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現証

 投稿者:呵呵大笑  投稿日:2015年 7月 7日(火)08時27分58秒
返信・引用
  老醜狂人沖浦の現証といえば、
(1)サボりスキー事件で神戸追放・白馬逃亡。
(2)出生本懐をキャンセル。老醜は熱原劇が自分の出世本懐だと言っていた。
(3)2008年に三年で純利益10億だと公約していまだにまったく果たせないこと。
この三つでしょう。これが老醜狂人の信仰の姿です。
 

大河さんに質問です。

 投稿者:eco◆Smw69BiSBO  投稿日:2015年 7月 7日(火)08時21分30秒
返信・引用 編集済
  >
> 御本尊は、常に「本」です。
> ただし、先ほど書いたように、御本尊の「相貌」の「本・迹」は
> あるのですよ。
>


では その「本」に該当する曼荼羅は どこにあるのでしょうか?
どの曼荼羅を指すのでしょうか? その縦分けを説明してください。


> 例えば、ありとあらゆる思想・哲学、宗教という「くくり」で
> 日蓮大聖人の御本尊つまり南無妙法蓮華経という「法」は
> 「本」であり、その他の一切の宗教は、「迹」であると・・先生の指導に実際にあります
> 今は、すぐに本を出してくる余裕はありませんが、
> 確実にありますので、出展は出せます。



「南無妙法蓮華経」の1篇だけで済んだ筈なのに
何故?あなたが奉ってある 御本尊にしても 佐渡始顕にしても 諸天が書かれているのでしょうか?

尚 南無妙法蓮華経を唱えているのは 創価ばかりではありません。
日蓮正宗も唱えていれば 立正佼成会も唱えておりますが・・・
あなたも 沖浦さんも あべひ氏も どこの御本尊に向かってナンミョーを唱えているのでしょうか?(汗
 

Re: 仏と衆生が本?迹?

 投稿者:大河  投稿日:2015年 7月 7日(火)08時16分57秒
返信・引用 編集済
  > No.2143[元記事へ]

モウさん横レス失礼いたします

> 日寛上人が人法体一を説いたからというのも同様。仏が迹で衆生が本だというのも、
> 諸法実相抄があるので、大聖人にその思想がないと全面的に排除はできないと思います。


その諸法実相抄での、仏とは、経文上の「仏」ですよね、つまり南無妙法蓮華経で
悟った経文上の全ての諸仏のことですよね、

諸法実相抄で「凡夫」といっているのは、日蓮大聖人であり総じては一切衆生ですよね。




> そしてその意味は、突拍子もない内容でもなく、法華経の思想からきた衆生視点での、
> 「仏は誰のおかげで存在できるのか」という、常識的な見方の一つではないでしょうか。
> 常に衆生の側から見る姿勢は大切ですし、排斥すべきような視点でもないと思います。
>
> 火事になったとします。玄関を入って助けにいくと、廊下の右手の奥には御本尊の部屋が。
> 反対の左手側の奥には小さな子供たちのいる部屋があります。
> さて、貴方は、どちらを助けに行くのでしょうか。どちらも貴方がたの自由です。
> 個人的な思い入れもあるかもしれません。
> こんなとき、どちらも“人法が共に尊い”と説くだけだったら、大きな誤解を生じます。
> 宗教団体がそんな単一の言葉だけを振り回すことは避けるべきだと思います。


あまり、公開で書くのははばかれますが
あの東日本大震災での大津波、
当然、自宅にいなかった方もたくさんおられます
御本尊を津波で失ったかたもおられます。
「あなたが生きていてよかった嬉しいよ」これが、正しい創価学会のスタンスです。
事実そのお話は大会合で大幹部からお聞きしました。

あくまで、曼荼羅に文字で示された「法・南無妙法蓮華経」が「本」であると
述べているわけです。
だからといって、物質的側面である曼荼羅を、故意にわざと、粗末にする方は
いないはずです。

いわんや、全てが、成住壊空の理により、かたちあるものはいつかは壊れます。

そのことは、先生も当たり前のこととして語られております。
形あるものは、壊れるが、「法」は、永遠である絶対である・・これを「本迹」でいえば
「本」であると言っているわけです。



> 法と衆生、どちらが尊いかなんて、よく分かりませんが、

どちらも尊いからこそ、
曼荼羅(南無妙法蓮華経を文字でみえるようにした)が、わたしたち衆生よりも劣っていたら
わざわざ、拝する意義はないわけです。

沖浦さんは、結果として、曼荼羅(南無妙法蓮華経)が、わたしたちよりも
劣っていると、言ってしまっているのです。

「本迹」はあくまで勝劣です。

どちらが優れているか、の判断基準です。


但し、これは当初からわかっていたのですが
沖浦さんが、「迹」という言葉を、正しく使ったかというと、疑問で
ちょっと、感覚で使ったのだということなんですよね。

感覚で使ったらよくないですよね、

「本迹」を、戯れで使うのは獅子身中の虫なる内容もありましたよね。

「本因妙抄」に至っては、「本迹勝劣を知らないものは師子身中の虫」とまで言われている。

http://www2.ezbbs.net/cgi/bbs?id=amagian&dd=33&p=1・・24より

天城さんの記事、しっかり読むといいですよ。






 

大河さん

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)08時14分25秒
返信・引用
  >しっかり、創価学会公式見解教義に基づきされていくのが
ベストですから、何も憤慨することはありません。

 貴女は大聖人の公式見解を無視する方。
 池田先生のご指導も無視の方。
 更に、

 大聖人の御本尊を否定する方。

 だから功徳が出ません。
 大聖人が功徳を褒めよと言われる。
 だが褒められない修羅の命。

 師匠が功徳を勝ち開き語れ、と言われる。
 だが、修羅の命は功徳を勝ち開けない。
 当然語れない。

 大聖人が御本尊を拝めと言われる。
 だが、修羅の命はそれを否定し拝めない。
 御本尊否定するしかない。

 良くないですね。
 

創価の功徳!!

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)08時09分20秒
返信・引用
   大河さん、しっかり見なさいね。  

大河さん、

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)08時07分37秒
返信・引用
   寛師を否定しようがしまいが・・・

 六大秘法採用しようがしまいが・・・・

 創価の信心やると、功徳が出ることになっています。
 この現実は変わりません。
 私も以前は戒壇本尊本懐を堅く信じ、寛師は大聖人に並び立つ正師と信じ、唱題し戦って功徳を沢山出しました。

 今、寛師を邪師と見破り、戒壇本尊本懐を嘘と熟知し、唱題し戦って功徳をドンドン出しております。

>自分勝手に、すき放題に、言いまくる方の体験談は「まゆつばもの」として
みています。

 『金はやけば弥色まさり剣はとげば弥利くなる法華経の功徳はほむれば弥功徳まさる、二十八品は正き事はわずかなり讃むる言こそ多く候へと思食すべし。』
 (妙密上人御消息)

 御書には、人の功徳を褒めるなら自身の功徳がドンドン勝って行くと書かれてあります。
 然し、貴方は拝せない。
 眺めるだけ。
 何故か?
 勝他の念で歪んで見えるのです。
 修羅のネットおよしなさい。

 私の功徳は写真と動画でドンドン配信しております。
 映像は嘘つきません。

 貴女のように、ハンネに隠れて他人を非難する人を、創価学会が憂慮していることはご存じ?
 

功徳!!

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)07時55分44秒
返信・引用
   朝30分の唱題を正座で出来ました。

 これまで、膝がダメで正座が辛かったので、椅子に座って唱題していました。

 今朝、椅子使いませんでした。

 やった!!

 功徳~~!!
 

