星空文庫

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死にたくない者たち

  1. 第一章 招かれざる客
  2. 第二章 二年後
  3. 第三章 少年の真実
  4. 第四章 少年と老人の世界
  5. 第五章 学校での出来事
  6. 第六章 セラピストの悩み
  7. 第七章 土蔵の中
  8. 第八章 少年の秘密
  9. 第九章 癒されぬ少年
  10. 第十章 妻の心変わり
  11. 第十一章 おばあちゃんの形見
  12. 第十二章 愛のゆくえ
  13. 第十三章 憂鬱なとき
  14. 第十四章 亡霊たち
  15. 第十五章 さゆりの訴え
  16. 第十六章 告白
  17. 第十七章 死にたくない者たち

ああ! 悲しい! 私からは命の光が失われたのだ。
もはや、もはや、もはや・・・・・・・ (エドガー・アラン・ポー)

第一章 招かれざる客

 台所の外で微かな物音が聞こえた。誰かが裏の庭木を縫って忍び足で歩くような音だった。裏口のドアを開けると、芦刈須磨子(あしかりすまこ)は外の闇に眼を凝らした。しかし人の気配はなかった。湿り気を帯びた夜の暗闇を、夕方から吹き始めた雨もよいの風が裏の庭木を吹きわたるざわざわという葉擦れの音が聞こえるだけだった。
 須磨子は思わず苦笑を浮かべた。
 (最近、少しいろんなことを気にしすぎるみたいだわ)
 椅子を棚に寄せると、その上に乗って棚の上段にある赤ワインの瓶を取った。そのとき、彼女の脚をさっと何かひやっと冷たいものが触れていったような気がした。一瞬、彼女は息をのんで声を押さえると、椅子から飛び降りて急いで居間のほうへ、夫のほうへ、安全な港へと急ぎ足で戻っていった。

 夫の芦刈信也は居間のソファに深々と身体を埋め、前に脚を投げ出してくつろいでいた。
そしてすばやい春風のように台所からもどってくる妻の足音を聴いていた。
 彼はそっと眼を閉じて、彼女がたてるさまざまな物音に耳をすました。
 床を擦るスリッパの軽やかな音、そして身体を動かすたびに聞こえるしなやかな衣擦れの音や微かな息遣いまでが彼の耳に聴こえてくる。そして彼女が肌につけているコロンの香りがわずかに匂ってきて、彼の心を優しく癒してくれた。
 彼は思わず深々と息を吐いた。このたおやかな(いと)しい妻の存在に、いまこのうえない幸せを感じていた……そう、今日はふたりの十年目の結婚記念日だった。
「あなた、今夜は寒くなりそうね」妻の声が彼の夢想を破った。
 信也は顔を上げ、そばにいる妻を見上げた。手にしたカーディガンを夫に手渡すと、そばに座り、夫の髪の毛に手をのばしてそっと指でとかしはじめた。
 ややごわごわしたウェーブのかかった髪の中を妻の指がしなやかに這い回る、それもこのうえ優しい動きで、撫でるように額の上からうなじにかけて髪を梳いていく。
 信也はそのしなやかな手の感触にうっとりとしていた。まるで母親が子供の髪を撫でるようなその仕草には優しさと溢れるほどの愛が感じられる……その感触は彼を甘い陶酔へと誘っていく。
 リリンと電話のベルが鳴った。とたんに彼は陶酔から醒めた。
「いまごろ、誰かしら?」妻が電話に出る。
「もしもし、芦刈です……はい、ちょっとお待ちください」
 夫のほうを向いて、「あなた、病院からよ」と言った。
 信也は頷いて立ち上がると受話器を取った。
 電話は、彼が精神科医長として勤務している横浜精神医療センター・児童精神科の看護師長柴田玲子からだった。
「すみません、先生、お休みのところ……」と、玲子はまず電話したことを謝った。
 彼女の切迫した口調から、信也は何か緊急な用件なのを察知すると同時に、完全に医師としての意識に覚醒(かくせい)していた。
「そんなことは気にしなくてもいい。それより、何か緊急な用なのか?」
 玲子はハアハアと息を弾ませながら言葉を続けた。怯えたように声が微かに震えている。
「ええ、じつは先生……あの……患者の小沢輝夫(おざわてるお)が、今日の午後、病院から逃亡しました……」
「えっ?」
 信也は驚きのあまり思わず大声をだしていた。まさに青天霹靂(せいてんのへきれき)といってもいい、思いもよらない知らせだった。
 玲子はその時の状況を、震え声で、途中で幾度も息をとぎらせながら早口で話し続けた。まるで急いで話さないと、いまにも口がきけなくなるとでもいうかのように。

 ……夕方、担当の看護士が小沢輝夫を治療に連れて行くために部屋に入っていったとき、ドアの陰に隠れていた輝夫がいきなり看護士の首に咬みついて大けがをさせ、血まみれになって倒れた看護士から鍵を奪いとると病棟を抜け出し、そのまま行方をくらましたということだった。知らせを聞いて駆け付けた警察官たちや守衛らが病院の敷地やその周辺を捜したが、どうしても見つからず、また病院が市街地の中にあることから、警察では直ちに厳戒態勢をとって捜索に当たっている、と告げた。

 信也の脳裏にはいま、自分の患者である小沢輝夫のことが鮮やかに浮かび上がっていた。輝夫は九歳のとき、日常の行動に他の同じ年頃の子供とは極端に異なる様態(ようたい)が見られるのを(うれ)えた両親に連れられて信也のもとへ受診にきたのだった。
 診察の結果、極度の不安障害および崩壊性行動障害(対人反応障害や極端な執着障害)の症状が見られることから、児童精神科の外来でサイコセラピーや薬物投与による治療を受けていたが、なかなか症状の改善が認められなかった。そうした折、十二歳のとき、本牧埠頭から海に飛びこんで自殺を図った。ちょうど近くで釣りをしていた漁師に助けられため大事には至らなかったが、心配した両親のたっての要請で同科に入院させて治療に当たることになった。担当医の芦刈信也は急性不安障害および強度の強迫性障害という診断のもとに引き続き治療を続けていた患者だった。以来、五年が経過していた。

 信也は、明朝(土曜日だったが)病院にいって逃亡した患者の対処にあたることを柴田師長に告げて電話を切った。
 輝夫が九歳で初めて受診にきた頃は、彼の家が自分の家に近いことから、その母親の懇願もあって、信也はしばしばまだ幼い輝夫のセラピーもかねて個人的に彼の家を訪れて診察したり、幾度か自宅へ連れてきたこともあった。しかし、その成長につれて彼の症状の改善は困難になり、むしろその固着化が顕著になった結果、入院させて治療にあたる他はなくなったのだ。いま、その輝夫が病院を抜け出して行方不明になったという。
 妻の須磨子は、事件の一部始終を夫から聞くと、不安そうに顔色を変えて心配した。
「早く見つけられるといいけど……でも、輝夫ちゃんも可哀そうね。今ごろ、独りでどこにどうしているのかしら?」
 輝夫の幼い頃を知っているだけに、いっそう彼の失踪のことが気になるようだった。
 信也は気分を変えるように、茫然(ぼうぜん)(たたず)んでいる妻を優しく抱きしめた。そしてその身体が微かに震えているのに気づいた。
「須磨子、今夜はこのことはもう忘れよう。いま、ぼくたちができることは何もないのだから……それより、せっかくのぼくたちの結婚記念日なんだ、何かもっと楽しいことをしょうよ」と慰撫(いぶ)するように優しく囁いた。
やがて妻の身体の温もりがこちらに伝わってくる頃、彼女の震えも止まっていた。
「ワインを飲みたいな」
 信也が言うと、須磨子はテーブルの上のボトルを手にして夫のグラスに注いだ。
 須磨子も自分のグラスを満たすと、ふたりはグラスを掲げて笑みを交わすと、ワインを口に含んだ。
 繊細な香りを漂わす(ほの)かに熱く、そして冷たいワインがすっと喉を降りていく。
 ふたりは顔を見合わせ幸せそうに笑みを浮かべながらソフアに座った。
 信也は仰向けのまま長々と横たわると、須磨子がそのうえに身体を重ねてきた。信也の顔のうえに須磨子の顔があった。その顔は天井から下りる光の陰になっていたが、その眼差しが、柔らかいが深くそして一途な想いを湛えているのがわかる。
 信也が下から腕を伸ばして須磨子の身体を抱いた。ふたりの身体は貝のようにぴったりは合わさっている。
 須磨子は頭をのけぞらすと声もなく幸せそうにうっすらと口を開けて微笑んだ。その目が微かに潤んでいる……
 ……その瞬間、「ああっ!」叫び声をあげると同時に、彼女の眼がかっと見開いたまま凍りついていた。
 とっさに異変を感じた信也はすばやく立ち上がった。妻の身体が床にすべりおちる。
 妻の視線の方向、台所への入口にひとりの若い男が立っていた。
 シャツを着ていない裸の痩せた青白い胸には赤黒く腫れあがった傷が幾筋も浮き出ている。落ち窪んだ両の眼は黒い(くま)に縁どられており、だらりと垂れた細い両腕を身体の前で絞るように絡み合わせて微かに震わしている。
 その()かれたような鋭い光を帯びた揺れ動く眼、そして絶望的な暗い表情、信也のよく知っている男、というより少年だった……小沢輝夫、十七歳。今日、精神病院から逃亡して行方の知れなかった患者……
 信也はゆっくり立ち上がると静かに声をかけた。同時に、妻には落ち着くようにと眼で合図した。
「やあ、小沢くん……いったい、どうしたんだ?」
 そして、再び少年に全神経を集中した。彼は精神科医としての立場からこの突然の侵入者を扱おうと決めたのだ。とはいえ、病院から逃走してきたこの少年の錯乱した意識と混沌と揺れ動く心の衝動を抑えて、正気に戻らせるのが困難なのは充分承知していた。
 少年がにやりと笑い一歩前へ足を踏み出した。信也も一歩後退した。脚が背後の椅子にぶつかって身体のバランスを崩した。
 信也はふらつく身体を壁に凭せ掛けながら、内心、切迫した危機感に襲われていた。
「酔っているのか、先生?」少年は唇をゆがめて背後にいる須磨子に話しかけた。
「あんたが酒を飲ませたのか?」
 須磨子はじっと相手を見つめ返しながら、声を振り絞るようにして言った。
「そんなことより、どうしてここへ来たの?……どうして欲しいの?」
「先生に約束を果たしてほしいんだ」少年は信也を指差した。
 これまでの彼の長い努力にもかかわらず、結局、この少年を救うことはできなかった。
 確かにすべてが彼の責任とは言えなかったろうが、しかし彼の力の及ばなかったひとつの悲惨な典型……幼児期から思春期へかけて成長する間に彼が癒すことのできなかったひとつの傷ついた心が、哀れな少年の姿をしてあらわれたのだ……まさしく精神心理学上でいう不安障害、崩壊性行動障害、執着障害、対人障害という病いから抜け出すことのできなかった無残なひとつの典型が、いま彼の前にいたのだった。
「おれが九歳の時だった……あんたと会ったのは」
 輝夫は身体を小刻みに震わせながら、今度は台所のなかへ一歩後ずさりした。
「親からも友達からも見捨てられ、独りぼっちだった。“対人反応障害”って、あんたは言ってた」
  憐れっぽい嘆くようなその声は、どこか張り詰めた不穏(ふおん)な緊張を湛えている。あたかも追いつめられた獣のように、自暴自棄な行動へ急変しかねない危機感をはらんでいる。
「おれは怖かっただけなんだ……あんたは“不安障害”とか言ってたけど、おれのことは何にもわかっちゃいなかったんだ。思い出せよ、先生、思い出すんだ!誰からも受け入れられず、見捨てられた子供を!」
 信也は黙ったまま首を振った。
「おれはまだ十七歳だ」少年は言った。「朝から晩まで薬づけでどこへも行けやしない。友達はひとりもいない。いまでも怖くて死にそうなんだ。でも死にたくない!」
侵入者は顔を歪めてすすり泣いた。
 信也は少し前へ進み出た……治せなかった子供たちは大勢いた。しかし、これほど重い自失状態に陥った患者は少なかった。どんなに力をつくしても救えなかった子供たちもいた。しかし一方では少なからず、その(くず)れかけた心を救うことができた子供たちも大勢いたのだ。 
「いつも、みんなはおれのことを気違いと言う。でも、おれは気違いなんかじゃない」少年は叫んだ。
 この少年は愛情に飢えていた。生まれたばかりのまだ足も立たない子犬が母親を求めるように。しかし彼は人と会話することができなかった。脈絡のない短い言葉を話すだけだった。彼の言葉を理解するための方法があったかも知れないが、それを見つけることができなかった。”有意言語消失“の典型。
「輝夫くん……きみのことはよく覚えているよ。幼い頃からいい子だった。賢くて、優しい子だった」
 少年は顔をそむけながらも決して逃げようとはしない。いまだに愛に飢え、救いを求めているのだ。
 突然、輝夫は「おれは悪霊に執りつかれているんだ」と吐き捨てるように言った。溢れる涙が頬を伝った。
「助けてほしかったんだ……でも、あんたはおれを助けてくれなかった」
「いや、それは違う。助けようとしたんだ……でも、だめだった」
 信也が一歩進みでると、輝夫も一歩、後ずさった。あと少しでこの子を救えるかもしれなかった。「いまでも、きみを助けたいと思っている……うそじゃない」
 侵入者は激しい口調でふたたび「うそだ! あんたはうそつきだ。何もしてくれなかった」と叫ぶと、髪の毛を掻きむしり始めた。信也には、事態が次第に取り返しのつかない方向へ向かっていくような懸念に捉えられた。なんとかそれまでに食い止めねば……彼は焦った。

 須磨子は祈るような思いで、向かい合うふたりの姿を見つめていた。
 夫は一歩、二歩、台所のなかに入り、少年に近づこうとしている。相手のこちらに向けられた顔にはまだ躊躇(ちゅうちょ)と不安と混乱が見える。しかし、その眼だけは異様に鋭い光を湛えている。それはすでに何かを決意した眼差しだった。彼女にはその眼が恐ろしかった。
 夫の手が相手の身体に触れようとしたとき、少年は素早く身体をねじると流しのなかに右手をいれた。そして振り返ると同時にその手を頭上にかざした。その手にはぎらりと光る包丁が握られていた……
 そのとき、さっきから彼女の心を鷲掴みにしていた恐怖の実態を知ったのだった。凍えるように冷たい掌が彼女の魂をぎゅっと掴んだ。
 ……それは、あっという間に始まりそして終わった……

「ああっ!」彼女が叫ぶと同時に、少年は夫の胸に包丁を振り下ろしていた。須磨子は恐ろしい悲鳴をあげながら崩れるように床に倒れた夫のもとへ走った。
 苦しげに呻きながら仰向けに横たわる夫の胸から吹きだしたおびただしい赤い血潮が、みるみる白いワイシャツを赤く染めながら床に滴り広がっていった。
 彼女は夫の血まみれの身体を抱き抱えながら、衝撃と怒りで身体を震わせながら輝夫を睨んだ……少年の異様に蒼白な顔、そしてふたつの血走った目に浮かんでいた恐怖に凍えた表情は、一瞬、奇妙な安らぎの表情を浮かべたが、次の瞬間、激しい驚愕と恐怖に覆われていた。血まみれの包丁を握った両手がわなわなと震えている。
「ああ!」須磨子の絶叫が(ほとばし)った。
「あなた! なんてことをしたの!」絶望的な眼差しで少年を見据えた。
 次の瞬間、少年は手にした血まみれの包丁で自分の喉を一気に切り裂いていた……

第二章 二年後

 手の上のノートをめくる芦刈信也の指は、さっきから震えたままである。
 彼はここへ来ることをためらっていた。幾度もあきらめようとしたが、やはり来ていた。なぜなら、いま彼にはここへ来るほかはなかったのだ。
 九歳の黒川春樹少年は、彼にとってたった一人の患者だった。この二年の間、彼にとっては最初にしてただひとりの患者……いや、患者となるはずと言うべきだろう。
 それなのに、彼は夕暮れ時の公園のベンチに独り一時間近くも座り続けているのだ。
 芦刈信也……有名な精神科医にして傷つきし心の救済者。その彼が、いまわずか九歳の子供に会うことをためらっていた。いや、正直なところある怖れさえ感じていたのだ。
 母親の離婚により心を病んでいる少年。もちろん昔の彼だったら、あたかも名だたる占い師のように、その鮮やかな手のひと振りでたちまち少年の心を癒してやったに違いない。
 信也はいまなお微かに疼きつづける胸の痛みを意識しながら、震える脚に力をこめて公園のベンチから立ち上がり、思い切って道の向こうへ渡らねばならないのだ。
 彼はノートを開いて、もう一度書かれてある記録を確かめた。

 黒川春樹 九歳 (2005年7月1日生まれ) 母親は離婚・独り息子
 横浜市立桜木小学校四年生 
 急性不安障害・気分障害・崩壊性行動障害(初期:精神退行の兆候無し)・対人反応障害……母親および友人との意思の疎通が困難。学校でのいじめあり

 この年頃の子供にしばしばみられる症例といえよう。
 もちろん、あの小沢輝夫も幼い頃から同様の病いを患っていたのだ……突然、脳裏に甦った記憶が彼の心にかつての絶望と怒りを呼び覚ませた。いまだに過去を引きずっていることをあらためて意識し、いいようのない無力感に襲われていた。もう二年も経つというのに、いまだに立ち直れないでいるとは!…… 
 そこで、信也は過去の亡霊を振り払うように頭を大きく一振りすると立ち上がった。そして、一歩、一歩、足を踏みしめるように決然とした足取りで通りを渡っていった。
 黒川春樹を、あの子供を助けなければ……おそらくそれが、いまの自分にとっても救いになるだろう。玄関の近くまで辿り着いたとき、急にドアが開いて、中からひょいと子供の頭が現れた。春樹少年だった。
 セラピスト信也は思わず立ち止ると、玄関の前から少し離れて電柱の陰に身を隠した。
 少年はすばやくまわりを見回して誰もいないのを確かめると、そっとドアを閉めた。そして急ぎ足で表通りへと出ていった。
 彼はその姿を眺めながら、いまはただ傍観者として少年をしばらく観察しようと思った。
 まだほんの子供ながらとても用心深い。道の反対側へ小走りに歩いていく。信也は後を追った。このあたりはまだ人通りは多くないが、それでも先をいく少年の姿を見失いそうになり足を速めた。しかし、角に建つ大きなマンションの前の道を曲がったところで、その姿を見失ってしまった。
 信也はふたたびずきずきと痛みだした胸を押さえて立ち止まり、大きく息を吐いた。二年前に小沢輝夫に刺された古傷である。決して触れたくない傷である。
 彼はしばらく呼吸を整えたのち、ゆっくり歩きだしながら思った……なぜ遠くから窺うようなことをせず、思い切って玄関のドアのベルを押さなかったのか、また、少年が出てきたときに、なぜ呼び止めなかったのか……彼自身にもわからなかった。自分の苛立たしいほどの慎重さや臆病さ(自分では認めたくない感情だった)に腹が立っていたが、一方、自分が決してそうしないことを心の底では知っていたのだ。
 胸のうちに鬱然(うつぜん)した思いを抱きながら、信也は通りに沿って歩いているとき、その先の夕空に象徴的な尖塔(せんとう)を突きだしている古典的な洋風建築の指路教会(しろきょうかい)が見えた。

 信也はかつてその教会の数奇な歴史にについて調べたことがあった……それは、一八九二年、アメリカ長老教会の宣教師ヘンリー・ルーミスを初代牧師として横浜に設立された最初のプロテスタント教会だった。母教会のShiloh Church(シロ・チャーチ)の名をとって名付けられた。「シロ」は旧約聖書において、「平和をもたらす者」すなわちメシアを示す意味でもある。その後、一九二三年の関東大震災で倒壊したのち再建されたものの、ふたたび一九四五年、第二次世界大戦時の横浜大空襲により内部が全焼してしまった。しかし、その後厳しい事態に直面しながらも、信者たちの力によってようやく再建され今の姿として新しく甦った……そんな波乱に満ちた歴史をもつ由緒ある教会だった。祭壇のすぐ真上の二階の正面フロアには、二〇〇一年十二月、創立百二十五周年記念としてスイス・マティス社から取り寄せた巨大なパイプオルガンが設置されており、ミサの折にはそのオルガンが奏でる壮麗な祈りの音色がこの教会の中に響きわたるのである。

 信也はなぜともなく“ここにいるに違いない”と思った。ここはすべての人間を受け入れてくれる神聖なる聖域であり、無垢な少年はもちろん、偏見を抱く罪人や、いまのような彼でさえも受け入れてくれる場所なのだ。
 しかし、扉へ至る階段を上る彼の胸はふたたび疼きはじめた。それでもようやく扉を開けて入ったとき、微かに祭壇の(こう)が匂った。ミサはもう終わったらしく、数人の男女が前方の席に座っているだけだった。
 春樹少年は幾列も並んだ座席の中ほどの左端に、一人の背の高い老人と並んで座っていた。老人は小さな少年の方に身体を傾けて何か話しかけている。少年は老人を見上げながら、時々、頷きながら答えている。
 信也はそっと近づいていくと、すぐ後ろの席に座った。ふたりとも彼がすぐ背後にいるのにはまだ気づいていない。
「……それじゃ、後藤さんは、奥さんが帰ってくるのをずっと待っているっていうの」
 春樹は優しく訊ねていた。少年と老人はお互いによく知っているようだった。
「妻はこの教会の熱心な信者で、ふたりでよくここへお祈りにきたのだ。そう、いつもちょうどこの席でな……」老人は指で自分と少年の座っている場所を指差した。
「知っているよ」と少年はごく自然な口調で言った。
 老人は驚いたらしかった。
「坊やもここへはよく来るのかい?」と老人が訊いた。「見かけたことはないが……」
「来ているよ。ときどき……独りになりたい時だけど……一番後ろの席にね」
「そうか……それじゃ、妻のことも知っているかい?」
 老人の疲れた顔に一種の生気が甦っていた。
「うん、優しそうな女の人だったね」と、大人びた口調で少年が答えた。

 信也も、ふと、この教会に以前来たことがあるのを思い出していた。
 神父の厳粛な祈りと陰鬱な説教、そして一番前の席にいた妻の悲痛な顔、そして溢れる涙を拭おうともせずひざまずいて祈る姿を覚えている……それは葬儀のミサだった。
 (信也自身は宗教には全く無関心だったけれど、妻の須磨子はこの教会の信者だった)
 そのとき、神父はうちひしがれた妻や参列する人々に、救いや希望を注ぎ込もうと虚しい努力を試みていたことを、彼はいま、まざまざと思い出す。

 少年はふと思い出したかのように身体をかがめると、手を座席の下に伸ばして、しきりに椅子の裏側を探っていた。
 やがて、何かを見つけたらしく、手のひらを握ったまま隣の老人の方へ差し出したのだ。そして老人が何事かと見つめている前で、その手を開いた。
 信也も立ち上がると、そっと後ろから覗いた。
 ……その小さな手のひらには、驚いたことに、ひとつの古風な半円形の小さな鼈甲(べっこう)の櫛が乗っていた。その櫛には太いセロテープがまだついていた。椅子の裏側に貼りつけてあったものらしい……
 老人の驚きはもっと大きかった。深いため息とともに眼を丸くして叫ぶように言った。
「おおっ! これは妻の(くし)だ……ずっと前に、あれの誕生祝いに贈ったものだ……どうしてこんなところに隠したんだろう?……それより、坊や、どうしてこれがあるのがわかったんだ?」嬉しさと驚きで老人の顔はいま輝いていた。
「うん……なんとなく、そんな気がしたんだ」
少年は、照れ臭そうにちょっと肩をすくめてみせただけだった。
「……きっと、奥さんは後藤さんに見つけて欲しかったんだと思うよ」
 そう大人びた口調でいうと、セロテープを剥がして、そっと櫛を老人に手渡した。
 老人は大事そうに上着のポケットにしまうと、「ありがとう……坊や。ほんとにありがとう……」と、見違えるほど若々しい笑顔で幾度も少年に礼をいった。
 老人は立ち上がると、「それじゃあ、家へ帰る時間だからそろそろ帰るけど……坊や……奇跡を見せてくれた坊や、近いうちに、ぜひうちに遊びにきてくれるね」と言った。
 少年が頷くのを見ると、もういちど軽く頭を下げて挨拶したあと、まるで数十年前のまだ若き頃の彼のようにきびきびした足取りで側廊を歩いて去っていった。

 明るい笑顔で老人を見送っていた春樹少年は、ふと気づいたように背後を振り返ると、信也を見上げた。
 信也は少年を驚かせないようにそっと微笑んでみせた。
「やあ、春樹くん。驚かせてすまないね……ぼくは精神科医の芦刈信也だよ。覚えているだろう? 今朝、きみと会う約束だったんだけど、遅くなってごめんね」
 少年は答えなかった。そんな約束は知らなかったのだ。
 信也は側廊を周り、少年の横の席に座った。そのとき、刺すように疼く胸の痛みにまた襲われ、思わず顔を歪めた。
「ここに座っていい? 数年前の傷がときどき痛むんだよ。まったく弱ったよ」
 そう言いながら、無理に笑ってみせた。
 少年は身動きひとつしない。まるで亡霊でもみるように、彼を見上げている。
 (これはむしろ良い徴候だ。少年はいつでも逃げ出すことができるのだから)
「答えなくてもいいんだよ。独り言には慣れているから」と信也は言った。
 まだ彼を見つめたまま、黙ったまま、神経質に指で剥き出しの細い腕を掻いている。前からついている赤い引っ掻き傷や治った跡の傷に、一本の微かな傷が増えた。
「じつは、今日、ひとりの少年の奇蹟のような出来事を見たんだ……とても信じられないような素晴らしいことをね……あのお年寄りはとても喜んでいたね」
 少年は、まだ彼を無視したまま黙りこんでいる。
 (さっきの奇跡についていまは触れるなということに違いない。他のことを言おう)
「きみ、知ってるかな? 教会ってさ……」
 信也は少年のほうに身体をねじったせいで、胸がまたきりりと痛んだ。
「昔の西洋では、みんなの隠れ場所だったんだよ。あえていえば昔の日本のお寺みたいなものだな」
「何から隠れたの?」少年が初めて口をきいた。
 すかさず信也は答えた。これがきっかけになるに違いないと思った。
「いろいろあるけど、たとえば、悪い人たちからとかね……刑務所に入るような悪い人たちから隠れたりもしたんだ」
「教会やお寺にいれば安全だったんでしょう?」
 嘘ではなく、この子を安心させるようなことを言わなければ。かつてのセラピストの権威としての勘が戻って来つつあるような気がした。昔と同じにように……小沢輝夫の事件が起こる前……すべてが変わってしまったあの日の前と同じように。
「じつは、いまでは、そうとも言えなくなったんだ」
「どうして?」少年は初めてまっすぐに彼を見て訊ねた。
「そうだね……確かに昔はそうだったんだけど、時代が変わり、いまでは世の中の全てが昔と違ってしまったから、かならずしも教会が安全な場所とはいえなくなったんだよ」

