+ 主の平和 
 
1月もあっという間に終わり2月に入りました。2月5日には、雨の為中町教会で5時30分よりミサが行われました。高校時代に寒い中を、学校から西坂まで歩いたのが懐かしく思い出されます。今年は、本原教会主任の谷津神父さまがお説教をなさいました。とても聞きやすいお説教でした。
毎年、どなたがされるのか楽しみでもあります。

 さて,私は年末年始にかけて「釜ヶ崎越冬セミナ−」に参加いたしました。この体験を少し分かち合わせてください。

 期間は12/31〜1/3まで,参加者は16人(男性7名、女性9名),20代から60代までの幅広い年齢層の中で,社会人、定年後ボランティア活動者、学生,志願者(フランシスコ会・援助会),司祭,牧師,修道者,それにオ−ストラリア人の学生とバラエティ−に富んだ仲間でした。2回目の方も二人いました。

 スタッフは大谷牧師さん(釜ヶ崎医療連絡会に勤務)と一年間釜ヶ崎でボランティア活動をしておられる若者3人で,英神父さま(イエズス会)もご自分がお出来になる限り参加してくださいました。

「旅路の里」が宿泊場所で,三畳に3人で寝ましたが、ここでは屋根と布団があるだけで感謝でした。食事は各自で自由にということだったので,炊き出しでおじさんたちと同じものを戴く時もあり,弁当の時もありました。

 セミナーでの話し合いを活発にするためにということで、前もって「釜ヶ崎に必要なものを自分なりに9つ上げ、その理由を書く」という宿題がありました。

 釜ヶ崎(あいりん地区)は更に厳しい不況の中で野宿者が、96年に156人だったのが2001年は1,092人と7倍に増え,年齢も高齢化してきて冬の寒さが厳しく感じられるようでした。

 セミナ−のスケジュ−ルは,三角公園での炊き出しの手伝いを始め,釜ヶ崎の現状を知るためのフィールドトリップ,他の公園での野宿者の現状見学,反失業連合会の松本さんからの話,そして私たちの話し合い,夜は人民パトロ−ル,医療パトロ−ルに参加することでした。割にゆったりしたスケジュ−ルで参加者の方々とも自由に話したりする時間がありました。(昨年はもっと詰まっていたそうです。)

  三角公園での炊き出しの手伝いはお分かりになると思いますが、野宿者の方のために毎回約1000食、一日3回の炊き出しの準備は風が吹きさらしの中で大変でした。野菜を切る作業が主でしたが、餅つきの時に準備した“大根おろし”は,寒さに手が凍りそうでつらく感じられました。“漬け物樽一杯に…”と言われ気が遠くなりそうでしたが,朝6時から始めたので,一時間したらミサの時間になりその場を去りながら“開放された”と思った私がとても恥ずかしいと感じました。

 人民パトロ−ルというのは,野宿者たちの人権が無視されて起きた事件があった所までデモをしてビラを配り,“野宿者たちの訴え”を市民に分かってもらうための抗議行動でした。機動隊が警備する中を通って,(はっきり私服警官だと分かる人々が交じり)第一日目は,1995年に戎(えびす)橋の上から道頓堀に野宿者が若者に投げ込まれて死亡した所までのデモでした。橋の上まで来ると,大阪城公園で野外闘争をしている野宿者の方々と合流し,追悼のため一人ずつ花と線香を川に投げて冥福を祈りました。そして、この死を無駄にしないで闘うことを表し,シュプレッヒコ−ルが行われました。(自分の身に詰まされていない私は何だかここにいるべき存在ではないと恥ずかしい思いが先にたって,声も小さくしか出ませんでした。)この事件をきっかけに「野宿者ネットワ−ク」が結成されたそうです。次の日は,難波で,交通事故にあった野宿者が適切な処置をされずに亡くなった事件の場所でした。また次の日は梅田までと,12/30〜1/3まで夜8時からこのデモを行っているそうです。

 医療パトロ−ルというのは,人民パトロ−ル終了時の10時から行われました。この時期に限らず毎晩どこかのグル−プが、野宿者のために季節に応じて毛布,カイロ,おにぎりなどを配り、声をかけて回るそうです。ダンボ−ルで囲った中に寝ておられる方は未だ良い方で,シャッタ−が閉まった前に毛布一枚で…という方には,気の毒で涙が出てきました。具合が悪そうな方があれば,医療センタ−に行くように言ったり,連れて行ったりするそうです。毛布が何枚あっても足りないなあと思いましたが,反面“こういうことをするから野宿者が増えるし,後始末が大変だ”との苦情があるそうです。「子どもの里」で一年間ボランティアをしているスタッフは,このパトロ−ルに初めて参加され、子どもとの夜間パトロ−ルの時はもっと個人的な関わりを大切にして子どもと野宿者の方との会話があるそうで、こちらはあまり形式的になっているのにびっくりされていました。

