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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com >歴史は生きている >9章:日韓・日中 国交正常化 > 「繁栄」の代償 今なお歴史摩擦
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玄勝一(ヒョン・スンイル)・国民大学元総長 |
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柳永烈(ユ・ヨンニョル)さん |
韓国で新しい大統領、李明博(イ・ミョンバク)氏(66)が25日、就任する。現代建設社長をへてソウル市長に転身、「初のCEO(最高経営責任者)出身大統領」として経済再生への国民の期待を集めている。
「成熟した韓日関係のためには、謝罪しろ反省しろ、という話はしたくない」「歴史問題は専門家が討論すればよい」
これは、日韓でしばしば外交問題になる植民地支配などをめぐる歴史認識について、李氏が当選後に語った言葉だ。日本に厳しい言葉を投げかけた盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領とは違い、日本では、韓国との関係改善に期待が高まっている。
その李氏は、40年余り前、名門私立大、高麗大の学生で反日運動の闘士だった。日韓国交正常化に反対しデモに参加、逮捕され、獄中で暮らしたという一面を持つ。
■たった数億ドルで清算 韓国の学生ら「屈辱」
64年6月3日。
学生や市民数万人は、ソウル市内で「朴政権は民族のために退け」「腐敗し無能な朴政権打倒」と叫び、デモを繰り広げた。前年の大統領選で軍服を脱いだばかりの朴正熙(パク・チョンヒ)大統領は、運動が「国交正常化反対」から「反政府」に向かうのをおそれ、非常戒厳令を敷き、軍事力でデモを鎮圧した。
なぜ国交正常化に反対だったのか。
当時、ソウル大のリーダーだった玄勝一(ヒョン・スンイル)・国民大学元総長(66)に会った。
「たった数億ドルで過去の植民地支配を清算するなんて認められなかった。屈辱外交の極みだ」。第2次世界大戦が終わり、韓国が日本の支配から解放されてからまだ20年足らず。「つらかった植民地時代の記憶が、だれの頭にも残っていた。こんな内容では受け入れられない。それが民族感情というものでした」
クーデターで政権を獲得した軍出身の朴大統領に対する反感も強かった。60年4月、独裁体制を強めていた初代大統領、李承晩(イ・スンマン)は、学生や市民のデモによって退陣を余儀なくされた。
「これで民主主義が実現すると思っていたら1年ほどでクーデターが起きた。朴大統領は、日本や米国という外国勢力に頼って権力基盤を固めようとしていた。自らの利益のために国を売る。そう見えました」
崇実大で反対運動のリーダーだった柳永烈(ユ・ヨンニョル)さん(67)は今、政府の国史編纂(へんさん)委員会委員長を務める。「国交が正常化すれば、日本企業によって韓国経済は収奪される。朝鮮戦争で復興した日本の大きな経済力につぶされると思った」
日韓国交正常化に反対した玄さんや柳さんだが、もはや日韓条約の破棄を唱えることはない。当時の仲間で、そんなことを主張するのは少数派だという。
朴大統領への見方も変わった。内乱罪で逮捕された玄さんは、その後、アメリカに渡り、社会学の博士号をとり大学教授になった。保守政党ハンナラ党の国会議員も務めた。「今は朴大統領に恨みはない。独裁だったが、長所はあった。経済成長を見て評価が変わりました」
李新大統領は、大学を卒業し現代建設に入社、ビジネスの世界で腕を上げ、35歳で社長になった。玄さんは「あれから時間がたちました。李大統領は、日本との関係も過去に執着するのではなく、未来に向けて進もうと考えているのでしょう」と語る。
一方、柳さんは、学生運動の経験から、韓国における民主主義の萌芽(ほうが)を探ろうと歴史研究に進んだ。日本語を学び、日本にも研究のため1年半滞在した。「日本で生活し、日本人の親切で誠実な態度に触れ、日本に対する見方も変わった。国交正常化の内容に問題はあったが、国交を結んだのは結果的によかった」という。「両国は宿命的な隣国。交流を活発にして互いによく知ること、そして国交正常化で足りなかったことをどう補っていくかを考えなければ」
当時、学生たちは釈放されるとすぐ、大学の枠を超えて「63同志会」をつくった。「63」は大規模デモのあった6月3日を意味する。今も結びつきは強い。ソウル市内の事務所を訪ねると、警察と衝突する学生たちの大きな写真があった。「昨年末の大統領選挙では、同志の李明博氏を熱心に応援しました」。事務所の関係者が言った。