Re: みなさま  訂正

 投稿者:大河  投稿日:2015年 7月 7日(火)07時49分56秒
返信・引用
  > No.2177[元記事へ]

> 日顕、日如、日開、日清、あとは焼死した法主等々
>

日清は、日精の間違いですね

焼死法主は、日恭でしたね。
 

みなさま

 投稿者:大河  投稿日:2015年 7月 7日(火)07時36分6秒
返信・引用
  おはようございます。

私が、ロムの方&参加者の方が
沖浦さんのご主張を自己責任で検証・・といったことの真意が
おわかりかと思います。

ノブノブさん、お疲れ様です。
ノブノブさんは、今後もご自分の研鑽を
しっかり、創価学会公式見解教義に基づきされていくのが
ベストですから、何も憤慨することはありません。


日寛上人についても、創価学会は否定はしておりません、
今後も否定することはないはずだと、私は確信しております。

確かに、今般の会則教義条項改正の解説で
「一大秘法・六大秘法」なる「用語」は、今後「使わない」と
しかし、使わないということと否定ということは別です。

一度、流れてしまった投稿でも書きました

創価新報、最新版でも、日寛上人教学で、御書講義されています。
それから、やはり創価新報最新版では
日淳上人、日達上人が、「正視眼」の法主であった旨記載されています。
↑これが、現時点での創価学会公式見解です。


日顕、日如、日開、日清、あとは焼死した法主等々

明らかに創価学会として、邪義・悪法主と「認定」済みの法主以外は
自分勝手に、何かをいうのは、よくないですよ。
現に、日寛上人書写御本尊、日昇上人書写御本尊、日達上人書写御本尊等々
創価学会は「広宣流布の御本尊」として、認定しているのです。

宗門だから、ぜんーんぶ、否定、というのは
創価学会の正式なスタンスではありません。

それだけです。

自分勝手に、すき放題に、言いまくる方の体験談は「まゆつばもの」として
みています。
 

沖浦様、さようなら。

 投稿者:ノブノブ  投稿日:2015年 7月 7日(火)07時31分43秒
返信・引用
  【会則教義条項改正に関する解説】(大白蓮華4月号より)p94

「日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と、要法寺の法主が続き、疲弊した宗派を護るという要請に応えて、唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある」

先生『百六箇抄講義』より。

『さて、原文では、妙法が自理倶勝の「本」であると訳されていますが、この「本」は、次の「日蓮並びに弟子檀那等は迹なり」の「迹」と相対されております。
日蓮大聖人は、法を弘める立場では、一往経文上の上行菩薩の姿をとられました。これは、久遠元初の自受用身、即日蓮大聖人の、示同凡夫としての外用の振る舞いであります。ゆえに、「迹」となるのであります。すなわち御本尊が「本」、御本尊と境智冥合してゆく凡夫が「迹」であります。しかし、大聖人の御内証は、あくまでも久遠の本仏であられる故に「本」なのであります。』(抜粋)
 

ほんでな

 投稿者:オウ  投稿日:2015年 7月 7日(火)07時29分3秒
返信・引用
  ピンクさん、別にアンサンが歪んでるかどうかは知らんへんけどな、アッシは事実を述べてるだけやw

自分が信じてたもんと真逆の事実を突きつけられた時にな、たいがいの人は拒否反応するもんや。別にフツーのことや。

やけどな時間をかけて見ることで見えることもあるさかいな。そんときにどう判断するか。

アカンアカンと見なかった事にするんか、自分の考えを改めるか。大事で苦しい判断が必要や。

さて、どーやろーなあーww
 

おっはー!

 投稿者:オウ  投稿日:2015年 7月 7日(火)07時16分17秒
返信・引用
  下の宿坊板のシツコイパシリは置いといて(笑)
教学部ですね~~怖いですね~~何処かの板の事でしょうか~。

↑教学部が怖い?ww

あー、自分が散々、教学部レポートは改竄文書やデッチ上げやとゆーてたんもんなあーw

教学部レポートがホンモノやとクジラさんが認めてしまったもんなあーw

あんなかに書かれている事が事実やとハッキリしてしもーたもんなあー。そりゃ、教学部レポートを貶めたかったガキどもからしたら怖いわなあーwww

自分がウソを振り撒いた事はダンマリ坊やさんww
 

・・・・・・・・・

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)07時11分15秒
返信・引用
   質問に答えず、更なる質問を重ねる方もおられます。

 当方、アホらしくてキリもなので、今後はスルー致します。

 然し、この情熱で唱題して戦ったら・・・・・

 あ~~、もったいなや・・・・
 

ノブノブさん

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)07時09分16秒
返信・引用
   後はご勝手にどうぞ・・・・

 楽しませていただきましたよ。
 

モウさん、おはようございます

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)07時08分16秒
返信・引用
   宗門の方々と何度もお話致しました。

 凄く感じるのは、話を噛み合わせないと言う事です。

 この板でも、阿部日さん、大河さん、ノブノブさんはそうですね。
 何故かみ合わないか??

 私と噛み合わせると負けるからです。

 お三人共に師匠が功徳を書けと言われるが書かない。

 それを責めると、

 師匠は掲示板で書けと言われない。

 と逃げる。
 私が御書引用しても御書で反論できない。
 だから、池田先生の昭和37年の講義を振りかざす。

 愚かですね。

 これがこの方々の実力なんです。
 創価の教学は実践の教学です。

 ハンネで屁理屈書いても人間革命出来ません。

 
 

沖浦様

 投稿者:ノブノブ  投稿日:2015年 7月 7日(火)07時08分14秒
返信・引用
  大日如来と、大聖人を同列に見てしまうのがあなたなのです。
大日如来は、素性が分からない。
大聖人の本地は分からないのですか?
大聖人は、迹ですか?

先生『百六箇抄講義』より。

『さて、原文では、妙法が自理倶勝の「本」であると訳されていますが、この「本」は、次の「日蓮並びに弟子檀那等は迹なり」の「迹」と相対されております。
日蓮大聖人は、法を弘める立場では、一往経文上の上行菩薩の姿をとられました。これは、久遠元初の自受用身、即日蓮大聖人の、示同凡夫としての外用の振る舞いであります。ゆえに、「迹」となるのであります。すなわち御本尊が「本」、御本尊と境智冥合してゆく凡夫が「迹」であります。しかし、大聖人の御内証は、あくまでも久遠の本仏であられる故に「本」なのであります。』(抜粋)
 

愚かな・・・・・

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)07時00分40秒
返信・引用
  >あなたの言う「人」と、『如説修行抄』の「人」とは、概念が違います。
あなたが、「凡夫」を「人」ととんまな解釈をしたのと同じですよ。
バカバカしい。

 『大日経等は四教を含用したる経なり何ぞ時も同じ義理も同じと云わんや謬りなりとせめよ、次に大日如来の説法と云はば
大日如来の父母と生ぜし所と死せし所を委く沙汰し問うべし、一句一偈も大日の父母なし説所なし生死の所なし有名無実の大日如来なり然る間殊に法門せめやすかるべきなり若法門の所詮の理を云はば教主の有無を定めて説教の得不得をば極む可き事なり、』
 (諸宗問答抄)

 大聖人が仰せです。

 大日如来なんて、父も母もわからず、何処で生まれたかも知れない。
 そう言う仏は人間でないから、説を用いるな。

 拝しましょう。
 眺めてもダメ!!

