(ナレーション)相手の顔を浮かべながらひと文字ひと文字書き綴る手紙。
そこには届けたい思いがあるのだ。
スキージャンプ界のレジェンド…。
彼の選手生活を支えたのは亡くなった母が記した手紙。
また昭和の名優・渥美清は海外から母親に送った手紙にこう記した。
たった3文字でも母への愛優しさが詰まっていた。
この番組はそんな手紙が巻き起こしたさまざまな人間ドラマをご紹介。
昭和の大スター石原裕次郎美空ひばりが最愛の人へ宛てた手紙とは。
サッカー界のスーパースター三浦知良が記した手紙にはキングカズからは想像もつかない知られざる素顔が。
そして今から70年前の太平洋戦争のさなか激戦が続く硫黄島から届けられた幾通もの手紙。
それは死の直前まで互いを気遣い合った…。
命をつないだ手紙に記されていたものとは。
手紙に秘められた物語。
(八嶋)こんにちは八嶋智人です。
(川田)川田裕美です。
この番組は手紙が巻き起こしたリアルな人間ドラマを紹介する上質な大人の番組でございます。
そして番組の題材が「手紙」という事で今回は芸能界を代表する文章にゆかりのあるお二人にお越しいただきました。
まずは日本ミステリー界の女王山村美紗さんのご長女でいらっしゃいます女優・山村紅葉さんです。
よろしくお願いいたします。
さあそして…大先生本日はようこそいらっしゃいました。
やめてくださいやめてください。
大先生じゃないですから。
大先生よろしくお願いします。
(又吉)いちばん後輩ですから僕が。
文章の達人という事でございますから。
いやいや達人とかじゃないんですよほんとに。
大先生よろしくお願いします。
全てお伺いしたいと思います。
若手芸人として扱っていただけた方が気が楽というか。
それでは手紙が巻き起こした人間ドラマを見ていきましょう。
最初のテーマは「愛」でございます。
戦後の昭和において人々に夢を与えた二大スター…。
携帯電話やメールがなかった時代多忙な2人は最愛の人へ生きた言葉を手紙にしたため送り続けた。
妻への愛を手紙に綴った石原裕次郎。
息子への家族愛を手紙に記した美空ひばり。
そんな昭和二大スターの「愛の手紙」を紹介。
俳優・石原裕次郎は後の妻となる女優・北原三枝に宛てて仕事の合間を見つけては手紙を送り秘かに愛を育んでいた。
「マコちゃんおはよう!ハーイしばらく会わないと不安でなりません。
大好きなマコちゃん僕のマコちゃんサヨナラハーイ」。
世間からはタフガイボスと呼ばれていた裕次郎も手紙の中では心おきなく彼女に甘えありのままの自分をさらけ出し愛情を訴えかけていたのだ。
・雨潸々とこの世を去って26年がたった今もなお人々の心を魅了し続けている美空ひばり。
9歳のデビューから52歳でその生涯を閉じるまで昭和という激動の時代と共に生きてきたまさに伝説の歌姫。
1989年5月ひばりが亡くなるおよそ1ヵ月前彼女は最愛の息子・和也に一通の手紙を送っていた。
初めて自分だけのお母さんになってくれたっていう。
もう何かねその一文だけで俺一生この人のために生きていこうって決められちゃうぐらい僕にとってはうれしい手紙だったんですよね。
ひばりが…そこにはスター・美空ひばりと母・加藤和枝。
2つの顔の間で葛藤し続けた彼女の切なる願いが綴られていた。
皆さん今日はお疲れさま。
明日の公演も頑張りましょう。
乾杯!