 信也は少年の腕にある傷をちらっと眺めながら、その原因をよく調べねばならないと考えていた。無数の赤い切り傷があちこちにある。古いのも、新しいの……傷の様子からみて、何らかの事故でついてものではないようだ。少年がすぐ上着を着たので、あとはよく見えなかった。しかし、もし虐待のサインだとしたら、相応の手続きをとらねばならない。正式な場で調べ医学的な報告書を作ること、きっとそれがセラピーの最初の一歩になるだろうと思った。しかし、その傷について訊ねることは無理だろう。たとえ訊ねても、彼は答えないだろうし、逃げられてしまうのは目に見えている。もう二度と口をきいてくれなくなるだろう。

 信也は祭壇に近いほうの席を見渡した。老女たちが頭を垂れて祈りを続けている。
「おじさんは、いいお医者さんなの?」少年が話しかけてきた。
 (そうだといいんだが)信也は胸のうちで答えた。(昔はともかく、いまはいい医者とは言えないだろうね……)
 しかし少年が聞きたいのはそんな答えではない。嘘ではなく、彼を安心させる答えを考えねば……
「学会で賞をもらったことがあるよ」
「すごいね」少年は言った。
「ありがとう。でも、ずいぶん前のことで、あれからしばらく仕事をしていなかったんだ。つい最近仕事にもどってから、きみは最初の患者なんだ」
 少年はそれには答えず、立ち上がると、「また会えるよね」と訊いた。
「ああ、また会おうね」
 信也も立ち上がろうとしたとき、ふたたび胸を貫かれるような痛みが襲った。座席の背に掴まって必死に激痛に耐えていた。眉をしかめて息をのんで背を丸くして立っていた。
「おじさん、どうかしたの? 顔色が悪いよ」少年が顔を覗き込んでいる。
「……大丈夫だよ。ときどき胸が痛むもんだから……でも、もう治ったよ」
 信也は精一杯の笑顔を作ってみせた。
 そのとき、少年が呟くように言う声が聞こえた。
「ぼく、病院は嫌いだ……それに注射も嫌いだ」
「じつは、ぼくも注射は苦手なんだ」と信也も言った。
「それじゃ、行くよ」少年はちょっと手を挙げると足早に去っていった。
 信也はすでに疲労困憊(ひろうこんぱい)していたが、痛みは治まりかけていた。入口の近くから振り返っている少年に手を振ってみせた。
 復帰したセラピストとして、手始めのセッションはまずまずといえるだろう。しかし問題は、あの子の腕の傷のことだ。彼の記録には傷のことは触れていなかったはずだ。さらにもっと重要な事実があった。
 (あの少年はどうしてさっきの老人の妻の櫛を見つけたのだろう?……座席の裏側にセロテープで櫛が貼ってあることを、どうして知ったのだろう?)
このことについては、折があればあの少年とよく話し合わねばならない課題として残っていた。しかし、いまは考えるのをよそう、と信也は思った。それでなくても、胸の痛みのせいで辛いのだから……

 教会を出ると、外はもう暗くなりかけていた。春だというのに、ひんやりとした冷気があたりに立ち込めている。夜はもっと冷え込むに違いない。
 それでも、信也はまっすぐ帰宅する気にはなれず、反対方向の賑やかな街の雑踏に紛れ込んでいった。誰も彼に気を留めるものはいない。かつてはよくこうして街中を歩きながら自分の考えをまとめたものだ。今日は二年ぶりの散歩である。福富町、伊勢佐木町、蓬莱町とただ思いつくままにさ迷い歩いた。関内の駅を抜けると横浜公園が目の前にあった。
かつての精神心理学の権威としての彼の栄光は、すでに戦いに敗れた軍隊の旗のようにぼろぼろに引き裂かれ、もはや見る影もないぼろ布と化していた。自らの行くべき方向さえもう判らなくなっている。ただ光と闇の導くままに彼は歩み続けるほかはなかった。
 気が付くと、信也は公園にいた。街灯の下で少年達がスケートボードで遊んでいる。彼らにはそれぞれに自分の技を披露しながら、お互いに口をきくことなく、腕や身体の身振りで相手に意志を伝えながら、走り回っている。その服装にしろ、その動作にしろ、会話にしろ、全く世間とは離れた自分達だけの世界のなかにいる。彼らはいつも群れ、グループを作る。彼らの心が安らぐのは仲間と一緒にいる時だけ。一様に、ぶかぶかのスボンや、穴だらけのGパンや、つばを後ろに向けたキャップを身に着けている。
 しかし、それらはあくまでも表面的な見かけにすぎないのだ。ほんとうは、みないい子たちだろう。よく観察すれば、群れている少年たちには、それぞれに特別な物語があり、違った生き方をしているのだ。彼らはそれを群れの誰かに理解してほしいだけなのだ。
 一人の少年がジャンプした時、横にいた少年とぶつかり転倒してしまった。まわりにいた仲間がすぐさまふたりに駆け寄ると、助け起こした。「大丈夫か?」「ああ、どうってことないさ」ふたりは互いに声をかけ合うと、また、何事もなかったように、滑りはじめた。信也はかれらを結び付けている心の絆や強い仲間意識の強固さを、あらためて認識した。
 そのとき、仲間から離れたひとりの少年がベンチに座っている信也に向かって疾走して来る姿がみえた。赤いキャップの下の顔は陰に溺れてよくわからない。ただ彼は手に何か持っている。何か光るもの? 
 信也は慌てて後ずさりしながら、瞬間、あの身体を貫く刃の衝撃を覚悟した。ちょうど、二年前のあのとき……小沢輝夫が家に押し入ってきたときと同じように……

 しかし、少年は、信也のいるベンチのすぐ前で見事な身のこなしでスケート・ボードを回転させ、ローラーを鋭く横に軋らせながらぴたっと停止させた。そして、手にした光るものを、ベンチの横にあるゴミ籠のなかに放り投げた。
「おーい、浩介! この壊れたローラーは捨てて行くぜ」少年は大声で叫んだ。
 信也はよろけながらベンチに座り直すと、一瞬、うろたえた自分に腹が立った……いったい何をいまさら怯えることある! 彼は唇を噛んだまましばらく俯いていた。目を挙げたとき、少年たちはいつの間にか公園から姿を消していた。

 信也が家へたどりついたのは夜の十時過ぎだった。
 玄関からそっと足音を忍ばせてリビングルームを通りぬけた。様々な手紙や書類がテーブルの上に乗っていたが、それを無視してダイニングルームを通り台所の前で足を止める。妻の夕食がほとんど手つかずのまま残されている。
 信也はこれまで幾度も妻に食事をきちんと取るように注意しようと思ったが、何も言わなかった。いや何も言えなかったのだ。
 玄関ホールへ戻ると寝室へ続く階段を静かに上っていった。おそらく妻は布団にくるまって眠っていることだろう。近頃、彼女は寝る前に本を読みながら泣いていることが多いのだ。
そっと寝室を覗くと、妻は布団に入ったまま、本を読んでいた。
 須磨子、愛する妻、無口な妻……いまではもう、すっかり会話もなくなってしまった。
 彼女はいつも読書に熱中していて、彼が帰ってきたことにも気づかない。今夜も妻の眼は本に釘づけになっているらしかった。あるいは彼に気づいても知らないふりをしているのかもしれない。夫の帰宅が遅いのに腹を立てて……
 もしそうなら、謝るほかはないが、何といって謝るのだ。ただ散歩していたからと言えばいい。何も悪いことをしたわけではない。やっぱり謝るのはよそう。
 彼は今日、二年ぶりに患者と会ってきたのだ。ついに彼は誰かを救うことができる。あの少年を助け、自分も救うことができるのだ。それを妻にどう話せばいいのか……
よく見ると、妻の白い指は本のページを押さえたまま動かない。もうすでに眠っていた。
 信也は妻の眠りを妨げないように、そっと身をひくとスタンドの明かりを消して立ち去った。彼女が怒っているにせよ、理解してくれているにせよ、いまはそっとしておくほうがいい。彼には、やるべき仕事があった。黒川春樹少年、彼のたった一人の患者。あるいは彼の唯一の希望となるかもしれない……
 ……それにしても、と彼は思い出していた。さっきの教会での出来事。まるで奇跡のように、あの子は椅子の下からあの老人の妻が遺していた櫛を見つけ出した……老人が待ち続けている妻……おそらく最近か、あるいはずっと前に彼の妻は亡くなっているに違いない、と信也は予感していた……決して帰ってはこない妻が夫へ残した遺品の櫛がそこにあることを少年はどうして知ったのだろう?
「なんとなく、そんな気がしたから」と少年は言ったが、もっと他に隠され理由があるに違いない。いつかこのことについて、セッションの時にでも、少年から本当の理由を聞きだしてみようと信也は考えていた。

第三章 少年の真実

 洗濯機と乾燥機の上に置かれた小さなラジオから朝のニュース番組が聞こえている。ニュースキャスターの重々しい声が緊急のニュースを伝えはじめた。
「たったいま、JR関内駅構内で列車の追突事故がありました。まだ詳しい状況はわかりませんが、少なくとも十人以上の死傷者が出たもようです。詳しい情報が入り次第お知らせします……」
 関内駅といえは、ここから一キロもない近い場所である。黒川真由美は腹立たしげにラジオのスイッチを消すと、台所へ続くドアを振り返った。いま息子はいま台所で朝食をとっているのだ。こんなニュースを息子に聞かせたくはなかった。少なくとも朝一番に聴かせるような話ではない。それでなくても、息子の春樹は人一倍敏感な子で、しかも十分に憂鬱なのだから。
そのとき、黒川真由美は息子の叫び声を聞いて、慌てて台所に駆けつけた。部屋に入ると何か得体の知れない冷気がさっと彼女の首筋を伝って降りるのを感じた。
そこで彼女が見たのは、信じられないほど異様な風景だった。なんと台所中の棚のすべてのドアが開け放たれ、また引出しもすべて外に引き出されていた。
 どこから来るのか微かな振動が彼女の身体に伝わってくる。あたりには凍えるような冷気が漂っている。一方、隣のダイニングルームに置かれたテレビの画面には駅構内の乗客が右往左往する混乱した様子や追突した二台の列車の無残な状況が映し出されており、必死に動き回る駅員たちの姿や飛び交う怒声、それに数名の警官の姿もみえる。
 そして、息子はテーブルの上に膝をついてしゃがんでいる。その蒼白な顔はこわばり、恐怖の眼差しが凍えた矢のように母の胸を貫くのを感じた。彼女は何か言おうと口を開けたが、ただハアハアと息を吐くばかりで、声が出てこなかった。しかし、むしろ叫ばなくて良かったと思った。怖がっている息子を驚かすだけなのだから。

 そのとき、少年が見ていたのは……(テレビではなく、まるでその場にいるような生々しい幻覚だったのだが)……目の前の駅のプラットフォームに横たわる血だらけの乗客たちの姿だった。
 ……彼らは、そばに立ち竦んでいる春樹のほうに手を差し伸べて、しきりに何か訴えているのだが、その数があまりに多いために、いちいち詳しく聞き取ることがでなかった。
顔がつぶれて口から血泡をふいている男や片目が飛び出したまま身体を痙攣させている年配の女性やちぎれた片腕から夥しい血が噴き出している若い男や、片足が切断されて苦しみもがいているお年寄りなど……凄惨な修羅場と化したホームの上にいるこれら死にかけている無残な姿の人々がいっせいに彼に手を差し伸べていたのだ。
 少年には、彼らがなぜ自分に手を伸ばしているのかわからなかった……ただ痙攣しているだけなのか、それともあまりの苦しみのゆえか、それとも何か救いを求めようとしているのか……少年はただ恐怖に震えながらその場に無言で立ち竦んでいた……

 その時、母親の呼びかける声があっというまに目の前の幻想を消し去っていた。
「春樹、どうかしたの。なにか探しているの?」と不安げな母のこわばった顔。
 我に返った息子はまだ蒼白な顔をしている。小さな声でささやいた。「シリアル」
 真由美はシリアルがしまってある棚を見た。
「ここにあるわよ」と母は言った。
 息子はゆっくりとテーブルから下りて、棚の下まで椅子を引いていくとシリアルの箱を取り出すと、またテーブルへと戻っていった。その顔色はもとに戻っており、その表情も落ち着いているようにみえる。
 真由美はどうしていいかわからないまま、ただおろおろと息子の行動をずっと見守っていた。息子がシリアルなどを探しているのではないことはよく知っていた。なぜなら、お菓子のしまい場所などは母親より彼のほうがよく知っているからだ。
 真由美がとまどうのは、こうした不可解な行動をとった後でも、息子はけっしてその説明や言い訳をしようとはしなかいからだ。
「……何を考えているの、ママ?」息子が訊ねた。
 いつもの、あの表情である。大人びた分別臭い顔である。
「いろいろなことよ」と母親は答えた。
「ぼくのことを……悪い子だって?」
 真由美は突然、息子の腕をつかみ抱きしめた。
「春樹、わたしの顔をみてごらん。あなたのことを悪い子だなんて一度も思ったことはないわよ! うそじゃないわよ、ほんとうよ!」
 息子が腕の中で頷いているのがわかった。
「ママ、わかったよ」母親の胸に顔を押しつけて呟いている。
 真由美はしばし茫然としていた……どうしてこんなに変わってしまったのだろう? 三、四歳の頃みたいに、この子のことがすべてわかっていた頃に戻れればどんなにいいだろう?…… 彼女は哀しかった。昔のように無邪気な息子に戻ってほしい、としきりに願っていたのだ。
「玄関のベルが鳴っているよ、ママ」息子は母親から身体を離した。
「康太が迎えに来たんだ……じゃ、行ってくるね」
 そう言ったあと、母親にわずかに頷いて見せた。“大丈夫だよ”と言わんばかりに。それから、玄関の靴箱の上に置いてあったバッグを引っ掴むと、外へ駆けだしていた。

 春樹は三上康太が嫌いだった。しかし、ママを心配させたくなかったので、友達のふりをしているのだ。大柄な康太が彼の肩に腕をまわした。“親友ごっこ”の真似だ。
 春樹は思わず顔をしかめそうになったが、リビングの窓を見上げて手を振った。ママが見ていること知っているからだ。ママもこちらを眺めながらとてもいい笑顔をみせている。ふたりが街角を曲がるまで笑顔を浮かべたまま、その場所を動かないだろう。
「おい、モンスター(化け物)。仲良しごっこをしてやったぜ」
 康太は、角を曲がると細っそりした春樹の肩からすぐ腕を離すと、腕を大きく振って見せた。まるで汚いものを振り払うように。
 春樹は何も言わなかった。返事などせずにただ黙って歩いているのが一番だということを、これまでの経験から、よく知っていたからだ。確かに康太はイヤ奴だが、彼にとってはとるに足りない蝿のようなものだった。ぶんぶん唸りながらからかうことはできても、彼を怯えさすことなどできはしないのだから。
「じゃ、またな!」康太は叫びながら、先に走り出していった。
 春樹は歩道を睨みつけたまま歩き続けた。学校は、彼が一番行きたくない場所だった。しかし、止めるわけにはいかない。彼は市立本町小学校の生徒だったし、ママは生活費と彼の授業料を払うために、仕事を二つも掛け持ちしている。イヤでも、どうしようもないのだ。
 彼はポケットの中で両手を握りしめて、心に苦痛を抱きながら重い足を運んで行った。

第四章 少年と老人の世界

 午後、信也は少年の家から少し離れた街角に立っていた。今日の授業は終わり、もう少年は家に帰っている頃だった。彼の胸のうちでは、先日の少年と老人の間で起こった不思議な出来事がずっと気になっていたので、もし、チャンスがあれば、その出来事の真実をどうしてもつきとめたいという思いがあったのだ。
 そのとき、家のドアが開いて少年の姿が現れた。一瞬、街角に立っている信也の姿を見たが、少年は何のそぶりも見せずそのまま階段を降りて、反対方向へ歩き出した。
 信也はすぐ後を追って歩いて行った。いまの彼はセラピストというより、付き添いという感じである。一ブロック先で角を曲がるのを見届けて、急いで行ってみると、少年の姿はなかった。慌てて町並のあちこち見まわしていると、ふいに背後の路地から少年が現れた。
「ぼくをつけているの?」
 一瞬、言葉につまったが、相手に不審がらせないように何気ない口調で信也は言った。
「いや、ちょっと時間ができたから、きみと散歩しようと思ったんだ。もし迷惑なら止めとくけど……」
 すると、少年はあっさりと「いいよ」と言いながら近寄ってきた。
 信也は内心“やった”という思いだったが、素知らぬ顔をして「どこへ行こうか?」と言うと、少年は「こっちの道へ行こう」雑貨屋の前を通りながら先に立って歩き出した。テラスハウスの前に来たとき、「朝、学校へ行くのにいつも三上康太とこの道を通るんだ」と言った。
「そうか、康太くんとは親友なんだね?」
「いや、康太はぼくが嫌いなんだ」と春樹は言った。
 信也はこれが冗談なのか事実なのか、ちょっと判断できなかった。
「じゃ、きみも康太くんが嫌いかい?」
 春樹は首を振った。
「彼にいじわるされたことある?」
「ないよ」あっさりと答えた。
 信也は彼の言葉通り信じた。彼に嘘をつく何の理由もないからだ。そこで質問を変えてみた。「ママが、彼と仲よくしろというんだね」
 少年はうなずきながら、足を速めた。
「だから本当のことをママに言えないんだね?」
「ママには言いたくない」
「なんで?」
「ママはぼくを決して変な目で見たりしない。見て欲しくないんだ……だから内緒にしてるんだ」
「内緒って、何を?」
「ぼくがモンスター (化け物) だってこと」
 信也は突然の成り行きに驚いていた。胸の傷がまた痛みだしたが、いまは気にならなかった。それよりこの少年のほうが大事だった。春樹少年の肩を両手でつかむと自分のほうへ引き寄せた。ちょうど、二年前の小沢輝夫が流しの中から包丁を取り出した時のような素早さで……
「春樹くん、きみはモンスターなんかじゃない」
 信也は思わず怒鳴っていた。もうセラピストでも権威ある精神科医でもなかった。ひとりの大人として幼い子供を叱りつけたのだった。この少年は彼にはたった一人の大切な患者というよりも、いまは大切な希望そのものだった。失ってはならない存在だった。
「きみは決してモンスターなんかじゃない。そんなことを言う奴などほっとけばいい。そんな“クソったれ野郎”の嘘を信じながら、きみは大人になっていくのか!」
 最後の言葉を言ったとたん、冷汗が首筋を伝って流れ落ちるのを感じた。我を忘れて怒鳴ってしまい、少年を傷つけてしまったに違いないと思った。なんというお粗末な失敗だ。
 少年はショックを受けたようにただ立ち尽くしていたが、やがてそっと言った。
「先生、頭に“ク”がつく悪い言葉を使ったね」
「ああ」信也は言った。「ごめん、謝るよ」
 少年が軽くうなずき、再びふたりは歩き始めた。そして一ブロックも行かないうちに、信也は自分がとった行動が失敗ではなかったことに気づいた。むしろ心の中の何かが解けて、固いしこりがほどけるような感覚を味わっていた。少年の様子からも、やはり同じ思いのような気がしていた。
 角を曲がったところで、突然少年は立ち止り、ひとりの老人を指差した。
 皺だらけの手で杖を持ち道路に立っている背の高い老人は、風に吹かれながらやっと立っているという風にみえた。
 信也もその老人はよく知っていた。あの教会にいた老人だ。
「あの人に用事があるんだけど……いい?」少年は訊ねた。
「ああ、いいよ」
 少年は、なぜか大股で大きく手を振りながら歩いていった。信也はそれが、老人の気を引くためだと気づいたのは、老人がどうも目が悪いらしいとわかったときだった。
「こんにちは、後藤さん」
「やあ、春樹くんか……こないだはありがとう」
 老人は門に寄りかかりながらお辞儀をすると、彼の顔は少年の頭の上にきた。
「妻は買い物に行っているよ」老人はわずかに困ったように眉をしかめて言った。「なかなか帰ってこないんだよ」
「きっと帰ってきますよ……このあいだの櫛のこともあるでしょう?」
 少年はなだめるように優しく言った。
「そうだね」急に老人の顔が明るくなり、曲がった背筋がぐんと伸びていた。
 信也は、ハンサムで大柄な好青年だった頃の後藤さんを思い浮かべることができた。
「ちょっと,寄っていかないかい?」と老人は訊ねた。
「いいですよ」すかさず少年は答えた。
「よかった。飲み物は何がいいかな?」
「レモネード」
「よし、すぐ作ってあげよう」
 老人は嬉しそうに杖をつきながらアパートの玄関から階段を上っていった。その足取りは見違えるようにきびきびとしている。
 後から階段を上りながら、春樹少年は「後藤さんは寂しんだよ」と信也に囁いた。
「でも、あの櫛の奥さんがいるだろう?」
「いや、奥さんの康子さんは、もうずいぶん前に亡くなっているんだ」と少年は呟いた。
 後藤老人がドアの前に立って手招きしているのが見えた。
「早くいこう。ほら、あそこで待っているよ」
 信也は少年の後に続いて部屋のなかへ入っていきながら、かつてあの教会で少年が起こした奇跡のような不思議な出来事を思い出していた。
 部屋には古い家特有の湿った一種かび臭い匂いにまじって、芳香剤のシトラスの香りが漂っていた。信也は老人に案内される少年の後を追いながら、この不思議な少年のことを考えている間に、居間へと入っていた。
 足元の絨毯は中国製のものだが、既にあちこち擦り切れて薄くなっており、部屋の隅には年代物の大きな三面鏡が置かれてあり、その横には描きかけの水彩画がイーゼルに立てかけてあった。
 信也は、亡くなった妻が帰ってくると信じているこの寂しい老人が気になり始めていた。彼はどのくらいそうした幻想を抱き続けているのだろうか? 数週間、一か月、それとも何年も? また、少年はなぜ、自分をここに連れてきたのだろう。後藤老人を診てもらうためか? それとも、ただ喉が渇いただけなのか? 
 信也は水彩画を見つめた。公園のベンチのようなもののそばいる白髪の老女が描かれている。老女は穏やかに微笑み、たくさんの花に囲まれている。だが、よく見ると、彼女はピアノの前に座っていたのだ……しかもこの部屋のピアノの前に。
 花々は色褪せ薄れている壁紙の模様だった。たぶんこの絵は老人が描いたものにちがいない。素晴らしい出来栄えとは決していえないが、精一杯の愛情をこめて丹念に描かれた絵であることは想像できた。
 信也はようやく気付いた。あの絵の老女が後藤夫人だった。
 少年は部屋のなかを跳びまわっていたが、急にピアノのそばへ駆け寄った。
 信也は老人がレモネードを持って戻ってきたときの少年の反応を見守った。
「妻が戻ってきたら、たぶんピアノを弾いてくれるよ」
 少年は震える手からレモネードの入ったグラスを受け取り「ありがとう」と礼を言った。
 驚くほど優しい心を持った子だと信也は思った。さっそく、ノートに書き込む文面を考えてみる。
 (……驚くべき感受性。とっさに老人を慰める方法を考え出した。さらに他人への優しさ。にもかかわらず心を閉ざしている。きっと自分が他の人々と違うことを自覚しているからだろう……モンスター? とんでもない)
 信也はこの少年の老人に対する心配と、慰めの行為の間に何かがあると感じていた。たとえその行為が偶然の思いつきだったとしても……
 信也の関心はふたたび春樹少年へと向けられた。
 いま、彼はコーヒーテーブルの上にグラスを置くと、部屋の左隅に置かれた大きな古い中国製の紫檀のタンスのほうへ飛び跳ねた。あちこち無数の小さな傷やひび割れのあるそのタンスは部屋の左壁にくっつくようにどっかと据えられている。
 老人は驚いてソファから立ち上がった。
「どうかしたのかね?」老人は、タンスの左端と壁の間にある細い隙間をしきりに覗き込んでいる少年に訊ねた。
「春樹くん」信也も声をひそめて呼びかける。
 少年はふたりを無視して、いきなり腹ばいになると、その狭い隙間に手を差しこんでしきりに何かを探しているようにみえた。その間隔の狭さでは子供か女性の手じゃないと、入らないだろうと、信也は思った。
 そのとき、「あった!」と、少年は勝ち誇ったように小さく叫ぶと、壁とタンスの隙間の中から、数冊の束ねられた薄いノートを取り出した。ノートはかなり古く、埃まみれで薄汚れていた。少年が手で埃を払うと、窓から差し込む光のなかで微細な埃がキラキラ光りながら仄白い煙のように舞い上がるのが見えた。
 少年はそのノートの束を老人の膝の上に置いた。「わたしに?」老人は驚いて訊ねたが、少年は何も言わなかった。
 老人は手にしたノートを怪訝そうに見ていたが、テーブルの上に置いてあった拡大鏡を手に取ると、そのうちの一冊の表紙をめくった。
「これは……」老人は一瞬絶句した。「……康子は日記をつけていたのか?」
 老人はさらにページをめくりながら少年に向かって囁いた。「わしは知らなかったよ。あいつが日記をつけていたなんて……」次々にページをめくりながら、ところどころ手を止めて読んでいたが、その顔には次第に優しい笑みが広がっていた。
 最初の一冊をざっと読み終えると、次々と他の日記の最後のページだけを調べていた。そして最後の一冊だけは、途中から白紙のままに残されているのがわかった。
「……ずいぶん長い間、書いておらんようだな」と、少年に話しかけながら、老人の目にはみるみる涙が溢れていった。
「ああ、まさか……そんな?」老人はノートと拡大鏡をテーブルの上に置いた。
「まさか……」老人は悟ったのだ。思いがけない真実を、妻が決して帰らないことを。
 少年は老人に近寄ると、乱れた白髪の頭にそっと手を乗せて、優しくその髪を撫でた。
 信也は息をのんで、少年と老人の世界に引きこまれていた。
 招かざる亡霊のように、ただ茫然と声もなく部屋の隅に立ち尽くして、まさに癒しに満ちた優しい世界に浸っている老人と少年を眺めていた。

