2015年NHK大河ドラマ『花燃ゆ』で高良健吾演じる高杉晋作。
これ本当なの?と思わずにいられないエピソードが満載です。
【前編】の続きです。
晋作が投獄中にフルボッコにされる長州藩
晋作が脱藩の罪で投獄されている間に、長州藩は最大の危機を迎えます。
どれだけフルボッコにされたのか時系列で辿っていきましょう。
文久3年(1863年)8月18日
『八月十八日の政変』で長州藩は京都を追放される(【前編】参照)。
元治元年(1864年)7月8日
『池田屋事件』で松下村塾四天王の吉田稔麿死去。
旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。
元治元年(1864年)7月19日
『禁門の変』で松下村塾四天王の久坂玄瑞、入江久一が死去。
前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。
元治元年(1864年)7月23日
『禁門の変』の責任を問うために、『第一次長州征討』の勅命が発せられる。
幕府は毛利敬親と定広の親子(以下、藩主親子と記す)に禁門の変を起こした責任を問い伏罪をさせるため、尾張越前および西国諸藩より征長軍を編成した。
元治元年(1864年)8月5日
幕府が攻めてくるのは時間の問題という状況の中、昨年(1863年)に長州藩が実行した外国船への砲撃(【前編】参照)に対して、懲罰攻撃すべきだ、ということで、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4ヶ国連合艦隊に攻められ長州藩は、このままでは惨敗するという状況になりました。
特に1864年7月から8月にかけて状況、悲惨過ぎますよね。
そんな状況のなか、長州藩はあの男に託します。
魔王の如く
長州藩は、獄舎から出て自宅謹慎中だった松下村塾四天王唯一の生き残りである若干24歳の晋作を呼びつけ、連合国との講和の全権を任せます。
晋作の身分では講和使節の使者としては不相応、ということで家老の養子宍戸刑部という架空の人物を名乗ります。
そして、通訳として晋作の永遠の子分でイギリス留学経験のある伊藤俊輔(後の伊藤博文)を引き連れます。
中央:高杉晋作
右:伊藤俊輔(伊藤博文)
相手の司令官との談判にのぞんだ晋作の態度に連合国は唖然とします。
その場にいたイギリスの外交官アーネスト・サトウは晋作の事を『負けたくせに悪魔(ルシフェル)のように傲然としていた』といった内容を著書に書いています。
- 作者: アーネストサトウ,Ernest Mason Satow,坂田精一
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連合国側が要求した条件のうち、晋作は以下2点をきっぱりと拒否します。
賠償金300万ドル
晋作は、攘夷行動(外国人の撃退)は、『朝廷からの攘夷願いを受けた幕府の指示なんだから幕府に請求してね』と長州藩への賠償金請求を退けます。
※幕府は当時の社会情勢から攘夷願いを無視できず、形式的に攘夷命令を各藩に下しますが、長州藩は実際に攘夷行動をしてしまいました。
結局幕府は半分の150万ドルを支払い、残りは明治新政権が支払いました。
『彦島』の租借
長州藩領の『彦島』を香港のように貸してくれ、と要求された晋作は、なんと『古事記』の講釈を始めます。
日本がどのように創られたのか、という話を延々とするのです。
連合国側はもちろん、通訳の伊藤俊輔も高杉晋作は気が狂った、と思うわけですが、これはもちろん晋作なりの作戦。
交渉をうやむやにし、結果的に『彦島』の租借を諦めさせました。
もちろん、その他の諸条件(外国船の通航の自由など)は受け入れて、連合国側と折り合いをつけました。
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潜伏、そして功山寺挙兵
さて、『第一次長州征討』が迫る中、この年の7月~8月にかけてフルボッコされた長州藩には戦力はありません。
長州藩は、晋作などが属する改革派が政権を退き、幕府寄りの俗論派が政権を握ります。
俗論派が政権を握ったことで、晋作は命を狙われ福岡まで逃げて潜伏、しばらく長州藩の情勢を観察します。
そして、俗論派政権は『禁門の変』の責任者を処罰して幕府に謝罪します。
これにより、『第一次長州征討』は武力衝突がないまま収束しました。
この状況をみていた晋作は下関まで戻り、『挙兵して俗論派と戦おう』と長州藩の各諸隊に説きますが、応じたのは遊撃隊と伊藤俊輔率いる力士隊の計80名程だけでしたが、晋作はなんとたった80名程の兵で長府の功山寺にて挙兵し、長州藩正規軍に戦いを挑みました。
いずれ、他の諸隊も同調してくれるだろう、という賭けに出たのです。
晋作の賭けは的中し、奇兵隊をはじめとした諸隊が次々に同調、最終的に2000人程の兵を集めて、長州藩正規軍を破り政権を取り返し、藩論を倒幕へとまとめました。
この時の事を伊藤博文(伊藤俊輔)は後年以下のように語っています。
「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と語っている。
第二次長州征討
長州藩は外国と戦った経験から現実的に『攘夷』はムリだ、と感じたように、薩摩藩もイギリスと戦って同じく『攘夷』はムリだ、と感じていました。
生麦事件の解決を迫るイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)と鹿児島藩の間で戦われた鹿児島湾における戦闘である。
『禁門の変』では敵味方にわかれた両藩は、慶応2年(1866年)1月21日に坂本龍馬などの仲介で薩長同盟をむすびます。
薩長同盟によって、長州藩は薩摩藩や坂本龍馬の海援隊経由で外国製の最新武器を購入しますが、その動きを察知した幕府は
1866年(慶応2年)6月8日に周防大島に兵を上陸させます。
ここに『第二次長州征討』の幕が切って落とされました。
周防大島では幕府兵によって多くの無抵抗な島民が犠牲になったことを知り、長州軍は島を奪還すべく作戦を練ります。
まずは周防大島へ上陸する前に敵を混乱させる、ということで、海軍総督となった晋作が『丙寅丸(へいいんまる)』という軍艦で前代未聞の作戦を実行します。
周防大島には『丙寅丸』の2倍の大きさの幕府の軍艦が4隻。
まともにやりあうと勝てません。
晋作は、皆が眠りについた夜間に、カンテラの光だけで幕府の軍艦の間を縦横無尽に走りながら大砲を撃ちまくります。
攻撃に気づいた幕府側は反撃しようとしますが、当時は蒸気船。
蒸気を立ち上げるのに手間取っている隙に『丙寅丸』はさっさと引き上げました。
この奇襲攻撃に動揺した幕府側は、翌日の地上戦で島民の反撃もあってすんなり負けてしまいます。
ちなみに『丙寅丸』は『第二次長州征討』が始まる直前に、お金をもっていない晋作が藩に無断で購入した船です(後日、請求は藩宛てに・・・)。
そして、長州藩領各地は合計16万5千人という幕府軍に攻め込まれますが、戦国時代の装備の幕府軍は最新兵器を装備しゲリラ戦術を駆使した長州軍(4千人)に惨敗します。
死去
かねてから肺結核におかされていた晋作は、『第二次長州征討』中に藩から療養に専念するように命令されます。
命令に従い下関で療養生活に入るも時すでに遅し。
病状が悪化し、慶応3年(1867年)4月14日『おもしろきこともなき世をおもしろく』という辞世の句を残し死去。
享年27。