もし明日、自分の命が終わるとしたら、あなたは何をしますか?
答えは2つの方向に分かれるような気がします。
1つは残していくこの世に何を行うかということです。おそらく、家族や友人やその他の親しい人たちのうちの誰かに、最後の感謝の言葉を伝えに行くということがあるのではないでしょうか。あるいはずっと言えなかった謝罪の気持ちを伝えに行く人もいるかもしれません。物理的に行くことが無理ならば、心して最期の手紙を書き始めることでしょう。
養うべき家族がいる人は、彼らがどうやって困らずに生活していけるか、そして少しでも悲しみを感じないですむにはどうしたらいいか考え始めるかもしれません。そして、お金や生活の手段になるものを用意して、彼らがこれからも幸せに前向きに生きられるように話をしたいと思うでしょう。
最初は、残しておくと恥ずかしいものを処分しようとか、欲望に身をまかせて好き勝手なことをしたいとか思って、実際にまずそれをするのかもしれません。でも「これが最後ではない。最期に私がしたいのはこれではない」と感じるのではないかなと思います。
「最期に私がしたいのは何なのか」。これがもう1つの答えの方向ではないかと思います。残された人たちのためだけでなく、あと一日の命しかない自分のために何をするのか、何をしたら自分は心置きなく死ねるのかということです。
僕が思いつくのもこちらの方向です。それは、自分は何のために生きてきたのかということでもあります。僕個人が思うのは、ブッダや過去の聖者たちと同じ境地を生きたい、たった一日でも、ということです。
それが一日程度では決してかなわない望みであることはすぐに分かります。それでも、そのために最善の努力をするだろうと思います。京都の師に会いに行くでしょうし、本当の意味で我が身が果てることもいとわない、努力が報われなくてもかまわない、最後の瞑想を行うでしょう。
最期の一日をそれに懸けると思います。
そして同時に、すでに自分がそれを行おうとしていることにも気づきます。今でももう自ら人生を終わらせにかかっている意図と行動を感じます。
この世が嫌だなんて微塵も感じていません。人や人間関係が煩わしいとも思いません。そうした悩みはとうの昔に解決しました。だからこそ、この世に未練がないともいえます。いろいろあっても思いを残さず行なっていけますし、行なっています。
あるとすれば、羨望というか、吸い込まれるような気持ちです。キリスト教的に言えば、天に召される望みでしょうか。磁石に吸い付けられるような、真空に引き寄せられるような思いです。それはとても透き通っています。
個人的な思いを長く書いてしまいました。
あなたは最期の一日に何をしますか?
「これではない」と感じるものが脱落して、「自分はこれによって生きるのだ」という答えにたどり着くまで、真実を求めること。
これが真実と非真実の識別という瞑想です。