 戸田先生が言われました。

 『貴方は創価学会の会長先生だから、如来様なんでしょう、菩薩様なんでしょう?
 などとよく言われる。
 この時ほど腹が立つことはない。
 自分は人間だ、凡夫なんだ。
 人間だから人間のことが分かるんだ。』(趣意)

 ノブノブさん、もうおよしなさい。
 時代遅れの宗門邪義、寛師教学振り回しても、創価の戦士である私に絶対に勝てません。

 サッサと寛師ファン仲間へお戻りなさい。
 そろそろ、ここでは邪魔ですね。

 
 

まったく答えられず、話のすり替え。

 投稿者:ノブノブ  投稿日:2015年 7月 7日(火)06時53分14秒
返信・引用
  先生『百六箇抄講義』より。

『さて、原文では、妙法が自理倶勝の「本」であると訳されていますが、この「本」は、次の「日蓮並びに弟子檀那等は迹なり」の「迹」と相対されております。
日蓮大聖人は、法を弘める立場では、一往経文上の上行菩薩の姿をとられました。これは、久遠元初の自受用身、即日蓮大聖人の、示同凡夫としての外用の振る舞いであります。ゆえに、「迹」となるのであります。すなわち御本尊が「本」、御本尊と境智冥合してゆく凡夫が「迹」であります。しかし、大聖人の御内証は、あくまでも久遠の本仏であられる故に「本」なのであります。』(抜粋)
 

戸田先生が何故宗門を選ばれたか?

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)06時52分14秒
返信・引用
   簡単です。

 織田信長ご存じ??

 足利将軍担ぎ出し、天下統一に権威利用し、要らなくなったら用済みにしたでしょう。

 戦後日本は雨後の竹の子の如く新興宗教が乱立したんです。
 そのほとんどが題目唱えていました。
 捨てて置くと当然創価学会もそれらに埋没しかねません。
 ですから、日蓮正宗と言う老舗の名前借用されました。

 『今、創価学会が新興宗教だと言うものがいるが、そういう事はありません。
 お山(大石寺)に行ってごらんなさい。
 樹齢何百年と言う大木がいくらでもあります。
 新興宗教にそんなものはありませんぞ。』(趣意)

 私も先輩後輩と一緒に、この話して折伏ドンドンやりました。
 今はもうああいう宗派用済みです。
 理解できますか?

 明治維新ご存じ??
 攘夷って知ってますね?

 薩摩と長州など雄藩は、攘夷掲げて団結し幕府を倒しました。
 明治になってから、ある薩摩藩士が桐野さんに聞きました。

 討幕は成りましたが、攘夷はいつやるんですか?

 お前まだ聞いてなかったか、攘夷、あれはやらんのじゃ。
 幕府倒す手段だったんだ。

 同じです。
 当時社会の底辺であえいでいた創価学会員(私もその一人でした)に、戒壇本懐論は勇気と自信を与えてくれました。
 それを攘夷みたいに掲げ、大折伏やったんです。

 今はもう要りません。
 新政府になってから攘夷は邪魔だったのです。

 同じく、世界広布に戒壇本尊なんか邪魔!

 戸田先生って凄いですね。
 
 

沖浦様

 投稿者:ノブノブ  投稿日:2015年 7月 7日(火)06時48分21秒
返信・引用
  無理無理。
あなたの言う「人」と、『如説修行抄』の「人」とは、概念が違います。
あなたが、「凡夫」を「人」ととんまな解釈をしたのと同じですよ。
バカバカしい。
 

話が噛み合っていないことに

 投稿者:モウ  投稿日:2015年 7月 7日(火)06時47分31秒
返信・引用
  > No.2162[元記事へ]

ノブノブさんは、沖浦さんが誤魔化そうとして、あれやこれやと話を
すりかえていると「本気で」思われています。

こういうと、沖浦さんに肩入れされてると思われてそうですが、私は
一方に偏して肩入れなんてしません。

言われてることが分かっておられないのだと思います。
沖浦さんはノブノブさんのような論理で詰める話しかたは確かにされ
ません。それを粗雑にみるのかもしれません。

しかしそれを差し引くと、全く噛み合っていないことがよくわかります。
ノブノブさんの御主張。

> これらの菩薩は、地涌の菩薩です。
> 末法にあって、難に遭い正法を弘めるのは地涌の菩薩しかおられません。
> 成仏が結定した、菩薩仏です。
> 別しては、大聖人のことですよ。
> 「地涌の菩薩仏」=「人」ではありません。

こういうのですよね。これは虚心坦懐に読めば御書の通りとは違うでしょう。
でもかっての宗門教学ではこんなで来ましたね。諸法実相抄もそうです。

私も時間がないので、結論だけ述べて申し訳ありません。
 

メッキはげますね~~

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)06時40分38秒
返信・引用
   さすがは寛師教学・・・・

 御書暗すぎ~~~!

 『答えて云く釈尊は法華経の御為に今度九横の大難に値ひ給ふ、過去の不軽菩薩は法華経の故に杖木瓦石を蒙り竺の道生は蘇山に流され法道三蔵は面に火印をあてられ師子尊者は頭をはねられ天台大師は南三北七にあだまれ伝教大師は六宗ににくまれ給へり、此等の仏菩薩大聖等は法華経の行者として而も大難にあひ給へり、此れ等の人人を如説修行の人と云わずんばいづくにか如説修行の人を尋ねん、』
 (如説修行抄)

 『答えて云く釈尊は法華経の御為に今度九横の大難に値ひ給ふ』

 最初に釈尊って書いてあるでしょう。
 眺めるからそういうミス犯します。
 拝せませんか~??

 釈迦を筆頭にして全てが人なんです。
 仏も菩薩も大聖も、全て人間だと仰せなんです。

 貴方、御書に暗いですね。
 宗門の方がお似合いじゃないですか?

 あっちはね、未だ時代遅れの寛師邪義でやってますよ。
 
 

あのね。

 投稿者:ノブノブ  投稿日:2015年 7月 7日(火)06時35分25秒
返信・引用
  今度は、神札焼死ですか?

『百六箇抄』の御講義の話をしてるのですが。

法主の焼死が謗法や否や、なぜ、日蓮正宗に残ったのかは、戸田先生にお聞き下さい。
戸田先生は、戒壇の本尊を宣揚されていました。
 

Re: 御書拝しなさい、ノブノブさん

 投稿者:ノブノブ  投稿日:2015年 7月 7日(火)06時30分52秒
返信・引用
  >  『此等の仏菩薩大聖等は法華経の行者として而も大難にあひ給へり、此れ等の人人を如説修行の人と云わずんばいづくにか如説修行の人を尋ねん、』
>  (如説修行抄)
>  此等の仏菩薩大聖等ってね、人間だと仰せでしょう。
>  拝せますか?

これらの菩薩は、地涌の菩薩です。
末法にあって、難に遭い正法を弘めるのは地涌の菩薩しかおられません。
成仏が結定した、菩薩仏です。
別しては、大聖人のことですよ。
「地涌の菩薩仏」=「人」ではありません。
 

当然、私は宗門は大法謗だと断じます

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)06時24分42秒
返信・引用
   では何故、

 創価学会は日蓮正宗であったに関わらず、功徳をドンドン出す信心を広めることが出来たのか?

 皆様で思索されると、教学の力が付きます。

 是非、是非!
 

ああ、簡単ですよ、ノブノブさん

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)06時22分2秒
返信・引用
  >破門前の日蓮正宗の信心が、正法で無かったら、学会も正法では無かったという事になりますよ。

 日蓮正宗ってね、ず~~~~~~~~~~~~~~と、大謗法!!!!

