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リクエストがあったので、一応。
ちなみにこれは正史です。本編の外史とはかなり違ってきます。
史実関籍のwiki風解説(三十話まで閲覧してからの閲覧推奨・ネタバレ無し・リクエスト品)ちなみにこれは正史です。本編の外史とはかなり違ってきます。
関籍
出生 158年。
河東郡解出身。
死去 建安 24年12月(220年 1月)
荊州 樊城
字 不詳
諡号 武霊公(霊には『死後祀られると言う意味を含む』)
主君 皇甫嵩→丁原→董卓→呂布→劉備
関籍は、中国後漢末期の将軍。字は不詳。司隷河東郡解県の人。子は関莊、関伯。弟は関羽。
初めに皇甫嵩に見出され、転属した并州に於いて呂布・張遼らと共に頭角を現す。その卓絶した武勇は丁原を暗殺した呂布に打ち掛かり、まともに戦って圧倒するほどであった(呂布は関籍に一目置いていた為、防戦に徹さざるを得なかったのだという見方もある)。
悲劇的な死を遂げたが、後世の人間に神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となり、弟共に47・48人目の神とされた。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。そろばんを発明したという伝説まである。
小説『三国志演義』では、関公、関某と呼ばれ、一貫して諱を名指しされていない」、「大活躍する場面が壮麗に描かれている」など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている。
・丁原、董卓から呂布へ
皇甫嵩に見出され、丁原の元で頭角を現す。対鮮卑に於いては五胡の王・壇石塊とその息子、和連を討ち取る功績を挙げ、その武威を示した。
丁原が討たれるとすぐさま呂布に打ち掛かり、これを殺そうとしたが、失敗に終わる。
こうして董卓の前に引き出され、その名声と武威を利用すべく無理矢理に直臣とされた関籍だが、董卓の蛮行を直言で諫め続け、遂には疎まれ、頸を撥ねられることとなった。
しかし呂布が関籍を庇い、張遼もまた庇った為、棒叩き三百回の後に牢獄に叩き込まれる。
彼はこのことを恩に感じ、呂布の元に降ることとなった。
・呂布の諌め役として
呂布が初めに行おうとした郿塢城大虐殺を項羽が阿房宮を燃やした故事を以って諫め、董卓が集めた娘や金銀糧秣を民に返還するように進言するが、呂布は金銀糧秣を自分の物としたため、関籍は自らの財を『呂布の財』と称して開き、民に施した。張遼・高順もこれに倣ったという。
李傕・郭汜を討伐しようと呂布が兵を起こした時も『今は都を固め、兵を養い、帝を奉じて義を為すべきです』と諫言を呈すが、無視された。
彼の諫言は当たり、長安は落ちた。こうして呂布は放浪期に入る。
・三度に渡る放浪を経て
呂布は流石に彼の言を省みるようになったが、一方で兵を取り上げた。
自分に伍する武力と勝る人望を持つ関籍は、諫言の正しさも相まって彼にとって煙たい存在となっていたのである。
これを見た袁紹・曹操は最上の礼を以ってこれを招こうとするが、関籍は『今、臣が至らなくして主を放浪さしめていると言うのに、寝返ることなどは臣たる者の道に反します』といい、丁重にもてなしてこれを返した。
呂布は益々彼を煙たい存在と思うようになった。
194年。陳宮の内応によって呂布が兗州入りすると、関籍はその一翼として鄄城、范県、東阿県を除く兗州全域を獲った。
これを聞いた曹操がすぐさま徐州から引き返して呂布を討伐しに攻め込んできた為、呂布は陳宮の進言に従い濮陽県へと退く。
ここで関籍は『地形から察しますに、東平に本拠地を置き、亢父から泰山までの道を断ち、天険を利用して我が軍を迎え討ちましょう。曹操に補給はなく、足止めして弱ったところを討てば必ず勝てます』と進言したが無視された。
後にこれを聞いた曹操は『関籍の言うことを呂布が聞いていれば根枯れしたのは我が軍だった』と関籍を更に評価したという。
結果的に呂布は二年に渡る交戦の末に兗州から完全に駆逐され、再び放浪することになる。
・呂布に忠義を貫く
最終的に劉備を頼った呂布は、その劉備すら裏切って徐州を手にした。
この時関籍は弟と再開を喜び合っていたが、知らぬ内に敵同士になってしまったのである。
彼は最早、呂布にとって機密を漏らす相手ですらなくなっていた。
その後、彭城の戦い等で曹操を度々撃退するも、遂に曹操の大侵攻の前に籠城を余儀なくされる。