第五章 学校での出来事

 学校の授業の中で、春樹が一番嫌っているのは歴史の時間だった。といっても担任の田辺洋介先生が悪いわけではない。先生はひと月に一度は生徒たちを、街の歴史を訪ねるちょっとした散歩をさせてくれたし、授業中もしばしば冗談を言って皆を笑わせることもあった。また宿題をだすこともなかった。その代わり、二週に一回のテストは大変だったけれど。
 春樹が嫌いなのはこの教室だった。いつもよどんだような変な匂いがするし、窓から見える中庭には節くれだった太い木の枝が曲がりくねった腕のように垂れ下がり妖怪じみた格好をみせている。何か邪悪なものが地面の底に潜んでいるような気がしてならないのだ。
 春樹はいつも、月曜の朝、教室に入ると窓を外を見ないようにしていた。しかし最後には見てしまうことになるのだ。
 中庭の中央に、手を繋いだ少年と少女の像が置かれてあった。ふたりは空いた方の手をそれぞれ空高く伸ばしている。「希望」と名付けられたそのブロンズ像は、彼の嫌いな樹のそばにあった。日が落ちて夕陽が指すと、その像はまるで血まみれになったように見えるのだ。
いまはまだ昼の授業が始まったばかりで、台の上の少女と少年はくすんだ緑色のこわばった身体を眩い太陽の光に晒しながら動かない腕と見えない目を空に向けて微笑んでいる。しかし夕暮れになればふたりは赤く染まり、まるで……
 春樹は濡れた冷たい手が首のまわりにまとわりつくような感覚に襲われ、ぞっとしながら、机に顔を伏せたまま、早く授業が終わらないかと待っていたのだ。
 毎朝、登校のとき「親友ごっこ」する三上康太が、ときどき、春樹の机の横を通るときに、まるで春樹に脚を引っ掛けられたようにわざと転ぶ真似をしてみせることがあった。そして「おお、春樹よ、なぜきみはモンスターのように脚が長いんだ?」と大仰な仕草でセリフを言いながら立ち上がると両手を広げて嘆いてみせた。女の子たちがくすくす笑いはじめ、男の子たちは春樹の噂話をし始めた。春樹は頭をぴったり机に押しつけている。
 やがて田辺先生が教室に入ってくると、あたりのざわめきがぴたりと止んだ。先生が教壇の上に立ってチョークを握っても、春樹はまだ俯いたままだ。先生が黒板に何か書き始めた。
 そのとき、春樹は急に顔を上げて黒板の横にある丸い大きな掛け時計を見つめた。
 彼は息を詰めて何かを待っていた。そして一時四十五分を過ぎたとき、春樹の目に高架の線路で突然火を噴いて燃え上がる電車の姿がまるで白昼夢のようにまざまざと見えたのだ。桜木町駅の手前、数十メートルの場所で停車した一両目とニ両目の車両が火の玉のように炎を上げて燃えさかっていたのだ。中に閉じ込められた乗客たちの恐ろしい悲鳴と絶叫がはっきり聞こえてきた。その焼けただれ、溶け崩れた無数の狂ったように眼を見開いた無数の顔が必死の形相で開かない窓の中からこちらを見つめながら叫んでいる……
 春樹は大声で「止めて、もう止めて……」と叫びながら、眼を閉じ、両耳をふさいで机の上に突っ伏した。
 一瞬、教室のなかはしんと静まり返った。
 誰かが「また、モンスターのうわごとが始まったよ」とあきれたように言った。
 康太の「またかよう……いいかげんにしろよ!」と、うんざりしたような声も聞こえる。
 先生は大きくふっとため息をつくと、教壇をおりて春樹のそばにやってきた。

 それから、一時間後、教頭室で担任の教師と春樹の母親がテーブルに向かい合って座っていた。背のひょろりと高い皺顔の教頭は渋面をつくったまま、しばらく顔を背けていたが、やがて顔をふたたび母親のほうに戻すと、静かに言った。
「こういうことは、あまり申し上げたくないんですが、どうもお子さんの精神面に問題があるようですね……もう幾度か、今日と同じような騒ぎを起こしているんです……春樹くんにその騒ぎの理由を(ただ)したのですが、わたしどもにはどうにも理解しがたい状況なので困惑している次第なのです……彼によると、“桜木町の手前の高架線路で電車がいきなり炎上して閉じ込められた乗客たちが焼け死んでいくのを見た”と言うんです。それもいつも一時四十五分頃に見るそうです……彼の訴える状況があまり真に迫っていましたので、その事故に関して調べてみたのですが……今から六十三年まえ、つまり一九五一年四月二十四日のほぼ同時刻に、ここからほぼ一キロ離れた京浜東北線桜木町駅で実際に起こり、大参事となった電車の車両火災事故の情況とほぼ合致していることがわかったのです。わたしどもはこうした幻視や幻聴あるいは超常現象という類いのことに関しては全くの素人ですので、確かなことは申し上げられませんが、息子さんが、こうした過去の事実を見たり聴いたりするということは常識的には理解できませんし、また通常あり得ないと思うのです。あるいは春樹くんが何かの本か雑誌でその事故を知って、それを自分の妄想のなかで現実のように感じているのかも知れません……とにかく、こうした情況は息子さん自身にも今後、悪い影響を及ぼす恐れも考えられますので、この際、一度、専門の児童精神科のほうで診てもらうようにお勧めしたいのです」
 母親の黒川真由美は、教頭に顔を向けたままじっと話を聞いていたが、そのきりっとした張りのある目をした勝気そう顔に、驚きというより、むしろ深い哀しみの表情が次第に大きく広がっていった。
「お話の主旨はよくわかりました。よく考えたうえで、どうしたらいいか決めたいと思います。ところで教頭先生。これだけは確かめさせていただきたいのですが……今後とも息子がこちらで授業を受けさせていただくのには問題ない、と理解していいのですね?」
 教頭は大きく頷きながら「もちろん問題ありません。これまで通り登校させてください」
「ありがとうございます……それで、いま息子はどちらに?」
「ああ、いま医務室にいます。もう落ち着いているようですよ」
 須磨子は教頭と隣の担任の教師に深々とお辞儀をすると、「今日は、とりあえず連れて帰りたいと思います」と言いながら立ち上がった。
 かつての名だたる児童精神科医、芦刈信也は学校の事務室を通り過ぎ、図書館へと続く廊下を颯爽と歩いていた。この学校は天井も低く、一流の私立小学校としては、いかにも古めかしい造りである。しかし廊下や窓ガラスはぴかぴかに磨かれていた。信也はゆっくりと春樹少年のいる医務室へと近づいて行った。いまのところ“教室で不適切な言動をした”ということ以外に、少年に何が起こったのか予想つかなかった。担任は落胆し、教頭は悩んでいる。どこの学校でもこうしたトラブルはつきものなのだ。
 セラピストはポケットに手を突っ込みながら、医務室へと足を踏み入れた。看護師はいなく、少年独りだった。隅の机の上に頭をつけ腕で抱え込んでいる。袖がまくれあがっていたので、素早く新しい傷がないことを確認して、信也は向かい側の椅子に座った。彼が来たのを知っているはずだが、少年は顔を上げない。
「よお、兄弟。大丈夫かい?」と冗談めいた口調で話しかけた。
 少年はゆっくり顔を上げたが、瞳には怒りとある哀しみが溢れていた。
 むしろ、いい徴候だと思った。少なくともこれから始まる嫌なことに目を向けたのだから。
「何も話したくないんだ」再び少年は机に顔を伏せた。
 午後の放課後。校庭やホールには子供たちが溢れている。盛んに冗談を言い合ったり、名前を呼びあいながら無邪気にはしゃいでいる。その騒ぎはこの部屋にも微かに聞こえてくる。幸せいっぱいの彼らと、目の前の怒り悲しむ少年との間にある埋めることのできないその大きな隔絶(かくぜつ)……信也はまた胸の古傷がずきずきと疼くのを感じていた。
「手品は好きかい?」少年に言った。
 少年は頭を持ち上げて小さくうなずいた。
「さあ、この百円玉をよーく見てるんだよ」
 信也は右手のひらの中央に硬貨を置き、握りしめた。
「さて、魔法のひと振りを……」と、大げさな手振りで円を描くように拳を振ってみせる。「すると、なんとこの百円玉は左の手に」信也は左の拳を少年の前に差し出した。当然、彼はその拳が開かれるものと思っている。しかし、信也は手を開かない。
「トリックはこれからだよ」と言いながら、「もうひと振りすると……百円玉はぼくのポケットの中に」彼はポケットのあたりで手を振った。
 信也は胸の内で呟いていた。
 (子供を扱うのは難しい。大人と違って経験から判断を下すことはない。それぞれ固有の本能の赴くままに行動する。したがって、こちらの思うように事が治まることなどありはしない。もし失敗したら? いや、失敗を恐れていたら何もできない。ただ前へ進むしかない。とにかくいまは目の前にこの少年がいる。大切なのは過去ではない。もちろん二年前でもない……救おうとしている子供は黒川春樹であって、小沢輝夫ではない)
「ポケットの中に入っているんだ」信也は左手をポケットの前で振って見せた。彼は少年の目が左手にいくのを待った。この遊びは彼自身をリラックスさせていった。まるで自分自身のセラピーのようだと思った。
「さあ、いいかい。最後のひと振りで……」彼は両手の拳を頭の上で振った。
「そして、百円玉は……最初の手の中に戻っているんだ」最後のオチが終わったところで、彼は右手を開き硬貨を見せた。
 少年は硬貨を見ると、彼に微笑みかけた。
「なんだ、手品じゃないや」
「えっ、何だって?」彼は大げさにのけぞりながら、残念そうな顔をしてみせた。
「だって、百円玉はずっと右手の中に入っていたんでしょう?」
「へえー? この右手に?」かれは硬貨を机の上に置くと悪戯っぽい笑いを浮かべた。
「先生って、けっこう面白い人なんだね」
「そうかい? この手品はもうずいぶんやっていなかったんだよ」
 少年は微笑みながらうなずいた。
 しかし、次の瞬間、何かが起こった。彼には見えない何かが少年の心に入り込んだのだ。
 外で遊ぶ子供たちの賑やかな声が聞こえてくる。
 少年はじっと窓の外を見つめていたが、みるみる顔色が青ざめ、表情がこわばっていき、最後に凍りついていた。それから四十分の間、信也は声をかけることができなかった。
 少年の凍りついた眼差しと恐れ傷ついた表情は、母親が迎えに来るまで消えることはなかった。

第六章 セラピストの悩み

 学校を出て通りを歩いていると、気持ちが次第に沈んでいった。何時間もさ迷い歩いた。あの医務室で少年が窓の外に見たものは何だったんだろうか? 二年前の失敗をまたあの少年で繰り返すのではないか、という不安が胸を締め付けた。しかし少年の心を理解する方法を見つけ出すことはできなかった。
 信也が家へ着いたのは、夜遅くなってからだった。とっくに夕食の時間は過ぎ、リビングの明かりも消されていた。ただ、テレビから洩れる青い光が彼の足もとを照らしていた。
 彼はふと思った。あの少年から少し離れてみよう。ちょっとの間だけ忘れてみよう。
 今日、母親が少年を救いにくるちょっと前に、彼はあの不思議な蒼ざめた顔の少年を医務室に残して、彼は学校を抜け出したのだった。とりあえず今夜は少年から去ることができた。
だが、妻の須磨子に話しかける勇気はどうしても湧いてこなかった。彼はホールにある机の上にきちんと重ねられている郵便物を手に取った。こうした郵便物の数はこの二年で確実に膨れ上がっていた。請求書の束、「最終通告」とか「法的な対処を検討中」といった脅しの文句は正直、まったく深刻味が感じられないし、買ったものが消えてなくなるわけでもない。いまのところ、妻のアンティーク・ショップの収入で辛うじて生計が成り立っている。家の借金を払い、生活用品を買い、時折電気料金を滞納し、カード会社に言い訳しながらなんとか凌いでいる。束になった請求書の脅迫にもかかわらず生活はなお続いていくのだ。
 彼がぼんやりと郵便物を眺めていると、リビングから妻の見ているビデオの音が聞こえてきた。ふたりの幸せそうな声……結婚式のビデオだ。
 彼はそっとリビングへ入っていった。テレビにはけばけばしい紫色のドレスを着た太った女性がカメラに向かって話しかけている。「信也さん、その可愛いお尻を落ち着けてよーく聞いてね。わかった」衣川雅子だ。口紅も紫色である。
「須磨子は私の妹みたいなものよ。幸せにしなきゃだめよ、さもないと……」
 話の途中で、雅子は大きなケーキを手渡された。彼女は目を丸くしてケーキを見ながら、指でクリームをすくって舐めてしまう。彼は思わず吹きだした。「うーん、これはバタークリームね」雅子の言葉を、彼がからかって真似をしたことがあるのを思い出した。こんな楽しいことがあったなんて忘れてしまっていたのだ。幸せな結婚式の雰囲気に誘われるように彼女は話し続ける。
「わたしのいう幸せは、ジュリー・アンドリュウスみたいな幸福よ。山の頂上で愛する人とくるくる回りながら歌う、あの幸福。わかる? 信也さん、あなたって幸せな人よ」
「そう、ぼくは幸せさ」信也は言う。
「彼女は本当にあなたを愛しているのよ。内緒にしてって言われてるけど、言ってしまうわ。初めて会ったときから、あなたを愛していたの。あなたのためなら何でもするって」
 雅子はカメラの前で泣き出した。「あなた達が大好きよ」涙が頬を伝い、マスカラや口紅を溶かして、ドレスに染みを作っている。「ハナが出てきちゃった。誰かティッシュをちょうだい」信也は笑いながら、妻のソファを振り返った。しかし、そこには膝掛けが丸まって置いてあるだけだった。
 二階から水の流れる音がしている。須磨子はきっと浴槽のなかで、お湯がいっぱいになるのを待っているのだろう。ハーブの香りのする温かいお湯に長い間浸かっているのはいつものことだ。リラックスのための入浴。これは彼女の一種の儀式のようなものだ。時には夜中の二時頃まで浸かっていることもあった。
 信也は思う。“ぼくは幸運な男だ”……須磨子のような女性と出会い、永遠の愛で結ばれたのだ。結婚式に来ていた誰もがふたりを、そして彼を羨んだ……いいようのない懐かしさが胸に溢れてきた。
 彼はビデオをそのままにして二階へ上がっていきながら、再び思った……いつからか、彼は妻に背を向けるようになり、ふたりの間の溝は深まってしまった。すべては彼の責任なのだ。何とかしなければ。いまなら、まだ間に合うはずだ。
 浴室の湯気がドアの隙間から廊下へと流れ出ていた。妻はまだ浴槽に身を沈めているだろう。信也はそっと浴室のドアを開けた。あたかも、この世の妻を、亡霊となった夫が盗み見るように……
 湯気が彼を包み、温かい霧がまとわりつく。彼と妻の間は浴槽のガラス戸で遮られていた。しかし彼の研ぎ澄まされた感覚は、妻の艶やかな脚が浴槽の端に乗せられているのを見た。柔らかく丸い尻が泡の中に沈み、水面で豊かな胸が揺れている様子が思い浮かんだ。そのなめらかな白い身体は石鹸とバスオイルでつややかに輝いている……想像の中の妻のイメージが彼の身体を駆け巡り、胸を高鳴らせた。信也は妻に近寄りながら、突然の欲望に貫かれるのを感じた。その瞬間、またしても傷の痛みが彼を襲った。動くたびに凄烈な痛みが彼の胸を貫き激しい痙攣が彼をよろめかせた。彼はめまいに脚を取られながら、ようやく壁に手をついて身体を支えた。ちょうど、二年前に小沢輝夫の包丁が彼の胸を刺し貫いた時のように、彼はあえいでいた。そのとき、鏡の前の棚に小さな薬の瓶があるのに気づいた。その小瓶には「ジェイゾロフト・抗鬱剤」と書いたレッテルが貼られていた
 信也の最大の失敗……それは自分自身を駄目にしたばかりか、最も大切な愛する者をも(むしば)もうとしていた。彼は静かに壁に寄りかかり痛みが治まるのを待った。そして声もかけず、そっと浴室を出て行った。妻が夫の存在に気づいていたかどうかさえ、知らないままに……

第七章 土蔵の中

 春樹は、今日が桜木小学校校長の息子、城間竜二の誕生日パーティーだったことを、すっかり忘れていた。なぜなら、さっき恐ろしい光景を見たあとの大騒ぎのために、頭が凍りついたようになってぼんやりしていたからだ。母親がプレゼントの箱を抱えて医務室に迎えに来てもよく判らなかった。
「春樹、今日のパーティーのこと忘れたの?」と言われて初めて思い出した。ママとは学校の外で待ち合わせをしていたのだ。
 医務室にきたママの顔の表情から、教頭先生がさっきの騒ぎのことをママに話したのはわかっていた。ママが“大丈夫よ、気にしないで頑張るのよ”という顔をしていたからだ。きっと、先生はママの職場にまで電話をしたに違いない、と思った。
 信也先生のほうは春樹の混乱した様子をみて早々に帰ってしまった。春樹は少し寂しい気もしたが……信也先生が好きになり始めていたから……一方、どこかほっとした気持ちもあった。なぜなら彼は人と話をするのが苦手だったからだ。できればずっと口をきかずにいれればいいのだが、永遠に黙っていることなどできないのだ。
「もう行きましょう」とママが言った。「ガム食べる?」
 春樹がうなずくと、ママはハンドバッグからミント・ガムを一枚取り出して渡した。
「今日は、大変だったわね?」廊下を歩きながらママが言った。
「うん」
「何があったか話したい?」
「話したくない」
「本当に?」
「うん、本当に」
 春樹は足を速めた。心配そうなママに元気なところを見せたかったのだ。  
「話したくなったら、いつでもママに話してね」
 小走りに先を行く息子に言った。
 春樹は門のところで立ち止まり、ママの顔色を確かめた。やっぱりだ……ママはぼくのことをモンスターだなんて思っていなかった。でも、本当のことなんか言えないということはわかっていた。
「ママ、パーティーに遅れるよ」
「城間くんに素敵なプレゼントを買ったのよ」ママは箱を持ち上げた。「戦艦なの」
 春樹はうなずいてみせたが、胸のうちでは(竜二には、このプレゼントはゴミ同然だろう。なぜって、せいぜい五歳の子供用のオモチャだから)と思った。でも彼は何も言わなかった。ママを傷つけたくなかったからだ。それに、春樹のプレゼントとなれば、たとえ新型のプレイステーションのソフトだとしても、竜二は喜ばないに違いないからだ。(でも、いいさ)と春樹は思った。大事なのはママの気持ちなんだ。息子を連れてパーティーへ行くことが、とても嬉しそうにみえたからだ。とっておきのジーンズをはき、お気に入りのブラウスを着て、歩きながら鼻歌まで歌っている。こんな浮き浮きしたママを見るのはひさしぶりだった。
 春樹は振り返って笑顔を見せながら「城間の奴、きっと喜ぶよ」とママにいった。
 城間竜二の家は三階建ての古い邸宅で、春樹の住んでいるテラスハウス式のアパートを二つ合わせたくらい広かった。巨大なポーチの床板はぴかぴかに磨き上げられている。ドアベルはなく、その代わり大きな青銅製のライオン(いまにも吠えそうな立派な彫刻だった)の口に金属の輪がぶら下がっている。
 輪をカチカチと鳴らしたママと並んでポーチに立っている春樹は玄関が開くのを待っている。やがて扉が開いて制服を着たメイドが現れた。「こちらへ」とふたりを家の中へ案内しながら、居間に置かれたプレゼントの山を見せてから、ママに「大人の方々はキッチンの方へ」と言った。
「校長先生と奥さんにご挨拶をしてくるわね」ママは春樹にプレゼントを渡すと、メイドに案内されてキッチンのほうへ行った。春樹はママから受け取った箱を誰にも見られないように、プレゼントの山の奥のほうに押し込んだ。
 校長の城間邸は、横浜を代表する商店街のひとつ元町の南側の高台の山手高級住宅街にあった……昔は外国人居留地として多くのイギリス人やフランス人が住んでいたが、1889年(明治22年)に横浜市制が施行され、谷戸坂町、山手本町通、富士見町などを含む山手26か町は外国人居留地のまま市域に含まれることになった。そして1899年(明治32年)に条約改正により外国人居留地が廃止され、26か町の区域に山手町として設置された。その後、1932年(大正12年)の関東大震災で大きな被害を受け、以後、この区域に住む外国人居留民は激減し、代わって日本人の富裕層の人々が多く住むようになり、また異国情緒豊かな観光スポットとしても有名になった。
  居間とダイニングルームを隔てる広い廊下は、色様々な風船と多くのバースデー・カードで飾られている。ダイニングルームには色紙の飾りが天井のシャンデリアにぶら下がっており、テーブルの上の皿の上にはお菓子が山のように積まれていた。
 しかし春樹にとっては決して馴染めないところだったし、さっきからどこからか吹いてくるぞっとする冷たい風が彼の首を這い上がり、天井からは何かに見つめられているような気がして身動きができないでいたのだ。
「やあ」春樹は斉藤四郎に声をかけた。四郎はテーブルの端の席に独りで座っていた。彼もクラスは違ったが同学年の生徒のひとりだが、その肥満した体格のせいで春樹同様、皆からいじめられていた。
「ああ」四郎が返事した。春樹は四郎が担任の田辺先生の授業中に起きた騒ぎを知っているかどうか探った。しかし、四郎は春樹には全く興味がなさそうだった。春樹だけではなくここの全てに対して無関心に見えた。彼は哀しそうな目でキッチンのほうを見つめている。ここにいるのが苦痛なのは明らかだった。うまそうなケーキでも出れば違ったかもしれないけど。
「みんなは?」春樹は彼の傍にすわって訊ねた。
「さあ……外で遊んでいるんだろう」
「そうか」
「竜二は新しいバイクやラジコン・カーももらってた」
「すごいね」と春樹は目を丸くしてみせた。
「他にも山ほどもらっている」四郎は居間の贈り物の山をちらっと眺めた。
「全部、親からだよ。ぼくはダサいゲームを持ってきた。最低さ」と四郎は言った。
「ママがドレスを買いたかったからなんだ」
「ひどいなあ」
「しょうがないさ」四郎は憂鬱そうにうなずいた。そして再びキッチンのテーブルと床へ目を向けた。ほんとうに悲しそうなのだ。
 春樹はなんとかして彼の顔に笑いを取り戻してやりたかった。いつもはもっと陽気な四郎なんだから。
「ねえ、百円硬貨もっている?」春樹は訊いた。
「百円硬貨?」四郎はむっつりしながらポケットの中を探り、硬貨を取り出した。
 春樹はその硬貨を手に握り、さっき信也先生が医務室でやっていたように両拳を頭の上で振り始めた。「よく見ててよ、どこにも隠してないから」と芝居めいたセリフも唱えながら、四郎をなんとか笑わせようと懸命になった。
「それじゃこの硬貨にご注目、チチンプイプイ……硬貨はぼくの左手に、いや待った。違うぞ、ここだ。シャツのポケットの中に……これからが見どころさ……ほら、弧の通り、元の手に戻っている」
 四郎は相変わらずつまらなそうに春樹をみつめている。
「どう?」手の中の硬貨を見せながら言った。
「つまんねえの……ばかみたい」四郎は口をとがらせた。 
「冗談だよ。面白いと思ってやったんだけど」春樹はちょっと大げさすぎたと後悔した。
「くだらないよ。ぼくの百円玉を返して」
 春樹から硬貨を受け取ると、四郎は急いでポケットにしまった。まるで春樹が盗もうとしたかのように。
「ぼくは惨めなんかじゃないぞ」春樹は呟いた。
 四郎は脅かされたのかと思い身構えた。「何なんだよ」彼の顔色が少し変わった。
「べつに、何でもないよ」春樹は首を振るとテーブルから離れていった。そして部屋の隅の椅子に座ると、がっくりと肩を落とした。
 春樹は胸の内で幾度も繰り返していた。
 (ぼくは惨めなんかじゃない、決して惨めじゃないぞ……モンスターなんかじゃない) 
              