 弁えましょうね。

 戦時中のお話書いておきますよ。

 『昭和18年6月に学会の幹部は登山を命ぜられ、「神札」を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうかと、二上人の立ち合いのうえ渡辺慈海師より申しわたされた。』

 戸田先生のお話からです。
 更に、

 『牧口会長は、神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山したのであった。しこうして、その途中、私に述懐して言わるるには、

「一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、おそれるのである。いまこそ、国家諫暁のときではないか。なにを恐れているのか知らん」と。』
 ~引用終わり~

 ノブノブさんへ質問いたします。

 この時謗法を犯したのは、宗門ですか?それとも牧口先生ですか??
 

はぁ?

 投稿者:細野  投稿日:2015年 7月 7日(火)06時17分38秒
返信・引用
  > No.2153[元記事へ]

>  十年以上ネットに書いていて、未だ功徳が書けない。
>  自分を恥じなさい!!

創価学会の教学教授ともなると、会員に対しこのような暴言を浴びせ掛ける
事が許されるんですか?
 

沖浦様

 投稿者:ノブノブ  投稿日:2015年 7月 7日(火)06時12分42秒
返信・引用
  破門後の御指導を出されてはいけません。
破門した時点で、謗法の山になったのでしょう。
破門前の日蓮正宗の信心が、正法で無かったら、学会も正法では無かったという事になりますよ。
何度も言いますが、あなたは返答不能になり、話のすり替えを、必死になってやっているだけです。
 

御書拝しなさい、ノブノブさん

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)06時12分37秒
返信・引用
   眺めるだけを宗門教学と申します。
 私が名づけました。

 『此等の仏菩薩大聖等は法華経の行者として而も大難にあひ給へり、此れ等の人人を如説修行の人と云わずんばいづくにか如説修行の人を尋ねん、』
 (如説修行抄)

 此等の仏菩薩大聖等ってね、人間だと仰せでしょう。
 拝せますか?
 眺めてもダメですよ。
 そして、ここでの仏は釈迦を指します。

 教主釈尊を引用され、その後で、

 『此れ等の人人を如説修行の人』

 と明確に書かれてあります。
 人間なんです、仏も菩薩も。

 人が最も尊い。

 創価の基本です。

 曼荼羅本尊本なんて、

 おかしくって・・・・・
 アホラシ過ぎ・・・・・
 

ノブノブさん

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)06時05分41秒
返信・引用
   日蓮正宗に正しい法なんてありませんでしたよ。

 随筆「人間世紀の光」 桜花の「4・2」に恩師を想う㊤
 (抜粋引用)

 『師は叫ばれた。
 「宗門に巣食う邪悪とは、断固、戦え! いいか、一歩も退いてはならんぞ! 追撃の手を緩めるな!」
 これが、青年部への最後の指針となり、峻厳なる創価の師弟の相伝となった。』

 

沖浦様

 投稿者:ノブノブ  投稿日:2015年 7月 7日(火)05時54分48秒
返信・引用
  先生の和合時代の御指導は、寸分も間違っておられません。
その当時は、日蓮正宗に正法があったからです。
大聖人の佐前、釈尊の爾前と同じです。
付け加えておきますが、あなたが引用された『諸法実相抄』にある、「凡夫」=「人」ではないですよ。
ここにある「凡夫」は、経文上の色相荘厳の仏にかけたもので、「凡夫」=「別して大聖人」です。
つまり、「久遠如来」が「本」、「迹仏」が「迹」という意味です。
御金言に記されている、「凡夫」は「本仏」と御指南されているのは、そう言うことですよ。
いい加減にしましょうね。
功徳は、好きなだけお書きなさい、けど、邪義とすり替えはいけません。
『百六箇抄』を文証としたのは、あなたです。
先生のご講義が間違ってるなら、その箇所を指摘すべきです。
他の和合時代の御指導に話を逸らす態度は、恥じるべきですよ。
以上、あなたのご希望により、再度出現致しました。
あなたとの対話は、バカバカしく思っております。
 

整理しておきます

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)05時52分59秒
返信・引用
   仏教史観を語る
“人間のため”こそ仏法の根本精神。

 から抜粋引用致します。


  『しかし、その仏教も、時代を経るにつれて、出家僧侶を中心とする一部のエリートたちの独占物となっていくのであります。在家の供養で支えられた僧院の中で、学問的に語られるにすぎないものとなっていったことは、皆さんもよくご承知のところでしょう。すなわち、再び“宗教のための人間”への逆流が起こり始めていってしまったのであります。

 これが小乗仏教といわれるものであります。これに対する宗教革命が大乗仏教運動でありました。

 すでに、釈尊滅後百年ごろ、仏教教団が二つに大きく分裂した有名な事件があった。いわゆる「上座部」と「大衆部」の分裂がそれであります。

 これは同じ出家教団同士の意見の対立でありました。上座部とは“上に座る”と書くように、在家の民衆から供養を受けながら、それを当然のごとく考え、民衆をへいげいし、エリート意識をもって君臨していた教団であります。

 これに対し、大衆部は、常に在家民衆との対話、接触を保ち、仏教は民衆に開かれたものでなければならないと主張した、進歩的で柔軟な教団であります。この保守派と進歩派の対立は、形式主義に堕した仏教の根本的な革新にまでは至らなかったのでありますが、これを革命的に遂行したのが大乗仏教運動でありました。』
 ~引用終わり~

 曼荼羅が人の上に位置するとの思想を寛師は広めました。

 戒壇本尊本懐論、三大秘法当体論。
 これは上座部の教えで、大乗仏教ではございません。
 日蓮正宗と言う宗派は、開基以来の伝統で、人間否定に陥りやすい性質を孕んでおります。

 日興遺誡置文にあります。

 一、若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事。

 開基からしてこれです。
 権威主義に陥るのは当然と言えば当然です。

 仏が本、衆生が迹との思想は、上座部仏教の民衆軽視の思想で、大乗仏教ではございません。
 創価は大乗中の大乗仏法。

 人間のためにある宗教を大原則としております。

 当然人が本、教え全体を含め、曼荼羅も仏も迹。

 当然の帰結です。
 

阿部日さん、おはようございます

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)05時22分30秒
返信・引用
   十年以上ネットに書いていて、未だ功徳が書けない。

 自分を恥じなさい!!
 

ノブノブさん、大河さん

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)05時20分22秒
返信・引用
   以下はノブノブさんが引用された先生の講義より、更に新しい先生の御指導です。
 この指導は、大白蓮華ではなく、機関誌である聖教新聞に載りました。

 本部長の集い(神奈川文化会館)

 『法水写瓶の血脈にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つとも無益であり、功徳はないのである。
 すなわち『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』なのである。
 日蓮正宗を信奉し広布に挺身する創価学会には、『信心の血脈』が脈動している。』
 (聖教新聞・昭和61年5月13日より抜粋引用)

 ノブノブさん、この指導があやまりですか?
 それとも正しいのですか?
 お答えくださいね。

 大河さん、この指導からすると、今回の教義変更は師敵対になるんですか?
 それともなりませんか?