(一同)乾杯。
和也最近学校はどう?ちょっと!久しぶりに会えたんだからママにお話聞かせてちょうだい。
この前学校でね…。
うん。
・ひばりさんお疲れさまでした。
今日のステージ最高でしたよ。
(ひばり)ありがとう。
みんなの頑張りあるからこそ…。
ひばりの弟・かとう哲也の息子として生まれた和也は生後間もなく両親が離婚。
7歳の時に養子縁組をしひばりの長男となったが親子とはいえスターゆえに一緒に過ごせるのは年に僅か数回ほどだった。
・ハッピーバースデートゥーユーそんなひばりが毎年必ずスケジュールを空けていたのが…。
年に1度の和也の誕生日。
それは和也が1年で最も楽しみにしていた1日だった。
要は家にそんなにいてあげられないっていうのが年に1回の僕の誕生日に全部凝縮してやろうっていう。
前の日も眠れずにですねただでさえ楽しみにしてたんですけど始まったらですね…。
仮面ライダーショー始まったんですよ。
最終的にはミラーマンがいてゴレンジャーがいて仮面ライダーがいて。
あれがいちばん忘れられない我が家の誕生日ですかね。
それにしてもやり過ぎですけどね。
そしてひばりは…。
会えない息子に少しでも母親らしい事をしなければと毎日洗面所にメッセージを置いていった。
更にメッセージの次には親子の交換日記もスタートさせた。
「母の一周忌も終るので」…。
自分がふだん家にいられない分日記をたくさん書けば息子が喜んでくれる。
そう思っていたのだが。
思い描いたような親子関係を築く事は簡単ではなかった。
母親と一緒にいたくても一緒にいる事ができない。
互いを思う事から生じる親子関係のゆがみから和也は学校でも有名な問題児に。
そんな息子に対してひばりは高校入学を祝いこんな手紙を送った。
そこには息子の新たな門出を祝う母親としての顔があった。
しかし…。
おい!おい!おい!調子こいてんじゃねぇ!高校生になると入学早々停学処分を受けるなど札つきのワルになっていた。
多忙の合間を縫って懸命に母として尽くすひばり。
てめえ俺のダチに何してんだよ!その優しさを素直に受け入れる事ができない和也。
このころになると2人の間で会話を交わす事すらなくなっていた。
しかし突っ張ってばかりいた和也の心境に大きな変化をもたらす出来事が。
公演先で体に激痛を感じたひばりは福岡の病院に緊急入院。
検査の結果…うちのおふくろがあんな大病するなんて夢にも思ってなかったんで。
本人がいちばんびっくりしたでしょうけど僕はもっと…。
ほんとにこの人不死身だって思ってましたからずっと。
子どもの時から。
一応ね僕も息子ですからもう理屈抜きにやっぱり心配にはなりますよね。
母の入院と息子の停学。
皮肉にも訪れた親子水入らずの時間が2人の間にあった親子の溝を少しずつ埋めていった。
しかしその裏で…。
来年完成予定の東京ドームで大人たちは美空ひばり完全復活のシナリオを動かし始めていたのだ。
おい。
あんたら寄ってたかってひとの親殺す気か!いくらひばりの息子とはいえ16歳の子ども。
大人たちが意見を聞き入れる事はなかった。
そして1988年ついにあの伝説が。
・「愛燦燦」病を感じさせず熱唱するひばり。
しかしその舞台裏は壮絶なものだった。
1988年4月ついにあの伝説が。
病を感じさせず熱唱するひばり。
訪れたおよそ5万人の観客の誰もが女王の完全復活を信じてやまなかった。
しかし現実は…。
ステージ裏で医師が待機するというひばりにとってまさに命懸けのステージだった。
・嬉しいものですね
(和也)俺にもおふくろの仕事手伝わさせてください。
あの日東京ドームを僕身内として見ててこれはいかんなって思ったんですよね。
僕自体の意見としてはドーム自体も反対だったですから。
お医者さんもやめた方がいいって言ってた公演をね身内としてはやっぱりしてほしくないわけですよね。
でステージ最後まで見終わって決めたんですよね。
自分が何か今とても…。
うちのおふくろのためにしてあげられる事ってないかなって。
やっぱり普通に思いましたねその時は。
こうして16歳で…その裏には母の切なる願いがあった。
