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宙ぶらりんの子どもたち

作者:露子
 ステンレス製の深鍋はふつふつと音を立てはじめ、鍋蓋との隙間から吐き出されたか細い煙は、黒っぽい埃の張った換気扇へと流れ込んでゆく。幾粒もの水滴のついた鍋蓋を持ち上げると、鍋の内側に溜まっていた蒸気のすべてがたちどころに解放され、芳しいカレーの匂いとともに、キッチン一帯に濛々と立ち込めるだろう。あなたは菜箸を手に取り、褐色のルーに浸かったじゃがいもを一切れ口に含み、咀嚼する。食感も味も、それほど悪くないだろう。あなたは、上出来やなと独りごち、コンロのつまみを操作して鍋の下で小さく揺れている火を消す。それから、リビングに据えられたソファーに腰かけ、テレビを見ながら化粧をしはじめるだろう。鮮やかな朱色に染まった窓を背にした四十三インチの画面は、夕方のニュース番組を放送していた。日本列島の一部を拡大して映したモニターの前に立つ、薄黄色のワンピースを着た女性キャスターが、今週の天気を抑揚のある声で伝え始める。……いよいよ明日から、近畿地方でも梅雨入りとなるでしょう。雨が降り始めるのは明日の午後からです。お出かけの際には折り畳みの傘があるといいでしょう。ちょうどあなたが口紅を塗り終えたころ、ドアの向こうから駆け足の音を響かせて、一哉と恵一が帰ってくる。二人はリビングに入るなり、荒い呼吸で体を揺さぶりながら同じ事を訊ねてくるだろう。もう、飯できてる? あなたは二人の着ている夏物シャツが一目で分かる程汗みずくなのを見て、先に風呂入っておいでと促す。しかしキッチンに駆け出しカレーの匂いを嗅ぎつけた恵一が、手のかかるわがままを言ってきかないだろう。その彼を、一哉と二人がかりで説得するのがいつもの習慣だ。夕食は早いときでも夜七時を過ぎてからはじまる。恵一はカレーを何杯もおかわりし、旺盛な食欲を振るいながら、料理の雑感(テーブルの上にはカレーライスに加えてトマトサラダと簡単な中華スープが並べられていた)、最近起こった小学校での小事件、昼間から公園で一哉としたキャッチボールの詳細などを取り留めなく喋っているだろう。話の相手をしてあげるのは主にあなたの役目だ。一哉は、夕食というより寧ろ晩酌のような調子で缶ビールを飲みながら、気の抜けた相槌を打つ事に終始しているから。彼は自分の皿が空になってから、ビールをぐいっと飲み干してようやくまともな言葉を発するだろう。智子、お前も食うていかんでええんか? あなたがそれに、あたしはええよ、お腹空いてないしと断ると、一哉は、もう何年も前から細かな皺が増え続けている顔に、わずかな非難の表情を浮かべて返事をする。そうか、わかった。食卓が片付くと、恵一はテレビの前で地べた座りをしてクイズ形式のバラエティ番組に熱中し、一哉はモスグリーンのソファーの上で寝ながら経済新聞を読んでいるだろう。親子の姿を時折ちらと見ながら、食後の仕事をするあなたの考える事はひとつだけだ。あいつは、そろそろくるやろか。

 シルバーのセダンが舗道の白線を半ば跨いでマンションの植え込みに横付けされる。車が完全に静止すると、運転席の男はシートベルトを外し、エンジンとヘッドライトを切ってから一度車外にでるだろう。爽涼とした外気が男の肌を伝う。辺りを見回そうとしたとき、女子大生風の痩せた女がゴミ袋を持って入り口から歩いてくる。男は無言で軽い会釈をした後、街灯に照らされて淡い光沢を放つ袋にブルーのネットを被せる動作から目を逸らそうとして、ぎこちなく空を斜めに見上げるだろう。一面に藍色の薄明が広がり、夕映えは遠くに突出したビルの屋上に押しやられそこに凝縮しているかのようだ。南西の方角では、空に穴を開くかのように半月が白い。男は再び視線を元に戻しながら、スラックスのポケットからスマートフォンを取り出すだろう。液晶画面に明るい光が灯り、開花したソメイヨシノの木立を背負って立つ若い女の画像が映し出される。男の親指はショートメッセージ専用のアプリを立ち上げようとしていたが、画面の上部に時間を確認すると彼は手を止め、低い声でこう呟くだろう。まあ、ええか。そして胸ポケットからタバコを取り出し、五メートル先に見える自動販売機に向かってゆっくりと歩き始める。