 後でフニャフニャとした言い逃れをお二方ともなさるでしょう。
 その点では日蓮正宗と同様に、言い逃れ常習のお二人です。
 ですので、私の観点をキチンと書いておきます。

 絶待妙の立場からは、間違っています。
 相待妙の立場からは、正しい指導です。

 最初に、大聖人仏法の立場からは、法主の血脈などは存在しませんし、日蓮正宗の法主だけが御本尊を書写出来ると言う思想はありません。
 ですので、この講演は間違っています。

 そして、創価学会が広宣流布を行う立場で見るなら、これは正しい指導です。
 若し、本当のことを先生がこの時点で書かれたら、大半の会員が退転し、その時点で日蓮正宗を破門となったでしょう。

 破門は、平成3年だから良かったのです。
 釈迦が何故法華経を最初に説かなかったのか?
 衆生の機根故です。
 同じですね。

 以上、私の考えを書いておきます。
 お二方は、正しい間違いかを、明確に書いて下さいませ。
 

大河さん、おはようございます

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)04時44分16秒
返信・引用 編集済
   言い逃れとのらりくらりの貴女に、資料を提示致しましょうね。

 板橋広布25周年記念総会(東京・創価大学)

 『正宗における根本は、唯授一人の血脈である血脈相承の御法主上人に随順しゆくことこそ、正しい僧俗の在り方である。
 この一点を誤れば、すべての根本が狂ってくるのである。
 創価学会は、御歴代の御法主上人に随順してきたがゆえに、永遠に栄えゆくことは間違いないと確信する。』(聖教新聞・昭和57年、1月25日、から抜粋引用)

 かって池田先生は顕師を褒め称え、日蓮正宗から離れてどれほど御本尊を拝んでみても、功徳はない。と断言されておられました。
 すると、今回の教義変更は大法謗なんですか~~???

 本部長の集い(神奈川文化会館)

 『法水写瓶の血脈にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つとも無益であり、功徳はないのである。 すなわち『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』なのである
 。日蓮正宗を信奉し広布に挺身する創価学会には、『信心の血脈』が脈動している。また組織の中で信心活動に励むところに、『信心の血脈』があると確信する』(聖教新聞・昭和61年5月13日より抜粋引用)

 昭和37年の先生の講義に執着し、曼荼羅本尊は本で、衆生が迹??

 愚か過ぎますよ。
 御書には衆生己心の妙法が南無妙法蓮華経だと書いてあります。

 『所詮迹門を尋ぬれば迹広く本門を尋ねぬれば本高し如かじ己心の妙法を観ぜんにはと思食されしなり、』
 (立正観抄)

 書いてあります。
 拝しなさい、眺めてもダメ!!

 貴方の御書と教学は、修羅の知識です。

 自分はお前たちとは異なり、ここまで知ってるぞ!

 自己顕示の勝他の念からの教学。
 それはダメですね。
 菩薩の行ではございません。

 創価思想を少しお教え致しますので、求道心を持って今後は御書を紐解きなさい。

 一切衆生の命が南無妙法蓮華経であることは、引用した立正観抄に明らかです。
 そして、宇宙で最も大切なものがこの南無妙法蓮華経である、衆生の命。
 これに勝るものは無いと、御書にございます。

 『其の故は「・満三千界無有直身命」と申して三千世界に満つる珍宝なれども命に替る事はなし、』
 (秋元御書)

 曼荼羅より命が大事なんですよ。
 当然大事な命が本、曼荼羅は迹。
 仏法の教えなんです。

 今後は御書を拝し、眺めることを慎みなさいませ。
 

普通の人さん、おはようございます

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月 7日(火)04時41分41秒
返信・引用
    御意!!  

オウちゃんありがと。

 投稿者:ピンクが好き  投稿日:2015年 7月 7日(火)02時53分11秒
返信・引用
  やだ~(≧▽≦)普通の人さん。私もちょうど読んだとこです~2巻!!

しかもモウさんちょっと三車火宅っぽい。って火事と子どもの設定だけだけど~。
ひっそり掲載とかやめてくださーい(/・ω・)/。よくよく読みますから!!

オウちゃんまた~(;_;)そ~ゆ~言い方~。
モウさんの虚像がぴったりなのよ。宿板って。先生の指導にしたって、普通の人さ
んのお話の方がピンとくるし。学会を動かしてるのは自分たちっぽいのが見え隠れ
すると思うのは、私の目が歪んでるのでしょう。でも宿板の真実が見えるオウちゃん
は偏ってると思います。

偏ってるは変かな?いい言葉が思いつかない。いろんなことが見えている...?
あれ?これじゃ偏ってるとは反対ねw。やっぱ、国語から出直すね!!

深夜はやばいな~。わけわからないね♪
 

絶対にインテリではない。

 投稿者:普通の人  投稿日:2015年 7月 7日(火)01時46分30秒
返信・引用
  教義論争で、広宣流布が進むなら、簡単ですね~。

インテリ集めて、語らせれば、どうですか~~。

賢ぶっている、インテリ集団!何処かの板みたいな~~。

*学会を死にもの狂いでつくってきたのは、絶対にインテリではないということです。

二乗たち、駄目みたいですね~先生の指導です!


「法華経の智慧」五百弟子受記品・授学無学人記品

池田 その通りだ。しかし、忘れてならないことは、戦後の焼け野原の時代から、学会を死にもの狂いでつくってきたのは、絶対にインテリではないということです。

庶民のなかの庶民がつくったのです。

″病人と貧乏人の集まり″と蔑まれた民衆が、世界に広がる、今の平和・文化・教育の大集団を築いたのです。

インテリには、強さもあるが、弱さもある。

とくに日本のインテリは「民衆を守ろう」とするよりも「自分を守ろう」とする傾向が強いようだ。
そんな保身は「大願の人生」には必要ない。

捨て身です。「 ちり塵 を大地に うづ埋 むとをもへ」です。

青年は「苦労」が大きければ大きいほど、その分、「民衆の心を知ることができるのだ」「使命が大きいのだ」と決めて頑張ることです。

ともあれ、二乗たちに「生命の根源に帰れ」「大願を思い出せ」と呼びかけたのが法華経です。
その具体的行動は、民衆のなかで、民衆とともに人生を生きることであった。

何よりも、「民衆に学べ」です。
あのドストエフスキーは、インテリたちに、こう警告します。

「いかに真実を語るべきかを、民衆に学ぼうではないか。同時にまた民衆の謙虚と、実際性と、理知の現実性と、まじめさを学ぼうではないか」

「(=社会を)なぜ活気づかせることができないかというと、諸君が民衆によろうとせず、民衆が諸君と精神的に一体となっていず、まるで無縁の存在にひとしいからである」(前掲『作家の日記』)と。

遠藤 長い流刑生活を、民衆とともに生き抜いた彼ならではの信念ですね。

池田 とくに彼は、自由主義思想によって一度は手放した「信仰」を、「民衆のおかげで」魂に取り戻したのだと言っている。
彼にとって民衆は、人間としての″根っこ″である信仰を教えてくれた″大地″だったのです。

興味深いことに、ドストエフスキーは、死の当日、奥さんに聖書を開かせ、子どもたちに「放蕩息子の話」を読んで聞かせるように頼んだという。(エーメ・ドストエフスキー『ドストエフスキー傳』高見裕之訳、アカギ書房、参照)

遠藤 「放蕩息子の話」とは、父から離れた息子が、遠くで生活するうちにおちぶれ、再び父のもとに帰ってくるという物語ですね。

須田 法華経の「長者窮子の譬え」(信解品〈第4章〉)に似ていることから、この物語が、法華経の影響を受けていると見る学者もいます。

池田 ドストエフスキーは、信仰によって、精神の「放浪」をやめたいと願った。
同時に他の「放浪者」たちを連れ戻したかった。
信仰が息づく「民衆」の大地に帰らせたかった。
 

