目次|次ページ9 軍隊生活 前夜に広島をたち原爆逃れる
半年の予定だった新兵教育を3カ月で終えたあと、私は海軍経理学校へ行くことになった。それはどうやら私が中学を出ていたこともあったらしい。 浜松の経理学校を出てから、最初の赴任地は山口県の瀬戸内海に浮かぶ大島の久賀町。海軍兵学校の岩国分校の分教場であった。 女性の理事生(事務員)もいたが、ほとんど口はきけなかった。必要なことも話せず、少しでも口をきこうものなら上官から罰を受けた。 「ふんどし一枚で廊下の雑巾がけをやれ!」 何と女性の理事生の前でやれというのである。もし拒否すれば、それ以上の罰則が待っているのである。 私は何かの罰でやらされた。 「とろいぞ、とろいぞ」 私が恥ずかしそうにしていると、上官はそう言った。仕方なく私はむき出しになった尻をたたかれながら、必死に雑巾がけをした。 ある日曜日の午後だった。突然、音もなくロケット弾が分教場に落ち、爆発した。とっさに私は目と耳を押さえて防空壕に飛び込んだ。が、耳を押さえそこね、鼓膜が破れたのか、キーンと耳鳴りのような音がしてパタッと何も聞こえなくなった。治療を受けたものの以来難聴である。 忘れもしない昭和20年8月4日のことだった。命令が下った。 「明後日までに東京の海軍警備隊に入るように」というのだ。 東京は空襲が多く危険な地帯への赴任だったが、なぜか私の周りは皆、東京へあこがれており、うらやましがられた。 私は同年兵の吉田一等兵と上京することになった。大島を出て呉に寄り、いったん広島に立ち寄って東京へ向かうことになった。 「ちょっと待ってくれ、小松。実は明日、この広島に許嫁を呼んであるんだ。どうだ、付き合ってくれないか」 「何を言ってるんだ。一刻も早く東京へ着かないと怒られるぞ。行けるところまで行って、それから休もう、いいな」 残りたがる吉田をせきたてて、私たちは8月5日午後11時発の最終の夜行列車に乗った。 列車は窓という窓が暗幕でふさがれ、その上、超満員だった。一般の客は防空頭巾をかぶり、男たちはゲートルを巻き、女はモンペをはいて何かを恐れるようにして眠っていた。異様な静けさの中で社内放送が流れたのはそれから間もなくだった。 「湘南地方がB29の空襲で通れなくなりました。しばらくお待ち下さい」 私たちはいつ再出発できるか当てもなく、とにかく最寄りの静岡県掛川駅の待合室へ入った。 ほどなくしてラジオ放送の声が飛び込んできた。 「きょう8月6日午前8時17分、米軍機により広島に新型爆弾が落とされ、被害はまことに甚大です…」 新型爆弾って何だろうと、待合室はどよめいた。 |