 マンションのエントランスを通り抜けたとき、住宅街はすでに夜への境界を跨いでいるだろう。入り口の前で、静かな舗道から吹き込む夜気が肌を撫でるのを感じ、あなたはほとんど無意識に空を見上げる。黒すぐり色の扁平な空間で、半月にかかった雲だけが立体的な陰影をそなえ、緩やかに流れている。それからあなたは視線の先を舗道の上に変え、右から左へと動かしながら、牛革製の黒いハンドバッグにスマートフォンを探るだろう。そして手と顔の動きが同時に止まる。植え込みの前に停められたシルバーのセダンと、その傍らでタバコの煙を吐いている後ろ姿を見つけたが故に。体じゅうが一瞬にしてだらしなく力を失い、鞄の中で握っていたものが掌をすべり落ちる。次の瞬間、あなたは男のもとに全力で駆け寄りながら叫んでいるだろう。尚樹! 尚樹は薄いカッターシャツを着た両肩をびくっと震えさせ、まったく虚を突かれた様子で上体を振り向かせる。戯画的に開かれた目が、近づくにつれ元の大きさに戻ってゆく。あなたは、目の前に立つ尚樹から缶入りのカフェオレを渡されるだろう。スチールのひんやりとした感触が、瞬時に湧き起こった歓喜と高揚に現実感を与える。あなたの顔、額から首元にいたるまでの筋肉は完全に弛緩しきっているだろう。解放、待ち望んでいた解放! 本当の時間はこれから始まる。右腕に確かな重みを感じながら、車のドアを開いたそのときから。

 車内にはカーステレオから鳴り響く音楽が充満している。若い女性歌手の歌声、恋愛をテーマにしたリズムの良い流行歌だ。尚樹は片手でハンドルを握りながら、聴こえてくる歌詞に合わせて唇を軽快に動かしている。それをあなたも真似てみる。先を知らない唇はワンテンポ遅れてぎこちなく形を変える。次第に彼の口辺に含み笑いが浮かびはじめる。冗談めかした嘲笑に歪む彼の表情、くすぐり合いのような心地よい刺激の予感。流れ続ける女性歌手の歌声。≪……恋はまるで魔法のよう、だってこのドキドキ止めらんない!≫ついに尚樹はこらえきられない様子で、どっと声をあげて哄笑しはじめた。あなたも紅潮した顔で笑いながら、彼の左肩を平手で叩く。ちょっと、からかわんといてや! 彼の笑い声が大きくなる。だって面白いもん! それを契機にしてはじまる、発生してはすぐに弾ける炭酸水の泡のような会話。二人を乗せた車は、ヘッドライトの群れにまぎれて夜の街を走行し続けている。サイドウィンドウに投影されている舗道沿いの景色が、引き伸ばされ歪な曲線となって、あなたの愉しげな横顔に覆いかぶさる。それは信号が赤を点灯させる度にゆっくりとふくれあがり、元の形に戻ってゆく。バイクに跨った若者たちが店内からの光を背にたむろしているコンビニの前景、数時間前に活動をやめ、すっかり暗い地方銀行の玄関、突如として現れるコインパーキングの大きな看板、ワンフロアにだけ灯りが点いている商業ビル、縁石のへりに規則的に並べられた街路樹と街灯、いくつもの信号機…… 様々な景色を歪ませて車は進む。そしてチープなラブホテルのひしめき合う一角に近づき、速度を落とすだろう。