実践を語れない人。

 投稿者:普通の人  投稿日:2015年 7月 7日(火)01時16分24秒
返信・引用
  沖浦さんは、広宣流布への実践こそが大事だと、いいます。

*いかに難解な論理をあやつり、深遠そうな言葉で自身を飾ったとしても、広布への実践なき人を、決して信じてはならない。だはされてはならない。

これは池田先生の指導ですね。

実践を語れない人を、信用してはいけませんよね~~。

*一時、数学部の幹部であった退転者もこの部類であった。また、これからも同類のものが現れてくることもあるにちがいない。

下の宿坊板のシツコイパシリは置いといて(笑)
教学部ですね~~怖いですね~~何処かの板の事でしょうか~。


各部合同代表者研修会…先生のスピーチより抜粋…1987・9

民衆ほど大切なものはない。民衆の大地から離れて栄えつづけたものもない。仏教も本来、民衆のために、民衆のなかで説かれ、広がった。しかし釈尊入滅後、仏教はしだいに民衆救済の精神から遠ざかっていった。それはいったいなぜか。

その一つの表れが「解釈学の先行」をあげる研究者がいる。

釈尊自身は、その悟りをたくみな譬喩等を使って、やさしく説いた。また卓越した慈悲の人格によって、人々を教化した。ゆえに、難解な仏教の法理を理解できない人々も、釈尊の、時に応じ、人に応じ、所に応じた「自在な説得力」と、「偉大な人間性」によって、仏教に帰依することができた。

しかし釈尊入滅後、仏教教団は、仏説の解釈や教理について、煩雑な議論を繰り返し、見解の相違から多くの部派に分裂していった。いわゆる「部派仏教」の時代である。

そうしたなか、実践者として「民衆の中へ入り」「民衆の苦を救う」という釈尊の真意から、遠くかけ離れたものになっていった。その後、こうした傾向への反省等から、大乗仏教が興隆した。しかし、大勢として、インド仏教の民衆遊離の傾向は変わらなかった。

ともあれ、民衆を忘れ、現実を離れて、いたずらに空理空論をもてあそぶ姿のなかには、すでに仏法の精神は完全に失われている。

もっとも重大なことは″一人″の人間を心から蘇生させていくことだ。また、正法を″広宣流布″することである。さらに、正しく信・行・学の修行を貫き通していくことでる。そこに一切がある。

いかに難解な論理をあやつり、深遠そうな言葉で自身を飾ったとしても、広布への実践なき人を、決して信じてはならない。だはされてはならない。

そうした人間がこれまでにも多大な害毒をまき散らしたことは、皆さまがご承知の通りである。

一時、数学部の幹部であった退転者もこの部類であった。また、これからも同類のものが現れてくることもあるにちがいない。

いかに、すばらしい哲学でも、民衆にわからなければ価値がない。いわゆる難解な論が優れているのではない。決して尊いのでもない。逆である。もっとも深遠な哲理を、もっともやさしく説く人こそ、真実の仏法者なのである。また広宣流布の指導者なのである。
これに関連して、インド仏教の民衆からの遊離を表す例として、サンスクリット(梵語)による仏典の編纂がある。

もともと釈尊は、弟子たちに俗語、すなわち社会一般に使われている日常の言葉での説法を勧めたとされている。そのことは、現在、各地で発見される仏典の写本が、そうした言葉を反映して書かれていることからも推察される。

しかし、仏教が衰え始めたグプタ王朝の時代になると、古典的で煩瑣な文語の正統としてのサンスクリットが国家的に奨励された。そこから仏教徒たちの議論や著作にもサンスクリットを用いるようになっていった。

サンスクリットには、地域的な方言を越えた″共通語″としてのメリットはあった。しかし、民衆の日常語ではなく、聖なる言葉として、バラモン教の聖典ヴェーダ等に使用されていた言葉である。

庶民にわからぬ言葉での学問論議――このこと自体、仏教が民衆のなかでの生きた躍動を失った証とも言われている。

この点、「当時の僧侶は民衆から離れて、奥深い大寺院の中で、ひとり瞑想にふけるか、あるいは煩瑣な学問の遊戯にふけっていた。かれらは、民衆とともに苦しみ民衆を救おうとする精神が乏しかった。かれらには伝道精神が欠けていたのである」(『インド古代史・下』、『中村元選集 第六巻』所収、春秋社)とする中村元博士の正鵠を射た指摘もある。私も、そう思っている一人である。

御本仏日蓮大聖人も、「かな」のほうが相手にわかりやすい場合には、「ひらがな」で御手紙を書かれた。

ここにこそ仏教本来の精神があり、指導・弘教の方軌がある。しかし五老僧は、かな書きの御書を軽侮し、もったいなくも焼いたり、 漉す き返したりした。

すべて自分たちの虚栄からきた錯誤である。この歴史の事実を忘れてはならない。
 

どういう意味があるんやろなww

 投稿者:オウ  投稿日:2015年 7月 7日(火)01時11分10秒
返信・引用
  教学部レポートは、最初は怪文書やったなあーw

次に情報漏えいやったか?

ほんで、改竄、デッチ上げ。

そんつぎは隠居さんの創作とかな。

ほんで、最後はクジラさんがホンモノと認めてしもーたな。

その途端、ダンマリやww

これがどういう意味を持つかのおー。

とにかく教学部レポートを貶めたい輩たち。

その走狗となって騒ぎ立て、誤魔化し続けたw

クジラさんをうまーく利用したつもりやったもんなあーww

なんでもそうやけどな、誰が得するかや。

除名者っちゅう言葉で誤魔化されとるこの板の住人にはわからんやろうなあーww
 

ふうーのダンマリ坊や

 投稿者:オウ  投稿日:2015年 7月 7日(火)01時03分26秒
返信・引用
  下の宿坊板のパシリは置いといて(笑)

↑ああー、ここで、デッチ上げ文書やら改竄文書やら騒いどったガキどもかww

あんだけ騒いどったのにクジラさんが教学部レポートをホンモノだと認めてしまったとたん、ダンマリ坊やwww
 

新・人間革命。

 投稿者:普通の人  投稿日:2015年 7月 7日(火)00時55分48秒
返信・引用
  沖浦さんは、良くいいます。

直接会って、話しましょう。これも池田先生の指導ですね。

*人間は、目と目を見合わせ、腹を付き合わせて語らんと、本当のとこはわからんばい。

学会として、当たり前の指導ですが、必死で否定している方が、チラホラ。

知らないのでしょうか。


小説『新・人間革命』「薫風」 より

 班長の農島重勝は、組長になった中森富夫を連れて、唐津一帯を指導、弘教に歩いた。
 中森は、農島から学会活動の基本を、徹底して教えられた。

 「自分の組の同志には、必ず会うことが大事ばい。電話の連絡だけですまそうなんて考えたらいかん。もっとも、電話があるのは、あんたんところぐらいばってんね。

 人間は、目と目を見合わせ、腹を付き合わせて語らんと、本当のとこはわからんばい。本当のとこがわからんと、本当の激励も、指導もできん。生命ばい。生命の触れ合いがあっての、指導であり、折伏たい」

 農島は、仏法対話も実に上手であった。中森の場合は、一生懸命に話せば話すほど、仏法とは何かという、くどくどとした説明になってしまう。その話に、相手は納得しても、「うん、いい話を聞いた」というぐらいで、信心するとは言わない。農島の言葉を借りれば、「相手の生命に刺さっていない」のだ。

 その点、農島の話は、単純明快であった。
 「正しか暦ば信じるなら、生活は円滑ばい。ばってん、去年の暦ば正しいと信じて生活するなら、失敗ば繰り返すことになる。人間は、必ず信じる対象の影響ば受ける。
 宗教というんは、″おおもとの教え″ばい、生き方の根本たい。だけん、真実の教え通りに生きてこそ、幸せになれるとよ。その真実最高の教えが日蓮大聖人の仏法たい。

 実際、俺も、信心ばしてから、病気やら、幾つも悩みば乗り越えてきたとばい。今は金もなかし、ただの労働者ばってん、俺は必ず幸せになる。絶対になるっちゅう確信のあるけん。あんたも、一緒に信心せんね!」

