NHK高校講座 日本史「承久の乱と執権政治」 2015.07.03


歴史に対する憧れと深い知識を持ったアイドルの養成所。
それが日本史研究の殿堂高橋歴史女学館である。
高橋歴史女学館へようこそ。
館長の高橋です。
今回も日本の歴史を推理していこうと思うんですが…。
あれ?土保君は?何か校外学習に行ったらしいですよ。
ずる〜い。
私も行きたかった。
(2人)いいなあ。
どこ行ったんだろうね?ねっ。
ただいま〜。
ああ!楽しかった〜!お帰り。
ただいま。
どこ行ってたの?神奈川県の鎌倉市です。
とってもいい勉強になりました。
(込山)いいなあ。
なるほど。
今回は鎌倉時代の続きだからね。
楽しみですね〜。
では早速今回学ぶべき重要ポイントを見てみよう。
今回の時代は…源頼朝が築いた鎌倉幕府。
源氏に代わって実権を握っていったのは北条氏でした。
北条氏一族は一体どうやって政権を確立していったのでしょうか。
今回押さえるべき「三つの要」は…源氏から北条氏へ鎌倉幕府が確立していく過程を見ていきます。
源頼朝が開いた鎌倉幕府。
今回はそれがどうなっていったのかを学んでいきますよ。
あっ!武士が作った政権でしたよね。
そのとおりです。
よく覚えていますね。
ではちょっと問題出してみますよ。
いいですか?源頼朝が開いた鎌倉幕府ですが源氏の将軍はその後何代ぐらい続いたと思いますでしょうか。
どのくらいだったと思います?ちなみに鎌倉時代というのはおよそ150年ぐらい続きました。
150年だったら十五代。
150年で十五代。
という事は1代10年。
そうですね。
1人10年ぐらいかな。
そうですか。
では正解を見てみましょう。
こちら。
なんと源氏の将軍は僅か三代しか続かなかったんだね。
へえ〜。
どうして三代しか続かなかったんですか?はい館長!その事について私が調べてきました。
幕府が誕生した頃の鎌倉の歴史についてご覧下さい。
頼朝が開いた鎌倉幕府。
そもそも頼朝はなぜ鎌倉を選んだのでしょうか。
それを調べるために土保さんは本郷先生と鎌倉へやって来ました。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
まず何と言っても鎌倉の立地。
地政学的な様子をまず見ましょう。
こっちが海ですね。
周りがずっと山っていうより崖かな。
こんな感じなんです。
だから敵に攻められにくい。
絵にしてみたのがこれです。
三方が山一方が海。
そんな感じなんです。
自然に守られているんですね。
そうなんですよ。
海と山に守られた鎌倉。
自然の地形を利用したさまざまな工夫がされています。
続いて2人がやって来たのは鎌倉郊外の山の中。
三方が山一方が海って話しましたね。
はい。
その三方の山に結局こういう何て言うかな…道とも言えないような道を造るんですよ。
でこういう所を通らないと鎌倉に入れないようになってるんですね。
へえ〜。
よいしょ。
ここなんか岩場が削れてるのがよく分かりますでしょ?こういう感じで岩を切るんですね。
例えばですけどこうやって進んできてあそこら辺に例えば弓矢を構えた武士がいて狙い撃ちにされたら防ぎようがないですね。
この岩っていうのは削った時に落ちてしまった岩がそのまま残ってしまった…。
そういうのもあるでしょうね。
これなんかそうだと思いますよ。
すっごい邪魔ですよね。
自然の妨害になるんじゃないですか?幕府はこのようにして城塞都市鎌倉を築いたのです。
続いてやって来たのが…京都の町って京都御所が中心になって作られてる。
それに比べると鎌倉ってのは鎌倉の鶴岡八幡宮を中心にして作られてるんです。
へえ〜。
そういう違いがあるんですね。
鎌倉幕府を開いた源頼朝ですが1199年52歳で急死します。
頼朝の跡を継いで将軍になったのは息子の頼家でした。
しかし頼家は自分の側近ばかりを重んじるなど独裁的な政治を行い御家人の信望を得る事ができずやがて暗殺されてしまいます。
三代将軍となった実朝も1219年に鶴岡八幡宮でおいの公暁によって暗殺されてしまいます。
こうして頼朝から僅か三代27年で源氏の将軍家は断絶してしまいます。
ちょっとむごい話ですけどね。
残酷ですねちょっと。
でもやっぱり権力ってそうなんですよ。
実際のところ公暁は1人でそんな事できないよねって話で。
そうなると公暁の背後にいたのは一体誰だったんだ。
一番怪しいのは北条氏ですよね。