彭城は平地にある攻めるに易く守るに難しい土地であり、曹操は楽に落とせると思ったが、二ヶ月経っても揺らぎすらせず、降伏勧告をするも『落ち目になった主を見捨てることなどできようか』と言う徹底抗戦を仄めかす返事だったため、下邳に向かって呂布を追い詰め、張遼と同じくこれを捕らえた。
呂布は処刑の場に連れてこられ、『何故お前は負けたのか?』と問われたときに『あの髯野郎が裏切って彭城が落ちたからだ』と叫び、周りの顰蹙を買った。
偽報を流されながらも人知れず最後まで抗戦している者すら信じない呂布は、最早忠義を貫く相手ではなかったのである。
関籍は呂布の敗報を知ってもなお抵抗を続け、『呂布殿の命なくばこの城は渡せん』と関羽を使者に立てた降伏勧告を一蹴し、一年の間粘り続けた。
実力でこれを降したかった曹操も流石に諦め、捕虜として生かしておいた呂布に書状を書かせてこれを降した。城から出てきた関籍は頭を地に打ち付け、縄に縛られた呂布に哭いて過失を謝ったという。
最期の最後に関籍に二心がなかったことを悟った呂布は、自らの直属の黒騎兵を養うようにと関籍に言い遺し、首を打たれた。彼は主に殉ずることを許されなかったのである。
・劉備の臣として
張遼が曹操を選んだように、関籍は弟の居る劉備を新たな主に選んだ。劉備が劉性であり、漢の皇室の末裔であることも関係していたという。
長坂橋、赤壁の戦いの後の荊州征討に於いてその才を示した彼は、荊州を任されることとなった。
・天下を震わす
劉備が漢中に攻め込んだ時、関籍はすぐさま連動して魏を脅かし、その才覚を遺憾なく発揮した。
五胡の侵攻と、武俠による乱。更には一軍を遊軍として各地で魏を打ち破り続けたのである。
しかし、劉備率いる本軍が夏侯淵・張郃らに足止めされたことを発端に、事態は急変した。
呉と魏が共同して荊州に攻めてきたのである。
彼は防備を怠ったわけではなかったが、重要拠点を任せていた糜芳や士仁らの裏切りによって全てが崩壊した。関籍は、樊城に孤立したのである。
・最期
関籍は二年に渡る抗戦の末、樊城の防衛を諦めた。漢中は余談を許さぬ状況であり、援軍がこちらに来る可能性は無に等しかった。
彼は自ら戈を取り、呂布から受け継いだ老精鋭百騎を率いて五十万とも六十万とも言われる大軍に二十四回にわたって呉軍に突撃し、凌統・丁奉・呂岱・蔣欽・孫劭らの首を挙げ、最後の突撃で孫権の片腕を斬り落としたことに満足したのか、次いで魏軍に突撃。ここでも自ら数百の敵兵を討ち、牛金・曹洪と都尉三人を討つ奮戦ぶりを示した挙句に囲みを突破し、二十八騎と共に一路蜀へと逃走した。
追撃を掛けてくる曹軍に再び十数回にわたって突撃し、これを撃退。
最後に前に現れた張遼隊に向かって単騎で突撃し、更に数百の敵兵を討ち、張遼を目の前にして『文遠殿。あなたにならばこの首をやっても悔いはない』と言って自決した。享年六十二。
その五体は憎しみ募る呉軍の要請で引き渡された後にばらばらに分断され、長江に流されたという。
・その後
彼の死によって、蜀の運命は決したと言っても過言ではなかった。荊州を失った蜀に最早力はなく、関羽が死ぬまで呉とも組めず、国力の衰亡は明らかであった。
四肢の分かち、関籍を侮辱した呉に最も怒ったのは、彼を討った張遼だといわれている。張遼のこの怒りは、合肥で晴らされることになる。
関籍の遺志を継いだ魏延・馬謖も奮戦したが、馬謖は病死し、魏延は孔明の遺言によって討たれるのである。
・子孫
息子の関莊は江油を守って闘死し、関伯は父の死後魏に降り、征東将軍にまで上り詰めた。
関伯の子孫には、淮海戦役で国民党が戦闘経験豊富な主力を喪失してから頭角を現し、蒋介石に全ての軍権を移譲されるほどの信頼を受け、兵器・兵士の質・兵士の数(二十倍)、全てに劣る状況から戦況をひっくり返し、毛沢東、劉伯承、鄧小平、粟裕、譚震林、陳毅を機動性を活かした包囲殲滅戦で討ち取り、二十五個師団を地上から消し去った『東洋最強の戦術家』こと関白がいる。
撃ち破った関東軍は三十万、駆逐した共産党は四十万なこの男は関籍と同じく硬骨であり、蒋介石が『一から作るより、盗作をして安くしようじゃないか』といった時に『僅かな金を惜しんで世界から嘲笑と侮蔑を買いたいと仰られますか』と色鮮やかな皮肉を返したことで知られるように、直言居士であった。
名将の血は、受け継がれていたのである。
・後世の評価
民政家としても優れ、人を育てる手腕に優れていたこともあり、後世での評価は非常に高い。
張遼と共に中華史上六十四名将の一人となっている(三国時代で選ばれたのは彼と張遼だけである)。
智勇兼備の名将として名高く、項羽・呂布と共に個人の武での最強は誰かを問われる時に必ずと言っていいほど名を連ねることとなる。
死後、弟と共に祀られた。
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