 大確信をもって、こう語るのだ。すると、中森が仏法の話をしても、入会を渋っていた人が、信心するというのだ。

 中森は、″折伏は、単なる理屈ではない″ことを知った。農島は彼に言った。
 「中森さん、弘教を実らせるのは、まず第一に、絶対に、この人に幸せになってもらいたいという、相手を思う真心の唱題たい」

中略

 あんたも、師匠を見失わんごとせないかんばい。自分の心ん中に、いつ、いかなる時も、先生がおらんといかん!」
 農島は、中森が活動を開始して、四カ月後に、福岡県に転居することになった。その引っ越し前日の夜まで、彼は、中森を連れて弘教に歩いたのである。

 「俺の引っ越しのことなんか、心配せんでよか。俺んとこは、家財も、荷物もなんもなか。着の身着のままやけんね」

 中森は、自分を必死になって育てようとする農島の真心が、胸に染み渡る気がした。
 ″この誠意に応えるためにも、自分は、広宣流布の闘士になろう″と、彼は心に誓ったのだ。

 後輩を育てるために必要なのは、学歴でも、社会的な地位でも、学会の役職でもない。相手の成長を祈り願って、共に行動し、共に苦労しながら、実践のなかで信心を教えていく情熱と忍耐と誠実である。


モウさん。例えが、楽し過ぎますよ!
笑っちゃいました!最高ーです!!
 

仏と衆生が本?迹?

 投稿者:モウ  投稿日:2015年 7月 7日(火)00時24分51秒
返信・引用 編集済
  私はここでも、みんな、違うのにって思ってます。
なぜ、どうみてもモノを知らないほうの位置にいる私が、そんな風に思えるのか。
普通に考えて、経釈の意味する所も、御書の意味も、先生の指導も、
いろんな観点で述べられたことを、一緒にして論じようとするのは無理があります。

だから、○○が本だというのはおかしい!というのは変。○○が迹だというのも同様。
これらは、あらゆるものに約して、常にこうだとは言うものではないと思います。

日寛上人が人法体一を説いたからというのも同様。仏が迹で衆生が本だというのも、
諸法実相抄があるので、大聖人にその思想がないと全面的に排除はできないと思います。
そしてその意味は、突拍子もない内容でもなく、法華経の思想からきた衆生視点での、
「仏は誰のおかげで存在できるのか」という、常識的な見方の一つではないでしょうか。
常に衆生の側から見る姿勢は大切ですし、排斥すべきような視点でもないと思います。

火事になったとします。玄関を入って助けにいくと、廊下の右手の奥には御本尊の部屋が。
反対の左手側の奥には小さな子供たちのいる部屋があります。
さて、貴方は、どちらを助けに行くのでしょうか。どちらも貴方がたの自由です。
個人的な思い入れもあるかもしれません。
こんなとき、どちらも“人法が共に尊い”と説くだけだったら、大きな誤解を生じます。
宗教団体がそんな単一の言葉だけを振り回すことは避けるべきだと思います。

平等だと言ってるだけからよいだろうというわけにはいきません。
仮に御本尊が2か所で、子供が2人いて、助けに行ったのが私と阿部日ケ~ンさんの2人
だったら、どうするでしょうか。
阿部日ケ~ンさんもまさか、「平等だ。一人づつ別れて、両側の部屋に分かれて行こう」
とは言わないと思います。

私も二人で子供の部屋へと向わねばと思います。炎の中、何があるか分かりませんもの。
私が子供たちに向かって、「羊や鹿の車が外にあるから・・・」と語りかけてるうちに、
阿部日ケ~ンさんは「そんなことやってる場合と違うっ」と子供二人を両脇に抱えて走り
だすという見事な連係プレーで外に出られることでしょう。やはり二人いります。

法と衆生、どちらが尊いかなんて、よく分かりませんが、私はともかく心の中で
「ごめんなさい」とか言ってると思います。

そして、それもまた真理の一面だとしか言えません。

もし、これが子供たちではなく、取り残されたのが、「私」だったらどうでしょうか。
また反対側の部屋には、今まで誰も見ていない大聖人の真筆が置いてあって、未知の法
門が記されてあって、しかも他にもインドから発見されたばかりの法華経の原典がポン
と置かれてあったとかしたらどうでしょう。

みんなが全員、玄関に揃っていたら、私のほうに来てくれる人なんているのでしょうか。
目をつむると、みんなの声が聞こえるようです。

沖浦さん「すまない。やはり法が重かった。さすがにこれは仕方ないだろう。」
阿部日ケ~ンさん「気持ちはそっちだが、人類の宝を消失させるわけにいかない。」
クジラさん「2,3歩はそちらに向かったんだけど。モウさんはそれを望まないだろ。」
ノブノブさん「おまえは上から目線の人間だったから、自分でなんとかできるはずだ。」
オウさん「言うまでもないことだが、これが正しい選択だ。おまえが燃料となって
こっちに飛び火しないか、それだけが心配だ。」
大河さん「短いつきあいだった。残念だ。」

とか。う、うぅぅ。

※ ピンクが好きさん、会則変更で反対者の教学を聞いて、私は驚く点がありました。
私が馬鹿すぎてそう思うだけかもしれませんが、私なりにもいらぬ責任を感じています。
なので次は基礎教学をやりたいのです。どこかで連載させてもらおうと思ってたのですが
すでに数十頁を軽く超えたので、もう少し整理してそのうち誰もいない所にアップします。
また、登場人物の区別にメリハリが無い点、言われると気付くことが多く、
ご指摘いただいたこと、本当にありがとうございます。
 

先生の指導。

 投稿者:普通の人  投稿日:2015年 7月 7日(火)00時22分45秒
返信・引用
  沖浦さん、今晩は。
いつも、ご苦労様です。

↓下の宿坊板のパシリは置いといて(笑)

*難解な「理論」を表にして説くのではなく、分かりやすい「体験」を表として、妙法を人々に教えられた。

沖浦さんが、功徳の実証を語るというのは、池田先生の指導ですね。

学会として、当たり前の事です。当然ですよ。

これを否定している方が、先生を語るのも如何なものでしょうね~。


「法華経の智慧」譬喩品

池田 そう。社会のわずかな変化にも、その底流を鋭く見抜かねばならない。そして「悪の芽」はつみ、「善の芽」は伸ばすことです。どんな現象も、必ず意味があるし、必ず価値へと変えていけるのです。
次元は違うが、ゲーテは『ファウスト』の終わりで、「すべて移ろい行くものは、永遠なるものの比喩」(高橋義孝訳、グラフ社)であると言っています。

斉藤 私たちも、ともすると、現実生活を離れた理論のなかに仏法の深い真髄があるかのように錯覚しがちですが、足下の現実こそが仏法であるということを、法華経の譬喩は教えてくれていると思います。

池田 生活の上に現れる信心の実証は、妙法の功カを説明する「譬喩」です。現実生活の実証は、妙法の真理を雄弁に物語っているのです。四条金吾、池上兄弟など、大聖人の門下が苦難を乗り越えた実証の姿は、同じ問題に直面した私たちにとって大きな激励となっています。

大聖人は、心をあわせて迫害と戦った池上兄弟に対して「未来までの・ ものがたり物語 なに事か・これにすぎ候べき」と称賛されている。そのお言葉通り、今、兄弟の物語は世界で語りつがれている。

この原理は、私たちにとっても同じです。私たち一人一人の勝利の体験が、多くの人に勇気と希望を与える。すなわち、その体験は、妙法の力を表す譬喩となっているのです。人々が、その「一人の勝利のドラマ」を、さらに多くの人に語っていくこともできます。