 土曜日に空いていたのは安ホテルのなかでも特に狭くて粗悪な一室だったが、入室してすぐに照明を限りなく暗くしてしまうのだから、どの部屋を選んでもさしたる違いはなかったろう。薄明るい電球色の光を反射している、二本の交叉する金属棒に支えられた丸いガラス製テーブルの上には、同じくガラスでできた半透明の灰皿、銘柄の異なる二箱のタバコ、テレビ用リモコン、利用可能なルームサービスとそれぞれの料金の書いてあるシンプルなメニュー表、そしてホテルの名前が金色の塗料で印字されたライターが置いてあり、テーブルの向こう側では二人分の衣服(薄地のスラックス、サマースーツにネクタイ、腰から下と袖口の青い白黒ストライブのワンピース、袖が折り返しになっている色の濃いデニムジャケットにマホガニー色の編み込みベルト)が床に放りだされ、仄かな灯りのなかに一塊の翳りを作り出していて、白いシーツ、並んだ二つの枕にはまだ皺一つないベッドが軋まされ、へこまされ、かき乱された結末を、子どものようなせっかちさでもって予め演じているみたいで…… バスルームへと続く廊下の、寝室より幾らか明るいオレンジ色の照明が消え、彼がいまあなたの座っている隣、堅くてざらざらした、座り心地の悪いソファーの上に腰を下ろすだろう。
「しかし風呂もめっちゃ狭いな。二人で入れるかどうかも怪しいで」彼はタバコを吸いながら喋りはじめる。
「でも一緒に入るんやろ?」あなたも自分のタバコをケースから取り出し、彼に火を点けさせる。「嫌やで、一人で入るの」
「せやけど。なぁ智子、もし俺が……」
 部屋中に甲高いチャイムの音が鳴り響き、彼の言葉を中断させるだろう。彼はタバコを咥えたまま立ち上がると、簡素なトレーに載せられた二人分の食事を運んでくる。それは明らかに冷凍されていたのを温めた直しただけの焼きそばとエビピラフで、どちらも量が少ない上に、インスタント食品特有の塩辛い味がするだろう。あなたは口を付ける前からすでに伸びきっている麺をずるずる啜りながら、遮られた言葉の続きを彼に求める。
「『もし俺が』なんなん? 結婚しよう、って言ったら?」
「はあ? 何を言うとんねん」彼は食事の手をとめ、目を丸く開いてきっぱり断言した。「結婚する気はないで。お前には子どもがおんねんから!」
 本気で問うたわけではないだろう。とうにわかっていた事だから。まだ若く壮健なこの青年が、思いのまま過ごすことのできる自由な生活を捨て、未来への何通りもの選択肢からあえて色香のあせた女を、離婚後の痛みともども引き受けようとするはずなどないと。二人の関係には、初めから進展も変化も用意されてはいなかった。年齢差という海によって隔てられ、決して交叉する事のない平行線がどこまでも続いているだけだ。そしてその平行線には名前すらない。あなたたちはただ恋人同士のように会って、恋人同士のような事をし続けているだけだ。しかしあなたは、それでもいいと思っている。交わること、近づくことさえ望まず、二本の平行線がこのまま、一定の距離を置いて続く事だけを望んでいる。あなたにとって、それが一番都合がいいのだから。だから、彼の答えにも顔色一つ変えずに頷くだろう。うん、わかってた。出来合いの粗末な食事を済ますと、二人はもう一度タバコで一服するだろう。やがて二人は自然に引き寄せられるように、どちらからともなく唇を絡ませ合い、お互いのバスローブを脱がせ合う。