 校長夫人の城間礼子にワインを勧められたとき、春樹の母の真由美はビールを頼もうかと思ったが、他の母親たちもワインを飲んでいたし、このパーティの後に仕事も控えていたので、ワインを受け取り、グラスの縁から少しずつ口に含んでいた。
 彼女は驚くほど広いキッチンの中央に置かれている調理台に寄りかかり、上から吊るされている鍋やフライパンに頭が触れないように気を遣っていた。キッチンのすべてがピカピカに磨かれて、真新しいもののように綺麗だった。冷蔵庫は傷ひとつない木製のキャビネットの中に収納されていて、彼女がゴミ圧縮機だと思い違いした食器乾燥機もきちんとキャビネットの中に納まっていた。真由美にとっては夢のような完璧なキッチンといえた。
 礼子夫人を気立ての良さそうな人だと思っていた。すくなくとも、彼女に自己紹介もしない他の他の母親たちよりずっと感じがいい。彼女たちは気取った風にパリやイタリアに行ったときの洒落たレストランや料理の話をしていた。
 真由美は少し離れた場所で感心したようにうなずいたり、一応話を合わせていたが、内心では少しも楽しくはなかった。でも、息子が彼女たちの息子の仲間入りを助けるためには、この居心地の悪さを隠し通そうと決心していた。
 城間礼子はワインをぐいと飲み干すと、真由美のそばへやってきた。
「黒川さん、今日は来てくださってありがとう」とにこやかに礼を言った。
「こちらこそ、ご招待くださってありがとうございます」と丁寧に答えた。
 「息子はめったに招待を受けませんのよ」
「そうお?」礼子は笑った。
「ここの子供たちはみな、パーティ好きだと思ってたけど」
「この前にパーティへいったのは一年前で、元町のゴールデン・ゲートだったわ」
「ゴールデン・ゲートって?」
「中に遊技場のあるレストランよ。食事の後にオモチャやゲームで遊べるの。子供たちに人気の店よ」と真由美はその店を思い出しながら言った。子供たちは大喜びしていたが、あのとき息子の春樹はマジック・ボックスの真っ暗な箱の中に入ったまま、出てこなくて心配したことを覚えている。出てきた時は顔は蒼白になっていた。ちょうど夫と離婚した頃のことだった。
 礼子はもっと真由美から話を引き出したい様子だった。おそらく誰かに聞いた春樹の噂を確かめたかったのかもしれない。しかし、ウエイトレスが料理をとりにキッチンに入ってきたので、礼子はその場を離れていった。

 真由美はワインをゆっくり飲みながら、夫との離婚のことをふと思い出していた……学校のカウンセラーは夫婦の離婚は子供に多くのトラウマを残すと言い、離婚直後に診てもらった精神科医も、同じようなことを言っていた。しかし、彼女は息子を特別な子だと信じていた。幼い頃からどこか他の子供と異なった極めて鋭い感受性を持っており、従ってその行動にはどこか人並み優れたものがあると彼女は信じていた。特に母親の自分や他人へ示すその優しさには子供ながら並はずれたものがあり、そうした気質は息子の生来のものだと彼女は考えていた。
 しかし夫のほうは、息子の性格のどこか昏い不安な面を理解できず、息子が急に閉じこもったり、急に不機嫌になったり、目には見えない何かを怖れたりすることを、一種の神経症と断じ、息子の情動をありのままに受け入れるのを拒むようになった。そうした息子への理解の相違がいつも夫婦間の諍いの種になっていたのだ。さらに妻の生来の柔軟な考え方と夫の頑な性格との軋轢(あつれき)もあって、夫婦間の溝は深まる一方となり結局離婚へと進んだのだった。いずれにしても、彼女は、良きにつけ、悪しきにつけ、息子の特異な感受性は彼生来のものであって、カウンセラーや医師のいう離婚のトラウマが影響しているとは決して考えていなかった。
 そのとき、傍にいる母親たちの会話がふたたび耳に入ってきた。話題はフォアグラに移っている。話によるとフォアグラとは、世界三大珍味として有名な食材で、ガチョウやアヒルに沢山のエサを与え、肝臓を肥大させて作るもので、フランスではクリスマスの祝い事の伝統料理だということだった。真由美には何のことかさっぱりわからなかった。
 彼女たちはきっといい母親なのだろう。子供に同伴してパーティーにやってくるくらいだから。こうしてべちゃくちゃ会話をしてお互いを知り、友人を知るということは、子供のためでもあるだろう。たとえ彼女たちが持て余すほどの時間があるためだとしても立派なことだ。また、彼女たちの子供は、真由美の知る限り、学校で“羽目を外す”ことはしない。もちろん、楽しいパーティーで、例えばマジック・ボックスに入ったまま出てこなくなるといったようなこともしないだろう。
 たぶん、それが『普通』ということなのだろう。真由美はワインをすすりながら、母親たちに接する方法を考えていた。息子のためにも、つき合いにくいイヤな母親だと思われたくなかったからだ。
 とにかく話しかけてみようと、彼女は調理台から離れふたりの方へ近寄っていった。そのとき、足元が滑って危うく転びそうになった。辛うじてバランスを保つと「あぶなかったわ」と呟いたが、母親たちは相変わらず彼女を無視していた。
 仕方なく、あたりのキッチン用品を眺める振りをしていたが、礼子夫人が戻ってきた時にはグラスのワインを一滴残らず飲んでしまっていたことに気づいた。
 夫人に勧められるままに、真由美のグラスには新たにワインが注ぎこまれていた。

 春樹は古い家が嫌いだった。古いだけに、(あいつら)がたくさんそばへ寄ってくるのだ。しかも、(たち)の悪いやつらが多い。
 街のあちこちで恐ろしいことが起こるのだが、古い家は特にかれらを呼び寄せているようだ。城間家も歴史のある古い屋敷だ。窓には綺麗なステンド・グラスが入っており、ぴかぴかの床は新しかったが、もともとは古い家だったのだ。
 春樹は、トイレに行こうとダイニング・ルームを出た途端、何か嫌な予感がした。
 そのとき、三上康太と城間竜二のふたりが裏庭からやってきた。康太は春樹を見ると、「やあ、春樹」と言いながら、肩に手を回した。
 春樹は手を払いながら、竜二に「誕生日おめでとう」と言った。うなずく竜二は康太と同じ背が高くやせっぽちだった。
 康太が言った。
「竜二に聞いたんだけど。裏の土蔵にいろんな珍しいものがあるぜ。行ってみないか」
「ほんと?」春樹は竜二に顔を向けた。
「いまは全く使っていないんだけど、確かに昔のいろんな道具などが入れてあるよ」
「いまから行ってみようや」と言いながら、康太は春樹の腕を掴んでひっぱっていこうとした。
「嫌だ」と春樹は腕を振り払おうとしたが、康太は大きな手は彼の腕をがっしり掴んで離そうとしなかった。
「大丈夫だよ。おれたちふたりも一緒だから」
 康太に引きずられるままに、春樹は裏口をでると庭を通り奥にある白い漆喰造りの土蔵の前にいった。
 そんとき、春樹は急に首筋が冷たくなり、耳の後ろが痺れたようになり、足から(こご)えた何か気味の悪いものが這い上がってくるような気がした。

 いま、彼には、はっきりわかったのだ……その土蔵は、いまは物置きとして使われているが、大昔には牢屋として使われていたことが……そこから流れ出る冷気は春樹の身体や腕や足を痺れさせていた。誰かがここに閉じ込められたまま死んだのだ。それも一人じゃなく、二人……いや三人だ。この牢屋から永遠にでることなく、それまま飢え朽ち果てて死んだのだ……
 恐怖に駆られた春樹は逃げ出そうとして、入口のほうへ引っ張っていくふたりの大柄な少年に必死に抵抗したが、無駄だった。
「やめて!」彼は必死に叫んだ。「やめろってば!」
 しかし、ふたりはやめようとはしなかった。
 康太が大きな分厚い扉を開け、後ろから竜二が春樹を中に押し込んだ。次の瞬間、扉が閉まった。
 春樹は全身を震わせながら叫び、扉を拳で叩き続けた。だが、がっしりした扉はびくともしない。そして、彼の背後の暗闇には(やつら)がいた。
 三人のうち一人は、自分と同じ年頃の男の子だった。頭蓋骨が割れて両目が飛び出して頬に垂れ下がっている。他の大人たちもみな、頭蓋骨がぱっくり割れて脳が見えている。折れ曲った指、怒り狂ったような恐ろしい眼、恨みに歪んだ口……彼らが近づいてきた。

 完全にパニックに陥った春樹は、声をかぎりに叫びながら扉を叩き続けた。背後から、指や手や、剥がれ落ちた皮膚の破片が、春樹の身体にまとわりつく……少年にはどうすることもできなかった……絶望のあまり、断末魔のような恐怖の叫び声をあげた瞬間、少年の胸の奥で何かがぷっつりと音をたてて切れた。

 真由美の耳に裏庭の騒ぎが聞こえてきた。数人の子供たちが興奮した声で話し合っている。その騒ぎの中で一際甲高い絶叫が響いていた。
 次の瞬間、その声が息子の声だと気づいた彼女は思わずワイン・グラスを落していた。血相を変えて彼女はそのままキッチンを走り出ると、ざわついている裏庭に出た。数人の子供たちが大きな白壁の土蔵の扉のまえで騒いでいる。
 中から息子の叫びが聞こえている。真由美は扉に飛びつき、掛け金に手を掛けた。その時、内側から何かが扉に激突し、息子の叫びがぴたりと止まった。彼女は掛け金を握り直して、必死に扉を開けようとしたが、重い扉はなかなか動かなかった。すぐそばに茫然とたっているふたりの少年、康太と竜二に「あなた達も力を貸して!」といい、三人で力を合わせて扉を引っ張った。ようやく重々しい音をたてて扉がいっぱいに開いた。
「ちょっといたずらをしただけなんだ……こんなことになるとは思わなかった」と、康太が真由美の後ろで言い訳している。息子は扉のすぐ近くにある時代物の柩に似た黒い漆塗りの箱のうえに倒れていた。
 そのとき、城間夫人が駆けつけてきた。
「すぐ救急車を呼んでください」と真由美が叫んだ。
「でも……」夫人はためらっていた。
「早く、お願いします!」と重ねて真由美は言いながら、息子を胸に抱き寄せた。
 春樹は息をしていたがショック状態で意識はなかった。身体の(外)には傷はないようだったが、問題は(中)だと予感した。心に傷を負ったに違いない。息子は蒼白な顔をして微かにうわごとのように呟いている。真由美は息子を抱いたまま、庭伝いに玄関までいき、階段のマットのうえに座り込んだ。そしてそっとその身体を揺すっていた。彼女の心はいま無念の想いでいっぱいだった。こんなことになるんだったら、最初から連れてくるんではなかった、という後悔の念に(さいな)まれていたのだ。
 まもなく、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきたかと思うと、表通りの角からすぐ白い車体が姿を現した。
 玄関前に車がとまると、ふたりの白衣を着た救急隊員が駆け下りてきて、母親から簡単に様子を聞いたあと、ぐったりとしている少年の状態を手早く調べていたが、「ショック状態ですから、すぐ病院へ運びましょう」といい、てきぱきと搬送用のストレッチャーに乗せると車に入れた。真由美は急いで車のなかに入り、礼子夫人に病院へ一緒についてきてくれないかと頼もうとしたとき、夫人が車から離れていくのを見た。他のふたりの母親もすでに姿を消していた。数人の子供を覗いて、他には誰も車そばにいなかった……
 隊員のひとりが落ち着いた声で「社会保険横浜病院に行きます」と真由美に知らせた。その病院までは、ほんの数分の距離だった。車の振動に揺られながら母親には一秒一秒が何時間にも思えた。心の中では悪い予感と切ない希望が激しく交錯している。息子の弱々しい息づかいを聴きながら涙ぐんでいた。白く汗ばんだ額にかかる前髪に手を掛けながら、先週散髪に連れて行ってやらなかった自分に腹を立てていた。そして眼の間のゆっくりと鼓動している温かい胸に手を当てているうちに、病院で初めて息子を胸に抱いたときの感触を思いだしていた……痛みを乗り越えたあと、疲れで朦朧としながら、自分の胎内から新しい命を生み出したという喜びと興奮に酔ったあの瞬間のことを。
 しかし出産までの道のりは苦しかった。つわりはひどく、脚はむくみ、予定日ぎりぎりまで勤めていたので、男性用のラージ・サイズのキャンバス・シューズを履いて出勤していた。
 車がまた揺れた瞬間、息子が微かに呻いた。声を出すのはむしろいいしるしだ。
 かつて、真由美は自分の母のようになりたいと思っていた。母はいつも、物事のさばき方を心得ていた。母がいてくれたら……どんなに心強かったろう。しかし母はもういない。もし生きていたら、今日のようなときはどんなことを言うだろう?
「離婚なんかするから、息子がおかしくなったのよ」あるいはこんな風に言うだろうか?
 でも、彼女は離婚が原因じゃないと確信していた。息子は生まれた時から病んでいたのかもしれない。幼い時から他の子供とは違っていた……いま、あらためてそう感じている。
 あるいは自分のせいかもしれない。仕事のために充分に見てやることができず、遊んでやることもできなかった。泣いている息子をベッドに残して仕事へいったこともある。
 ああ、子供を育てるということは、何んて難しいのだろう。特に独りで育てるというのは……とはいえ、夫がいたとしても大し役には立たなかったろう。ただ仕事を二つも掛け持ちして生活を支える必要はなかっただろうが。
 (大丈夫、わたしはうまくやるわ……息子もきっとよくなる)
 車がサイレンを止めてカーブを曲がりスピードを落とした。救急患者用の入口に止まった。素早く後部のドアがひらき、ふたりの隊員が息子をストレッチャーに乗せたまま、下に下すと、ドアを開けて病院のなかへ入っていった。すぐ左側の救急処置室に入れられると、ふたりの看護師と医者が息子を取り囲んですぐに医療処置をはじめた。ずっとそばについていった真由美は、医師から問われるままに、家で息子の周りで起こった当時の情況やその時の息子の身体の様子をできるだけ正確に伝えた。看護師は馴れた手つきえ春樹のシャツを脱がせ、血圧を計っていた。医師は少年の胸に聴診器を当てて音を訊いたあと、少し先の広い病室へ運ばれていった。
 その病室には何台ものベッドが並べられ、その間を白いカーテンで仕切ってある。カーテンの隣のベッドでは誰かが唸り声をあげており、反対側のカーテンの向こうのベッドでは、ハアハアと苦しそうな息遣いの患者が付き添いの者に何か叫んでいる。騒然とした気配が室内に漂っていた。
 息子はストレッチャーからベッドに移され、様々なモニターから延びる何本ものワイヤーが彼の裸の胸に取り付けられた。真由美は一瞬、息子のシャツを捜したが、シャツは自分の手に握られていた。
「お母さんはこちらへどうぞ」と若い看護師が言った。真由美は振り返り、自分に退室を促しているのに気づいた。もうひとりは息子のベッドのまわりのカーテンを引いていた。
「いいえ、息子のそばにいます」と真由美は言った。
「黒川さん、お願いします。書類に記入していただかないと」
「保険証なら、ちゃんとここにありますから」
 彼女はハンドバッグから保険証を出して渡そうとしたが、看護師は「息子さんのために手続き上いろいろとお聴きしたいんです」と重ねて言った。
「いまは、息子のそばについていたいんです」と真由美は頑なに断った。
 周りにいる看護師たちは困惑したようにざわざわと囁きはじめた。隣りでは相変わらず患者がうめき声をたてている。真由美はこうした周りの騒音を無視して、息子だけを見つめていた。その強張った蒼白な顔、わずかに開いている血の気のない可憐な唇、枕に広がる柔らかな黒い髪の毛……祈るような思いでじっと見つめていた。
「お母さん……息子さんはもう大丈夫ですよ」ベッドの反対側にいた医師がなだめるように静かな落ち着いた声で言った。四十歳ぐらいだろうか、やや疲れた表情ながら、その眼差しには一種の確信に満ちた力強さが感じられた。それを見て、真由美は彼が信用できるような気がした。
「わたしは息子さんの担当医の青木です。いまのところ心配はありませんのでご安心ください。どうか、看護師からの質問に答えてくだされば、息子さんの治療の参考になるのですが」
「でも、いまはそばを離れたくないんです」真由美は訴えるように言った。
「大丈夫ですよ。息子さんをどこへも移しませんから」
 医師の声には辛抱強い、どこか慰撫するような響きが感じられた。おそらく、こうした台詞を何百回となく繰り返してきたせいだろう。彼にとってはいつものことなのである。
「もし、どなたかに電話をしたければ看護師に言ってください」
 医師はそういうと、わずかに微笑んでみせた。
「よろしくお願いします」と言いながら頭を下げた真由美が顔をあげたとき、すでに青木医師の姿はなかった。年配の看護師が優しく彼女の身体を押していき、母親はついに息子のベッドから離れる他はなくなった。すぐに白いカーテンが引かれ、母親の視界から息子は遮られた。

第八章 少年の秘密

 精神科医の権威、芦刈信也はさっきから、病院の玄関と病室の前の廊下を行ったり来たりしていた。真由美は疲れ切った顔で、彼から数メートル離れた病室の椅子に座りこんでいる。病院に来てからすでに二時間が経っていた。顔の肌はパサパサに乾き、目は充血し、その心身の疲労と苦悩は限界まできていたが、驚くほど気丈に耐えていた。希望を失うことなく頑張っている。彼女の精神にまだ生来の力強さを感じるとしたら、それは彼女のこの世における唯一の心の支えといえる息子へのひたすらな愛と強い想いがあるからだと断言していいだろう。
 この気丈な女性は、今は亡き信也自身の母親を思い起こさせた。長年患った父を独りで看病し頑張りぬいた母は結局、父より先にこの世を去ってしまった。
 死は単に時だけではなく、運という気まぐれな宿命の紡ぎだす神秘的な産物だと、信也は思う。例えば、銃弾の当たる場所や刃物が貫く場所が、ほんの数センチ違うだけでその人間の生と死が決まるのだ。しかし病いは、そんな運や宿命に関係なく誰にでも必ず訪れる。金持ちでも貧乏人でも関係なく、病気を患っているときは誰でも辛い思いをするはずである。そういうときこそ、セラピーも少しは役に立つといえる。しかし、信也がこの仕事を始めて確信したことは、“病と衰えは人間にとって遁れることのできない定め”だということだった。

 春樹少年の担当医となった救急治療室の青木医師が、地味な黒いスーツを着た女性を伴って彼のいる病室に姿を現した。信也はその女性を知らなかったが、その職業をすぐ感じ取った。しかし彼はただ壁に背中をつけて立っているだけで口を開かなかった。
 医師はその女性を、思った通り、市のソーシャル・ワーカーの山田恵子だと紹介した。
 真由美の左の眉がきりっと上がった。「うちの息子に何か?」と素っ気なく言った。
「問題ありません。検査結果はすべて陰性でした」と医師は静かに言った。
「それで?」
「しかし、これから数時間は様子を見ておく必要があります」
「様子を見る?」
「黒川さん」山田女史が会話を遮った。「よろしければ、病院内にあるわたしのオフィスでお話をさせてください」
「いったい、どんなお話しなんですか?」母親は半ばけんか腰だった。
「オフィスでゆっくり、一般的な説明をさせていただきたいのです」
「一般的な説明なんて、結構です!」母親はぴしゃりと断った。
 信也は胸のうちで、母親がソーシャル・ワーカーとやらに平手打ちをお見舞いする様を思い描いていた。
「そんなことより、息子に何があったのか説明して」と母親は主張した。
「結果は陰性でした」と医師は再び同じことを言ったあと、「少なくとも急性の発作でないことは確かです。そこでもっと別な検査をしたいのです。すぐに済みます」
「問題ないんでしたら、家へ帰らせてください」と強い口調で訴えた。
 医師は山田女史へ顔を向けた。
 信也は説明しようと口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。
「市の規定に従って、手続きをしなければならないのです」と女史は言った。彼女のもったいぶった話し方には、儀礼的な同情を表そうという意図が明らかだった。信也は首を振りながら、母親が徹底的に抗戦することを予感した。
「手続きって、いったい何なの?」母親は医師の白衣の袖を掴んだ。「どういうこと?」
 医師はその手を払うと同時に、その表情を硬くした。
「息子さんの身体には切り傷やあざがあります。その傷はすべて今回の件とは一切関係ないときについたものです。数日前の傷なんです。もっと古い傷もありました」
「待ってくれ」と信也が言った。しかし、同時に母親が怒りをこめて話し始めた。
「ええ、傷のことは知ってるわ。それが何なの? あなたは、この母親のわたしが息子を虐待しているとでも言うの? 腕を切ったとでも……馬鹿なこと言わないでよ!」
「黒川さん、ただの手続きですから」女史が言った。
「誰もあなたを責めているわけじゃないんですよ」
「あんたは黙っていなさい!」激しい口調で言い捨てると、母親は医師の顔を睨んだ。
「わたしが悪い親だと言うんですか? わたしがそんな、ゲス野郎どもと一緒の人間に見えますか? どうなんです」
「わたしに怒鳴らないでください。息子さんの傷はみなが見ているんですよ」
 母親の怒りが爆発した。
「クソくらえ! そんな事みんな、クソくらえよ!」
 信也ははらはらしながら言った
「真由美さん、やめるんだ……ぼくはこの家族をよく知っている」
 しかし、誰も聞いていなかった。
「市の規定に従って、型通りの質問をするだけです」女史は精一杯、慈悲深い声を作りだして言った「誰もあなたを悪い親とは言っていません。これはただの手続きなんです」
「ひとつだけ聞かせてもらうわ」母親は胸のまえで腕を組んだ。まるで拘束服を着ているかのように。「ひとつだけ聞きたいの。わたしの息子に何があったのか教えて。わたしの大切な息子に、精神的に何かいけないことが起こったんでしょう? 何であの子は気絶したりしたの?」
 医師は首を振った。
「わかりません……わからないんです」
 
 その夜、春樹少年を見守る権利は病院側に決まった。最終的な判断は小児科医長に委ねられることになるだろう。だが、真由美がソーシャル・ワーカー相手に見せたあの反抗的な態度は、息子の病状に関係なく母親に不利なものとなるかもしれなかった。
 信也は少年の傷が、虐待によるものではないとわかっていたが、病院側の人々はそれを受け入れなかった。あるいは母親以外の者から受けた傷という可能性もあるからだ。
 彼は自分で傷をつけたのであって、決して母親ではない。それは普段の母親を見ていればわかるはずだ。
 青木医師は重要な報告をしている。少年の腕の傷には新しいものはひとつもないと。
 信也はこれは少年にとって良い徴候だと受け止めた。なぜなら、少年が《自傷》の他に自分の悩みや苦しみを扱う方法を見つけたことになるからだ。先日の学校での一件も、一時的なことで、自然と落ち着くだろう。しかし、今回の精神的パニック状態は、明らかに症状の悪化をしめしている。
 青木医師のカルテにはこう記されている……(会話できず)……病院に運ばれたとき、少年は口をきける状態ではなく、診察の間も朦朧(もうろう)としていた、とある。
 さらに『気絶した後の記憶なし、母親に確認……機能低下は見られず……バイタル・サイン正常。体温低下(通常範囲内)、心配なし……』
 これらの所見は少年にとって良い傾向だった。真っ暗な土蔵に閉じ込められ、常軌を逸したパニック状態になって気絶し、気づいたときは病院となれば、大人だって平静を保つことは困難だろう。まして深刻な不安症を抱えた小さな少年ならばなおさらだ。