今度横浜に大きな会場が出来るんだけどそのこけら落としをやらないかって話が来てるんだ。
体調がよくなったら2人でやろうよ。
代々母そして弟が務めてきた美空ひばりプロデューサーという役割を今度は息子が務める。
何とか…そう願うひばりは横浜アリーナのコンサートを誰よりも心待ちにしていた。
そして福岡から全国ツアーがスタート。
しかし病魔は容赦なくひばりの体をむしばんでいった。
(医師)ここは一旦中止に。
(和也)ここは素直に話を聞いてくれよ。
あんたがプロデュースする舞台で死ねたら本望だよ。
こうして治療に専念するため再入院を余儀なくされた。
どう?調子は。
おふくろもう歌わなくていいよ。
もう十分だ。
はあはあはあ。
「和也へ。
母の日忘れずにありがとう!!」。
息子が用意したステージ。
死ねたら本望。
自らを鼓舞してきた歌手美空ひばりがこれからは母・加藤和枝として息子のために生きるそう決意した手紙だった。
激動の時代を生きた昭和の歌姫は息子に手紙を手渡した1ヵ月後52歳でその生涯を閉じた。
(和也)歌と一緒に死ぬっていうような事を少し考え方変えてあなたと一緒に生きていきたいって今は切に思ってるっていう事を書いてくれてたんですよ。
もう何かねその一文だけで俺一生この人のために生きていこうって決められちゃうぐらい僕にとってはうれしい手紙だったんですよね。
初めて美空ひばりという人と自分の母親っていうのが分離した。
あっお母さんになってくれたっていうね。
僕にとってはほんと最高の宝物ですね。
あの最期の手紙っていうのは。
2人を本当の親子に引き戻したのはひばりが最期に送った手紙だった。
いかがですか。
(山村)やはり自分のものではないっていう母大スターを抱えてそう思ってらして最後に自分のものになって自分のプロデュースした舞台をね最後っていうのは感動ですね。
私は母は突然に死んでしまったので結局自分の母ではないって思いのままだったので今考えると何か欲しかった。
手紙とかで何か言ってくれたらうれしかったのになっていう気持ちがしてとっても羨ましいです。
皆さん親御さんからお手紙って又吉さんどうですか?
(又吉)たまに小包とか届く時に一緒に手紙入ってたりしますよね。
中に入ってる食べ物とか見たらわかるんですけど…。
ははははっ!やっぱずっと子どもなんですねお母さんからすると。
(又吉)僕もう大人やからわかるんですけど。
(笑い)
(又吉)やった事あるっていう。
お母さんの気遣いです。
でもまあ手紙っていったらねいろんなもんありますけどラブレターなんていうのね。
書きます?僕はでも書き始めると結構長文になるんですよ。
はははっ!
(又吉)舞台とか観に来てくださるお客様からこう手紙もらって返信用の封筒とか入ってたら返事書いたりするんすけど向こう5枚やのに僕…ええ〜っ!
(又吉)文通始まりそうじゃないですか。
ええっ?
(又吉)「重いなこいつ」と思ったんですかね。
そうですね1発のパンチが重いんでしょうね。
(山村)でも書けるっていうのも羨ましい。
私も書かなきゃいけないお返事いっぱいあるんです今。
(山村)物もらった時だけ…
(山村)これが…。
(又吉)またもらえるように。
季節のご挨拶が…。
そうなんですよ。
「今爽やかな風が」って書きかけたけど…ははははっ!
(又吉)考えだすと。
(山村)向こうはもう暑いんじゃないかなとか。
つい考えて考えて結局出さない。
「住所なくす」。
いやでも確かに思った時にさっと書いた方がいいっていうのは。
熟考しだすともうダメだなっていうか。
「甘くて美味しかった」っていうだけでもいいのかもしれない。
でも悩んでもうトマトまで行き着かない間に伝票なくなる…。
そうそう美味しかったんです。
さあ続いてのテーマは…。
思いの丈を文字に込めて届ける手紙。
そこには誰にも見せなかったありのままの素顔が見え隠れします。
立て役者となったのは当時ホークスのエースであった…。
この年2度目のMVPに輝き更に最優秀防御率と最多奪三振の2冠を獲得した。
(一同)わあ〜っ!よっしゃ〜!よっしゃ〜。
乾杯!しかしそんなファンの期待をよそに信じられないニュースが日本中を駆け巡った。