 釜ヶ崎以外の野宿者の場所として、昨年サッカーのワールドカップが行われた「長居公園」へ行き、若手の野宿者で「長居公園仲間の会」の代表者である中桐さんから野宿者の実態を伺いました。そこはこの施設を造る前までは500のテントがあったそうですが、今は20になり、新しく建てることは禁じられているとのことで、仲間が支えあって新しく立てる人を守っているとのことでした。シェルター(仮設一時避難所)が造られていますが、現在は4人だけで,それは公園美化の為に野宿者を追い出す為であり,何の解決方法にもなっていないとのことでした。公園を一周し一人の野宿者が若者たちから空気銃で撃たれ暴力を受けた現場へ連れて行ってもらいましたが、話しながら、涙で詰まっておられました。この中桐さん(30歳位)は京都大学で2年間勉強し一時休学した時、野宿者との決定的出会いがあり、この生活を共にすることを選び大学を辞められたそうです。そこまで徹底した生き方にすごいなあと思いました。

 また、西成公園、三城公園にも行きました。テントをなくす為には、公園の機能を果たしていないばかりか、誰も入れないよう張り巡らされている高いフェンスや綱を見ながら複雑な思いでした。西成公園ではよそ者が入ってきているとばかりに5匹の大きな犬から吠えられ、立ちすくみました。そのうち長居公園みたいに施設が建てられるために全員が追い出されるでしょうとのことでした。あいりん地区の学校の回りには、野宿者が寝られないように大きなテトラポット(コンクリートの花壇で230kの重さのもので移動できないようになっています)が置かれています。しかし,管理不十分で花が植えられていないので変な感じです。また、その塀には水撒きの水道管が付けてあり,学校周辺に野宿者が寝ないように水を出すそうです。

 反失連の松本さん(30代?)の話は、「野宿者に仕事を!」「もっと人間としての扱いを!」というものでした。行政に対して声をあげなければ何一つ解決しないと(この方自身も野宿者ですが)今、野宿者の方たちと一緒に大阪城公園で3ヶ月間の「野営闘争」をなさっておられるとのことで、とても忙しい様子でした。

 話し合いでは、前もっての各自の宿題が壁に貼られ、お互いのを見ながら考え直し、またこの現状を知り見た上でもう一度「釜ヶ崎に必要なものを9つ上げる」という個人の作業をし、一人一人の発表を聞きました。その次の日、4つのグループに分かれて話し合い、そのグループで9つを考えるというものでした。いろいろな観点から(支援する立場で、野宿者の立場で、社会常識の一般的な考えのもの…などなど)必要なものが異なっていることが分かり、結局4つのグループ共、話し合いの結果9つを上げることが出来ないという、同じ結論が出たのにはびっくりしました。(部屋は別々だったのです)4つのグループに共通だったのは、「関心をもつ」ということでした。この作業を通しての各自の気付きを分かち合って終わりました。ただ単に「仕事」を行政があげたとしても、何の解決策にもならないことも話しながら分かってきました。年令・職業と様々だったので、感じることも様々でした。また、色々と難しいことばかりで考えさせられました。

ミサは第一日目は「ふるさとの家」で、本田神父様の司式で「労働者と共に捧げるミサ」にあずかりました。ミサの式文もそれに合わせて作ってあるものを左右交互に読みながら祈るものでした。ご聖体拝領は、食パンの耳を落として小さく四角に切ったパンを御血に浸していただきました。次の日は、英神父様の司式で「愛徳姉妹会」の聖堂で、シスター方とセミナー参加者が一緒に。最後の日は「旅路の里」で守護の天使のシスター方と一緒でした。日本基督教団の牧師さんが3日間「この釜ヶ崎では特別です」とご聖体をいただかれました。そして、「マザーテレサが『このご聖体が一日の力となる』と言っておられたことが少し分かりました」と言っておられました。旅路の里には小さい聖堂(3畳)があり、活動の合い間をみて静かに「聖体礼拝」が出来たのは嬉しいことでした。

最後の日は、スタッフの方々の感想を聞きました。中でも印象的だったのは、リーダーをされていた大谷牧師さんが「行政は野宿者を追い出す時、何も次の手段を与えないことは、野宿者に『死ね』と言っていることと同じだと思っています。僕は今年40歳になります。中桐さん(長居公園の野宿者)との出会い、セミナーの方々の分かち合いを聞きながら、これからの人生をどうするか考え直す機会になりました。」と言われたことでした。これをしているからいいというのでなく、絶えず自分の生き方を見直し、より良い方向に生きようとしておられるのが感じられました。

 また、援助会のシスターが「釜ヶ崎を知れば知るほど、分からなくなります。」とおっしゃっていましたが、私も同じです。しかし,ひとつ分かったことは、このあいりん地区には色々な善意の方々の施設や支援団体がありますが,「どんなに善意からの行動であったとしても、常に見直し,協力するという姿勢がないと、それは独りよがりになり易く,また,当事者のことを無視して走ってしまう危険性がある。」ということでした。感想で述べた時、大谷リーダーも「確かに言われるとおりです。しかし、キリスト教協友会は、未だそれでも協力していこうとする姿勢がありますが難しいことです。」と言われました。私は第三者として物事を客観的にとらえることが出来るのでこういうことが言えるのかもしれません。

 貧しい人たちとの出会い、若者との出会い、自分の貧しさの体験を通して、「いのちに仕える使命をもっている聖別奉献された女性」であるとの意識を再認識しました。これからの生活の中でどのように活かしていくかという課題が残されています。

 長くなりましたが、私のつたない分かち合いを読んでくださってありがとうございました。                      Sr.M.Emmanuela

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