 看護師は少年がよく眠れるようにと、彼を広い救急治療室から個室へ移した。そこなら誰にも邪魔されずに安静を保つことができるはずである。
 児童精神科の権威、芦刈信也はベッドの足元にある小さな椅子に座っていた。彼は少年がまだ眠っていないことを知っていた。独りきりになるのを待っているのだろう。
 信也は待った。いま彼にできるのは、じっと待つことだけだった。
 少年は寝返りをうち、とうとう目を開けた。
「やあ、来たよ」信也は優しく声をかけた。「ぼく一人だ」
「ママは?」少年は訊ねた。
「ママはこの上のオフィスで、イヤな奴と一緒に書類を書いている」
「えっ?」少年はベッドの上に身を起こした。
「ちょっとした手続きさ。終わったらすぐ来るよ」
「先生は何で来たの?」
「ちょっときみのことが気になって来てみた。話はできるかい?」
 少年はわずかに頷いた。
 信也は脚に車のついた椅子に座ったままベッドの横に滑らしていった。そして「椅子のスケートだ」と冗談めかして言った。
 少年は弱々しく微笑むと、小さな声で言った
「今日は……先生に聞きたいことがあるんだけど?」
 いつもとは違い相手に興味をしめしている。これは少年の感情が能動的になっている証拠なのだ。
「いいよ、何が聞きたいの?」と信也は言った。
「先生は……何で悲しいのか聞かせてくれる?」少年は訊ねた。
「ぼくが?」思わず声が大きくなった。
 思いがけない質問にあってちょっと驚いたのだ。
「そうだよ」
 信也は身を乗り出していた。「ぼくが悲しいと思っているって?」
「そう」少年の目がきらきら光っている。興味を抱いている証拠だろう。
「どうしてわかるの?」
「目を見ればわかるよ」
 児童精神科の権威、芦刈信也先生は椅子の上で微かに身体を揺らした。
 通常患者と医者の間には越えてはいけない壁がある。つまり医者は自分の個人的な話をすべきではないのだ。とはいえ、この少年の性格の芯にあるものは、驚くべきことに相手の感情に対する完璧な理解力であり、たゆまない優しさなのだ。それは例の後藤老人の件を見ていても明らかだった。今日は少年の心に近づくためにここで医者としてではない自分をさらけ出すべきかもしれない。
 信也は、どう話そうかと考えているうちに、患者を救おうという思いを越えて、自分の心を解き放ちたいという新たな衝動が生まれていた。この二年間心の奥深く秘めていたこと……妻にも言えなかったこと、自分自身さえも偽ってきたことを、この少年にすべて話したいと思った。
「昔々、あるところに芦刈信也という男がいました。彼は子供たちと一緒に過ごせる仕事をとても愛していました」と、信也はおとぎ話のように話し出した。
「完璧ではなかったけれど、いいお医者さんで、多くの子供たちを助けることに大きな喜びを見出し、そして幸せでした。しかしある夜、ひとりだけ助けることができなかった子供がいたことを知りました。それが許されない失敗だったことを彼自身も心の中では知っていましたが、それを認めたくなくて忘れることにしていたのです。ところが、ある時、その失敗をひどく思い知らされる事件が起こりました」
 信也は深くため息をついて身体を椅子の背にもたせかけて照明に白く浮き出ている天井を見つめた。そのとき、彼はいつもの胸の痛みが消えているに気づいた。そういえば、この部屋に入って以来、痛みを感じていなかったのだ。
「それからというもの、すべてが変わっていきました。悩みと怒りが彼の人生を台無しにしてしまったのです。昔の彼とは全く別人になってしまいました。彼の奥さんはそんな彼が嫌いになり、口をきかなくなってしまったのです。まるで他人のようにふたりは暮らしているのです」
 信也は少年の表情を見た。
 その深い憐憫ともいえる無垢な優しさに溢れる春樹少年の眼差しはほとんど霊的な力で彼の気持ちを鎮めていた。それはこれまで味わったことのない安らぎだった。
 いまやふたりの立場は入れ替わっていた。名だたる精神科医である信也の心をこの小さな少年の無垢の眼差しが癒しているのだ。
 信也は物語を続けた。
「そして、ある日、男はすばらしい少年に出会いました。彼は、昔救うことのできなかった少年に、とてもよく似ていたのです。男はこんどこそ、この少年を救おうと決心しました。そしてもしこの少年を助けることができれば、昔の少年も救われるかもしれないとおもい、懸命にがんばりました」
 信也はそっと春樹少年に囁きかけた。
「じつはこの物語の結末はまだ知らないんだ。ハッピー・エンドならいいけどね」
「うん、そうだね」少年も囁き声で答えたあと、突然「ぼくの秘密を教えたいんだけど」と顔を近づけて囁いた。
 その思いがけない言葉は信也に衝撃を与えた。彼は無言のままうなずいた。
「ぼくね……死んだ人たちが見えるんだ」少年は声をひそめて言った。
「なかには、ぼくを怖がらせようとする人もいるよ……」
 この言葉を聴いたとたん、何かが、まるで凍えた稲妻のように冷たく(ひらめ)きながら信也の魂を突き抜けていった。
「死んだ人が……夢に出てくるの?」
「違う」
「じゃあ、お墓のなかや、棺のなかにいるのが見えるの?」
「違うよ……歩いてるんだ、普通の人みたいに。でもみなは相手がみえないんだ」
 少年は続けた。
「自分が死んでいることさえ知らない人もいる。でも、ぼくにはわかるんだ。ひどい傷が見えたりするから」
 少年の打ち明け話は、あたかも脚元にぽっかり開いた深淵をのぞいたような衝撃を彼に与えた。そして、これを経験を積んだ医師として一体どう扱えばいいのか考え続けていた。
 小児性統合失調症……急性? わからなかった。深い失望感が彼を捉えた。
「ぼくは幽霊も見るんだ」少年の声は真剣だった。「幽霊たちが自分に起こったことや、まわりの人たちに起こったことをぼくに話すんだ」
 信也は何とか頷いて見せたが、頭の中では様々な言葉が混沌とした闇のなかを駆け巡っていた。
「黒川春樹に関する精細な記録……精神病理学上の診断……幻覚症状、重度偏執症、初期崩壊性行動障害(対外反応障害および極度の執着障害)=薬物治療又は入院による継続的治療が望ましい……」
 信也はこんな診断書を書きたくはなかった。小沢輝夫が見放される結果となった道を、この少年に歩ませたくなかった。絶対に。それなら、どうすれば……?
 燃えるような煩悶が彼の心を鷲掴みにしていた。彼はこの少年をなんとしてでも助けたいと思ったし、また彼自身もこの少年が必要だった。しかし少年の告白を聞いたいま、かれを助けるには、どうしても医学的集中治療が必要なのである。しかも、その恢復の見込みは悲観的だった。
 信也はひとりの経験豊かな精神科医としてことに対処しようと決心した。
「それで……どのくらい幽霊を見るんだい?」
「しょっちゅうさ」
 少年は声をひそめた。
「そこらじゅうにいるよ。いつも皆のまわりにいる」
「いまも?」
 少年はうなずいた。一瞬、彼の目は動揺し、何かを怖れていた。そして目の前のセラピスト先生の顔を見つめた。
「ぼくの秘密を誰にも言わないでね」
 信也はうなずいた。医者として精一杯の誠意をこめた答えだった。
「ぼくが眠るまで、そばにいてくれる?」
「ああ、いるよ」
 信也は布団を少年の身体にかけてやった。

 信也先生に自分の秘密を話してしまってから、春樹少年は何だかとても気分がよくなってきた。いつものクモの群れも首の後ろから去っていった。
 彼は安心してドアのほうに身体を向けて、ベッドの中央で丸くなった。ドアは開いていたが気にならなかった。先生にカーテンを閉めるように頼むこともしなかった。

 春樹は目を閉じた……死んだ人たちや霊たちは、そこらじゅうにいた。
 ある者は幸せそうに、ある者は悲しそうに、ある者は苦しげに、通り過ぎていく。ほとんどは昔の人たちだが、新しい人たちもいる。老人たちやまだ若い人や子供もいる。男や女も……なかには恐ろしい傷を受けている者もいる。腕を肩から切り落とされて血まみれで歩いているのを見たこともある。でも、ほとんどは傷のないままの姿で現れた……こうして春樹の前に現れる亡霊たち……ほんとうは、みな、死にたくないのだ。でも、みな死んでいて、自分に話しかけようと寄ってくる……

第九章 癒されぬ少年

 真由美は三階のソーシャル・ワーカーの部屋で「市の規定による必要な手続きのための書類」を書いていた。
 もし保険会社で働いていなければ、彼女はこの試練をうまく乗り切ることが出来なかったかもしれない。山田恵子女史と大量の書類を目の前にして思った。こうした書類が要求するのは、字の大きさや文章の書き方ではなく、相手が期待していることにどれだけ近い答えを書くかということだった……従って必ずしも真実を書く必要はないのだ……たとえば、交通事故を起こしたことがあるとか、一日に三箱タバコを吸うとか、憂鬱な時が多いとか、子供に当たってしまうことがあるなどと書いてはいけない。特に、“いらつく”や“疲れ気味”や“心配”や“不安”といった言葉は禁句である。
 真由美は職業欄に、二つ目の仕事の“店員”を省いて“保険会社の社員”とだけ書いた。夜間に息子を独りで家に残すという質問は避けたかったからだ。こうした書類上の罠をうまく処理していかねばならなかった。
 書類の書き込みや質問が終わった頃、ソーシャル・ワーカーの山田女史は春樹を今夜だけ病院に預けてほしいと切り出した。
「イヤです」真由美は言った。「青木先生も仰っていたように、あの子に悪いところはないはずでしょう?」
 山田女史はそれには返事をせず、机の上の受話器を取りながら言った。
「息子さんを帰す前に、小児科医長に連絡することになっていますから……これは規則ですから」
 真由美は息子を絶対に家に連れて帰るためには、医長とやらとうまく折り合わねばならないと、覚悟を決めた。“礼を失しないように、しかし毅然とした態度で”
 しかし部屋に現われた女性は、彼女が想像していたような“鬼”のような医師ではなかった。柔らかな微笑を浮かべた、医長というよりどこかの劇団の女優のような華やかな雰囲気の女性だった。
 自己紹介した後、“病室へ行って息子さんの様子を見てきたところです”と言った。
「春樹くんは、とても賢いお子さんですね。さぞかしご自慢の息子さんでしょう? 近頃は子育てもご苦労が多いでしょうに」
 真由美は笑顔で頷いて見せたが、油断はしなかった。裏があるかもしれないからだ。
 しかし、この女医はソーシャル・ワーカーよりはるかに洗練された女性だった。
「息子さんの容態は心配ないようですね。隔離された状況で起きた偶発的な症状だったと思われます。つまり原因が特定できないということは、むしろいい徴候だと思ってください」
「失神した理由がわからないということなんですか?」真由美が訊ねた。
「そうです」医長は頷いた。「人間の脳に関しては、現代の医学でもまだまだ多くの解明されていない灰色の分野があり、さまざまな現象の原因をすべて明らかにするのは難しいのが現状です。ですから今回の息子さんの症状についても同様といえます」
 真由美はうなずいた。本心からの同意だった。
 医長はソーシャル・ワーカーと視線を交わした。
 真由美は、“いよいよだわ”と腹をくくった。
 「一応、用心のために息子さんをひと晩だけお預かりすると申しましたが……それは、お母様の意志にお任せすることにしょうと思います」女医はきっぱりと言った。
 さらに、やや声のトーンを下げて「私としては、息子さんがこのまま家へ帰られるのに何の問題もないと思います」
「それでは、あの子を連れて帰れるんですね?」真由美は立ちあがった。
「ええ、そうです」女医は微笑んだ後、ソーシャル・ワーカーに頷いてみせた。
「書類のほうは山田さんにお任せして、退院の前にもうひとつ検査をさせてください。その検査の方は私がやらせていただきます。もし結果が陰性ならわれわれも安心ですから」
「ありがとうございます」真由美は頭を下げた。
 医長がオフィスを出て行ったあと、ソーシャル・ワーカーの山田恵子は「よかったですね」と笑いかけた。
 この瞬間、真由美は少なくとも息子のための努力が報いられたことを知って嬉しかった。

 真由美が階下の病室に戻った時、息子の春樹はすでに目覚めていて、近寄ってくる母親の姿をみるとベッドから下りると無言のまま母親に抱きついてきた。そして母親の胸に顔を埋めたまま、しばらく離れようとしなかった。
 真由美は外来のカウンターにいき、職員にタクシーを呼んでもらった。
 そして家に着いた車の中で、ようやくうとうとし始めた息子を起こさないように、彼女はそっと車から抱き上げると、そのまま家の中へ入っていった。
  母親は寝室へ向かいながら、この子をあとどのくらい抱えてやることができるだろうかと考えていた。息子は小柄なのだが、廊下を抱えて歩く彼女の脚はもうすでによろよろとしている。
彼女は寝室は入ると、倒れるようにして息子をベッドに寝かせた。さっそく愛犬のメリーがベッドに跳びあがり息子の顔をペロペロ舐めはじめたが、息子は熟睡していて、身動きもしなかった。
 深夜、ふと、春樹は暗い寝室で目覚めた。寒かった。布団をしっかり掛けていても、どこからくるのか寒さがしみ込んできた。もぐりこんでいる犬のメリーに背中を押しつけた。メリーは横でいびきをかきながら眠っている。
 少年は“おしっこ”が我慢できなくなっていた。仕方なくベッドを出ると、氷のような床の上で爪先立ちになり、小走りに廊下を進んでいった。そしてトイレに駆け込むと、急いで明かりを点けた……いない……でも確かめなければ。少年は思い切って隣の浴室のドアを開けた……やっぱり、いない……ほっと安堵のため息をついてドアを閉め、ぶるぶる震えながら“おしっこ”をした。すっかり出してしまうと心地よくなった。
 そのとき、締め切ったトイレのドアの前を誰かが通り過ぎていく足音を聞いた。台所のほうへ向かっていく。
 ママかな? 彼はトイレの前に立ったまま、じっと耳を澄ました。たしかに台所を歩き回る足音が聞こえてくる。こんな夜更けに、ママは何をしているのだろう? コーヒーをいれているのだ。ママはいつも寂しくて眠れなくなるとコーヒーをいれていた。
 ママは“落ち着かないから”だと言っていたが、春樹にはわかっていた。ママはパパのことを考えているんだと。それなのに、会いたくなんかない、と強がりをいう。ほんとうは、ママは寂しいくせに。
 春樹はママを慰めようと思った。パジャマのズボンを上げ、トイレを流してドアを開けて廊下の様子をうかがった。誰もいない。
 トイレの電気を点けたまま、寒い廊下を台所へむかった。
 ママは背中を向けてレンジ台の前に立っていた。見たこともない赤い派手なドレスを着ている。
「また、パパの夢を見たの?」春樹は一歩中へ入った。その瞬間、そのドレスに見覚えがあるのに気づいた……それはママのではない。
 女が振り返った……両目が腫れあがって、いまにも眼窩から飛び出しそうになり、額の上のかぶさっている髪の毛から額や鼻にかけてドロドロした血が滴りおちている。
「夕食は、まだだよ!」女が叫んだ。
 とたんに辺りの戸棚や引き出しがいっせいに開き、壁に吊り下げてあるフライパンや鍋がガタガタと揺れ動き、カウンターの上のミキサーが凄まじい音をたてて回転し始めた。
 春樹は慌てて後ずさっていった。
「逃げるのかい?」女は憎々しい声で叫んだ。「私をまた痛めつける気だね!」
 頭を激しく振りながら「やってみなよ!」と言いながら両腕を振り上げた。手首から肘にかけて切り裂いたような赤黒い傷が走っている。
 そのとき、やっと春樹の凍りついた足が動いた。さっと身をひるがえすと、彼は廊下を走って逃げた。
 女が猛烈な勢いで後を追ってくる……必死の思いで自分の部屋へ辿り着いた。犬のメリーもキャンキャンと甲高い声で鳴きながら、春樹のいる部屋の隅で縮こまった。
 亡霊は部屋の入口で足を止めた。
 春樹の耳に女のうめき声が聞こえてくる。突然、わめき声に変わった。
「もう痛めつけたりできないからね!」女は泣き喚いた。
「……死にたくないんだ!」
 そして、とうとう部屋へ足を踏み入れようとした。明かりに照らされた女の脚には灰色と黒いシミがあり、萎れた肉が足首や爪先まで垂れさがっている。見るも無残な擦り切れた足……もう何十年も素足で歩いているような足……
 そのとき、春樹が叫んだ。
「おまえは招かれていないんだ!」
 その声が女の足を止めた。
 ぐらりと身体をのけぞらせながら、女は一歩,二歩、廊下へ後ずさりした。
 一方、春樹は寒さで凍えた唇から白い息を吐きながら、身体中を這い回る得体のしれないクモの大群の動きを感じながら耐えていた。女は恨めしそうに呟いた。
「お前にはできない、もうこれ以上、これ以上……私は死にたくない……」
 やがて、その声が次第に遠くなり、微かになり、やがて消えた。
 春樹は亡霊が去っていったのを知った。もう大丈夫だ。眠らないかぎり安全だと思った。
 ……それに、とても眠れるような状態ではなかった……

第十章 妻の心変わり

 信也は春樹少年が病院に運ばれた翌日、朝からこれまで扱った患者たちの診療記録を注意深く調べていた。そこには彼がこれまで接してきた多くの子供たちの、そして救ってきた子供たちの記憶が、思い出が、ぎっしりとつまっていた。もちろん、どうしても救えなかった子供、小沢輝夫の苦い記憶も含めて……
 ここ数年で、統合失調症の治療法は格段に進歩している。いまでは治験医療や薬も、かなりの効果を期待できるものが存在し、病状をかなり確実にコントロールすることもできるようになった。しかし、信也はあの小沢輝夫の事件以来、患者の治療ができなくなっていた。おそらく三年前なら、ただちに内科医と協力して春樹少年の病いと闘えたであろう。
 しかし、いまとなっては、すべての可能性が信也の手から離れていってしまった。
 記録に目を通し終えると、信也は再び散歩にでた。最初は、統合失調症に関する最新の医学文献を見るべく大学の図書館へ向かうつもりだった。しかしいつの間にか、街を徘徊するだけの散歩になっていたのである。
 彼は、春樹少年が病院で言った言葉を思いだしていた。
「自分が死んでいることさえ、知らない人もいる」
 これは、もしそうした表現を許されるなら「まさしく恐ろしいほどの真理」である。
 たとえば、彼……つまり、彼と妻の結婚生活である。ふたりに何が起こったのか?
 輝夫はふたりに何をしたのか? すべてががらりと変わり、いまもふたりの溝は深まり続けている。苦悩と喪失、または何ものかがふたりを遥かな両極へ引き離したのだ。
 妻の真由美は昨夜も今朝も、完全に夫の信也を無視していた。さらに、そのことさえも気に留めなくなっていた。しかし、夫は知っていた。妻がまだ夫を愛していることを。彼女のちょっとした仕草や、その姿を見るだけで感じるのだ。とはいえ、妻はあまりに遠くへ行ってしまった。夫もまた、遠くへ来すぎていた。どちらの罪ともいえないだろう。
 いまの非力な彼には、ふたりの壊れた生活を修復する手段も思い浮かばない。
 結婚にはどんな手引書もない。人間関係や人生にもないのと同様、問題の解決には、自ら手探りで方法を見つける他はない。
 では、あの少年を救うにはどうしたらいいのか? 
 自分さえ救えない者がどうして他者を救えよう。
「彼らは、そこらじゅうにいる」と少年は言った。
 彼らとは、死んだ人間のこと。
 信也は、歩道の真ん中で立ち止まった。
 ……この古い大都市。第二次世界大戦時、横浜上空に現れたB29爆撃機による空爆。降り注ぐ夥しい焼夷弾によって横浜は火の海と化し死者一万人を数えたという……
 そうならば、彼らはそこらじゅうにいて、彼のまわりをさ迷っている? もし本当にあの少年が死者や亡霊を見ているのなら、それが幻覚などではなく現実なら、もしその能力が自分にあったら……きっと狂ってしまうだろう。

 信也は唇を歪めて苦く笑った。幸いか不幸か、自分にはそんな能力はない……首を振りながら、また歩き出した。冷たく痺れる脚の痛みを感じながら……
 今日も夫の帰りが遅かったことを、妻が非難したり、怒ったりしたら、彼は喜んで説明しただろう。彼女が何か話しかけさえしてくれるなら、むしろ喜んで何でも話そうと思っていた。
 (春樹という八歳の少年が、いまは唯一の患者なんだ。その子を救う方法を考えながら、これまで扱った患者たちの診療記録を注意深く調べていたんだ。そこには彼がこれまで接してきた多くの子供たちの、そして救ってきた子供たちの記憶や考察の記録がぎっしりとつまっている。もちろん、どうしても救えなかった子供、あの小沢輝夫の苦い記憶も含めてね……だから時間など気にするわけにはいかないよ。仕方なかったんだ。わかるだろう? それが、ぼくの仕事のやり方なんだから)
 彼はここで妻の須磨子の返事を待つだろう。たとえ彼女がどんな反応を示そうと、彼はほんとうに妻に告げたかったことを言おう。そして彼女に理解してもらいたかったことも話す。自分がどんなに努力してきたかも……
 輝夫は言った。「あんたは助けてくれなかった」と。
 でも春樹にはそんな言葉を言わせたくないんだ。絶対に! そしてあの夜のことを話し、これからのふたりの将来について話そう……信也は胸の内で繰り返しこれらのことを妻に話そうと思った。
 しかし、須磨子は彼が帰っても怒ったりしていなかった。彼の帰宅にも気づかずに、台所に独りで座っている。何もないテーブルの上に両手をおいて置いてじっと眺めているだけだった。
 信也は玄関から、しばらく彼女の様子を眺めていたが、思い切ってテーブルの向かい側の椅子に座った。そして「聞いてくれ」と優しく話しかけた。「話したいことがあるんだ」
 そのとき、信也は妻の左手の指に目がいった。そして愕然とした。いつも薬指にいつも嵌めていた結婚指輪がなかった。いつ外したのか? なぜ外したのか?
 彼の脳裏に突如としてさまざまな疑問が混然と渦巻きはじめた。彼はその理由を問いただそうと思わず立ち上がった。

 そのとき電話がなり、真由美が顔を上げた。目から涙が溢れでている。
「出るな」彼は言った。しかし、彼女は無視するつもりのようだ。両手で頬の涙を拭うと、台所の電話ではなく、寝室の電話のほうへ駆けて行った。
 信也は妻のあとを追った。しかし、階段を駆け上がった妻は部屋へ入るなり、ばたんとドアを閉めてしまった。
 信也はしかたなく階段の途中に立ちどまり、耳を澄ました。
「いまは話せないわ」妻が電話の相手に言っている。
 (誰か知らないが、いまは、ぼくとの話があるんだ)
 そう思いながら、再び階段を上り始めたとき、妻の言葉を聴いてその場に凍りついた。
「ええ、わたしも、いまあなたのことを考えていたのよ」
 信也は茫然と壁に寄りかかりながら、唇を噛んでいた。
 これ以上は聞きたくなかった。
 誰か知らないが、自分以外に、まさか妻にこうした相手がいるとは考えもしなかったのだ。彼は自分の耳を疑い、妻を疑った。
 信也は踵をかえすと、足早に階段を下りて外へ飛び出していた。
 寒さが足元から這い上がってくるのを感じながら、いま彼の心のうちは、思いがけない事実を知った驚き、そして怒り、さらにいいしれぬ哀しみが混沌と渦巻いていた。
 ふと、気づくと、手には防寒用の分厚いコートが握られていた。
 彼は、妻の心変わりを知った心の衝撃から遁れるように、夜の街をただひたすらさ迷い歩き続けた。

第十一章 おばあちゃんの形見

 真由美は仕事から帰ると、急いで着替えをすませ、台所へ入っていった。そして、冷蔵庫へ入れておいたチキンライスが無くなっているのを確認して安心した。息子に食欲があるなら心配ないと思った。最近は食べたくないといって、食事をしないことが多いからだ。
 彼女は再び冷蔵庫から自分用のチキンライスを取り出して、電子レンジへ入れた。そのとき、ふと目にした生ゴミの箱に息子の夕食が捨ててあるのに気づいた。しかも上には新聞紙の切れ端が載せてある。
 真由美は息子を呼んで、ちゃんと食事をとるように叱ろうかと思ったが、今日は店員のひとりが欠勤していたので、代わりに彼女が二人分も仕事をしなければならなかった。幸い、店長が同情して家での夕食の後に戻ってきて残業をしなくてもいいと言ってくれた。
 温まった冷凍のチキンライスを(いわゆる冷凍物の味で、美味しいものではなかったが)そそくさと食べてしまうと、テーブルに身体を傾けて、居間にいる息子の姿を覗った。彼はテレビに夢中になっている。彼は息子に注意するのは後回しにして、洗いあがった洗濯物をたたんだ。こうしていると気持ちが安らぐ。昔、雨の日の午後は、よく亡くなった母と一緒にシーツをたたんだものだった。きちんと角をあわせて丁寧にたたむのだ。
 乾燥機の中の洗濯物は、今朝から入れっぱなしになっていたもので、靴下や下着がほとんどだ。彼女は靴下を組みにして丸め、ごちゃごちゃだった下着も彼女の手によって見事にたたまれていった。最初に自分の部屋にいって下着をしまい、その後浴室にいってタオルを掛けた。最後が息子の部屋である。
 彼女はカゴを胸のまえに持ち上げ、ベッドの横を進んだ。すると、何か鋭いものが、足の裏をちくりと刺した。思わず、カゴを落してベッドの上に尻もちをついてしまった。
「痛い!」と小さく叫びながら、下を見ると、ベッドと壁の間に汚れたジーンズとベルトのバックルが落ちていた。おそらくそれらは、根が生えるほど長い間そこに置きっぱなしになっているに違いない。
 (ひょっとしたら、中にクモがいるかも知れない……)
 彼女はクモが大嫌いだった。
 真由美は汚れ物の塊を足先で突いてみた。しかし何も出てこない。彼女は指の先でつまむようにしてそっとアカで汚れた靴下を取り上げた。
 彼女は無性におかしくなり笑い出した。しかし、その笑い声は、タンスの一番上の引き出しを開けたとたん、ぴたりと止んだ。
              
 春樹はおばあちゃんが大好きだった。彼女はママのママだし、春樹をありのまま受け入れてくれる数少ない人のひとりだったからだ。年寄りだから何をするにもゆっくりだったけれど、決して腹を立てたりしない。いつも優しく微笑んでいて、静かにそばに座り、時々うなずいくれる。居間の安楽椅子がお気に入りで、春樹の部屋の家具と同じくらい気に入っている。なぜなら、それらはみな、昔おばあちゃんが使っていたものだからだ。
 夕食の後に来たときは、一緒にクイズ番組を見たりする。おばあちゃんは驚くほど物知りだ。今夜、彼女は全問正解を達成しそうな勢いだった。でも最後の質問で失敗した。
 そのとき、ママが居間の入口に立っているのに気づいた。“話があるわよ”という時の不機嫌な顔だ。
「何なの、ママ?」
 ママは中へ入ってくると、テレビのリモコンのスイッチを切った。犬のメリーが尻尾を垂れて部屋の隅へ後ずさりをしていった。
「あなたの部屋のタンスの引き出しで見つけたのよ」とママが言った。
 春樹は何のことかわからなかった。ママはなんとか冷静さを装っている。春樹は思わず振り返って安楽椅子を見ると、(おばあちゃんはいなくなっていた)
「何かママに言いたいことはないの?」
「えっ?」やっぱり何のことかわからない。
「真珠のネックレスよ……なんでママのところからとって隠したりしたの?」
「知らないよ」春樹のほうが驚いた。
「壊れたらどうするの? ママが悲しむのはわかっているでしょう?」
「うん、おばあちゃんの形見だもん」春樹はうつむいた。
「そう、おばあちゃんがママにくれたものよ」
「ときどき物がなくなると……」
 春樹は言いよどんだ。なんて言ったらいいんだろう。ママに説明したい。でも、できない。モンスター(化け物)だなんて思われたくない。学校の奴らみたいな目でママには見られたくない。けど、叱られるのも嫌だった……彼は思い切って言った。
「みんなは、それを失くしたと思うけど、そうじゃないんだ。動いただけなんだ」
「あなたが動かしたの?」
「違う」
「じゃあ、誰がやったの? メリーなの?」
 春樹はうつむきながら、脚の間に頭を突っ込んでくるメリーを撫でた。
「お願い、怒らないで」
「メリーでもなく、あなたでもないとしたら、誰がやったの?」
 ママの顔が怒りで赤くなっている。
「誰かが家に入ってきて、わたしのタンスの上の宝石箱を開けて、あなたの部屋のタンスの引き出しに入れたっていうの?」
 春樹はわずかに首を振った。自分のせいにしてしまえば一番簡単だった。しかし、嘘はつきたくなかった。自分が取ったんじゃない。
 彼はだんだん腹が立ってきた。ママはまるで自分のことを泥棒か何かのように言っている。全然信用してくれない。
「ねえ、春樹。ママは疲れてるのよ。すごく、すごく疲れてるの」
 ママは膝をついて春樹のそばに寄ってきた。
「お互いに本当のことを言いましょう。それが一番大切なことなのよ。だって、二人きりなんだもの。お願い、本当のことを言って。ネックレスを取ったのはあなたね?」
「違うよ」春樹は首を振った。
 ママがすっくと立ち上がった。その勢いに驚いてメリーが廊下へ駆けだしていった。
「もう寝なさい!」
「でも……」
「部屋へ行って寝なさい!」ママの最後通告だった。