「工藤FAでジャイアンツ移籍か!?」。
工藤が退団を決意したというニュースだった。
ファンが思いついた…それは…。
工藤選手の残留にご署名お願いします。
一選手を残留させるためだけの異例の署名集めだった。
ありがとうございます!こうして集まった署名はなんと…ファンを大切にする事で知られていた工藤。
この思いを知れば必ず残ってくれると誰もが期待した。
しかし…。
工藤はジャイアンツへ移籍。
17万の思いは届かなかった。
時がたつにつれもう誰も…はぁ〜。
はぁ〜今日も疲れたわ。
ん?17万人の署名もむなしく…。
それから2年。
誰もがそんな事を忘れかけていたころ。
ん?ポストに入っていたのは工藤のサインが入ったメッセージ入りの手紙。
工藤から来ましたよこれ。
驚く事に宛名は手書き。
工藤自身が署名をしてくれたファン一人一人に宛てて送ったものだった。
「マウンドで投げる47の後にいつもあなたの声援があったことこの5年間に感謝を込めてありがとうございます」。
17万の署名に対する17万通のお礼の手紙。
工藤は時間を見つけては手紙を書き送っていたのだ。
1日100通書いても4年はかかる。
気の遠くなる作業だった。
ありがとう!更に当時の工藤はジャイアンツの一員。
自分を応援してくれるジャイアンツファンの事を思い…。
ファンもそんな工藤の思いを察し騒がないようにしていた。
そして…今回…僕も…。
とにかくそうやって…すごく僕にとって…。
まあその〜やっぱりあの時を忘れないじゃないんですけどそうやって…この手紙が今も工藤とファンの心をつないでいる。
Jリーグの誕生と共に…ピッチ上を華麗に舞いゴールを奪う。
その鮮やかなパフォーマンスは多くの人々を魅了した。
そんな彼を人はこう呼んだ。
(実況)これで試合終了。
ヴェルディ勝ちました!ブラジルの名門チームで活躍したのち日本のエースに。
…もカズだ。
そして48歳となった今も現役としてプレーを続けまさに生ける伝説となっている。
だがそんなカズが残した一通の手紙がある。
そこには…1967年静岡市に生まれた三浦知良。
物心付いた時にはサッカーボールと共にいた。
当時のカズは…毎日サッカーの事ばかり考えていた。
家に帰ればブラジルの名選手たちのプレー映像をひたすら見続ける。
しかし…三浦の進路希望は…。
ははっ。
もちろん本気ですよ。
ははははっ!そんな所で…はっはっはっはっ。
当時の日本はプロサッカーリーグもないサッカー不毛の時代。
実績のないカズが本場でプロになるなんてありえないと誰もがカズの夢をあざ笑った。
しかし…。
そして1982年12月20日15歳のカズは揺るぎない信念と覚悟を胸に1人日本を後にした。
プロチームの練習生として本場・ブラジルでサッカーを始めたカズ。
ようやく歩み始めた夢への第一歩。
その顔は…とそんな…そこに綴られていたのは…。
「自分はこれからブラジルでサッカーをやって行く自信がありません」。
「ブラジルの生活が嫌でにげ出したくても自分が来たくて来たブラジルです。
がまんするのがあたりまえだと自分もわかってます。
今息がつまってしょうがない。
考える事ばっかりだよ」。
「かあさんがいちばん信用でき相談にのってくれると思いこの手紙書きました。
誰にもこのことは話さないで下さい」。
母親にだけ弱音を吐く15歳の少年。
カズは毎日を…
(知良英語で)
(知良)Hey!Passpasspass!
(知良英語で)当時ブラジル人にとってのサッカーは貧しい生活から抜け出すための手段。
日本人というだけで差別を受けた。
15歳の少年の前に幾重にも立ちはだかる…。
ブラジルに渡り3年。
とその時。
カズの目に少年たちの姿はまぶしかった。
その原点は何よりもサッカーが好きだったから。
この時カズの中から迷いは消えた。
そしてついに…だが夢の舞台は…。
試合には出場できず…なかなか結果を出せず不遇の日々が続く。
そのころ…ブラジルでプロになるという夢をかなえたカズ。
しかしそれは…。
試合には出場できず…なかなか結果を出せず不遇の日々が続く。
