井上達夫氏の新著と憲法論
井上達夫氏から、新著『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(毎日新聞出版)をお送りいただいた。その内容についての評価は、時局がら厳しくならざるを得ない。ここでは厳密な書評というより、時局論として限定的な批評をしたい。事態はそれほど切迫しているからである。それ故、問題を憲法9条の問題に絞って論じることにする。
全体として、政治的センスの欠けた空論という印象である。ひょっとしたら、「リアリティ」に流されて規範的議論に欠けがちな我が国の論争状況において、わざとそうふるまっているのかと錯覚してしまうほどである。
憲法9条についての空論――それはその歴史的沿革を無視して条文だけに拘泥することによる。解釈の対立が生ずる場合、憲法の精神(憲法の政治哲学)に立ち返って、参照することが必要である。
ところが日本国憲法の場合、難しい問題がある。一つは戦争放棄であり、もう一つが天皇制である(後者についてはここでは省略)。
戦争放棄を、民族の平和的生存権(自衛権、憲法的価値の擁護義務)とどう調停するのかの問題が一方にあり、他方で、国民主権の原則と国際協調主義の両立をどう図るかの問題がある。
これを、実際具体的な政治的課題としてどう両立すべきかには、ひとつの決まった解があるわけではないし、完全な解が有り得るかどうかもわからない。「自衛隊」の存在は、そのような妥協の一つであり、そこにはすでに憲法解釈の伝統が積み重なっている。それに対して、井上氏は「およそ通常の日本語感覚では理解不可能」p−47と片付けるだけである。
憲法的価値を守るために自衛的抵抗を、憲法が要請しているのは明らかであり、それは人権のための闘争(権利のための闘争)が要請されるのとまったく同様である。外国の侵略軍に対しても、同様の自衛が要請されるが、それがどのような武装形態まで許されるかどうかには、論争がつきものである。
しかしこれを、時の政権の意志、すなわち選挙でそのときどきに示された民意に委ねてはならないというのが、日本国憲法の精神である。それ故、それを政権に委ねようという井上氏の主張は、その精神を根本から否定するものである。
もちろん、それに深い思想的裏付けがあるのなら、真剣な考慮に値するかもしれない。しかし、井上氏にはそんな思考があるわけではないし、歴史的沿革に対する思慮深い反省があるわけでもない。単に「通常の政策として、民主的プロセスの中で討議されるべきだ。ある特殊の安全保障を憲法に固定化すべきでない」p−52というにすぎない。憲法的制約を一般法のレヴェルと同じにすべきだ、という安倍政権の立場と全く同じである。
これが、歴史を無視することからくる井上氏の視野狭窄である。
憲法が、日本が国際社会復帰するために、連合国によって日本に押し付けられた枠組みを前提としていることを忘れてはならない。それはポツダム宣言の受諾と戦争法廷の受け入れである。
日本が無謀な戦争開始で自ら招いた無秩序にけりをつけるため、ポツダム宣言を受諾するしかなかった。それ以後、我々はその秩序の中で自己主張をしていかねばならなくなった。それが米軍基地の受け入れであり、それ以後、日米安保条約の受け入れである。日米安保によって、我々は半独立国という地位を引き受けることで、戦後復興を果たした。
日本国憲法は、この日米安保と表裏の関係で日本に押し付けられた生存条件である。だから「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という言葉は、「米軍に依存し制約されながら」という意味に読み替えることができる。
このような依存と制約は、もちろん日本国憲法の精神(政治哲学)に、ある意味では矛盾するものであり、少なくとも国民主権の原則に、真っ向から反するものである。我々は、そのような制約のもとで戦後史を歩み始めているのである。
だが、もともと憲法が矛盾をはらんだものであることは珍しくはない。万民が平等であるという原理を掲げても、権力や支配は、その本性からして平等とは相いれないものであるから、平等を主張する政治宣言は、すべて欺瞞的ないし自己撞着的であるとも言える。同様のことは、自由と平等、自由と安全などについても言えるし、個人の独立と全体の福祉の関係についても言える。