 春樹はすごく腹が立った。部屋に戻ると力一杯ドアを閉めた。信也先生に電話をかけて来てもらい、自分が決して嘘つきじゃないことをママに話してもらおうかとも考えた。
 しかし、しばらくすると怒りは治まってきた。彼はママはあんなに怒ったけど、いつも長続きしないことを知っていた。明日の朝になれば、また元のママに戻っているはずだ。彼はママを心から愛していた。腹の立つときもあるけど、ママは好きだし、傷つけたくなかった。彼はメリーと一緒にベッドに入り、うとうとし始めた。
 ママが離婚する前……たぶん二、三年前……パパも一緒に三人でアイスクリームを食べに行ったことがある。その時のことが急に思いだされて、無性に懐かしく、その頃にもどりたいと思った。“明日の朝、目が覚めたらあの頃にもどっているといいのになあ”
 彼の想いはいつか眠気と混じりあい、アイスクリームを食べている夢を見た。唇や歯が冷えてチリチリし、やがて全身が冷たくなっていった。彼は寒さで夢から覚めた。
 メリーが、しきりに唸り声をあげている。部屋のドアが開く気配がした。
 春樹は枕元のナイトランプを点けた。すると人影が部屋のなかに入ってきた。明かりがその人影を照らし出した……男の子だった。春樹より二、三歳年上の少年が首をかしげてこちらを向いて微笑んでいる。頭の毛は短くくりくりに刈りあげた坊主頭だ。着ているパジャマは飛行機の柄がついている。
「やあ」少年は言った。「怒ってる?」
「いや怒ってないよ」春樹は嘘をついた。本当は起こっているのだ。
「来いよ」少年は後ずさりしながら手招きした。「パパの銃の隠し場所を教えてやるよ」
 少年はくるりと背を向ける。彼の姿が暗闇に消える前に、春樹は気づいた。
 その少年の後頭部が頭蓋骨ごと吹き飛び、血だらけの脳みそが垂れ下がりパジャマを赤く染めていた。

           *       *       *

 真由美は押入れの前に、箒を持ったまま座り込んだ。溢れる涙がとめどなく頬を伝う。しかし、もう泣いてなんかいられない。いつまでも悲しんではいられない。手の甲で涙を拭うと、必死に気持ちを落ち着かせようとしていた。
 そのとき、廊下を走ってくる足音が聞こえた。春樹? 
 彼女が涙を拭うと同時に、足音は部屋のなかへ走り込んできた。春樹が、息子がしがみついてきた。
「春樹、どうしたの?」
「ごめんね、ママ。ごめんよ、ママ」息子の身体が小刻みに震えている。
 真由美は息子の身体に腕をまわして抱きしめていた。犬のメリーも部屋に走り込んできたが、床の上で滑ってそのまま二人に衝突した。
 母と息子は思わず笑い出していた。息子が小さな声で言った。
「怒ってなかったら、ママの部屋で寝かせて」
「春樹、ママの顔をみてごらん。怒っている顔にみえる?」母やなだめるように言った。
 息子はさらにしっかりと母親に抱きついた。
 母親は息子の身体が微かに震えているのに気づき、息子を抱いたまま立ち上がった。あたり一面に寒気が漂い始めている。だんだんと震えが激しくなる息子をそっと抱きあげて、自分のベッドに寝かせて布団を掛けてやった。そして彼女もそのそばに横になると、小さい子をあやすように息子の背中を優しくさすってやった。
 やがて、息子の震えが止まる頃には、ふたりの身体の温もりがお互いの心を快い安らぎと深い融和の念で満たし、そのまま静かな眠りへと導いていった。

第十二章 愛のゆくえ

 当てもなく街をさ迷いながら、信也は台所にいた妻のことを考えていた。
 台所のテーブルの上に置かれた彼女の薬指から消えていたあの結婚指輪……可憐なキルティング模様を刻んだホワイトゴールドのリングにⅠカラットのダイヤを配した美しい“永遠の愛と輪廻(りんね)”の象徴である指輪。彼の指にも同じペアのリングがいまもある、(ただし彼のはダイヤはついてないが)
 ……あのとき、彼はその理由を聞こうとした。が、電話が鳴り、それを聞くために妻は二階の寝室へ掛けあがっていった。そして、後を追って階段を上がっていく途中で妻が相手に言った言葉を聞いたのだ
 ……“ええ、わたしも、いまあなたのことを考えていたのよ”……
 彼はいつかふたりの間にできた深い、深い溝を埋めるには、自分が行動を起こすしかないと思った。結婚生活がいま危機に瀕していた。ふたりの未来を取り戻すためにも彼が何とかするしかないのだ。彼女こそが、人生で一番大切なものであり、彼女なしの人生は考えられない。今からでも遅くないと彼は信じていた。
 そうだ、これから須磨子を訪ねて、彼女のアンティーク・ストアへ行ってみようと決心した。そして昼食にでも誘ってみよう。
 そう思うと彼の心は急に明るくなった。店はかなり遠いが、今日は柔らかい太陽の光の降り注ぐ温かい小春日和りだ。歩いていると空を舞う鳥の声も聞こえてくる。街路を歩く彼の足取りもいまは軽く、一歩、一歩がまるで弾むようだ。

        *       *       *


 須磨子は朝のみずみずしい新鮮な時間を、店の陶器のコーナーで過ごすのが好きだった。古い皿やグラスを磨き、ショーケースの棚に納めていく。重厚な美濃焼や有田焼や久谷焼の皿や壺にはそれぞれ相応しい品格と華、それに長い盛衰を生き抜いてきた重みがある。その意味では、生き抜くという意味では、どこか自分に似ていると思っていた。柔らかい絹の布でそれらを磨いていく。まるでそうすることによって自分にそれらの力が得られるように感じるのだ。
 陶器のコーナーからグラスのコーナーへ移っていく。グラスはほとんどアンティークではないが、とても繊細で美しいものばかりだった。先日、ある婦人からボヘミアのワイングラスを買った。ヨーロッパの貴族が愛用したというボヘミアン・ガラスのグラス。まるでレースを思わせる世界屈指のカットとエナメル彩色も美しいワイングラスのセットである。ほとんど新品だったので、たぶん結婚のお祝いの品だろう。婦人の薬指には白い指輪の跡が残っていたから、きっと“わけあり”で手放した品物に違いない。
 須磨子はある複雑な思いで買い取った。そのどこか沈んだ風情の女性に、自分と同じ何かを感じていたからだ。彼女はそれらのグラスをピカピカに磨き上げて飾った。
 そのとき、すらりとした若い女性が入ってきた。まだ二十歳代のその女性ははにかむような笑顔を須磨子に向けた。連れの同じ年頃の男性はぴったり彼女の横についている。女性は まっすぐジュエリーのコーナーへ行った。
 須磨子はガラスの飾り棚を覗き込んでいる女性に近づいて行った。
「何か、お探しですか?」
「婚約指輪を」女性はわずかに頬を染めながら、顔をあげた。見るからに初々しい笑顔だった。須磨子は「サイズはお直ししますから」といって彼女の視線を追った。それはカルティエの見事なダイヤのリングだった。
「この間、見たのはこの指輪よ」女性は婚約者を振り向いて、指輪を指差した。
 須磨子はその指輪を取り出して、ショーケースのガラスの上に置いた。
「プラチナのリングに四つの飾りダイヤが埋め込まれていて、中央の石は0.5カラットのダイヤです。カルティエの“ソリテール・バレリーナ”です」
 しかし、相手の男性は少し顔を曇らせていた。
「もう少しシンプルな指輪にしないか?」
「シンプル?」女性は横のフィアンセの顔を見た。
 ふたりはしばらく顔を見合わせていたが、「いや、きみが充分ゴージャスなんだから、身に着けるものはシンプルのほうがいいかなあと思ってさ……」と言って、フィアンセは悪戯っぽく微笑んだ。どうも二人だけのジョークのようだった。
「ためしにつけてみます?」須磨子は勧めた。
「あら、いいの?」女性は嬉しそうに笑みを浮かべた
 須磨子が指輪を未来の花嫁の小指にはめると、彼女の顔はたちまち輝いた。
「素敵!」彼女は手をかざして未来の花婿に見せた。
 彼もうなずきながら「これにしよう……ぼくがはめてあげるよ」と言った。
「それでは、お箱のほうは別にお包みしておきましょう」
 須磨子は一抹の寂しさを感じながら、この指輪がフィアンセの手によって女性の左手の薬指にはめられるのを見守っていた。同時にこの売り上げが店の借金の返済の一部に充てられるであろうことも考えていた……もっとも焼け石に水といった程度だったが。
 支払が終わると、若いふたりは腕をからめて店から出て行った。
 須磨子は店の前でふたりが寄り添って人混みを縫いながら、歩いていく姿を眺めていた。女性は角を曲がる前に幾度も指に光る指輪をボーイフレンドに見せていた。
 須磨子はしばらく幸せそうなふたりの姿を見送っていたが、店の奥の部屋から物音が聞こえたので、急いで中に入っていった。
 アシスタントの桂木真一がソフアに長々と寝そべっていた。長い脚が横のアームから垂れている。
「遅くなってごめん」快活に笑いながら、ちょっと頭を下げた。
「まあ、真一さん、そのソファは売り物よ。汚さないでね」須磨子は優しく睨んだ。
 真一は慌てて立ち上がると悪戯っぽい笑みを浮かべて「ごめんなさい」と再びあやまった。そして、須磨子のほうに近寄りながら、作業机の上の自分宛ての書付のある包を指差して「これ、ぼくに?」と言った。
「あなたの誕生日のプレゼントよ」須磨子は言った。
「えっ、ほんと?」真一は嬉しそうに包を手に取った。
「中身は何だろう?」と言いながら耳のところで小さく振ってみた。
「壊れるかもよ」須磨子はからかった。
「爆弾じゃないよね?」にやりと笑いながら訊ねた。
「危険物は持ち込み禁止でしょう」須磨子は笑った。
 真一は急いで包紙をはがすと、たちまち目を丸くした。中身は男性用のオメガの時計だった。須磨子が言った。
「あなた、このあいだ、時計が壊れたっていっていたでしょう? だから……」
「すごいや! ありがとう」
 真一は嬉しそうに腕を伸ばすと、須磨子の身体に抱きついた。
 須磨子は彼が喜ぶのを優しく見守った。さっそく時計を腕にはめた後、彼女をより強く抱きしめた。
 彼の身体から、かすかに男性用のデオドラント香水と乾いた汗の匂いがしてきた。須磨子はこの若者を愛しているのに気づいた。もう以前のように姉のような愛情ではなかった。しかし、同時にためらいも感じていた。なぜなら、いま彼女は夫の信也のことを考えていたからだ。真一は若い頃の信也によく似ていた。しかし、似てはいても信也本人ではない。やはり、彼を心から愛することはできないだろう……
 彼は若い。未来を共にするには若すぎる。その他、さまざまなことが彼女の心を妨げていた。夫を裏切ることはできなかった。たとえもう彼との間に何の絆もなく、彼女自身がすでに独立し、彼と離れていたとしても。やはり信也は彼女のすべてだった。彼女は心の底でいまなお彼を必要としていた。
 須磨子は真一の力強い抱擁から身を引いた。そして彼を失望させていることを意識しながら一歩後ずさった。
 そのとき、店の入り口でガラスの割れる音が聞こえた。須磨子と真一は思わず顔を見合わせた。一瞬の後、須磨子が店へと駈け込んだ。真一が後を追ってきた。
 入口のガラスのドアが割られ、ひびがクモの巣のように前面に走っている。真ん中に空いている丸い穴はちょうど人間の頭の高さにあった。
 しかし店の中には人影はなかった。須磨子と真一は店内を見回したが、何も壊されたり、盗まれている様子はなかった。
 彼女は急に背筋が寒くなり、身震いをしながら、ドアを開けて通りを見渡した。ドアの前には石なども落ちていないし、近くに怪しげな人の姿もなかった。いまガラスを割った人間が誰であれ、跡形もなく消えてしまっていた。
 あたかも、墓地や霊園にときおり現れるという、得体のしれぬ亡霊のように……

第十三章 憂鬱なとき

 アンティーク・ショップから家への道を辿りながら、信也は妻のことを考えると憂鬱だった。(あれはちょっとやりすぎたかも知れない)と後悔していた。
 ふたりのむつまじい姿を見た瞬間、思わずやってしまったが、ひとかどの見識を備えた大人の行為とは決していえまい。とはいえ、あんな若造にうつつをぬかすなんて、どう考えても須磨子らしくなかった。
 店のアシスタントとはいえ、若いだけが取り柄のうすっぺらな男にきまっている。これもすべて、妻をないがしろにした夫への仕打ちなのか?
 自分がもっと一緒に過ごすようにすれば、妻を取り戻すのはそう難しくはないだろう。さっそく実行に移さねばならない。それには、あの春樹少年とのセッションの時間を減らさねばならない。少年の治療から退くことに、何の言い訳も必要ない。ただ、彼の言葉をノートに記せばいい。そしてその言葉を彼が信じられなかったことも。残念ながら、現代の人間たちは幽霊や魔女の存在を信じていない。同様に、少年の言葉や体験も同じだ。
 須磨子は何を信じているのか? 夫の自分か? いや、もう信じてくれていないだろう。彼女はすっかり独立しており、一緒のベッドに寝ていてもふたりの間には目に見えない壁がある。この壁を取り去るにはどうしたらいいのか? これだけの問題で、もうおろおろしている自分を叱り飛ばしたい気分だった。
 二年前、救えなかった患者小沢輝夫が彼を刺した後自殺したあの凄惨な事件以来、彼は精神科医としての権威を失い、まったくの無力な人間となっていた。いまの彼は、あの春樹少年さえ救うことができないでいる。しょせんセラピストは、患者を救うことはできない。ただ手助けをするだけだ。それにしても、あの教会で、少年が後藤老人の妻の櫛を椅子の裏側にあると知ったのはなぜだろう? あの時、後藤老人の亡くなった夫人が少年の背後にいて囁いたのだろうか? まさか? 背筋がぞっとして、鳥肌が立ってくる。

 信也は取り留めのない考えに耽りながら、玄関前の階段を上がっていった。まだ、妻が店から帰るまでかなり時間があるのに気づいてほっとした。
 彼は書斎に行くと、医療記録を入れたファイルキャビネットを開けた。輝夫とのセッションの記録のファイルがなかなか見つからなかった。すべての記録はここにあるはずだった。四つある引出しを次々に引っ張り出したていたが、一番下の引き出しの半ば判別がつかないほど折り重なったファイルの底に、ようやくお目当てのファイルが見つかった。
 そのファイルケースには輝夫の診療記録のノートとセッションの時の会話を記録したテープが入っていた。彼が十二歳で医療センターの児童精神科病棟に入院した時のものだ。
 それらを手にしたとき、信也は突然、胸に突き刺すような激痛を感じた。同時に二年前のあのときの記憶がまざまざと甦ってきた。

 ……輝夫が言った、「おれは呪われているんだ」 涙が一筋、二筋、頬を伝い流れた。
「あんたは助けてくれなかった」
「いや、助けようとしたんだ……でも、できなかった」
 信也が一歩進みでると、輝夫も一歩あとずさった。あと少しでこの子を救えるかもしれなかった。「いまでも、きみを助けたいと思っている……助けてあげるよ」
 輝夫の顔にはまだ不安と混乱が見える。しかし、その眼だけは異様に鋭い光を湛えている。信也がその身体に触れようとしたとき、彼は素早く身体をねじって振り向き右手を流しのなかにいれた。そして、ふたたび振り返ったとき、その右手にはぎらりと光る包丁が握られていた……凄まじい激痛に胸を貫ぬかれてくず折れるように床に倒れた信也……そのあとは茫漠とした霧のような意識に閉ざされていて全く覚えていない……
 なんという失態、このような取り返しのつかない事態を招いたのは他ならぬ豊富な医療経験を誇るはずの精神科医としての彼自身だった。
 甦ったおぞましい記憶に翻弄されながら、信也は書斎の中で立ち尽くした。完璧な絶望と、無限の怒りが込み上げるなかで、頭を振りながら自嘲するように大声で笑い出した。やがて、笑い止むと、溢れる涙が頬を伝って流れ始めた。
 しばらくして、嵐が静まるように冷静さをとりもどした彼はケースの中から四本のテープを取り出すと、机の前に座り、一本ずつ、テープ・レコーダーにセットして、数分ずつ聞いていく。
目当ては、少年が入院して最初のカウンセリングで録音したテープだった。
 輝夫は九歳のときから自傷行為の疑いで児童精神科の外来で信也が治療に当たっていた患者だったが、十二歳のとき、家の近くの崖から海に飛び降りて自殺を図った。ちょうど近くで釣りをしていた漁師に助けられたあと、心配した両親の依頼で同科に入院させて治療に当たることになった。担当医の信也は急性不安障害および強度の強迫性障害という診断のもとに治療を続けていたが、これらのテープは、地下の診療室でカウンセリングをした時の模様を記録したものだった。
 最後のテープを再生中しはじめた時、目宛てのテープだとわかった。彼の訊ねる声が聞こえる。
「……それで、きみはあの夜、なぜ崖のところにいったの?」
 輝夫の声は聞こえない。じっと俯いて黙っていたのだ。
  しばらくして、彼が言った「いいんだよ、言いたくないんだったら」
「おじいちゃんが連れていったんだ」突然、輝夫が言った。そのときノイズが入った。
 何かの擦れるような不快な音が少年の声に重なった。
 (輝夫の祖父は、数年前に自宅の前の車道を横断中に車に轢かれて亡くなっていた)
「そうか……それで、おじいちゃんが何かしたの?」
 輝夫の声は囁くように低く、繰り返して聞こえる雑音にまぎれて聞き取りにくい。
「……先生は信じてくれないよ」という言葉がようやく聞き取れる。
「ぼくはきみを信じるよ、言ってごらん」
 信也が訊ねる。ふたたび雑音……軋るような音が大きくなっている。
 彼はその時の情況をまざまざと思いだしていた。
 (いや、輝夫とふたりきりの締め切った静かな部屋にいたのだから、こうしたノイズが入るはずがなかった)
「……おじいちゃんが、急に崖から飛び降りようとしたんで、ぼくが腕をつかんで止めようとしたら、そしたら、ぼくも一緒に引きずられて……」
 不快なノイズの中で、輝夫の声は囁くように小さくなりほとんど聞こえなくなった。
  突然、輝夫は泣きだした。弱々しげな泣き声が聞こえる。
「何も話したくない……家に帰りたい! 帰らせてよ!」
 ここで、またノイズが入った。
「落ち着いて、輝夫くん。話したくないのなら、それでもいいよ」
 信也はこのセッションルームでの会話を聴きながら、その時の情況を思いだしていた。
 ……ちょうどこの時、看護師が信也に電話が入ったと知らせにきた。確か、同じ精神科医師の倉田からの電話だった。ドアをノックして入ってくるはずだ……
 やはり、再生しているテープからノックの音が聞こえた。また雑音が入り、その中で、看護師が電話のことを告げる声についで、彼が輝夫に話しかける声が聞こえる。
「電話にでなきゃならないんだ……すぐ戻るから、ここで待っていてくれるかい?」
 返事はない。輝夫が答えなかったのだろう。それとも首を振ったのか?
 確か、ここで彼は部屋を出た。すぐ戻るつもりだったので、輝夫を独り部屋に残してっていったはずだ。十分かそこらのわずかの間、輝夫はひとりきりだった。
 ノイズが急に大きくなり、ざわめきのようにも聞こえる。
 輝夫の荒い息づかい……かすかに咳き込む声……椅子のきしむ音も聞こえる。
 急に輝夫が囁いた……声が小さくてよく聞き取れない……一瞬、ノイズが消えた。
 そのとき、少年の囁く声がはっきりと聞こえた……「おじいちゃん、もう行ってよ!」
 信也は思わず愕然とした。誰も部屋にはいないはずなのに、少年が誰かに話しかけたのだ……“おじいちゃん”とは少年の亡くなった祖父のことか?……決してあり得ないことなのだが、しかし、はっきりと聞こえた。
 急にノイズの低い音が高くなり、一瞬、キーンという音がし、その後から輝夫のすすり泣く声が続いた。しばらく続いたのち、泣き声が消えた。無音がつづく。
 信也はもう一度、聴き直すためにテープを巻きもどそうとした時、あやまって、早送りのボタンを押してしまった。音は急にキーキーという無意味な高音をたてて回り始めた。 慌てて、逆再生のボタンを押して巻き戻していった。意味不明の耳障りな音と共にテープが逆回転していく……そのときだった。その低い不快な雑音が突然、人の声へと変わったのだ。信也は自分の耳を疑った。しかし、まだ判然とは声が聴きとれない。逆回転のスピードを緩めて、じっと耳を澄ました。ふたたび人の声が聞こえた。気のせいではなかった。間違いなく人の、それも、しわがれた老人の声だ。ゆっくりと呟くような声……錯覚か?……いや、間違いない。疑う余地はなかった。少年の亡くなった祖父?  
 その老人の声は言っていた。「……まだ、死にたくない!……」
 その声はふたたび繰り返した。「まだ、死にたくないんだ!」と。
 信也はテープ・レコーダーを止めると、立ち上がっていた。そして、いま始まったばかりの激しい胸の痛みに耐えながら、茫然と呟いていた……
「こんなことは信じられない、いや信じたくない。絶対に!……でも、事実あの声を聴いた以上、あの死者の声を、亡霊の存在を否定はできない。決して!」

           *       *       *

 信也はこの事実を春樹少年に話さねばならないと思った。それが少年を救うことにつながるかもしれないと感じたからだ。彼は少年を探しに出かけた。思い当たる場所があった。
そして、少年の家近くにある指路(シロ)教会で少年を見つけた。
 教会の大扉を開けたとたん、彼がいることを感じた。しかしどこを見渡してもその姿は見当たらなかった。
 信也は脚の微かな震えを感じながら、祭壇へ向かっていった。まるで罪の裁きを怖れるかのように、足を進めた。一番前の席まできたが、そこには膝をついて祈りを捧げる二人の老女がいるだけだった。自分の直感に不振の念をいだきながら、引き返そうとしたとき、パイプオルガンが据え付けてある二階から階段を降りてくる少年の姿を見つけた。
 少年が一階に着くと、信也はそばに寄っていった。
「やあ、また会ったね……二階で何してたの?」と彼は訊ねた。
 少年は一瞬、黙って彼を見つめていたが、「ちょっと人と会っていたんだ」と囁いた。
「誰と?」信也も囁くように訊いた。
「……」少年は無言のまま踵を返すと入口のほうへ歩き出した。
「わかった……いいんだよ、無理に言わなくても……」
 信也は少年を刺激しないようにそっと声をかけながら後を追っていった。
 少年は急に立ち止まると、振り返った。
「誰にも言わないでくれる?」
「わかった。誰にも言わないよ。誓うよ」まるで裁判所で宣誓するかのように、信也は大真面目に右手を挙げて言った。
 ふたりは一番入口に近い席にならんで腰をおろした。
 少年が顔を近づけて、内緒話をするように小さな声で言った。
「後藤さんの奥さんと話していたんだ」
 これまでの彼なら、こうした話は、子供の作り話だと一笑に付していたに違いない。しかし、いまは、この少年の言葉を信じた。(さっきテープから聞こえた声を信じたように) 
「奥さんは何ていっていたの?」彼はそっと訊ねた。
「……主人に、もう待たないでほしい、って言ってくれって。そして、もう悲しまないでほしい、って伝えてくれとも言っていたよ」
 そのとき、信也は、後藤老人がまだ妻が帰ってくると信じていたことを思いだした。
 人は愛する者を信じることで、生きる喜びや慰めを見出していることを、あらためて思い知らされる思いだった……では、いま、自分はいったい誰を信じているだろうか? 妻の須磨子か? 彼はうなだれて首を振った。
「先生、何かあったの?」
「どうしてそう思うの?」
「なんだか興奮してるみたいだから」
「たぶんね」信也は無理に笑って見せた。
「また泣きたい?」
「いいや、大丈夫さ」
「じゃあ、何なの?」
「はじめて、わかったんだよ……亡霊がいることを」
 これでは、まるで、自分がセラピーを受けているみたいだと、信也は感じていた。でも、この会話を続けずにはいられなかった。
「あの人たちがいるってことは、確かに誰も信じないよね、普通は……でも、彼らは以前はこっちの世界にいた。そして、心の準備ができないうちに死んでしまった。ある日、目が覚めて、まだいっぱいやり残したことがあるのに……“バン”!」
 信也が両手を打ち合わせると、静かな教会の中に大きな音が反響した。
「いきなり、思いがけなくすべてを失ってしまった……“まだ死にたくない”」
 春樹は大人びた表情で静かにうなずいた。
「亡霊がみんな怖いわけじゃないだろう?……たとえば、きみがいま会ってきた後藤さんの奥さん……少しも怖くないだろう?」
「うん、ぜんぜん怖くないよ。とても優しいんだ」
「あの人たちは、きみに話しをするとき、何を望んでいると思う?」
 この問いかけは、春樹が初めて幽霊の話をしたときに、訊くべきだった。彼はじつは避けていたのだ……考えてみると、何もかもが彼を避けているように思えた。とくに、現実の世界はいつも彼を無視してきた。ちょうど妻の須磨子のように……
 そのとき、春樹が声をひそめて囁くように言った。
「みんな、助けを求めているんだよ」
「恐ろしいことをする幽霊たちも? ほんとに、そう思う?」
「先生、ぼくを信じている?」
「ああ、信じているよ」
 信也は仄暗い陰に覆われた高い天井を見上げた。この少年を求めている亡霊たちが、あの陰のどこかに潜んでいるのだろうか、と想像しながら。
「いまは、きみのことも、輝夫のことも信じているよ」彼は囁いた。
「きみは特別な子供なんだ、春樹くん。他の子供たちには無い、とてもすばらしい才能を持って生まれたんだ。人が見えないものや、聴けないものを、きみは見たり、聴いたりできるっていう特別な才能をね」
 信也は、いまや、かつて多くの子供たちを救ってきた高名な児童精神科医としてではなく、またさまざまな悩める子供たちを癒してきた熟練したセラピストとしてでもなく、ひとりの悩める子供を心から気遣うありふれた平凡なひとりの大人としての立場で少年に接していたのである。
「きみを亡霊たちから守る方法があるかもしれないよ。そう、きみが彼らを助けるんだ」
 信也は相手の顔を見つめた。
 少年は肩を丸めると、腕を組み合わせて両脚の間に挟んだ。わずかに顔をしかめている。
「助けを求めていなかったら? ただ怒って、誰かを傷つけたいと思っているだけだったら? そういう時はダメでしょう?」
 信也は少年の柔らかな髪に手を当てて、そっと撫でた。
「そうだねえ……きみにはどっちか、見分けることができる?」
 少年の腕を見た。新しい傷は全くなく、ほとんど治った傷跡がかすかにあるだけだった。
「わからない」少年はふっとため息をついて。
 信也はふたたび天井の仄暗い陰の漂うあたりを見上げた。