そのころ…「1人でいる事に慣れると人間暗くなるよな。
考え過ぎたりしてね。
なんでこんな事まで考えなくちゃいけないのかな」。
綴られていたのは…だがそこに…「俺もいつか日ノ丸着けてワールドカップに出たいよね。
国のために戦うって言ったら最高に気持ちいいだろうね」。
「もっともっとBigになるぞ俺は…」。
プロになり3年。
カズに…カズの名がブラジル中に広まる出来事が起きたのだ。
右サイドから上がったセンタリングにカズが飛び込みヘディングでゴール。
格上チームへの劇的な勝利は全国に中継されカズはその力をブラジル中に認めさせたのだ。
更に…いつしかカズの愛称はブラジル全土へと広がっていった。
そして。
カズは夢に見た日の丸を背負っていた。
その裏には…。
キングカズ三浦知良さんですけど。
又吉さんサッカーをやってらっしゃる…。
(又吉)もうむちゃくちゃ影響受けました。
僕らの世代はみんなカズさんのドリブルとか見て技術をまねてやってましたから。
すごい意外なんですよ。
カズさんってむちゃくちゃ心が強いイメージがあるんで。
あのカズさんでもちょっと不安になって弱音を吐く瞬間があったんやっていうのでまた救われる人もおると思うんですよね。
僕もあっカズさんでもそうなんやって思うと何かこう頑張ろうっていう。
八嶋さんもありましたか?自分がやりたい事をきちんと書いてたりとか手紙に出したりとか。
あの〜中学3年生ぐらいの時からお芝居をやりたいと思ってて奈良の田舎の両親には理解がなかなかできない感じだったから東京に行きたいっていう事と…ていうような事はず〜っとにおわした手紙を書いたりしてましたね。
(山村)へえ〜。
へえ〜。
におわした手紙を。
芝居をやりたいとか言うと歌舞伎をやりたいのかぐらいの感じだったりするから。
「人より長く親のスネをかじらせていただきます」って。
(山村)ははははは。
(又吉)宣言したんですね。
それは宣言した事がございますね。
あとはやっぱり工藤さんの17万通書き続けたっていう。
どういうふうにお返しをしたらいいかっていうのをご家族に相談されたそうなんですけども。
その時に奥様から「じゃあ皆さんにお手紙お返事書いてみれば?」と。
「私たちも協力するから」と言われたそうで。
ご家族とご親戚とこう皆さんで協力されて皆さんに返したんだと。
ファンの方に手紙を返す。
いかがですか?いろんな手紙があって。
大体「すごい応援してます」っていう手紙なんですけど。
たまに「この間番組見てたら又吉さんの家の本棚が映ってて」…。
(笑い)随分フランクな。
(山村)え〜っそこ?
(又吉)それはちょっと返事できなかったんですけど。
どう書けばいいかわからなくて。
そうですね。
続いてのテーマは「命」でございます。
70年前太平洋戦争のさなか命を賭して書かれた手紙。
そこには家族の無償の愛そして生き続ける事への切なる願いが記されていました。
何十年何百年変わる事なくただ青く澄み渡る大空の下で私たちは今を生きる事ができている。
それは今から70年前の事。
この空の下で多くの悲劇が起きた。
小笠原諸島の南に浮かぶ小さな島・硫黄島。
太平洋戦争最大の激戦地とされたこの島で2万人の日本軍は1ヵ月にわたって死闘を繰り広げそして玉砕した。
ドーン!ドドドドドドドド…その激戦は…世界的に大きな反響を呼んだ。
神戸市に住む平川二朗さん。
父親を硫黄島の激戦で亡くした遺族の1人だ。
11年前に亡くなった母親の遺品を整理していた時にこんなものが見つかった。
(二朗さん)それから戦場…。
これは今まで誰にも語られる事のなかった…。
死の直前まで互いを気遣い合った…。
平川家の二男として生まれた二朗さん。
時は昭和19年。
日本は太平洋戦争の真っただ中にあった。
よしみんなそろったな。
実家が造り酒屋だった父の平川良雄は福岡県庁の職員として醸造技術の指導を行っていた時に母・なる子とお見合い結婚。
なる子の兄と共に会社を興し工場長として技術指導に当たっていた。
(なる子)はいみんな…よし。
(一同)いただきます。
よし食べよう。
平川家は二男三女。
いつもにぎやかな食卓だった。
はいはい。