 *

 予報通りの雨だった。水滴はたえず窓に叩きつけられ、稲妻のように枝分かれする幾筋もの曲線を描いて滑らかに落ちてゆく。青い簡易製ベンチの上で寝不足と疲れからくるあくびを噛みころしながら、あなたは電話を耳に押し当て応答を待っている。しかし何度かけ直してみても、電話口から流れてくるのは単調なアナウンスだけだ。部屋の中央に据えられた、間歇的にごうごうと音を発する分煙機を挟んだ向かい側から、従業員たちが口にする猥雑な会話が、まるで目に見えないフィルターを通過してでもいるかのように、幾つもの文節や単語が欠け落ち全体性を喪失したフレーズの断片として流れ込んでくる。……今週いっぱい雨が……らしいで。……やから、最悪やな。……お前来週は? ……ああ、……曜日が休みで、十連勤。うわ、なにそれ! ちゃうんねん、聞いて…… あのアホ社員がな……で…… そしたらあいつがさ…… この前結局どこ行ったん? ……と……がおって、ほんで…… ところがあなたが立ち上がろうとしたとき、誰かの声が突然そのフィルターを打ち破るだろう。「そういえば村上さんって、先月離婚したんやっけ?」
 ざわめきがぴったり堰きとめられる。従業員達の視線が一斉にあなたに注がれる。話しかけてきたのは、顔全体が日に灼けた、四十がらみの古参従業員だった。隣でタバコの火をもみ消している、同じく四十代半ばの女性が咳払いによって非難するのもかまわず、彼は底意のない、純粋な疑問のみを示した口調で問いかける。離婚したって、ほんまなん? あなたは寸時、彼がそれをどこで知ったのかと考えようとする。しかし噂の出所など確かめようがなく、また詮索しようとしたところで全く無益な事だろう。あなたに出来るのは彼の問いかけに真実を答える事だけだ。体裁のために作り笑いを浮かべ、あなたは口を開く。
「そうですよ。ほんとについ先月」
「そんなら、もう村上さんじゃなくなったんか」
「ええ、旧姓の赤江に戻りました」
「へええ、アカエっていうんか旧姓。じゃあ赤江さん、今は独り身かいな? それとももう彼氏とかおったりして」
 あなたは迷わず嘘を吐くだろう。それも二重の嘘を。ありえないですよ、子育てで一杯一杯なんで…… 色黒の従業員は、向かい側のベンチから体を乗り出しぎみに続ける。大変やもんなぁ一人で育てるの、母子手当てとかどうなん実際? 答えに窮したあなたに、窓に背中をもたせつつ缶コーヒーを飲んでいた正社員の男性が、助け舟を出すだろう。「中村さんそんなん言ってる場合ちゃうやん、あんたまだ結婚すらしてへんねんから。はよ子孫残さな」
 室内が放縦な笑いに満たされる。そのとき、分煙機の上に置いた薄いピンクのスマートフォンが短いメロディーを発し、メッセージの着信を知らせるだろう。あなたは素早くそれをハンドバッグの中にしまい込み、再び思い思いの放談をはじめている彼らに偽の用事を伝えて、喫煙室を後にする。それじゃ、子どもがうちで待ってるんで。おつかれさまです。