■「南だけでいいのか」日本の学生らも反発
65年6月22日。14年間にわたる交渉に終止符が打たれた。国交を正常化する日韓基本条約と四つの協定が調印された。
日韓関係をひとつ高い段階に上げたのが、98年10月にあった金大中(キム・デジュン)大統領と小渕恵三首相との首脳会談だった。首相は過去を誠実にわび、大統領は「戦後日本」の歩みを率直に評価し、歴史を知る大切さを確認し合った。
翌月、鹿児島で日韓閣僚懇談会が開かれ、金鍾泌(キム・ジョンピル)首相(82)が来日した。金首相は、かつて中央情報部(KCIA)部長として池田勇人内閣の大平正芳外相らと交渉、無償3億ドル、有償2億ドルで請求権問題に決着をつけた「金・大平メモ」で知られる国交正常化の立役者だ。
金首相は帰路、本人たっての希望から、福岡市の九州大学で講演した。韓国の国づくりに、この大学の出身者が多く活躍したことを恩義に感じての異例の講演だった。日本語による話は45分に及んだ。
「私は(国交のない)非正常的な状態が持続することは、両国関係のみならずアジア地域全体の安定と平和そして繁栄にも決して望ましくないと考えた。国内の強い批判にもかかわらず国交正常化のために自らの政治生命を賭けました」
講演の実現と運営に法学部長としてかかわった石川捷治(しょうじ)教授(63)に会いに、九大を訪ねてみた。
「一国の総理の希望とはいえ、韓国政治に彼が果たした役割を考えると、個人的には葛藤(かっとう)がなくはなかったんです」という。
石川さんは佐賀大の学生のころ、日韓国交正常化に反対する運動を続けた。
「またぞろ日本資本がかつての植民地に触手を伸ばす。帝国主義の復活ではないのか、と。日本の支配層が植民地支配の責任を全く認識せず、米国との従属的同盟のなかで朴正熙の軍事独裁政権にテコ入れし、自らの延命も図る。だいいち、日本が南とだけ手を結んでいいのか。まあ、そう考えたわけですよ」
それは、多くの学生の考え方だったという。理想に燃えて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に渡った知り合いの在日朝鮮人の学生もいる。「独裁で民衆を苦しめる南よりは、北に様々な問題はあるにせよ自主性と正統性を当時、感じもした」と話す。
在日の作家金石範(キム・ソッポム)さん(82)は、「朴政権は、親日派、民族反逆者の政権だ。後ろでアメリカさんが、早く日本とやれとけしかけてる。冗談じゃない」と連日、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の反対集会に出かけたのを覚えている。
■冷戦下、米から圧力 経済最優先の朴政権
日韓条約案件は65年11月、衆議院本会議で議長発議により抜き打ち的に可決、翌月参議院でも社会、公明、共産などの野党議員が退場するなか、可決された。
「国交正常化には三つの顔がある」
こう話すのは、韓国紙、東亜日報の東京特派員として国交正常化を取材した権五キ(クォン・オギ)さん(75)だ。
――三つの顔ですか?
「そう。隣国どうしが、植民地時代の関係を清算し新しい関係を結ぶこと。そして冷戦をめぐるアメリカのもくろみ。経済発展のためにカネが欲しかった朴大統領の思惑だ。どれか一つを引っ張り出して、日韓関係はこうだとは、割り切れないんだ」
日韓交渉研究の第一人者、李元徳(イ・ウォンドク)・国民大教授(45)にも聞いてみた。
交渉を妥結に導いた原動力を二つ挙げる。まず安保の論理。「アメリカが冷戦体制のもとで共産圏封じ込めを効果的に進めるため、北朝鮮と向き合う韓国と日本を政治、経済的に結びつけようとした」。61年には北朝鮮が、中国、ソ連と相互援助条約を結んでいた。「ベトナム戦争への介入の本格化と中国の核実験の成功(64年10月)で、米国の圧力は最高潮に達しました」
もう一つは経済の論理。「米国は韓国への援助を次第に減らし、日本に肩代わりさせようとした。経済開発を最優先する朴政権は、カネも技術もない。交渉を妥結し、日本からカネを入れるしかなかった」
こうして交渉は急進展した。「本来のテーマであった植民地支配の責任は置き去りにされた。それが、後に繰り返される歴史摩擦の原点になった」と語るのだった。
「ただ当時、韓国側が歴史をめぐる正義をあくまでも主張したら、今の繁栄は実現したでしょうか。歴史を複眼で見るべきでしょう」
九大では、金首相の講演が縁となって韓国研究センターができた。欧州政治史が専門の石川さんだが、初代のセンター長になった。日韓の正常化は果たさねばならない歴史的な課題だったという。同時に石川さんは、当時の反対の論理も誤りではなかったと思う。日本の姿勢が歴史に真剣に向き合っておらず、今も変わらないからだ。