よいしょ。
二朗もほら。
潤子。
また幼いころの二朗は兄と2人毎日夕方になると会社まで父を迎えに行くのが日課だった。
よ〜しじゃあ…
(良雄)いくぞ!戦時中のためつつましくも家族は手を取り合い日々を過ごしていた。
そんなある日。
はぁぁ…はぁっ…。
父・良雄の元に召集令状。
いわゆる赤紙が届けられた。
しかも出征まで丸1日しかないという異例の内容。
良雄は当時…兵士としては高齢に当たる。
良雄に赤紙が届くほど…良雄は僅か1日で身辺の整理を行うため作業に追われた。
家族の事は後回し。
子どもたちと言葉を交わす暇さえもなかった。
ザッザッザッザッ…
(足音)そこは敵に見つからぬようにと明かりはなく声をかける事も許されない空間。
それは兵士たちが相手への敬意を表す…母はまばたきもせずただじっとじっと見つめていた。
笑みを浮かべてるっていいますか……ように思います。
出征の日の心境を母・なる子は日記に綴っている。
「忘れようとしても忘れえられない今日の日。
令状を受けて26時間。
うれしくもあり感激の涙と言ってよいのか自分でもわからない」。
父親不在の事態。
母は子どもたちの前で不安や弱みを見せぬよう気丈に振る舞っていた。
家の中に漂うただならぬ雰囲気を二朗は子どもながらに感じていた。
福岡を出た父・良雄の部隊は硫黄島へ向けて出発。
そこで良雄を待っていたのは地獄のような生活だった。
父・良雄の部隊は硫黄島へ向けて出発。
そこで待っていたのは地獄のような生活だった。
周囲僅か22kmの絶海の島…太陽照りつける灼熱の島は雨以外に真水を手に入れるすべがなくその雨もほとんど降らない。
井戸を掘っても出るのは硫黄分の多い塩水のみ。
僅かに蓄えられた飲み水も汚染され将兵たちはチフスや下痢そして栄養失調で次々倒れていた。
そんな過酷を極める環境に多くの兵士たちが送られたのには理由があった。
日本本土へ攻め上ろうしていた米軍が狙いを定めたのが東京とサイパンの中間にある硫黄島だった。
この島を飛行場として利用すれば本土空襲を仕掛ける事が容易になる。
日本にしてみればここが落ちれば…そのため最高司令部である大本営は多くの兵士を派遣し硫黄島を死守せよと命じたのだ。
その重要拠点で指揮を執ったのが…。
後に名将とうたわれる栗林が取った作戦それは…。
島全体に地下トンネルを掘り海からの攻撃はその中でしのぐ。
そして敵上陸と同時に一挙に攻撃を仕掛け消耗戦に持ち込む。
戦いを長引かせ本土への侵攻を遅らせる事それがこの島の戦いの全てだった。
摂氏60度になる所もある高い地熱と地中から噴き出す硫黄ガス。
つるはしでは1日掘ってもせいぜい1mがやっと。
更に兵士たちを苦しめたのが慢性的な水不足。
はい。
1日に配給される飲み水は3人で水筒1本のみ。
硫黄島では水の1滴は血の1滴だったのだ。
7月にサイパン8月にテニアングアム島が陥落すると硫黄島の青い空を黒い影が行き交うようになった。
島は毎日昼夜を問わず空襲を受け命のせめぎ合いが続く。
それは母・なる子にとっても戦いの日々だった。
(なる子)「目をさませば気がかりな夢。
もしや傷つかれたのではあるまいかと起き上がる。
ねむれない。
なにとぞお変わりなき様に祈る」。
できる事は夫の無事を祈り続ける事。
なる子は毎日新聞に目を通しては硫黄島の記事がない事を確認し胸をなで下ろすという日々を送っていた。
同じ空の下遠く離れた夫婦の願いは生きて帰る事。
ただそれだけだった。
生きた心地のしない地獄の島で良雄にとって唯一の救いとなっていたのが家族からの手紙だった。
良雄も家族への思いを手紙にしたためた。
(良雄)「二朗さんへ。
大きな二つの目がギョロギョロオサラのように動いて小さくおすましして笑うのをオモヒダシマス」。
(なる子)「繁良さん二朗さん。
大変元気よく学校へ行ったり新聞を配達したりお使いをしたり」。
(良雄)「また自転車に上手に乗ったりしている事をお母様からの手紙で知らせてもらったのでお父様はうれしくてたまらない」。
厳しい環境にいながら良雄の手紙はいつも家族の事を気遣っていた。
(良雄)「昨夕写真を3枚受け取りました。
