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15 「創造社」に参加 「人間の条件」思い出の作品に


児童劇団・若草とクラウンレコード「ぱんだ」録音
 大島渚さんが同人組織「創造社」を創立したのは、昭和33年だった。
 田村孟さん、石堂叔朗さん、佐々木守さん、戸浦六宏さん、小山明子さんといった映画監督や脚本家、俳優が参加したが、大島さんは私にも声をかけて下さった。マネージメントは大島さんの妹の瑛子さん。私は、こんな素晴らしい仲間に入れてもらって本当にうれしかった。
 早速活動を開始。大島さんと共に道を歩き始めた。
 ある雨の日だった。地下鉄に飛び乗ったところ、傘を扉に挟んでしまった。押したり引いたりしてみたが、傘はとても抜けそうになかった。ところが私のそんな行動をじっと見ている女性に気が付いた。とても美しく、私は恥ずかしくなって傘などもうどうでもよく、次の駅で降りた。それから二、三日して青山のアパートのドアをこんこんと誰かがたたく音がした。ドアを開けると、
 「あのう…」
 なんと地下鉄で会った女性が立っているのである。
 「傘を届けに来ましたわ」
 「どうしてこれが僕のものとわかったのですか」
 「ここに住所と名前が書いたネームカードがついていますわ」
 これは夢だと思ったが、現実だった。
 彼女の名前は前田昌子といった。彼女は昭和30年度のミス千葉で、それは美しい人だった。私たちはたちまち恋仲となり、結婚した。私は32歳、彼女は22歳だった。
  創造社に参加してからは映画の仕事が多くなったが、給料はそれほどもらえるわけではなく、相変わらずくず屋のアルバイトをしたり、出版社のアルバイトをした。妻の昌子はナイトクラブ「客人」という店をやって、お互いに助け合いながら暮らした。
 私がアルバイトに出ている間、大島さんがアパートに訪ねてきた。
 「小松さん、いる?」
 「留守です」
 「それじゃ、伝えておいて。松竹で映画をやるらしいんだ。ぜひ小林和樹監督に会ってほしいとね、言っておいて」
 私が帰ると妻は大島さんの言葉を伝えた。すぐに小林さんのところへ。
 「今度、五味川純平原作の『人間の条件』という映画を撮る。君にもぜひ出演してほしいんだ」ということだった。
 主役は仲代達矢さんと新珠三千代さん。映画は一年がかりで制作され、思い出深い作品となった。
 テレビでも加藤剛さんが主役となって放映され、この時も私は話をもらって出演した。足尾銅山へロケに言ったが、加藤さんの人気はすごかった。ロケ現場の近くに病院があったが、私は看護婦さんたちに付け文を頼まれたり、加藤さんと共に茶話会に招かれたりして、とても気分がよかった。しかし、看護婦さんたちの視線は加藤さんばかりに向いて、ちょっとショックだった。
 その後映画の仕事も増え、住居も青山のアパートから四ツ谷のアパートに引っ越し、少しずつ貯金もできるようになった。
 妻には弟がおり、日体大を出てなかなかの好青年だった。私は彼に東映のニューフェースに応募してみてはどうかとすすめた。彼もその気になって応募、採用されたのである。彼は「千葉真一」の名でデビュー。たちまち人気者となり、映画にテレビに引っ張りだことなって活躍した。私も彼にすすめた甲斐があったと、うれしく思った。