記述を見るにつけ、ミルクを与えるのをためらい、「何が何でも」と思い詰めた。
産後2週間。授乳指導をする助産院を訪問した際に、助産師に叱責された。「飲ませ方が下手」「赤ちゃん、ひょろひょろじゃない。あなたはそれでも母親なの?」
その直後、産院で1カ月健診を受け、助産院で母乳指導を受けたことを話し、「どうすれば出ますか」と相談すると、「ミルクでいいのよ。母乳が出ない人は出ないから」と言われ努力を否定されたように感じた。「何を信じたらいいのか」。すぐに実家から兵庫県の自宅に帰り、妊婦健診を受けた病院の助産師を訪ねると、「母乳は十分に出ている。乳首が少し飲みにくい形だけど、大丈夫。疲れたらミルクを足してもいいからね」とアドバイスを受けた。通院して授乳が安定。1日を母乳のみで過ごせた日には、「嬉(うれ)しくてたまらない」(生後72日)と日記に記した。
女性は偽「母乳」ネット販売問題について「産後の母親は子どもを守りたいという意識が強くなる分、『ミルクはダメ』などという極端な情報に流されやすくなる。その心情を逆手にとったビジネスに、怒りと悲しみでいっぱい」と声を震わせた。
「私が産んだ地方は産婦人科不足で産院の選択肢はなかった」と嘆くのは、千葉県船橋市の主婦(30)。実家のある青森県内の産婦人科で08年9月に長男を出産。長男はうまく吸えず、乳房を搾って哺乳びんから母乳を与えた。産後1カ月で母乳の分泌が止まり、健診で「母乳が出ません」と相談したが、ミルクを足すように指示されただけ。長男は健康に育ったが、「母乳を与える幸せを味わいたかった」という思いを引きずる。
◇縛られないで
子育て情報サイト「BabyNET(ベビーネット)」などに記事を書く仙台市のフリーライターの女性(37)は「母乳は出なくても大丈夫だよ/完母へのこだわりに縛られないで」と題するコラムを掲載している。「つらい思いをしているママの救いになれば」との思いからだ。
女性は06年8月、長女を出産した。入院中は母子同室だったが、授乳は助産師が詰めている授乳室で行う。他の母親は短時間で退室する中、自分は母乳が出ない。授乳しても体重が増加せずミルクを作り、その合間に搾乳する、の繰り返しで1時間以上かかる。ある日は午前1時から3時までこもりっきりに。個室に戻ると涙が止まらなかった。「授乳地獄でした」
退院後は夜間も頻回授乳し、ネットや雑誌を読みあさっては自己流の母乳マッサージをしたり食べ物を米と野菜中心にしたりするなど、あらゆる方法を試した。生後約2週間まであえてミルクを足さなかったことも。おなかをすかせ激しく泣く長女に根負けし、ミルクを与える−−という毎日。「子供の健康や生活リズムも後回しになっていた」と振り返る。乳頭が傷つき出血しても、痛みをこらえて含ませた。疲れと貧血で、高熱を出して寝込んだこともある。「自分は母親失格」。罪悪感が邪魔をして、1カ月健診でも、相談できなかった。
目を覚まさせてくれたのは、夫の「娘は元気に育っている。ミルクなら俺も手伝えるからいいじゃないか」という一言。「授乳は、母乳で育てたというステータスや満足感のためではなく、赤ちゃんを健康に育てるためのもの」。気持ちを切り替えると、日中と夜間は母乳、夕方と就寝前にミルクを足すというリズムで、授乳を楽しめるように。
女性は「『母乳は素晴らしい』という情報ばかりあふれ、母親が追い詰められている。病院は『ミルクを使ってもいい』というメッセージを出すとともに、母乳をあげたいという思いに寄り添ってほしい」と願う。
◇医学的根拠ない
小児科医の森戸やすみさん(44)は著書「小児科医ママの『育児の不安』解決BOOK」で、「授乳中の食事で母乳の味が変わる」「乳製品を食べると乳腺炎の原因になる」「産後半年を過ぎると母乳の成分は薄くなる」などの言説に「医学的な根拠はない」と警鐘を鳴らしている。森戸さんは「母乳の分野は産婦人科でも小児科でも専門外とされ、医療のエアポケット。非科学的な言説が野放しになっている」と指摘。「医師が根拠ある情報を伝えることが大切。大事なことだけ押さえれば、育児は楽しめる」と呼びかける。
=次回は、母乳育児を推進する医療機関の取り組みを中心に紹介します。
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この連載は、中川聡子、五味香織、塩田彩が担当します。
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