牧口先生は、体験発表を中心とする座談会運動を創られた。

難解な「理論」を表にして説くのではなく、分かりやすい「体験」を表として、妙法を人々に教えられた。

個別の体験は普遍の妙法の「譬喩」です。体験中心の座談会は現代の「譬喩品」であり、現代の「七譬」であり、「無量の譬喩」です。

慈悲と智慧の結晶である「譬喩」法華経と同じ心に立って、創価学会は″布教革命″を巻き起こしたのです。

法華経の譬喩の心は、創価学会の六十五年の歴史の中に生きています。

私たちは、末法万年にわたって語りつがれるであろう「法華経の広宣流布」の物語を日々、馥郁と綴っているのです。
 

わかるかなあ~わかんね~だろ~なあ~

 投稿者:オウ  投稿日:2015年 7月 6日(月)23時41分6秒
返信・引用
  管理人さんも沖浦氏の論は、「大筋間違っていない」と、大河さんに仰いました。

↑なにげに大事なところやけどなあーw

クジラさんの判断基準がよー出とる。
まあー、宿坊板を歪んでしか見えんからわからんやろなあーww

ちゅうか、クジラさんの妄想に引っ張られて歪んでしか見ようとせんからしゃーないわな。

ただの幹部批判、組織批判やと思っときなはれww

ほんで教学部レポートはホンモノやった。
クジラさんがそこは認めとるからなあー。

ここで、デッチ上げ文書やら改竄文書やら騒いどったガキどもはどこ行ったんや?

このいくつにも重なっとる事実は何を意味しとるんやろなあーw

まあー、歪んだ眼には真実は見えへんやなww
 

エッセー風に

 投稿者:大河  投稿日:2015年 7月 6日(月)23時15分17秒
返信・引用
  あれは、2008年夏頃でしたか

突然、沖浦氏の掲示板のトップに
衆生己心の妙法は本・曼荼羅は迹

という、看板が掲げられました

なんだ?・・何だ?・・何か変だな
多くの方が「おかしい」「間違いだ」と声をあげました。

本迹といえば、それまで、法華経28品の「本門」「迹門」つまり五重の相対の
本迹相対
あるいは、発迹顕本という言葉くらいしか、ピーンとこなくて

百六箇抄は、本迹だらけだけど、難しくて難しくて

ところが、例えば書籍「法華経の智慧」とか「御書の世界」とか
先生がわかりやすく講義してくださっている中に
かなり「本迹」の例が出てくるんです。

沖浦さんが、その「己義」を、発表してくれたおかげで
先生の指導から随分と学ぶことができました。
そいうい点では、沖浦さんに感謝です。

ノブノブさんが、少し疲れてしまったようですが
沖浦さんの「考え」を変えようとすると、疲れますよ。

沖浦さんの考えを変えようとしないで
自分の学びに徹すれば、学んだだけ自分が得します。
 

Re: 沖浦様

 投稿者:大河  投稿日:2015年 7月 6日(月)23時07分0秒
返信・引用
  > No.2129[元記事へ]

ノブノブさんと沖浦さん




> 先生『百六箇抄講義』より。
>
> 『さて、原文では、妙法が自理倶勝の「本」であると訳されていますが、この「本」は、次の「日蓮並びに弟子檀那等は迹なり」の「迹」と相対されております。
> 日蓮大聖人は、法を弘める立場では、一往経文上の上行菩薩の姿をとられました。これは、久遠元初の自受用身、即日蓮大聖人の、示同凡夫としての外用の振る舞いであります。ゆえに、「迹」となるのであります。すなわち御本尊が「本」、御本尊と境智冥合してゆく凡夫が「迹」であります。しかし、大聖人の御内証は、あくまでも久遠の本仏であられる故に「本」なのであります。』(抜粋)


難しい難しい御書ですね、

御本仏日蓮大聖人のご生命の「本迹」なんでしょうね。

まぎれもなく、御本尊は、「本」以外にないですよね。
一応、示同凡夫であるから「迹」だけど、内証は「本」であり

ありがたいことに、並びに弟子檀那等と、おっしゃてくださっておりますから

私たちも、内在する仏界の生命を涌現できれば、「本」であると

いずれにしても、御本尊(絶対の法である南無妙法蓮華経)が「迹」に
該当するケースは、ありません・・ということですね。



 

Re: 大河さん、ブログみてます!!

 投稿者:大河  投稿日:2015年 7月 6日(月)22時59分15秒
返信・引用
  > No.2135[元記事へ]

ピンクが好きさん



> こんばんわー♪
>
> 土・日で本幹見てきましたー。いつもながら感動。
> 大阪大会ってすごかったんですね。ああいう映像で見ると、当時の熱気と関西の
> みんなの真剣さが伝わってきます。ただただ凄い...。
> 池田先生の「しばらくでございました。」にジーンときました。
>

ブログご覧いただいているとのこと、
ありがとうございます。

大阪大会、大感動でしたね、
貴重な映像を関西メンバーが作成してくれましたね。

今後もよろしくお願い申し上げます。
 

Re: 大河さん、今晩は

 投稿者:大河  投稿日:2015年 7月 6日(月)22時56分34秒
返信・引用
  > No.2125[元記事へ]

沖浦さん


>  全く答えになっていませんね。
>
>  貴方は曼荼羅と人間のどちらが本ですか?
>
>  この場合回答は3つしかございません。
>
>  ① 曼荼羅が本。


御本尊は、常に「本」です。
ただし、先ほど書いたように、御本尊の「相貌」の「本・迹」は
あるのですよ。

例えば、ありとあらゆる思想・哲学、宗教という「くくり」で
日蓮大聖人の御本尊つまり南無妙法蓮華経という「法」は
「本」であり、その他の一切の宗教は、「迹」であると・・先生の指導に実際にあります
今は、すぐに本を出してくる余裕はありませんが、
確実にありますので、出展は出せます。


 ② 人間が本。

ですから、私という人間、沖浦さんという人間
人間(衆生)の「本・迹」は、さきほどの、新・人間革命での先生の指導で
出したとおりです。


>  ③ わからない。

ちゃんとわかっていますよ。

 

Re: ノブノブさん

 投稿者:大河  投稿日:2015年 7月 6日(月)22時49分56秒
返信・引用
  > No.2131[元記事へ]

沖浦さん



>  いけないのは、日蓮正宗時代の先生の文言を引用し、現在の創価仏法を推し量る事です。
>
>  『日顕御法主上人猊下様に心服随従し奉り』(趣意)
>
>  このような指導は沢山ありましたが、それを現在の創価思想の当てはめることは無理なんです。



書籍「広布と人生を語る」(1)と(2)を、今手元において確認しています。
昭和56年頃の指導が中心です。
「正信会」の、反逆悪呂がうずまいていた時代です。

先生の指導で、「信伏随従」という言葉を使っているのは
日蓮大聖人と、絶対なる法である御本尊だけです。

当時は、とりわけ、「正信会」のこともあり
こういう指導はあります。
「御法主上人猊下に随順しない人は、どのような理由があるにせよもはや正宗の僧侶ではない・・」

あの当時は僧俗和合時代とはいえ

信伏随従は、日蓮大聖人と、御本尊に対してだけ

それにたいして、法主に対しては、随順

もし、法主に対して、信伏随従なる言葉を使った指導が「実在」すると主張するので
あれば、
その指導がされた会合名、年月日、場所を明示するべきでしょう。



>  貴方のような難癖のご質問は、法華講員の方の常の詰問でした。

法華講員が改ざんした指導で沖浦さん書いたのではないですか?



 

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