 正面玄関まで続く建物の階段を駆け下り、短く突出しているポーチの下で傘を開く。無限の雨の鋭い軌道にたえず切り裂かれつつ広がっている外の空気は、重苦しい乱層雲と排気ガスの集積そのものだ。目の前の通りで、夥しい数の自動車が水たまりを跳ねあげつつ、洪水のように勢いよく流れている。少したって、車の群れが列をなして止まり、歩行者用信号機が青を点灯させてから、数メートル先に見える駅の南口めがけて歩く。普段より往来の少ない駅前の広場で、予め知らされた噴水の前に立つ尚樹を見つけるのに、それほど時間はかからないだろう。二人は手短な言葉を交わし、駅舎に店を構える居酒屋へと入ってゆく。つきあたりのテーブル席で生ビールを飲みながら彼が発する最初の言葉は、会社の愚痴だった。
「最近仕事が辛なってきたわ、ほんまあ。休日出勤も残業も当たり前のようにあるし、おっさんどもの飲み会は面白くないし」
「でもその分手当てとかでるんやろ? 新人のうちはなんでも受け入れよう、って考えるのが大事やで。上司とのコミュニケーションも仕事のうちって考えて」あなたは真面目な顔で、実際的なアドバイスをする。
「いやあ、けど続くかわからんね。本格的に社会人になって、やっと生活の辛さが身にしみてきたというか、大学時代はよかったなあ」
「それも慣れたらどうってことなくなるよ。あたしは、スーツ着てる尚樹が一番好きやで!」
「智子がそう言ってくれるとちょっとは元気でるけどなあ」
 こうして彼が時折見せる弱さに耳を傾けるのが、あなたの至福だった。それはまだお互いが若く交際状態にあった頃の一哉を思いおこさせるし、恵一が将来どんな大人になるにせよ、そこへ至る過程において幾たびも彼から持ちかけられるであろう、あらゆる会話の夢想へと繋がってもゆく…… あなたたちはテーブルを前に向かい合ってお互いの身の上話を次々に続け、会話の最中に運ばれてくる料理を食し、その二つを肴に酒を進めるだろう。二人の顔が赤くなり、グラスに口をつけるペースが落ちてきた頃、尚樹が突如、それまでは緩やかな後退の兆候にあった両目の視力を、アルコール飲料の牽引力で強引に回復させ、口を開く。それから始まる一連の告白は、あなたがおよそ予想だにしないものだった。
 ちょっと俺の話を冷静に聞いて欲しいんやけど…… と予め性急な反応を封じた上で、彼は結論から話しはじめた。あからさまな婉曲法を用いて。もしも、の話やで? もし俺が、トモちゃんとの関係を変えたいって言ったら、どうする?
 あなたは真意を掴むことができず、すかさず彼に問い返すだろう。関係? それって、どういう事なん? 尚樹は唾を飲むこむ。そして彼は質問に直接答えるかわりに、先の結論から遡行するかたちで、徐々に核心を披瀝しはじめた、明らかにひとつの跳びこえを意識しつつ。
 ……あなたはもう、彼とのこれまでのような関係を維持する事ができない。いつまでも都合の良い距離を保ったまま続いてゆくと信じていた平行線は途絶し、しかも完全に断ち切られようとしている。どちらかの気まぐれによってではなく、明確な障害の為に。尚樹には、アヤという同年代の恋人がいた。彼らは大学時代に共通の知人を通じて知り合い、それから数ヶ月のうちに交際を開始していた。あなたたちが現在の関係へと至る以前の事だ。もっとも、あなた方でも一哉から籍を離れる前に、ソーシャルネットワークサービスを介して彼と出会ったのではあったが。
「なんで隠してたん? あたしは最初から結婚してること言ってたよな?」突然の告白に頭を撃たれたあなたは、憤りをあらわにして彼を追及しはじめる。
「タイミングがわからんかったっていうかさ…… なんていうか、トモちゃんはそんなん気にせえへんと思ってたから」
「ほんならなんで今更なん? あたしたちが知り合った頃からずーっと隠してきてさ、なんで今更なん?」
 尚樹は再び唾を飲み込む。そして先程より大きな跳躍を意識して、先程より強く目を開くだろう。
「実は俺、その彼女と、アヤと結婚しようと思ってんねん。今までは、アヤにはトモちゃんの事言ってへん。当たり前やけど。でもな、結婚するってなったら事情が変わってきてな…… もうこれ以上、あいつにトモちゃんの事隠しとかれへんねん。正直、将来の話、結婚の話をきちんとあいつとし始めてから、トモちゃんの事で、あいつを裏切ってるって意識しはじめてな…… それから夜になる度に、寝る前に色々考えるようになってさ。もちろんトモちゃんの事は今でも好きやけど、このままじゃ二人ともに対して不実な関係を続ける事になってしまう。それで、どうしたらええかわからんくなってしまって…… だから今更、お前にこんな相談をしたんや。今まで黙っててごめん」
 割烹着風の制服を着た女性店員が、予め注文しておいたカルーアミルクを持ってくる。あなたは喉を鳴らしながら半分ほどを一口で飲み、新たに体内に注ぎ込まれたアルコールの力に影響されて、ほとんどヒステリックな調子で言い募る。
「はあ? そんなもんお前のエゴやんけ! 全部お前の都合やん。じゃあなんなん? 旦那と離婚して、お前の勝手で捨てられたあたしは明日からひとりぼっちなん? お前の都合のせいで!」
「トモちゃんが一哉さんと離婚したんは、俺のせいじゃないやん」
