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【社会】

千葉「闇市に立つ少年」の写真 「それは私」…

70年前に写真を撮られた千葉銀座通りを歩く石井さん=千葉市中央区で

写真

 焼け跡の闇市にポツリと立つ軍服を着た少年。一九四五年、二度の空襲で焼け野原になった千葉市の中心街が復興の兆しを見せた写真として市史などに繰り返し登場する少年が、同市稲毛区の石井進さん(85)であることが分かった。四五年七月七日の空襲、戦後の混乱期を生き抜いた石井さんは、戦後七十年を迎え「二度と戦争を繰り返してはいけない」と平和の大切さを訴える。 (砂上麻子)

 千葉市は六月十日と七月七日、米軍による大規模な空襲を受け、中心市街地の約七割が焼け野原になった。死傷者は約千六百人、被災者は約四万人に上った。

 七月七日未明、石井さんが市内の自宅で床に就いていたら、空襲警報がけたたましく鳴った。一度解除され、うとうとしていた時に空襲が始まった。

 自宅の防空壕(ごう)に入ったが、一メートル掘れば地下水が出てくるため隠れるほど深くない。雨のように焼夷(しょうい)弾が降り注ぐ中、近くの神社へ逃げ、両親、弟と離ればなれになった。「あちこちで火の手が上がり、逃げるのに必死で家族のことも考えられなかった」

 夜が明け、家族を捜し始めたが、道路にはトタンをかぶせた死体があちらこちらに横たわっていた。親戚から父親が近くの豆腐店にいると聞き、何とか両親と弟に再会できた。自宅は跡形もなかった。

 写真は、千葉市が市制五十年(七一年)を記念して市史を編さんする際、市民から提供され、その後新聞などにも転載された。

 写真を見た石井さんの若いころを知る友人から連絡を受け、自分だと分かったが、公表はしなかった。

 昨年、千葉市で開催されていた千葉空襲と戦争のパネル展を訪れた際、写真が展示してあり、主催した市民団体の関係者に初めて打ち明けた。

 石井さんに写真を撮影された時の、はっきりとした記憶はないが、市の資料によれば、撮影は四六年秋ごろ。石井さんは当時十七歳、工業学校の四年生で、千葉駅(現東千葉駅)から間借りしていた知り合いの家に帰る途中、撮影場所の今の千葉銀座通り(中央区)付近をよく歩いていた。

 道ばたには魚や野菜を売る闇市が広がる。「空襲で焼け野原になった市内でもいち早く人の流れがもどっていた」と振り返る。軍服は軍から払い下げられたもの。制服代わりで「当時は、ポツダム宣言受諾を受けて、みんな『ポツダム服』と呼んでいたんだよ」と笑った。

 銀座通りには今、ビルが立ち並び、戦争の面影はない。石井さんは「戦争は仕掛けた方が負け。若い世代は戦争の悲惨な歴史を学んでほしい」と話した。

 

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