日本史がそれほど得意ではない人でも、日本人の9割はその名を知っているであろう聖徳太子。かつては紙幣にもその肖像画が使われていました。そんな有名人・聖徳太子ですが、実は存在しなかったという説があるのです。
その実在しなかったという根拠は何なのでしょうか。そして逆に今までの通説だった聖徳太子実在説の根拠を調べてみました。
聖徳太子のプロフィール
まずは、聖徳太子と言われている人についておさらいしてみたいと思います。
出生は574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)と言われています。厩(馬小屋)の前で生まれたので、厩戸皇子と名付けられました。
厩戸皇子の父は橘豊日皇子、母は穴穂部間人皇女と言われています。橘豊日皇子と穴穂部間人皇女の父親はともに欽明天皇で、厩戸皇子は異母兄弟婚でできた子どもとなります。また、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女の母はともに蘇我稲目の娘(小姉君、堅塩姫)であり、ふたりはいとこ同士ともいえます。(蘇我稲目が厩戸皇子の曽祖父)このことから、強い血縁関係によって生まれた子どもであるということが言えます。厩戸皇子の父、橘豊日皇子はのちの用明天皇です。
厩戸皇子は刀自古郎女、橘大郎女ら4人の妻を持ち、山背大兄王、財王、日置王ら8男6女の子息がいます。
1400年ほども前の人物のわりに出生年月日や出生秘話、父母の名前などがはっきりしているのも、聖徳太子がいかに重要な人物であるかということを物語っている気がしますね。
聖徳太子存在説
厩戸皇子(=聖徳太子)の名は現存する最古の正史、日本書紀に記されている。日本書紀には豊耳聡聖徳、豊耳聡法大王、法主王、東宮聖徳という名でも度々登場している。推古天皇の摂政として冠位十二階の制や十七条の憲法を制定したと記されている。
また最古の和歌集「万葉集」には上宮聖徳皇子作として、「家にあらば妹が手纏かむ草枕客に臥やせるこの旅人あはれ」などの歌が、「拾遺和歌集」には「しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし」という歌が聖徳太子作として残されています。
このように、いくつもの歴史書の中で、その名を残している聖徳太子なので、その存在は歴史書に裏付けられているのではないかと思う方もいるでしょう。
聖徳太子の経歴はほとんど間違い?!
厩戸皇子は実在するといわれていますが、厩戸皇子=聖徳太子ということは現在では疑問視されています。
まず、聖徳太子という呼称は生前にはなく、厩戸皇子が没した100年以上後に編纂された「懐風藻」に初めて聖徳太子と記されるようになったといいます。
次に、聖徳太子は推古天皇の摂政として、推古天皇の政治を助けたと知られていますが、その時代に摂政という官職はなかったとされています。
そして聖徳太子が制定したといわれる十七条の憲法はそもそもその聖徳太子の時代に作られたものかどうかも疑問視されています。十七条の憲法に書かれた役人の呼び方や内容に、その時代にはない考え方が記されているから、というのがその根拠です。
聖徳太子が記したといわれる「三経義書」も、その内容と全く同じものが中国の書にもあり、さらに後世の本の引用を使った部分もあると発見されました。ゆえに聖徳太子がこれを書いたのはおかしいといわれています。
このようなことから、今まで聖徳太子が行ったといわれたものもすべて間違っている、つまり聖徳太子は実在していないのではないかという説になるわけです。
ここまで全てを否定されると、本当に存在したのかどうか疑わしくなってきましたね。
聖徳太子は時の為政者のために作られた存在だった?
聖徳太子の存在は日本書紀でつくりあげられたとすると、その編者である藤原不比等が自分の都合のいいように書き上げたということになります。藤原不比等はその父で、藤原家の祖でもある藤原鎌足と中大兄皇子の存在をアピールしたかったのです。中大兄皇子はのちの天智天皇です。天皇の経歴に汚点があってはいけません。中大兄皇子と藤原鎌足が行った乙巳の変、大化の改新を正しいものだと皆に知らしめなくてはなりません。つまり乙巳の変で殺された蘇我氏(蘇我入鹿)が悪者だということに仕立て上げなくてはならないのです。そこで、聖徳太子という偉人を作り上げ、その息子である山背大兄王を自害に追いやった蘇我入鹿は滅ぼされても仕方のない人物だったのだということに仕立て上げたのです。