千の証言・投稿:<空襲>兵士に背負われて渡った川=横浜市青葉区・社本(しゃもと)芙美江さん(76)

2015年07月06日

 若き日の兵隊さんありがとう(忘れられない言葉)。

 1945(昭和20)年3月10日、川崎市幸区中幸町の自宅にいた。外の方から「空襲警報発令」と大声が聞こえてきた。

 家の地下に有る防空壕(ごう)に逃げ込んだ。皆、防空頭巾をかぶり、モンペ姿。数分後、不気味な音をたてながら、低空飛行でつつのようなものを落としながら(戦闘機が)とんでくるのが見えた。それがあとで焼夷(しょうい)弾だとわかった。

 父が外の様子を見てもどってくるなり「すぐ逃げる用意をしなさい」と言った。着の身着のまま祖母や母に手をひかれ、逃げる人々の中にまじった。父は一人家にのこった。町の組長だったために。

 行く先に火がまわり前には進めない。私たちは多摩川の方へ逃げる事にした。

 川崎と東京をむすぶ橋(ガス橋)の所へきて立ち往生してしまった。橋が半分燃え落ちてしまい、川の水が見える。橋の隅が燃えている。私は足が竦(すく)んでしまいどうしても動けない。祖母は荷物を持っている。母は弟をせおい、手には荷物を持っている。

 そんな時、後から来た若い兵隊さんが「私がおぶって向こうまで連れていってあげましょう」と言って、私をおぶって渡ってくださいました。

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