「確かにそうやけど……」
 わずかに気勢をそがれたその瞬間に乗じて、尚樹はすかさず問題点を逸らしはじめるだろう。すなわちあなたの家庭についての事情を持ち出しはじめる。
「実際、智子の立場に立ってみてもさ、俺との関係は不実なわけやろ。今でも智子は週に何日か旦那さんとこ行って、恵一くんに会ってるわけやん。もちろん俺の事は内緒にした上で。二人に説明できる? もし旦那さんが俺の事知ったら、もう恵一くんにも会えんくなるかもしれんのに」
 それは明確な喚起力を持った言葉だった。特に彼が直接発語した息子の名前にあなたは鈍い痛みを感じ、俯き黙り込んでしまう。視線の先に置かれたグラスの中で、乳褐色の液体に浸った氷がカランと音を立てる。離婚をめぐる全ての手続きを終えた日の夜、あなたたちが家族として囲んだ最後の夕食は、結婚生活の中で最も愛に溢れたものだった。せめて暗くならないようにしよう、という暗黙の了解のもと続ける和気藹々としたやりとりは、はじめこそどこかよそよそしさを感じさせるものだった。それでも、やがて恵一までもが会話に積極的に参加しはじめたのを契機に、関係が終わっても決して失う事のない絆が三人の間に確かに実感され、食事が終わる頃には、家族はセンチメンタルな温かみの中心で身を寄せ合っていたのである。恵一が寝床に入った後、最後の愛の名残りが漂うテーブルの前で、一哉はこれからの事について冷静に話しはじめた。彼の話し方にはあなたの為というより寧ろ、小さな子供の今と将来の為にこそ、という父親らしい調子があった。智子、稼ぎやらなんやらで、お前に恵一を引き取られへん事情があるのは別にええ、ようわかったし。あいつは俺一人で責任を持って育てる、誰に何と言われようと。ただな、あいつがもう少し大きくなるまでは、子育ての役割を今までと同じように分担して欲しい。週に一回か二回、この家に飯を作りに来て、あいつの話相手を納得いくまでして欲しい。それが恵一の望んでる事や。恵一は今でもお前の事が大好きなんや。俺とお前とはもう家族でないけど、恵一とお前は一生、血のつながった家族なわけやから……
 二度目のカランという音。あなたは顔をあげる。尚樹は真っ直ぐにあなたを見つめ、次の言葉を促すかのように一語も発しない。テーブルへと視線を向けて俯いていた間、同じようにしてじっと沈黙していたのだろう、その目は再び後退の兆しを見せており、顔一面に広まりつつある濃い朱色は単に酔いのせいだけでなく、自らの用いた戦法を陋劣だと恥じているかのようだ。あなたは彼の無言の問いかけに、すっかり解きほぐれた柔らかい笑顔を作り、唇を滑らかに動かして応えるだろう。
「うん、わかった。あたしたち、別れよかっか」
「え?」青年は、まるでその返答を予想だにしていなかったかのような様子で充血した目を丸くする。「ほんまに言うてる?」
「ほんまもなにも、あんたから言い出したんやろ、別れよって」
「別れよ、ってわけじゃなくて、俺はどうしたらええかわからんかったからさ」
「でも、別れるしかないでしょ。そもそもあたしたちの関係って、なんていうか、普通じゃなかってんからさ。旦那とは離婚したけどあたしは今でも恵一の母親やし、歳も歳やし、恋愛ごっこなんかしてる場合じゃなかったんやね。あんたの方でもちゃんとした恋人がおるなら、もう続ける理由なんてないやん。いつかこういうときが来ると思ってた」
「じゃあ俺は……」
「そのアヤって子と幸せになりなよ。あたしたちはもう終わりにしよ、な? せめて最後くらいは暗くならんように飲もうや」
 二人は再び酒を飲みはじめるだろう。それまでの言い争いによって消耗した気分を落ち着かせるために、今度はゆっくりと酔いの心地に浸りはじめる。穏やかな、しかし決して陰鬱でない会話は次第に間遠になってゆき、やがて二人に最後の沈黙が訪れる。そしてそれを切り上げるのもあなたの役目だ。さ、そろそろ行こか。会計をちょうど半分ずつ支払い店を出たころ、雨はまだ広場に降りしきっているだろう。二人は人通りのまばらな駅の構内を並んで歩く。改札口の前に着くと、それまで黙りこくっていた尚樹が口を開く。なあ智子、やっぱり送って行こか? あなたはそれを突っぱねるだろう。ええよ、あたしはタクシーでも拾って帰るし。そうか、わかった。なあ智子…… 彼の言葉を遮って、あなたは尚樹を激しく抱きしめるだろう。

 *

 ステンレス製の深鍋はふつふつと音を立てはじめ、鍋蓋との隙間から吐き出されるか細い煙は、黒っぽい埃の張った換気扇へと流れ込んでゆく。あなたはコンロのつまみを操作して、鍋の下で小さく揺れている火を消す。それから、リビングに据えられたモスグリーンのソファーに腰かけ、テレビを点けるだろう。四十三インチの画面に夕方のニュース番組が映し出される。日本列島を拡大したモニターの前に立つ女性キャスターが、一週間の天気予報を伝えはじめる。梅雨明けの空模様です。先週とはすっかり変わって明日明後日とからっとした晴れ日になるでしょう。しばらく暑い日が続き…… あなたはテレビを見ながら、化粧をしはじめる。

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