源氏の将軍が三代で終わった背景には非常に複雑な権力争いがあったようですね。
このあと鎌倉幕府は京都から連れてきた貴族などを将軍に据えていきます。
(3人)へえ〜。
土保君鎌倉に実際に行ってみてどうでした?鎌倉時代に出来たものが今でも残っていたりとか実際に行く事によって見方も変わるしすごいいろんな事を学べていろんなとこにも行けたしすごい楽しくお勉強できました。
(向井地込山)いいなあ〜。
さて源氏なきあとの鎌倉幕府は存亡の危機に直面します。
その様子を見てみよう。
「三つの要」その一。
源氏に代わって鎌倉幕府を支えたのは…尼将軍とも呼ばれた政子は父北条時政弟義時と共に鎌倉幕府の実権を握っていきます。
一方でこのころ京都で政治を担っていたのは…後鳥羽上皇は実朝とは良好な関係を保っていました。
しかし実朝が暗殺されると義時を中心に勢力を拡大する北条氏一族と対立を深めていきます。
1221年後鳥羽上皇は全国の武士に「北条義時を討て」という命令を出しました。
後鳥羽上皇の命令に対し全国の武士たちが応じました。
その知らせを受けた鎌倉幕府の…その時北条政子は御家人たちに切々と訴えました。
「頼朝公が関東に幕府を創立して以来皆の官位は高く収入は大きくなりました。
その御恩は山よりも高く海よりも深いものです。
今こそ朝廷の中の悪い家臣を討ち取り…」政子の言葉に御家人たちは奮い立ちました。
その数は総勢19万にも及んだといわれています。
朝廷側をはるかに超えた数の武士たち。
承久の乱は僅か1か月で幕府側の勝利に終わったのです。
館長。
僅か1か月で戦いが終わったんですね。
そうですね。
多くの兵士が幕府側について兵力に大きな差があったからなんでしょうね。
ところで朝廷軍を撃破した鎌倉幕府は朝廷の様子を監視するためもありましてこの六波羅探題という機関を設けました。
六波羅探題は西国の御家人たちを統括する機関でもあるんです。
こうして鎌倉幕府は京都をはじめとする西日本に大きな影響力を強めていったんですね。
でも館長政子さんたち北条氏一族は将軍ではなかったんでしょ?一体どうやって権力を保っていったんですか?いいところに気が付きましたね。
そうなんですよ。
将軍ではないのに北条氏は鎌倉幕府を支配していたんですね。
どうやっていたんでしょうか。
改めてその仕組みを学んでいきましょう。
「三つの要」その二。
三代将軍源実朝が将軍の座に就いた時実朝はまだ12歳でした。
その幼い実朝を補佐したのが北条時政です。
時政は政治の実権を掌握するため将軍を補佐する職執権と呼ばれる地位に就きました。
執権の地位はやがて時政の息子の義時に更にその息子の泰時へ。
こうして執権の地位は代々北条氏一族が受け継いでいく事になります。
その中でも北条泰時が執権政治を強固にしていきます。
泰時は御家人や豪族たちをまとめるため執権を補佐する役職連署を新たに設置し泰時の叔父の北条時房を任命。
以後連署も北条氏一族が担っていきます。
更に泰時は御家人たちの中から11人を選び幕府の政治に参加させました。
彼らに評定衆と呼ばれる役職を与え執権連署と共に話し合いによって政治の決定と裁判の判決を行いました。
1232年泰時は鎌倉幕府の基本的な法律を定めました。
「御成敗式目」と呼ばれるこの法律は殺人や文書の偽造の罪財産の相続の事などが定められています。
この法律は次第に日本全国で用いられるようになりその後戦国時代にも大きな影響を与えていきました。
北条氏一族は制度を整える事によって執権政治を確立していったのです。
館長。
執権政治って前に習った藤原氏の摂関政治と少し似てますね。
そうです。
いいとこに気が付きましたね。
摂関政治これはですね天皇を補佐する事によって政治の実権を握りますね。
執権政治というのは将軍を補佐する事によって政治の実権を握っていったんですね。
(3人)へえ〜。
それでは更に鎌倉幕府の仕組みを見ていこう。
「三つの要」その三。
平安時代貴族などが所有した荘園。
もともと荘園には土地の領主から派遣された荘官と呼ばれる荘園の管理者がいました。
荘官は荘園を管理し年貢を土地の所有者に送っていました。
鎌倉時代になると幕府は御家人たちを地頭に任命し荘園の管理や税の徴収を行う役割を担わせます。
つまり同じ荘園で貴族たち朝廷側の管理者である荘官と幕府側から派遣された管理者の地頭が同時に存在するようになったのです。
