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8 海兵団に入隊 厳しい訓練 結核も自然治癒


ゴーゴリの「検察官」に出演(27歳)
 「満州」と聞いただけで、多くの日本人があこがれた時代であった。大陸には限りない夢があり、一旗も二旗もあげられるのではないかと多くの人たちが思った。今から思えば馬鹿な話ではあるが…。
 私も中学を卒業すると行ってみたいと思った。満蒙開拓団などがあったが、私は満鉄の技術員養成所を希望した。とはいえ、志望者が多く、確実に入るには人があまり行かないような科を受けることにした。信号科である。予想どおり志願者は少なく、私は合格した。正式に言うと、大連鉄道技術員養成所信号科である。
 昭和19年4月、通信科、土木科はそれぞれ300人、信号科は15人が入所した。
 “東より光は来たる/光を乗せて/永遠の土に…略”
 養成所では毎朝、この満鉄の社歌を歌った。満州は広々として解放感があり、私はやはり来て良かったと思った。しかし、寒さは並大抵のものではなかった。
 養成所へ行きながら、私たちは「満州信号」という会社へ学徒動員で働きに行った。信号機の仕上げ工としてやすりや旋盤を操作し、少しでも生活のたしにしようと稼ぐためでもあった。
 そのころ日本は、太平洋戦争の戦局が著しく悪化、事態は深刻になるばかりだった。私も徴兵検査の適齢期を迎えていたので、いつ戦地へ行くことになるか、正直不安だった。
 ある日、どうも体がだるく、微熱もあり、風邪を引いたようだった。医者へ行くと「結核です」とつぶやくような口調で言われた。世間ではちょうど結核がまん延しており、私はそれほど驚かなかった。が、養成所は辞めざるを得なかった。
 これからどうしようと思ったが、さりとて療養するお金もなく、仕方ないので毎日をぶらぶらして過ごした。
 日本に帰りたいと思ったが、状況から判断してとても帰れる状況になかった。
 「兵隊に志願すれば帰れるぞ…」
 だれかが教えてくれたが、結核の身で兵隊検査に通るはずはないと思った。しかし、やるだけやって、駄目ならもともとだ…とにかく海軍へ志願してみた。@改行 何と合格したのである。昭和20年2月のことだった。早速日本へ…。広島県大竹海兵団に入隊した。毎日訓練を受けているうちに、いつの間にか体のだるさや微熱は消えてしまった。結核は果たしてどこへ行ってしまったのやら…。海軍での緊張の連続は病気をも治してしまうものらしい。
 私はのろまで慌て者だった。私たちは“起床ラッパ”で起こされるのだが、いつもだれかが遅れたり、どじを踏んで班の30名は全員そのたびにバットで殴られた。
 昼間はカッターボートの練習だ。12人でオールを漕ぐのだが、これが実に大変だった。12人の勢いがいつも同じとは限らず、だれかが遅れる。すると艇長が爪棹(つめざお)で私たちを殴るのだ。
 ある寒い日、オールを漕のに冷たくて内緒で手袋をしていたところ、
 「おい、小松、手袋を出せ」と、班長に言われた。
 「いえ、ありません」
 私はとっさにかぶっていた帽子の中に隠した。が、班長はバシッと私の頭を殴った。その拍子に帽子が飛び、手袋がとび出した。
 「貴様、来い!」
 私は寒中の海に放り投げられた。ドブン!!私はこれで一巻の終わりだと思った。