第十四章 亡霊たち

 この横浜の街には、いったいどのくらいの亡霊どもがいるのだろうか。それら(おびただ)しい数に膨れ上がった死者の群れが街のあらゆるところを徘徊しているのだろう。不慮の事故にあった者たち、犯罪に巻き込まれて殺された者たち、さまざまな病気や災害で死んだ者たち、その他、さまざまな原因で思いがけない死を迎えた、これら無数の亡霊たちが永遠の時を呪いながら、悲しげに、不安げに、怒りを抱えて、大通や裏通りをぞろぞろとさ迷っているに違いない。
 彼らはみな、自分の話を聞いてもらいたがっているのだ。後藤夫人の場合もそうだ。彼女は櫛を残し、日記を夫に見せ、最後まで、どんなに夫を愛していたかをしらせたかったのである。
 また、少年の母親が運転する車の前に飛び出した緑色のドレスを着て、つばの大きな古めかしい帽子をかぶった妊婦は? (少年の話では、車に撥ねられたあと消え去ったという) その亡霊はいったい何を望んで現れたのだろう? 
 春樹少年の腕の傷は亡霊たちの仕業なのか? 少年は何も語らないが、信也はいまでも自傷だと思っている。そして症状はいま治まっているようにみえる。
 しかし、もし少年の言うように、亡霊たちが話を聞いてもらう以上のことを要求し始めたら……少年を救うことは困難だろう。あるいは狂ってしまうかもしれない。
 少年を家へ送りながら、こうした際限もなく混沌と錯綜する思考に捉えられた信也は、あたかも思いあぐねてさ迷う亡霊のように、ただ茫然と歩いていた。
 少年と別れたあと、信也は繁華街のなかを仕事帰りの客たちの群れに混じって歩いていった。突然、明るい照明に飾られたバーのドアが開き、中から数人の酔った男女が通りに出てきた。それぞれに相手に寄りかかりながら、歩いていく。連れの女に戯れながら、その肩を抱きよせた男が何か囁くと、女は立ち止ってくすくす笑いながら相手の男に凭れかかっている。ふと信也は女の指に指輪が光っているのに気づいた。左手の薬指に、結婚指輪がはめられている。その際立って目の大きな女は、ちょうどそばを通りかかった信也のほうに顔を向けた。しかし、まるで彼が目に見えないかのように、冷たく尊大な眼差しだった。
 信也も彼らを無視して、ふたたび通りを歩き始めた。もしこの群衆の中に、亡霊たちが混じっているのなら、自分にも見えるのではないだろうか? あのテープの声は別としても、彼は亡霊というものを見たことがなかった。あるいは、いまも見ているのに気づかないだけなのかもしれない。
 かつての学識豊かな精神科医としての彼なら、こうしたことはすべて否定していただろう。超自然現象や非論理的な考えは決して受け入れないはずだ。しかし、春樹少年の言うことを信じるようになっていた彼は、いまはそうした非科学的な存在さえ受け入れるようになっていたが、そこには全くの混乱が無いと言えば嘘になるだろう。
 ふと顔をあげると、自分の家の近くまできているのに気づいた。通りの角から眺めると、少し先に改築された洒落た住宅が見える。しかし何故かいまは味気なく寂しげな風情が目につく……そうだ、妻がヴェランダから鉢植えを取り去ってしまったせいだ。
 この季節なら、春の花々がヴェランダを色鮮やかに飾っているはずだった。
だが、いまはがらんとした空間が窓の前にあるだけだった。
 そのとき、家のドアが開いた。信也は妻に違いないと思わず頬を緩めていた。
  しかし、姿を現したのは桂木真一だった。妻のアンティーク・ショップのアシスタント野郎だ。信也はまた疼きだした胸の痛みに耐えながら、通りの反対側に停めてある車のほうへ急ぐ桂木を見つめた。信也は息を切らして車のほうへ走りながら、叫んだ。
「なんて野郎だ! 人の妻を取りやがって、この恥知らずめが! おい待て……」
 しかし、車はすでにタイヤを軋らせながら駐車スペースから出て行った。
信也は手を背一杯のばして車のトランクを叩いたが、車はあっという間に目の前から走り去っていった。彼は息を切らして立ち止まったが、その瞬間、一台のトラックが彼の背後に迫っているのに気づいて、すんでのところで危うく身をかわして歩道に遁れたが、トラックは彼の姿に気づいていなかったのか、クラクションも鳴らさずに彼の鼻先をかすめるようにして猛烈な勢いで通り過ぎていった。もう一瞬身を引くのが遅れていたら、彼は轢かれていたに違いなかった。
「よく見て走れ!この馬鹿めが!」闇の中に消え去ったトラックに向かって、思わず精一杯の大声で叫んだ。そして、息を切らしながら、しばらく階段の下で蹲っていた。

 ようやく落ち着いた信也は、疼く胸を押さえながら階段を上っていった。
 一段一段、足を踏みしめながら、『今日こそは妻と話をしよう……きっちりと白黒をつけねばならない。自分がまだ妻を愛していることを、そして絶対に失いたくないと思っていることを』思い切った須磨子に告げよう、と決心していた。それには、できるだけ感情を抑えて、冷静に話をしなければならない、と自分に言い聞かせていた。
 玄関のドアを開けると、二階から妻の声がしていた。一瞬、自分に話しかけているのかと思ったが、電話に向かって話しているのがわかった。
「ねえ、聞いてちょうだい」彼女が言った。「あなたはいま、出て行ったばかりよ。まだ車の中でしょう? 話してくれないんだったら、メッセージを残すわ。そのほうが言いやすいから……」
 信也は二階へ上がる階段の途中で立ち止まった。妻の電話の相手はいま車で逃げるように走り去ったアシスタントの桂木真一だった。
「あなたを傷つけたのは悪いと思っているけど……でも私には、いまはまだ、あなたの気持ちに応えることがどうしてもできないの。わかってほしいの……」
 相手が何か言うのを、妻は黙って聞いているようだった。彼女の瞳が宙を舞い、相手の気持ちをおしはかっている様子が目に見えるようだった。
「……ええ、わかってるわ。あなたの気持ちは……わたしだって、あなたのことが好きよ……ほんとよ。でも、わたしのこともわかって欲しいの……わたしはまだあの人のことを愛しているの。このことは、前にあなたにも言ったわね……」
 須磨子は優しくなだめるように話していた。
 そのとき、相手が何か言ったらしい。
「……そう、あなたの言う通りよ。人間いつかはふんぎりをつけなきゃならないっていうことは、わたしも感じているわ。新しい人生を始めなければならない時があるってことも……でも、わたしにはまだ心の準備ができていないの。時間が必要なのよ……わかってくれるわね?」
相手の言葉を聞いて、ほっとしたように言った。
「……そう、よかったわ……それじゃ、明日、お店で会いましょう。いいわね?」
 妻は電話を切った。
 信也は妻が口にした……わたしはまだあの人を愛しているの……という言葉が、いま彼の心を捉えているもやもやした不安な想いを優しく癒すのを感じていた。しかし、同時に、最後に彼女の口にした思いがけない言葉が彼を悩ましていた。
 『……人間、いつかはふんぎりをつけなきゃならないとは、わたしも感じているわ……新しい人生を始めなければならない時があるってことも……でも、わたしにはまだ心の準備ができていないの。時間が必要なのよ……』
 この一連の、聴きようによっては過去の人生への訣別ともとれる思いがけない言葉は、彼に強い衝撃を与えると共に、いいしれぬ不安な思いに誘っていた。
 (夫をまだ愛している)、といったにもかかわらず、一方では、(ふんぎりをつけて、新しい人生を……)と口にしている。彼は妻のなかに芽生えている混迷や逡巡(しゅんじゅん)ないしは躊躇(ちゅうちょ)ともいえる心の葛藤を知ったのだった。
 信也は妻がバスタブにお湯を入れる音を聴きながら、階段の途中にじっと蹲ったまま、烈しく疼き始めった胸の痛みに耐えていた。

         *       *       *

 深夜、激しい雨脚が激しく窓ガラスに吹きつける音で、春樹は目覚めた。一台のトラックが、道路の曲がり角でスリップしたらしくキーッとタイヤを軋らせながら、そのまま走り去っていく気配が聞こえてきた。
 少年は枕の下を探って、懐中電灯があるのを確かめた。彼の足もとで眠っている犬のメリーの微かないびきが聞こえてくる。
 芦刈信也先生に会う前の春樹の切実な思いは、大人の人間を見つけることだった。それも、彼を変な目で見ることなく、幽霊の話をしてもあきれたような顔をしない人間に出会うことだった。一人でもいいから、たとえ、(彼のように)死んだ人が見えなくても彼の言葉を信じてくれる人が、そして、自分をモンスター(化け物)扱いしない人がいてくれれば、いいと願っていたのだ。
 信也先生は信じてくれた。そして先生は、悪い幽霊でも話を聞いてやりなさい、というのだ。彼にとっては、考えるだけでも恐ろしかった。悪いことをしようとする幽霊の話を聞くなんてとてもできなかった。ある者は爪で引っ掻いて彼を傷をつけたり、彼の身体のあちこちを触ったりするので、話を聞いてやるどころではなかったのだ。
 そのとき、ママの声が微かに聞こえたような気がした。耳を澄ました。
「春樹!」確かにママの声だ。
 彼は、はっとして身体を起こした。
「春樹!」また、声がした。
 ママは少なくとも、もうベッドに入って寝ているはずだった。
「……どうしたの? 春樹」
 少年はそっとベッドから下りると、暗い廊下に出た。そして懐中電灯を点けた。
 丸い光の輪が廊下を照らし出す。ひよっとして、また幽霊の奴がいるかもしれなかった。
彼はふっと息を吐いて、足早に廊下を通り、ママの部屋にいった。
「何があったの?」ママが言った。
 部屋へ入ると、一気にベッドの傍まで走った。懐中電灯の光を顔に当てないように、胸のあたりに向けてママの顔をみた。ママは布団にくるまって微かな寝息をたてて眠っている。きっと何か夢を見ているにちがいない、と春樹は思った。
「……誰かが傷つけたのね? ママがそいつのお尻を叩いてあげる」
 ママはぼくの夢を見ているんだ! 少年は思わず微笑んだ。ママなら、お尻をたたくぐらいやりかねないと思った。そして、そっとベッドに近寄ると、母親の頭をそっと撫でた。
 そして「ママ、よく眠ってね!……大丈夫だからね、シーッ!」と囁いた。
「……シーッ!」ママも眠ったまま囁いた。
 少年は足音を忍ばしてベッドを離れると、母親の寝室をでていった。
 そして急いで自分の部屋に戻ったが、明かりの消えた暗い部屋に入るなり、春樹は部屋の中が異様に寒いのに気づいた。
 同時にベッドの足元のそばの、部屋の隅に蹲る黒い人影に気づいて、彼は慌てて懐中電灯を点けたが、震える手から懐中電灯が床に落ちて転がった。
 そのとき、円錐形の光が床から壁の隅を照らしだした。そこにはひとりの見知らぬ女の子がこっちを向いて座っていた。
 身に着けている裾の長い花柄の寝間着はあちこち汚点(しみ)で薄汚れており、大きく見開いた瞳が鈍い光を放っている。背丈も年頃も春樹と同じようにみえた。
 少女は無言で春樹のほうに手を伸ばした。春樹はその腕からは皮膚が一部剥がれて垂れており、病院の点滴に使われるチューブのような管が片方の腕から垂れ下がっている。
 春樹の顔に手が触れそうになったとき、急に少女は俯くと苦しそうに胸を押さえながら大きく口を開けた。とたんに、胃液と混じった夥しい血が溢れ出てきた。
 それをみた春樹も思わず吐き気を覚えて口を押えた。しばらくして少女の嘔吐が止まると、彼女は血だらけの寝間着の袖で口を拭い、弱々しげに春樹を見上げた。
「少し、楽になったわ」と、少女が言った。
 春樹は恐怖に身体を震わせながら少しずつドアの方へ後ずさりしていった。
「お願い……」少女が手を伸ばした。一瞬、少女の氷のように冷たい手が彼の膝に触れた。春樹は思わず「あっ!」と叫びながら、這うようにして廊下へと遁れると居間へ駈け込んでいった。犬のメリーも怯えたように甲高い声で啼きながら春樹の後について居間に跳びこむとソファの下に隠れて怯えたように吠え始めた。少女の幽霊は追ってこなかった。
 春樹は床の上に蹲って、少女の弱々しく悲しげな様子を思いだしていた。
 あまり突然だったので、怖くなって逃げたけれど……あの少女の幽霊は悪意を持っているようには見えなかったし、彼を傷つけたり、脅かしたりするつもりとは思えなかった。
もし信也先生が言ったように、彼女はただ話を聞いてほしいだけなのかもしれない。いや、もっと切迫した何かを感じていた。少女の痩せ衰えた思い詰めたような顔が目に浮かんだ。
 春樹は後藤夫人のことを思いだしていた。優しい幽霊で、夫のことを案じて彼の助けを求めていたのだ。自分の前に現われる幽霊には、そうした心優しく、自分に救いを求めてくる者たちもいれば、校長の城間竜二の家の土蔵で彼を襲った悪い幽霊たちもいる。たぶん、いまの少女はきっといい幽霊で自分に助けを求めて来たのに違いないと思い直した。
 いまこそ、自分は助けを求める幽霊と立ち向かわなければならない、と決心した。そこで、春樹は震える脚を押さえながら、ゆっくり寝室のほうへもどっていった。
 少女は部屋の隅にまだ座っていた。顔を床に俯けて、ふたたびどす黒い血の混じった液体を吐いていた。白い花柄の寝間着の胸から膝にかけて血まみれだった。
 少女はようやく顔をあげると口の周りを袖で拭いながら、戻ってきた春樹を見上げて「だいぶ楽になったわ」と言った。
 春樹は微かに身体を震わせながらも思い切って少女の前に座ると、懐中電灯を少女の方にではなく壁に向けて床に置いた。ふたりは、ぼんやりとした光に包まれて向き合った。
「もし、ぼくに話しがあるんだったら……聞いてあげるよ」と春樹が囁いた。
 憔悴した蒼白い顔の少女は、弱々しく微笑んだ。いつのまにかあたりの冷気は去り、春樹の寒さも消えた。少女は、寝間着のポケットから一枚の紙切れをとりだすと、それを、そっと春樹の膝の前に差し出した。そして話し始めた。

第十五章 さゆりの訴え

 次の日、信也は少年の家の前で春樹に会うなり、彼の顔色を見て、何かが起こったことを知った。少年は信也に言った。
「昨夜、ぼくに助けを求めて来たのは“さゆり”っていう女の子だった。ぼくにこの紙切れを渡してそこに書いてある家にきてくれと言ったんだ。彼女は昨日亡くなって……今夜、お通夜だと言っていた」と春樹は言った。「これからぼくは行かなきゃならないんだ」
 信也は大急ぎでその紙切れを見た。便箋に子供らしい筆跡で書かれた手紙のようなものだった。
 その便箋に書かれた文面を読んでいるうちに次第に信也は顔色を失っていった。
 “さゆりは、自分の死にはママが係わっている、と書いてあった。そして、その証拠をぜひパパに見せてほしい、と訴えていた”そして最後に、ある住所が書かれてあった。
 彼は手紙を読み終わったあと、「ぼくも一緒に行こうか? この住所なら知っているよ」と言った。
「うん」と春樹は頷いた。  

 ふたりは黙ったまま、本町四丁目のバス停に向かった。バス停に着いてまもなく、一台の大きなバスがやってきた。
「このバスに乗るんだよ」と信也が言った。
 ふたりは一番奥の二人掛けの席に座った。昼間なので、バスの中には数人の乗客がいるだけだった。
 信也は春樹の眼差しに大人びた哀しみの気配が漂っているのを見て、信也は、彼はこの若さで、いったいどれほど多くの人々の悲しみや怒りに触れてきたのだろうか? と考えると、暗澹とした思いに駆られた……普通の子供なら、おそらく気が変になってしまっていたに違いないと思った。しかし、このままそうした辛い経験を重ねていけば、この気丈な少年でもいつかはつぶれてしまうに違いない、なんとかこの子を救ってやらねば、としきりに心のなかで考えていた。
 そのとき、ふと昨夜の自分の家での出来事が思いだされた。階段の途中で聞いた妻の電話の後、彼は妻に話しかけるのを止めてしまった。確かに彼女の会話は、ある部分では、彼をほっとさせはしたが、それ以上に、虚しさや悲しみ、そして絶望的な喪失感が胸にこみ上げてきたのだった。
 春樹は通り過ぎていくバス停を見ながら、「さゆりっていう子は、ずいぶん遠くからやってきたんだね」と呟いた。バスは、市街地を抜けながら次第に異国情緒あふれる高級住宅地へと向かって走っていく。
「そうだね。でも、もうすぐだよ。次のバス停で降りるよ」と信也は言った。
「わかった」
 バスはスピードを落としはじめた。そして(麦田町)という停留所で止まった。
 バスを降りると周りの家々の庭の緑と花々の色彩が眼に映った。
 信也は、昔、妻の須磨子と子供のことでよく話し合った。結局、街中の家を選んだが、子供ができたら、絶対にこの辺りに引っ越そうと決めたことを思い出した。もっとも、いまはもう、妻は子供の話などはしない。彼も同様だった。

 この地域は、かつて群を抜く環境アメニティを重んじる横浜在住の外国人が街の基礎をつくったせいで、住環境は理想的なものがあった。山手町の(港の見える公園)、(山手公園)、そして(プールのある元町公園)と静かな憩いの場所がふんだんにあり、数多く教会や学校もあり、さらにロマンティックな佇まいをみせる(外人墓地)などがこの辺りをより趣のある優雅な環境にしていた。

 信也は「たぶん、このブロックだよ」と電柱の番地のプレートを指差した。
 しばらく歩くと、先のほうに、通りの両脇に数台の車が停められ、黒い喪服姿の人々が集まっている大きな家が見えてきた。近づいていくにつれて、信也は異様に重苦しい雰囲気を感じはじめた。
 門の傍の車に寄りかかって泣いている女性がいる。夫らしい男性がその肩を抱いて慰めていた。家の周りは低い壁で囲まれて、そのレンガ塀をバラの蔦が這っている。
 信也と春樹は二人の傍を通り玄関に向かった。玄関の両脇に二本の脚で支えられた大きな花輪が置かれてある。
「それじゃ、入っていい?」春樹が訊ねた。
「もちろん……そのために来たんだろう」と、信也は励ますようにわずかに笑みを浮かべて見せた。
 玄関を入ると、二階へ上がる階段の前に小さなホールがあり、右手の壁には古めかしい大きな額縁に縁どられた家族写真が掛けられていた。その写真には、背後に立つ父親と母親の前に、蒼白い顔の少女と四、五歳ぐらいの少女、そして三歳ぐらいの男の子の五人が笑顔を浮かべて映っている。
 春樹はじっとその写真を見つめた。その顔色の悪い少女は、まぎれもなく自分を訪ねてきた“さゆり”だった。
 信也が開け放した居間のほうを見ると、葬儀の客たちでいっぱいだった。振り返ると、春樹は玄関の奥にある白菊の花で飾られたテーブルの上にある小さい写真を見つめていた。それは死者の遺影だった。額縁の上辺の中央から二本の黒い帯(喪章)が左右両側に斜めに掛かっている。その下からこちらを哀しげに見つめている女の子は他でもない“さゆり”だった。
 そのとき、「ぼくは二階へいくよ」と春樹が言った。
「一緒に行こうか?」と信也が言う。
 少年は一瞬、うつむいてためらっていた。その顔は真っ青だった。少年は必死に何かに耐えているという風にみえた。
 その顔を見つめているうちに、信也はいますぐ、彼の手を引いてこの場から出て行ってしまいたいという衝動に駆られた。何か取り返しのつかないことが起きるまえに……葬儀に重大な支障を与える事態が起るまえに、連れて帰ったほうがいいのではないか、という危惧の念を抱いた。しかし、彼は考え直した。少年と後藤老人との間で起こった奇跡とも思える不思議な光景を思いだしたからだ。
 この子を信じよう。そして、“さゆり”という少女の亡霊も信じよう、と決断した。
「ぼくは大丈夫だよ」と信也に向かって言うと、春樹は階段を上り始めた。
「だけど、ぼくを置いて帰らないでね」
「もちろんさ、下で待っているよ」と信也は大きく頷いてみせた。
 少年は急に足を早めて二階に上がっていった。

 その姿が見えなくなると、信也は居間へ入り、多くの客たちの中へ混じっていった。
 入口のすぐそばで、二人の女性が亡くなった少女の話をしていた。
「亡くなったのはさゆりっていう九歳の長女なの。可哀そうな子よ……身体中に点滴や機械のチューブをつけられて、一年間もベッドで寝ていたんですって。まだほんの子供なのに」
「一番下の三歳の男の子は二年前に亡くなったって聞いたわ。そして下の五歳の娘さんもやっぱり病気らいしのよ」と相手の女性が声をひそめて囁いた。「子供さんが三人とも亡くなったり、病気だったり……ほんとうにお気の毒なご夫婦ねえ」
 
 二階の廊下はぽつんと電燈がひとつ点いているだけで、ひっそりと暗く、四つ並んだ寝室の奥のほうは仄暗い陰におぼれてほとんど見えない。春樹はそっと足音を忍ばせて、一番奥の大きい部屋から見ていった。その大きさから両親の寝室だろうと思った。次いで、その隣にある二番目のひとまわり小さい部屋の前に来たとき、この部屋がさゆりの寝室に違いないと直感した。よく見ると、ドアの中ほどに、白いバラ模様を描いた木製の縁飾りついた名札に『さゆり』という名前が書かれてあった。
 春樹は急に心臓が動悸を打ち始めるのを感じながら、必死に自分に言い聞かせていた。(大丈夫だ。あの子のためにやらなければ……さゆりのためにどうしてもやるんだ)
 震える手で、ドアのノブをゆっくり回して軽く押すと、ドアはすっと開いた。素早く中を見回したが誰もいない。窓際に寄せて大きなベッドがあった。病院のと同じ鉄枠のベッドだ。きっと底が動くようになっていて、起き上がって外を見ることもできるはずだ、と思った。
 主のいない片づけられた寂しいベッドの上に、白いシーツがきちんと折りたたんでおいてある。ベッドと平行に大きな本棚が壁に沿っておいてある。そこには数えきれないほどのさまざまな人形が整然と並んでいた。棚の向こうには大型のテレビが据え付けてある。

 そのとき、春樹の部屋にきた“さゆり”から渡された一枚の紙切れに書かれた文句の一節を思いだした。
 (……わたしの部屋にきてね。どうしても渡したいものがあるから……)
 彼はテレビの下のキャビネットの引き出しを開けてみた。なかにはカセットやDVDなどいろんなものが雑然と入っている。
 すると背後で、何か動く気配がした。彼ははっとして振り返った。誰もいない。窓のカーテンが微かに揺れている。風か?
 ベッドの横のサイド・テーブルに目をやると、銀色の枠の写真立てがあった。下の家族写真で見た母親と思われる女性が映っている。ずいぶん若い頃の写真で、モデルのように笑顔でポーズをとっている。ママは女優志望だったと、さゆりが言っていた。そして、いまは市内の中心街でブティックの店を開いており、家にいる時間は少なかった。
 しかし、たまに店の休みの日には娘に食事を作ったり、着替えを手伝ったりすることもあった。普段は、通いの看護師か父親が絶えず病気の娘のそばにいて面倒をみていたのだ。

 テーブルに近寄っていったとき、ふいに誰かが彼の足首を掴んだ。
 春樹は床の上に転んでしまった。そして恐怖より驚きながら見たのは、ベッドの下の暗がりに蹲っている“さゆり”の姿だった。春樹は思わず息をのんだ。
 昨日とまったく同じ姿で、やつれた細い顔に深く窪んだ寂しげな目が光っている。しかし、今日の彼女は弱々しく微笑んでいた。
 彼女は膝の前に置いていた綺麗な飾りのついた木の小箱をそっと春樹に差し出した。

