【萬物相】ユネスコ世界遺産に登録された百済

 日本の古代の物品を所蔵している奈良県の正倉院には、百済の義慈王が藤原鎌足に贈った碁盤などが保管されている。この碁盤の側面には明かりを二つ背負ったラクダが描かれており、銀で作られた碁石入れには象が描かれている。フタコブラクダはモンゴル、象はインドや東南アジアに行かなければ見られない。百済で作られたものになぜこれらの動物が描かれているのだろうか。

 また1993年に忠清南道扶余郡で発見された百済金銅大香炉にはワニが刻まれている。このワニは水中に生息している様子が描かれたものなのか、その口には気泡が刻まれていた。ワニを実際に見たことがなければ、このように生々しい様子を描くことなどできなかったはずだ。これについて百済史が専門のイ・ドハク伝統文化学校教授は「百済がいかに国際的だったかを示す証拠」と断言する。百済人たちは優れた航海術や造船技術で日本や中国はもちろん、東南アジアにまで行き来していた。中国の広西チワン族自治区には今なお百済郷と呼ばれる地名があり、また百済小学校、百済旅行社も存在する。

 韓国語の「シシハダ」は日本語で「くだらない」という。「くだら」は「百済」の日本語読みだ。そのためこの言葉は「百済のものでなければくだらない」という意味だ。仏教や千字文など先進的な文物の多くはそのほとんどが百済から伝えられたため、この説明も一理あると考えられる。百済の3番目の首都だった泗ビ城、今の忠清南道扶余郡は中国、日本、東南アジアの人たちが行き来し、これらの国々の特産品が集まる国際的な都市だった。今の扶余の人口は2万人ほどだが、当時は5-6万人が住んでいた。城の内にも外にも定林寺や天王寺など数え切れないほど多くの寺があった。

 百済が熊津(忠清南道公州市)から泗ビ城に遷都したのは西暦538年の聖王の時だった。緻密な計画と当時の高い技術のおかげで、泗ビ城の市街地は碁盤のように区画が整理されていた。現在の扶余郡庁前のロータリーから扶余博物館に続く道は、当時開かれた道をそのまま整備したものだという。道の両側からは当時の排水路の跡も発見されている。

 ただ百済は崔仁浩(チェ・インホ)氏の小説『消えた王国』に描かれているように、長く歴史に埋もれてきた感は否めなかった。中国と肩を並べていた高句麗、三国統一の偉業を果たした新羅に比べると、百済はそれほどの存在感はなかったのだ。一昨日国連教育科学文化機関(ユネスコ)は忠清南道公州市、扶余郡、全羅南道益山市に残る百済後期(475-660)の遺跡8カ所を世界文化遺産に指定した。これらの遺跡が人類の過去の歩みを示す重要な証拠であり、その文化の優秀さと独創性を示しているというのがその理由だ。今回の指定の意味を生かすためには、百済史を見詰める観点を、百済人たちが世界を見詰めていたのと同じく、大きく広げていかねばならない。丹斎・申采浩(シン・チェホ)の言葉を借りて百済について想像をめぐらせてみたい。「朝鮮半島の歴代の王朝の中で、海を渡って領土を広げたのは百済しかなかった」

金泰翼(キム・テイク)論説委員
<記事、写真、画像の無断転載を禁じます。 Copyright (c) The Chosun Ilbo & Chosunonline.com>
関連ニュース