憲法は、しばしば両立困難なこれらの課題を原理として掲げるものであり、それによって我々の政治に制約と課題への挑戦を課するものである。かくて、憲法とはスタティックな秩序を与えるというよりは、対立抗争する議論の場を用意し、我々の積極的な挑戦と参戦とを期待し、促しているものなのだと言えよう。
昨今強調されている立憲主義の原則も、そのつど憲法の精神に立ち返って解釈されるべきものである。
私はもちろん、憲法解釈の変更を必ずしも否定するものではない。私自身は、歴代の内閣法制局の憲法解釈には疑問を持っている。『戦争思想2015』所収の私の小論では、その点について一部論じている。
しかし、解釈の変更については、当然議論が必要である。法制局長官の頭を挿げ替えて、解釈変更を強行することなど、法解釈の手段として、決して認められるべきことではない。このような現実をひっくるめて、「解釈改憲」と言うのである。
我々の出発点が敗戦である以上、外国軍基地の存在という現実から出発せざるを得ない我々の立場は、もともと極めて複雑なものであり、苦渋に満ちたものであった。それは、今日の沖縄の現状を見ればわかる。
しかるに、長期にわたる経済成長と、日米安保の固定化は、我々を、しかと噛みしめるべき苦渋から目をそらし、健忘症に陥らせた。だからこそ、除去不可能な安保は至福の恩恵であるのに、除去可能な憲法は、自立を阻む唯一の足枷であるかのように錯覚するのである。
井上氏のように、9条を削除したところで、我々の安全保障が、我々の民意だけで政策決定できるはずがないのだ。どうして国会で議決するだけで、米軍基地を撤去することができると考えるのであろうか? 敗戦による重い現実をまったく無視した議論である。
戦後史を通して、政府も民間も、この敗戦のくびきを引き受けながら、さまざまの努力と工夫で、国際社会において名誉ある地位を築こうとしてきた。多額のODAがそうであり、平和的貢献がそうであり、民間外交や民間交流がそうであり、NGOの活躍がそうしたものであった。米国という存在の許す範囲で動かざるを得ない政府を、民間が補ってきたことも数多い。それらは、ときには対立し、ときには補い合って進む。しかし、対立しながらも、共通の課題に取り組んでいるという意識が、ある時までは存在していた。
しかし今や、そういう共通認識はすべて崩れ去った。もはや安倍政権は、戦後政治・外交で先人たちが築き上げてきたものをすべて台無しにしているからである。
井上氏の空理空論は、氏がよって立つ哲学が、いかに空疎なものであったかをはしなくも暴露している。氏はロールズやサンデルが、アメリカの文化の中で果たしてきた政治的含意と切り離して、その「理論」だけを我が国にも導入しようとしているが、それが空振りに終わっているのは、その哲学が薄っぺらだからという理由からだけではない。どんな政治哲学も、祖国の政治的現実に対する責任抜きには、まったく無意味だからである。氏自身は、いっぱし政治を闘っているつもりかもしれないが、彼が思うようなところに戦線は引かれていないのである。井上氏に決定的に欠けているのは、政治的教養である。
最後に、表題について。東大教授の本であれば、こんな題をつけてもキワモノ扱いされないのかもしれない。これは氏の嫌うフリーライド(ただ乗り)していることにならないのか?
私としては、フリーライドがそんなに悪いこととは考えない。今でも、インドネシアでは、命がけでフリーライドする貧しい人たちがいるし、アメリカでもかつてはいた。
「ただ乗り、フリーライダーはダメだ、というのもその一つ(正義概念から帰結するものの一つ)。自分は便益を売るだけで、負担は他者に転嫁する、という姿勢は否定される」p−25と井上氏は言う。
率直に言って私は、こういう感性を卑しいと感じる。
我々は、かつて天才たちや英雄たちが大胆に切り開いた道を、後からおずおずと進むのである。彼らの犠牲に畏怖と感謝をささげるが、彼らに報いることはできない。我々は先人たちの偉業にフリーライドする他はないのだ。ひっきょう我々にとって、もっとも貴重なものは、無償で与えられたものばかりである。
Posted by easter1916 at 23:33│
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