「今までのように日米同盟に寄りかかって進むか、多様なアジアでどう主体的に共生を探るか、日本はまさに分岐点にいる」
そういえば、確かに少なくともひとつ、日本は北朝鮮との関係をいかに正常化していくか、という難しく重いテーマが、われわれの眼前にあるのだった。
日本と韓国の国交正常化交渉は、1951年の予備会談、52年の第1次本会談に始まり、第7次まで足かけ15年に及んだ。日本側から植民地支配の正当化とも受け取られる発言(53年の「久保田発言」など)もあり、決裂と長い停滞を余儀なくされた。
65年6月22日、国交樹立関係の「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」(基本条約)と、(1)請求権・経済協力協定(2)漁業協定(3)在日韓国人の法的地位協定(4)文化財・文化協力協定の4協定が東京で署名され、基本条約は同年12月に発効した。
ただ、領有権を主張し合う竹島(韓国名・独島〈トクト〉)問題は棚上げされた。韓国側は竹島は紛争解決に関する交換公文の対象にもならないとしている。
植民地支配などの問題をめぐる対立から、基本条約には曖昧(あいまい)な表現が残されている。第2条では、1910年8月22日(韓国併合条約の締結日)以前に結ばれた条約・協定は「もはや(英文ではalready)無効であることが確認される」とした。併合条約と、韓国の外交権を奪って日本の保護国とした1905年の第2次日韓協約について、韓国側は日本の軍事力を背景に強要されたもので当初から無効と主張。日本側は、締結は合法であり、48年の韓国建国をもって無効になったとの立場をとった。基本条約は無効の時点に関する言及を避けたのだ。
第3条では韓国政府を「朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される」としている。韓国の管轄権の範囲を、日本は韓国・北朝鮮の軍事境界線の南側と解釈し、韓国は朝鮮半島全体と主張した。
2002年9月の小泉純一郎首相と金正日(キム・ジョンイル)総書記による日朝平壌宣言では、日本側は植民地支配に対し「痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ちを表明した」とある。「清算」問題で平壌宣言は、国交正常化後に日本が無償・有償・人道支援の経済協力を行うとし、日韓間の基本的な方法が踏襲された。請求権放棄の原則も確認されているが、北朝鮮側は徴用被害や慰安婦問題などは別問題としている。
日朝平壌宣言を交換し、握手する小泉首相(当時)と金正日総書記(代表撮影)
協定で日本が韓国に3億ドルを無償で供与し、2億ドルの貸し付けを約束。いずれも10年間、日本の生産物や日本人の役務を提供するもので、浦項製鉄(現在のPOSCO)やソウルと釜山を結ぶ高速道路、昭陽江ダム建設などに使われた。
協定は、日韓間の財産、権利などの請求権については「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と記した。日本の植民地支配下での徴用や徴兵などの個人補償は、韓国側に任せ、経済協力の形で「清算」に代えた。このため、当時念頭に置かれていなかった日本軍慰安婦などへの補償・支援が後日、大きな問題になった。
朴政権は70年代に入り、対日民間請求権補償に関する国内法をつくった。強制動員で死亡した約8500人の遺族に30万ウォンずつ支払うなどしたが、被害者のごく一部だった。歴史の見直しを掲げた盧武鉉政権は、日本による強制動員の調査を進め、07年には、死者に2000万ウォン(約230万円)などを支給する法律が成立した。日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会によると、これまでに約22万件の被害申請があり、死者1万1442件、行方不明625件、負傷1237件などの被害が認定された。
韓国の軍人、政治家。韓国陸軍士官学校を卒業。61年、朴正熙氏らとクーデターを起こす。朴大統領のもと、中央情報部(KCIA)の初代部長として日韓国交正常化交渉にかかわる。71年から首相を務め、73年にKCIAが組織的にかかわったとされる金大中氏の拉致事件では、朴大統領の親書を持って来日し、田中角栄首相に陳謝。日本側は捜査を終結させることで合意した(第1次政治決着)。98年、金大中大統領のもとで再び首相を務めた。長年、韓国政界の中枢にいて、金大中氏、金泳三・元大統領と「三金政治」の一翼を担った。韓日議員連盟会長を務めるなど両国のパイプ役だったが、04年の総選挙で落選した。
◆人名の読み仮名は現地音です。日本語読みが定着している場合にはひらがなで補記しています。