こうして写真を前に置いて手紙を書いていると戦場でない内地の家にいるかあるいは近い所に旅行でもしているような気がします。
みんなに接したような気がします」。
家族にとって手紙だけが互いの存在を感じる事ができるたった1つの絆だった。
(良雄)「この3日間に合計9通が到着しましたので気をよくしています。
羨望されています。
いずれも結構な便りばかりで喜びに堪えません。
戦友に見せて読み回ししています。
みんな褒めてくれます」。
いいですなぁ。
いいだろう。
更に良雄はこんな手紙を送ってきた事もあった。
当時の100円は家族を数ヵ月は養えるような高額。
厳しい環境にあっても良雄は周りの部下たちを思い行動していた事がうかがえる。
バーン!ドーン!そんな中戦況は日々悪化していった。
硫黄島は昼夜絶え間なく空襲と艦砲射撃にさらされるようになる。
日本軍は制海権を失い島を防衛する兵士たちの命をつなぐ物資や食糧を載せた船は次々と沈められた。
そして昭和20年2月6日大本営はある決断を下す。
硫黄島は戦う前に見捨てられたのだ。
その僅か10日後。
米軍の攻略部隊の大船団が硫黄島を包囲した。
米軍は空と海の両方から砲爆撃を開始。
そのすさまじさは島の形を変えるほどだったといわれている。
うわ〜ん。
(なる子)よしよしよしよし。
(なる子)「今晩は昌子がどんなにすかしても眠らない。
ご出征の晩も火の付くように泣いて眠らなかった。
新聞を見れば硫黄島へ艦砲射撃。
もしやもしやと眠れない。
何とぞ何とぞと祈り続けて夜を明かす」。
米軍はついに硫黄島上陸を開始。
当初は5日程度で島を攻略できると考えていた。
しかしそれは…パン!砂浜が米軍で埋め尽くされたその時。
この時を待ち構えていた日本軍は壕の中から攻撃を開始。
「一人十殺」を掲げ死力を尽くして戦い続けた。
・ドーン!・ダダダダダッ!・ドーン!予想外の日本軍の反撃に米軍は足止めされる。
しかし…。
くそ〜!最初こそ善戦したものの圧倒的な物量を誇る米軍に日本軍は次第に追い詰められていく。
良雄が守備に当たっていた摺鉢山は上陸4日後に陥落。
頂上には星条旗が掲げられた。
日本軍の兵力は半分以下火砲・弾薬の数は3分の1にまで減少。
地下壕は死体や負傷者のうめき声であふれる地獄絵図が広がっていた。
・うう…。
最初から負けが決まっていた戦い。
それでも日本軍の兵士たちは徹底抗戦を続けた。
それは米軍の侵攻を遅らせ本土で暮らす家族の命を守るためにほかならなかった。
(二朗さん)
(二朗さん)厳しい戦いを強いられる場所だったんです。
そこで…指揮官の3分の2が戦死していた3月4日良雄たちは斬り込み隊を組織し決死の攻撃を仕掛けた。
パン!パン!・ダダダダダッ!パン!パン!パン!パン!
(良雄)「今日迄の長い十五年間を回想してみますと少しも不快な味を残さない美しい絵巻物の様な気がします。
毎日子供たちと大変感謝して頂いた美味しかったご飯。
お茶好みの私の為に特にそなえてくれた夕食後のお茶。
子供たちと日課の様にした風呂場の合唱。
子供等を共に感激をこめて見守る日々。
おなかいっぱい毎日食べさせて貰った薯の美味しさ。
と次々とつきるを知らず湧いて出て何時どんな時でも心を愉しませ明るくしてくれます。
御機嫌よく皆様によろしく」。
ああ〜っ!!・パン!これが良雄からの最後の手紙だった。
うっうっううっ…。
うう…。
(なる子)「あまりの胸苦しさに今にも呼吸が止まりそう。
杖とも柱とも頼みし人に先立たれた時の気持ちは言い表せない。
結婚以来15年の短き生涯であった」。
3月16日血で血を洗う硫黄島作戦の終結が告げられた。
総指揮官の栗林も玉砕。
5日で終わると見られた戦いは36日間に及び日本軍の実に96%が戦死するという激戦だった。
良雄のなきがらは家には帰らなかった。
あるのは遺骨の入っていない骨つぼだけ。
あの日以来なる子は夜中でも玄関の鍵を開けて帰るべき人を待ち続けた。
そんな…良雄たちが懸命に守ろうとした硫黄島を米軍は本土空襲のための飛行場として利用し日本の大都市に襲いかかった。
