千の証言・投稿:<引き揚げ>便所の紙と化した軍票=神戸市・山崎たみ子さん(77)

2015年07月08日

 昭和14(1939)年の春、1歳になったばかりの私は、母と姉と3人で父の待つ中国・広東へ鎌倉丸で渡った。珠江に囲まれた英仏租界の沙面(さめん)は完全な日本人社会で、水洗便所の備わった洋館に敗戦直後の昭和20(1945)年8月末まで住んだ。

 同年3月6日(地久節)、5番目にして初の男児として生まれた弟は、先天性の難病のため8月23日に死亡。枕元に置かれた軍刀が印象的だった。

 9月初旬、とるものもとりあえず広東を脱出、名ばかりの収容所を転々とする生活が始まった。

 最終地となった長州島は6000人を超す大テント村で、穴を掘り板2枚をわたした野外の仮設便所の落とし紙は、通貨、儲備券(ちょびけん、中国・中央儲備銀行が発行した紙幣)に代わり軍票(日本軍が発行した手形。戦後に無価値となった)が使われていた。用足しのたび、もったいないと子ども心に思ったものだ。

 昭和21(1946)年3月、待望の引き揚げ船「リバティー号」(貨物船)の船底に放り込まれた。食事は1日2回の玄米粥(がゆ)で、栄養失調のため死者が続出。水葬時に響く汽笛は今も耳に残っている。

 2週間後、ようやく浦賀(神奈川県横須賀市)に着く。だが、伝染病発生で30日間停泊。甲板から眺めた初めてみる桜は美しかった。5月21日、家族6人が奇跡的に播州龍野(兵庫県たつの市)に帰り着いた。むさぼるように食べ続けた銀シャリの味は、生涯忘れられないだろう。

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