地頭たちは鎌倉幕府の力が強くなるとともに次第に荘園での支配や権益を拡大しようとし荘園を侵略していきます。
取り立てた年貢を荘園の領主に送らずに着服したり決められた以上の税や労働力を農民たちに強制したりしました。
これは紀伊国現在の和歌山県の農民たちが荘園領主に宛てて訴えたものです。
中には地頭が農民たちを脅して取り立てを強制する様子が書かれています。
「地頭たちからお前らがこの畑に麦をまかないのなら妻子たちを閉じ込め耳を切り鼻をそぎ髪を切って尼のようにするぞとひどく責められます」。
こうした地頭たちによる横暴は日本各地で見られました。
また地頭が実力で荘園全部を支配してしまうのを防ぐため荘園を分割して片方を地頭に任せ互いに干渉せずに土地と農民とを支配する契約下地中分などによって紛争を解決する荘園領主もいました。
これは現在の鳥取県にあった荘園の下地中分図です。
地図上の赤い線を境に地頭と領家つまり荘園の領主との間で土地を分割している様子がよく分かります。
しかし地頭たちは力を強めていき荘園の支配は次第に地頭たちの手に移っていきます。
「泣く子と地頭には勝てない」という言葉があるんですよ。
そのぐらい地頭たちはどんどん力を持っていったんですね。
地頭たち怖いですね。
館長みたいに優しい人だったらよかったのに。
ありがとうございます。
でも優しい人じゃ土地を誰かに奪われちゃうかも。
そういう意味ではこの時代人に優しくする事が難しい時代だったのかもしれませんね。
本郷先生。
土保君を鎌倉に連れていって頂きまして本当にありがとうございました。
いえいえ。
本当に僕の方もとっても楽しかったんですよね土保さんね。
館長。
本郷先生にはこんな所も連れていって頂いたんですよ。
え?どこですかねえ。
鎌倉といえば大仏様ですよね。
私鎌倉の大仏様を初めて見たんですけど大きさに本当にびっくりしました。
(向井地込山)おっきい。
すごい。
今も残っている中では一番古い大仏なんですよ。
鎌倉幕府の力の大きさを象徴していますね。
こちらは鎌倉の海岸にある和賀江島です。
鎌倉の海は遠浅のため材木などの荷物を船から運ぶために造られた船着き場なんです。
(向井地込山高橋)へえ〜。
(本郷)人工なんですね。
そうなんですね。
鎌倉時代はとてもにぎわっていて材木座の名前の由来になったそうです。
そうなんだ。
(本郷)遠浅なんで船があそこに着いて木なんかを陸地に揚げるんです。
そういう事ですね。
はあ〜。
行ってみないと分からないですよね。
僕はやっぱり歴史っていうのは知的な冒険だと思ってますので行ってなんぼなんですね。
なるほど。
こういうところで学ぶ事って…。
現地に行ってみるとまた違うものを感じますよね。
歴史面白いですね。
面白いですね。
(一同)ありがとうございました。
土保さんまた鎌倉行こうね。
行きましょう。
私も〜。
みんな行きたい。
次は京都でもいいかもしれないですね。
京都だ鎌倉だ…。
いいなあ俺も行こう。
鎌倉幕府軍が勝利を収め以後幕府の力は強固になっていった。
執権である…北条氏は…2015/07/03(金) 14:00〜14:20
NHKEテレ1大阪
NHK高校講座 日本史「承久の乱と執権政治」[字]

日本の今は、誰が、どのように作り上げたのか? 日本史研究の殿堂、高橋歴史女学館がその謎に迫る。出演:高橋英樹・AKB48(向井地美音、土保瑞希、込山榛香)

詳細情報
番組内容
今回の時代は鎌倉時代の初期。源頼朝が開いた鎌倉幕府では、わずか三代で源氏の将軍が途絶えてしまう。そこで台頭するのが北条氏である。北条氏は一体どのようにして幕府の実権を握ったのだろうか? また、北条氏打倒を目指して朝廷は承久の乱を起こすが、この乱は幕府軍の圧勝で幕を閉じる。乱はその後の社会にどんな影響を与えたのだろうか? 武家政権が危機を乗り越えて確立していく過程を見つめる。
出演者
【司会】高橋英樹,【出演】土保瑞希,向井地美音,込山榛香,【講師】東京大学史学編纂所教授…本郷和人,【語り】杉村理加

ジャンル :
趣味/教育 – 中学生・高校生
趣味/教育 – 大学生・受験
趣味/教育 – 生涯教育・資格

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サンプリングレート : 48kHz

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