なる子たちの住む福岡の空も赤く染まり町は一面焼け野原と化した。
焼き尽くされていた。
しかし…。
多くの人が命を落とす中でなる子たちは全員無事だった。
一体なぜ激しい空襲の中を生き延びる事ができたのか?それには……が関わっていた。
一体なぜ激しい空襲の中を生き延びる事ができたのか?それには……が関わっていた。
そこに描かれていたのは…。
大規模な本土空襲が行われる日が近いと考えていた良雄は手紙と共に詳細な防空壕の設計図をなる子に送っていた。
硫黄島で得た経験から良雄が設計した防空壕は頑丈で激しい空襲にも耐える事ができたのだ。
(なる子)良雄さん私たちは生きています。
良雄は死してなお家族の命を守る事ができたのだ。
そして福岡大空襲からおよそ2ヵ月。
なる子たちは疎開先で終戦を迎えた。
ミーンミンミンミンミン
(セミの鳴き声)愛する人も家も失った。
それでも家族の命は残った。
照りつける夏の太陽と痛いほど青い空の下に…。
(二朗さん)この…なる子は…99歳で亡くなるまで天寿を全うした。
病床で家族に支えられ手紙に残した言葉は…。
父と母が命を賭してつないだ5人の子どもたちの命は孫へ。
そして次の世代へと絶える事なくつながれていく。
生きていく。
生き続けていく。
それが硫黄島で命の1滴まで燃やして戦った人々が私たちに託した願いに違いない。
紅葉さんいかがですか?
(山村)いや何かう〜ん。
やっぱり語り継いでいかないともう知ってる人が現実にいなくなってきているからやっぱりこういう事って大事だなと思いました。
又吉さんどうですか?
(又吉)いやあの〜あれだけね激しい戦場ですごい怖かったと思うんですよね。
その中でも家族を思って手紙もすごい家族の事考えてる手紙ですよね。
で防空壕の設計図まで。
いや〜なかなかできる事じゃないですよね。
うん。
ずっとこう手紙を取っておいた奥様のなる子さんは子どもにもすぐには見せなかったそうなんですね。
その手紙を言わずに取っておいて息子さん皆さんはお母さんが亡くなったあとにそれを全部知る事になるんですけれども。
それがあるから我々もね今見る事ができるしお孫さんたちにも伝える事ができるっていうすごく実感がある。
何か教科書で習ったりするよりも強く心に残るのかなという気はいたしますね。
皆さんどうですか?手紙書きたくなったんじゃないですか?書きたくなりましたね。
僕も渥美清さんを見習って母親に「俺元気」って書きたいんですけど恐らく…ははは「ウソつけ!」。
八嶋智人さん出演の映画…。
是非ご覧ください。
2015/07/04(土) 15:00〜16:25
関西テレビ1
拝啓 ○○様[字]【手紙が巻き起こすリアル人間ドラマ▽美空ひばり最後の手紙】
昭和の歌姫・美空ひばり最後の手紙にあった言葉とは▽カズがブラジルから母親だけに送った秘密の手紙▽空襲から家族の命を救った知られざる“もう一つの硫黄島からの手紙”
詳細情報
番組内容
世の中を動かした手紙、運命を変えた手紙、愛する人への思いをのせた手紙など、メールやSNSが普及し書く機会が激減した“手紙”が巻き起こしたリアル人間ドラマを、再現ドラマやインタビューを交えご紹介します!この番組を見た後、きっとあなたも誰かに手紙を書いてみたくなるはず!
★愛する息子へ 美空ひばり最後の手紙
★“もうひとつの硫黄島からの手紙”が神戸に存在していた!初めて語られる感動の実話
番組内容2
★サッカー界のキング・三浦知良が母に送った秘密の手紙
★福岡ソフトバンクホークス監督・工藤公康がファンに送った直筆手紙 など
出演者
【MC】
八嶋智人
川田裕美
【ゲスト】
山村紅葉
又吉直樹(ピース)
ジャンル :
バラエティ – 旅バラエティ
バラエティ – トークバラエティ
バラエティ – その他
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
OriginalNetworkID:32724(0x7FD4)
TransportStreamID:32724(0x7FD4)
ServiceID:2080(0x0820)
EventID:30558(0x775E)