         *      *      *

 信也は、控えめに一階の会葬者から少し離れて、部屋の隅で立っていた。
 死んだ少女の母親は、お悔やみを言いに寄ってくる一人、一人に丁寧に礼を述べていた。彼女はすらりと背が高く、彫の深い派手な顔立ちの女性で、“若くて苦労のない頃はさぞ美人だったろう”と思わせる面影が残っていた。その眼差しも、やや高慢な風情があるのを除けば、かつての艶やかさが感じられた。彼女が客たちの悔やみの言葉に、「私どもの哀しい運命(さだめ)なのでしょう」と応えて涙を拭っていた。
 父親のほうは、居間のアーム・チェアに崩れるように深く蹲り、そのやつれた顔は蒼白だった。上着もネクタイもとり、白いワイシャツの首回りは汗で濡れていた。
 あたかも、彼の身体まで悲しみで涙を流しているようだ、と信也は思った。そして、彼のまわりには人々を寄せ付けないほどの激しい悲嘆の気配が漂っている。
 信也はこの悲嘆に暮れた沈鬱な雰囲気のなかで、妙に居心地の悪さを感じていた。そのため何も喉を通らないような気分だったので、出されている飲み物や料理には全く手を付ける気にはなれなかった。
 (一刻も早く、帰りたい)と心のうちで焦っていたとき、春樹が居間に姿を現した。
「すみません」と言いながら、厳粛な面持ちで父親の前に歩み寄った。
「さゆりさんのお父さんですか?」囁くような春樹の声は微かに震えている。
 父親は一瞬、不思議そうな顔をしたが、少年の必死な面持ちを見て、静かにうなずいた。
「お父さんに見せたいものがあります」少年はそっと小箱を差し出した。
「さゆりさんからです」
 信也は、はらはらしながら成り行きを見守っていた。
 父親の差し伸べた手が細かく震えている。しばしためらうようにみえたが、やがて、思い切ったように静かにうなずくと、少年の手から箱を受け取った。
 おそらく春樹を知人の子供たちのひとりと思ったのだろう、と信也は考えた。
 そのとき、春樹がためらいがちに一語一語あらためるように、ゆっくりとつけ加えた。
「……お父さんが、さゆりさんの病気を心配して、寝室の壁につけられた監視カメラのテープのひとつが入っているそうです……看護師さんが保管してあったものの中から、そのテープを見つけたと、言っています……お父さんにどうしても見て欲しいと、さゆりさんから預かりました……」
 父親は春樹の言葉を聞くと、しばらく、いぶかしそうに春樹と手にした小箱を交互にながめていたが、決心したように箱を開くと、中から一本のビデオ・テープを取り出した。そして椅子の前にある大型テレビのレコーダーにテープを入れた。
 春樹は信也のそばへ戻ってくると、顔を近づけてそっと囁いた。
「さゆりさんは以前から、体の具合のいいとき、退屈を紛らわせるためにときどき看護師さんに頼んで録画した監視用のカメラで映したテープを再生して見ていたんだって。そして、三週間前に、あのビデオを見つけたと言っていたんだ」
「なんで、いままで隠していたの?」信也は訊ねた。
「知らない」春樹が言った。「さゆりさんは妹のことを心配しているらしい………お母さんにはお店が忙しいので、監視カメラのことは知らせてなかったんだって」
 居間では父親が大勢の客の前でビデオの再生を始めていた。
 カメラは壁の天井ちかくに取り付けてあるらしく、娘のベッドとその周辺をズームで取るようにセットしてあった。
 (……このカメラは、一か月前に、父親が症状の安定しない娘を気遣うあまり、病院側と相談して常時、娘の病状をモニターで見守るために取りつけたものだということを、春樹は後で、父親から聞いたのだった。しかし、母親は普段は、ほとんど看護師に任せて娘の部屋には入らないので、彼女にはまだ知らせていなかったという……)

 画面には少女がベッドで眠っている様子が長々と映し出されていた。画面の右上の端に録画した日が表示されている。ちょうど一週間前の日付だった。
 時々、苦しそうに寝返りをうちながら娘は眠っている。窓に引いたカーテンの華やかな花柄が外から差し込む太陽の日差しを透して鮮やかに浮き出てみえる。ちょうど昼ごろらしい。そのとき、ドアの開く気配がして誰かが入ってきた。さゆりの母親だった。お店が休みだったのだろう。娘の世話をするつもりのようだ。
 母親は昼食のトレイを持って入ってきた。「さゆり、お昼にしましょう」と言いながら、ベッドから少し離れたテーブルの上に昼食の皿の乗っているトレイを置いた。それから、母親は娘に背を向けるとエプロンのポケットから白い色の大きなラベルが貼られた小さな瓶を取り出した。(ちょうどカメラは真正面から母親とその瓶を映し出している)、彼女は瓶を胸の高さまで持ち上げると、蓋を回して開けた。そのとき瓶に張られている白いラベルに大きく書かれた真っ赤な字がはっきりと映しだされた。
 それを見るなり、父親は意味不明の叫び声を発すると同時に思わず腰を浮かしていた。
 テレビのまわりにいた客たちの口からも一斉に驚きの声が発せられ、大きなどよめきとなって騒然と部屋中にこだました。
 部屋の隅に立っていた信也と春樹も、その思いがけない映像に驚きを隠せなかった。

 母親の持っている瓶の白いラベルには、太く大きな赤い字で『コンドックス:ねずみ駆除・殺鼠薬(毒餌剤)“取扱い厳重注意”』と大きく書かれてあった。

 母親はその瓶を傾けると中から青い顆粒状の粉を数回振りだして娘のスープ皿の中に入れ、スプーンで幾度もかき回した。そして、そのスープ皿の乗せたトレイをベッド用の移動テーブルに乗せると娘のベッドの傍へ移動させていったのだ。
「さあ、さゆり……起きてお昼にしましょう」と母親は言った。
「気分はよくなったわ」
 信也は、ベッドに起き上がった少女の悲しげな瞳とその痩せ衰えた姿は、まるで生霊のようだと思った。
 母親はスープ皿からスプーンでスープをすくって娘の口へ運ぼうとする。
「気分はよくなったわ」さゆりは繰り返した。
「そう、よかったわね。さあスープを飲みなさい」
「これを飲んだら、外へ出てもいい?」と娘が訊いた。
「そうねえ……」母親は首を振りながら言った。「あなたはいつも、午後に具合が悪くなるでしょう?」その表情は異様に硬く、ぎこちなく見えた。
 母親は再びスプーンを娘の口へ運ぶ。娘は口を閉じたまま、顔をしかめた。
「変な味がするなんて言わないでよ。ママがあなたのために作ったスープなのよ」
 母親は強引に娘の口へスープを流し込んだ。

 そのとき、父親が荒々しく椅子から立ち上がるとビデオを止めた。その固く凍えた頬は両眼から溢れ出る涙でべとべとに濡れている。レコーダーからテープを取り出すと、その場にしばし茫然と佇んでいた。
 居間にいたすべての客たちは……信也と春樹も含めて……映像が消えてザーザーと砂嵐のように揺れ動く灰色のテレビの画面を、ただ言葉もなく見つめ続けた。

 しばらくして、最初に、父親がテープを手にしたまま歩き出した。周りの人々も父親の後についてゆっくりと隣のダイニングルームへ声もなく移動しはじめた。
 ちょうどダイニングの窓際に生けられた花束を直しながら、そばにいる数人の女性たちと話していたさゆりの母親は、入口に近づいてくる人々の気配に気づいて、背後を振り向いた。
 そして、テープを手にした夫を先頭に異様な静けさと共に部屋へ入ってくる大勢の弔問客たちの姿を見て目を見張った。それらすべての人々の顔に表れている怒りと非難と嫌悪の眼差しがいっせいに自分に向けられているのを見て、彼女は身を強張(こわば)らせて声もなく立ちすくんでいた……

*      *       *

 春樹と信也は、父親と客たちが隣のダイニングへ行くのを見送ったあと、そのまま玄関をでると、表の庭へと向かった。
 大きな銀杏(いちょう)の樹の下のブランコにさゆりの妹が座り、ゆっくりと揺らしている。他には誰もいない。
「やあ」春樹が少女に声をかけた。
 顔を上げた少女は、初めて見たさゆりとよく似て優しい可憐な表情をしていた。
「お姉ちゃんが、これをあげるって」春樹はポケットからキラキラ光るガラスの首飾りを取り出した。中央に綺麗な白いバラの形のペンダントがついている。
「これ、お姉ちゃんが一番大事にしていたものよ」妹が言った。
 春樹はその首飾りを少女の首にかけてやった。
 少女は胸のペンダントをそっと触りながら「お姉ちゃんは、もう帰ってこないのね?」と呟いた。
「そうだよ」
「そう……わかった」幼い妹は言った。
 春樹はそっと妹の肩に手を置いて優しく叩いた。
 妹がうなずくと、彼はそっとブランコから離れていった。そして幼い少女がゆっくりとブランコをこぎ始めるのを眺めた。ブランコの揺れは次第に大きくなっていった。
 春樹はそのブランコに乗った幼い少女の心を覆ういいしれぬ寂しさを感じ取っていた。

        *      *       *

 停留所で帰りのバスを待ちながら、春樹はそっと信也に訊ねた。
「さゆりちゃんのママはどうしてあんなひどいことをしたの?」
 信也はしばらく少年の顔を見つめて考えていた。
 その顔には深い哀しみと激しい困惑が現れていた。
 いま彼は、かつての経験豊かな精神科医としての知識と考察の中から、あの母親の凄惨ともいえる行為の理由を導き出していたのだ。
「春樹くん……人の心には、ふだんは見えないけど、いろんな感情が隠れているんだよ。そして、その感情が極端に進むと心が病気になるんだ。さゆりちゃんのママもひどい病気だったんだ。ちょっと難しいけど、“代理ミュンヒハウゼン症候群”という病気に違いないと思う。わかりやすく言えば……家族の中の誰かがひどい病気になると、周囲の人から同情されたり、心配されたりするだろう?……あのお母さんは、そういった人の注目や同情を異常に欲しがる怖い心の病気にかかっていたんだ。そのために娘のさゆりちゃんにあんなひどいことをしたんだ……」        
 春樹には、彼の話がまだよく理解できないようだった。でも、彼なりに判ろうと努力している様子が信也には見て取れた。
「ぼくのママは……そんな病気にはならないよね?」と春樹は囁やくように訊ねた。
「もちろんさ。きみのママは絶対に大丈夫だよ……だって、君のことをとても愛しているからね」
 信也は慰めるように少年の肩を軽く叩きながら、大真面目で答えた。
 春樹はため息をつきながら、ほっとしたように笑みを浮かべた。

 そのとき、ようやくバスが来た。
 座席はがらがらで、数人の乗客が前の方に座っていた。ふたりはバスに乗ると、また最後部の席に座った。春樹は黙ったまま、外の景色を眺めていた。
 信也は、この幼いともいえる少年が今日の大仕事を立派にやりとげたことに、その勇気に心から感嘆していた。そして、もう患者としてセラピーを続ける必要はなくなったと感じていた。さゆりとその家族を救った彼はもう立派なひとりの男の子だった。もう彼は自分を必要としないで自立していくだろう、と結論した。
「先生、どうかしたの?」と少年が彼の顔を覗き込んだ。
「きみとぼくのことを考えていたんだ。ふたりは、お互いに必要なことはすべて話してきたと思うんだ……もうそろそろ、誰か他の人に秘密を話してもいい頃だよ」
 信也は静かに言った。
「誰かって?」
「誰か、きみの身近な人にだよ……たとえば、お母さんに」
「そうだね」と少年は答えたが、その時、先生が“さよなら”を言っていることに気づいた。
 そのとき、バスは本町四丁目のバス停に着いた。
 ふたりは夜の街をゆっくり歩きながら、少年の家へ向かった。
「先生と会えないなんて考えられないよ。ぼくが先生を必要としていないっていうの?」と少年が訊いた。
 ドクター信也は、しばらく答えずに優しく微笑んだ。そして真剣な声で訊ねた。
「幽霊がきみに引っ掻き傷をつけたのかい?」
「時々ね。でもみなは、ぼくにどうしても話を聞いてほしくてやるんだと思う。顔や姿はちょっと怖いけど。でも、いまは前とは少し違う感じがするし……」
 そのとき、ふたりはちょうど少年の家の玄関の前に来た。
 少年には、ドクター信也はもう本当の“友達”のような気がしていたので、別れるのが辛い気がしたのだ。
「ねえ、先生。ぼくたち明日も会う振りをしようよ」と提案した。
「振りだけでいいんだ」
 そのとき、少年は立ち止まった友達の身体が凍ったように固くなっていることに気づいた。そしてすばやく彼の胸に目をやった。最初会ったときから痛がっていた場所である。その傷は大切な友達に、幽霊よりも執念深く執りついて離れないのだ。友達の顔は灰色で、悲しげで、泣くのを我慢しているようにも見えた。
「じゃ、もう行くよ」
 信也先生は一瞬、春樹の顔をじっと見つめた。それは少年の顔を胸に刻み込もうとするかのようだった。そして、励ますように微笑むと、玄関を離れながら手を振った。
「また、明日」
「うん」少年は言った。
「じゃ、また明日」
 先生の姿が次第に夜の闇に遠のき、そして消えて行った。
 少年は玄関の前の階段に腰掛けて泣き始めた。

第十六章 告白

 母の真由美は、息子の春樹がシート・ベルトをはめるのを確かめると、車をスタートさせた。ゆっくり街中を走らせながら、隣にいる息子の様子を窺った。いつになく、息子の口数がすくないのを気にしていた。いつもなら、車の中でははしゃいで騒ぎまわるのに、今日は朝から、何かに気を取られているようにぼんやりしていた。
「お腹すいた?」息子の気を引くように訊ねてみる。
「別に」気のない返事が返ってくる。
「ピザなんかどう? 食べに行かない?」
 春樹は黙ってうなずいた。
 母親は他にも何か会話になるような言葉を探した。
 車を大通の流れに入れながら、少し離れた町はずれのピザ屋へ行こうかと考えていた。あそこなら、子供向けにビデオ・ゲームが置いてある。
 今日はいつになく車の流れが遅かった。交差点を直進したところで、ついに渋滞に巻き込まれてしまった。一メートルごとに停車しなければならず、こうしたのろのろ運転は気持ちを苛立たせる。こうしたひどい渋滞に遭うのはひさしぶりだった。
 真由美は息子の様子を見やった。春樹は静かに座っていて別にいらいらしている様子は見られない。息子が落ち着いているのが、この最悪の状況のなかでせめてもの慰めだと思った。
 とうとう車の流れは完全に停止した。首をのばして前方を見ると、数珠つなぎに並んでいる車列の先に、救急車の赤い回転灯がくるくるまわっているのが見える。動いている車は一台もなかった。
 真由美は思わずガソリンのメーターに目をやった。幸い三日前に給油したばかりだった。
 息子は助手席に無言で座ったまま身動きもしない。
 何か声をかけてやらなければ……なんでもいいから、この沈黙を破らなければ、と思った。
「事故でもあったのかしら? けが人がいなければいいわね?」彼女は言った。
 息子は何も言わず、じっとフロントガラスを透して前方を見据えている。まるですべてを見通しているかのような眼差しである。
 そのとき、突然、春樹が言った。「話し合うときだね」
 いつになく大人びた口調だった。
「えっ? 話し合うときって……何を?」
 何を話し合うっていうんだろう? いったい、この子は何を言おうとしているのかしら? 真由美はわけがわからなかった。
「もう、秘密を教える時がきたんだ」と、春樹は真顔で言った。
 母親は急に息苦しさを覚えた。車の中の空気が急に希薄になったような思いだった。
「秘密って?」彼女は聞いた。
「この先の交差点で交通事故があった」春樹は前方を指差した。
「本当? どうしてそれがわかったの?」思わず息子の顔を眺めた。
「男の人が死んだんだ……ぼく見たんだ」
「まあ……」
 真由美は息子から目をそらして前方に目を凝らした。しかし見えるのは、連なる車の屋根と、その向こうに点滅する救急車のライトとだけである。
「その……死んだ人が見えたの?」息子の横顔をまじまじと見つめた。
 春樹はうなずいている。
「どこに?」
「ぼくの窓のすぐ横に立っているよ。自転車に乗っていて車に轢かれたんだ」
 真由美は頭が混乱して、一瞬、言葉が出なかった。
「春樹! 冗談を言ってる場合じゃないわよ」
「冗談じゃないんだ、ママ」
「……いやねえ、怖いこと言わないでよ」
 真由美は自分の声が微かに震えているのを意識した。
「そうだね。あの人たちは怖いこともあるよ」
「あの人たち?」
「死んだ人たちだよ」
「死んだ人たちだって? いったい、あなた、何を言っているの?」
「幽霊のことだよ」
 真由美は両手でハンドルを硬く握りしめて大きく息を吸いこんだ。まるでいままで息をしていなかったかのように息苦しかったからだ。
 そのとき、はるか前方を、一台のトラックがレッカー車に引きずられて対向車線のほうへ移動するのが見えた。
「あなた、幽霊が見えるの?」
「何か頼みたいことがあるとき、話しかけてくるんだ」
 真由美は焦っていた。こんな時、母親ならどうするだろう、どんな返事をするだろう。このとき、彼女は母親として冷静に対処しようと決心した。息子を救うためならどんなことでもしょう。なんとかこの場を切り抜けなくては……
「ママ、何を考えているの?」
 真由美は息子に言うべき言葉を必死になって考えていた。何か納得のいくうまい言葉を言わなくては……セラピストか精神科医か、あるいは賢明な母としての……
 そのとき、春樹が言った。「ぼくがモンスター(化け物)だって思う?」
 息子の言葉ではなく、そのときの息子の目が母親の胸を締めつけた。
「春樹!わたしを見て」彼女は息子を肩を掴んだ。
「いい!よく聞いて。わたしは決して、一度も、そんなことを思ったことはないわよ。ほんとうよ……わかった!」
「わかった」春樹はうなずいた。
 母親は腕をのばすと息子を抱き寄せた。
 渋滞していた車の列が少しづつ動きはじめた。後ろの車が催促するようにクラクションを鳴らした。
 真由美はハンドルを握ると、車をゆっくり進めていった。
「いま、あなたの言ったことだけど……ママに、もう少し考えさせてね」
「いいよ」春樹は優しく言った。
 そのとき、前の救急車がゆっくりと道路の脇へ動き、無残につぶれた自転車の傍に置かれたストレッチャーに黒いビニールの布を掛けられた遺体が載せられていた。
 真由美は茫然とそれらを眺めながら車を進めていった。
 そのとき春樹の声が聞こえた。「おばあちゃんが、よろしくって言ってたよ」
 はっとして、息子の顔を見た。
「真珠のネックレス、ごめんなさいって」春樹が言った。「懐かしくて、つい触っちゃったんだって」
「えっ? 何をいってるの?」
「おばあちゃんが、ときどき遊びにくるんだ」
「春樹、おばあちゃんは亡くなったのよ」
「知ってるよ」春樹は言った。「ママに伝えてほしいって、言われたことがあるんだ」
「……春樹! もうやめて」
 真由美は急に心が空っぽになっていくような感じがした。あたりが暗くなり、目の前のすべてが遠ざかっていくような眩暈(めまい)に襲われた。
「もうやめて、春樹……お願いだから」真由美は息子を抱きしめた。
 春樹は母親を見上げてそっと囁いた。
「ママの歌を聴いたって……ママがまだ小さい頃、歌の発表会の前におばあちゃんと喧嘩したでしょう? 来ないでってママが言ったけど、そっと聴きに行ってたんだ。ずっと後ろの席だったから、ママは気づかなかったけど……おばあちゃんは言ってたよ。“ママはまるで可愛い天使みたいだった”って」
 息子の言葉を聞いているうちに、真由美の心にふいに温もりが戻ってきた。あたりがぱっと明るくなり、すべてが彼女のもとに帰ってきた。言い知れぬ深い感動に身体中が震えるように思えた。
 真由美は理解した……心で、魂で、真実を知ったのだ。息子は、ほんとうのことを語っていたのだ。なぜと訊かれても答えられなかったろうが、心の底から息子の言葉を信じた。
 突然、彼女の目に涙が溢れ、頬を伝わって流れ落ちた。
「ママはおばあちゃんのお墓参りのとき、何か訊いていたでしょう?」
 春樹は言葉を続けた。
「答えは“いつもよ”だって。どんな質問かは教えてくれなかったけど、ただ“いつもよ”っていえばママにはわかるって」
「“わたしを愛してくれている?”って聞いたの」と、真由美は囁いた。
 彼女は溢れる涙を拭おうともせず、震えるほどの熱い感動のうちに息子を優しく胸に抱きしめていた。

第十七章 死にたくない者たち

 夕暮れと共に、烈しい雨が降り始めた。信也はずぶ濡れになりながら、家へ向かっていた。雨を吸い込んだ服がじっとりと重く、染み透った雨で濡れた肌着がべっとりと身体に張り付いて冷たく、気分が悪かった。
 しかし、彼の心には、あの春樹少年との出会いのあとに続いた数々のセッション、というより、心温まる触れ合いの記憶が甦っていた。そして、もう二度と会うことはない少年との玄関での最後の別れの場面をふたたび思い出していた。

「きみとぼくのことを考えていたんだ。ふたりは、お互いに必要なことはすべて話してきたと思うんだ……もうそろそろ、誰か他の人に秘密を話してもいい頃だよ」
「誰かって?」
「誰か、きみの身近な人にだよ……たとえば、お母さんに」
「そうだね」と少年は答えた。
 その時、少年は、信也が“さよなら”を言っていることに気づいたようだった。
 そして、少年は言った。「ねえ、先生。ぼくたち、明日も会う振りをしようよ……振りだけでいいんだ」その顔はいまにも泣き出しそうに見えた。
「じゃ、もう行くよ」信也は玄関を離れながら手を振った。「また、明日」
「うん」少年は言った。「じゃ、また明日」

 ……信也は、つくづく思った。
 『二年前、あの小沢輝夫は救えなかったけれど、黒川春樹という少年だけはとうとう救うことができた……彼にはもう自分は必要ではなくなった……あとは母親が彼を立派に(はぐく)み導いていくだろう……きっと』
 少年との別れに、ある寂しさを感じつつも彼は嬉しかった。あの可憐な少年は、母親のもとで立派に独り立ちしていくだろうと信じた。

 信也はこの世での最後の仕上げに、そして自分を救うために、愛する妻の須磨子との関係を修復しなければならない、と考えていた。家の玄関はもう目の前だった。自然と急ぎ足になった。
 そのとき、夜と雨しぶきの中から現れた一台の乗用車が家の玄関の前に止まった。あのアシスタント野郎、桂木真一の車だった。
 信也は素早く向かいの家の(ひさし)の下に身を隠すと、様子をうかがった。
 運転席のドアが開き、桂木のすらりと高い身体が出てきた。傘を開いて差し掛けながら、後部座席のドアを開けた。妻の姿が現れて傘のなかに身を寄せた。
「送ってくれてありがとう。それじゃ、明日、お店でね」と須磨子が言った。
「待って、須磨子さん……さっきのこと考え直してくれないかな?」と桂木。
「真一さん、お願い……わかって欲しいの。あなたの気持ちは嬉しいけど、でも、わたしはまだ夫を愛しているの……だから、あなたと一緒になることはできないのよ……お願い、わかって!」
 須磨子はきっぱりと言うと、車から一歩、身を引いた。
「わかったよ……でも、ぼくは絶対あきらめないからね」
 桂木は激した口調で言った。そして、荒々しく車のドアを開けて運転席に乗り込むと、激しくタイヤを軋らせながら水しぶきをあげて走っていった。
 須磨子は傘をさしたまま、車道にでると、烈しさを増した雨のなかに佇んだまま、桂木の車が雨と夜のなかを走り去っていくのをじっと見つめていた。

 信也は複雑な思いで、いまのふたりのやりとりを眺めていた。
 若い桂木の須磨子への一途な想いも理解できないわけではなかったが、やはり、絶対に妻を失うわけにはいかなかった。心から深く妻を愛していたからだ。ここのところ、妻と言葉を交わすことのない日々が続いていた彼にとって、いま妻の言った“まだ夫を愛しているの”と言う言葉が、このうえなく嬉しかった。
 信也は身を潜めていた家の陰から出て、妻のそばへ行こうと歩き出した。
 その瞬間、車道に立っている妻の背後の闇の中から現れた大きなトラックがこちらへ疾走してくるのを見た。ヘッドライトの光のなかに彼女の姿が浮き出した。
 しかし、妻はまだ気づいていない。ぼんやりと考えに耽っているのだろうか?
「危ない!」信也は夢中で妻に向かって走った。
 トラックは、激しく降り募る雨と夜の闇の中にいる妻の姿に気づいていないのか、スピードを落とす気配はない。
 “このままでは、轢かれてしまう!”
 必死で車道に飛び出しながら、信也は一瞬のうちに悟っていた……妻に駆け寄り車道から彼女を歩道のほうへ押し出すことはできても、猛烈な勢いで突進してくるトラックからは自分が遁れる時間のないことを……彼は死を覚悟した。
 夢中で妻の身体を歩道へ突き飛ばした瞬間、トラックの巨大な車体が凄まじい勢いで自分の身体の上にのしかかってくるのを見た……轟音を響かせながらトラックはあっというまに“彼の身体を”通り過ぎて行った……一瞬の後、彼は車道の上に茫然と佇んでいる自分の姿を見たのだ。
 “トラックは、あたかも影を、そして亡霊を通り抜けるように、彼の中を走り去ったのだ”

 その瞬間、芦刈信也はすべてを理解した……そして、自分が《何者》かを悟ったのだった。
 自分が、まさしく“死にたくない者”のひとりであったことを愕然とした思いのうちに知ったとたん、彼は天を仰ぎ、恐ろしい哀しみと絶望の叫び声をあげた。
 いま、自分を歩道へ押し飛ばした目に見えぬものが、いったい何だったのかわからぬまま、茫然と歩道に横たわっている妻を後に残して……信也は嵐のように吹きすさぶ冷酷な雨の中を駆け抜け、胸を切り裂く凄惨な痛みを抱きながら、遥かな忌まわしい過去へと……二年前のあの夜、小沢輝夫が彼の胸に(やいば)を振り下ろしたあの夜へと……そして、彼がしたかったこと、言いたかったこと、それらすべてが永遠に手遅れとなったあの夜へと……漆黒(しっこく)の闇のなかを真っ逆さまに墜ちていった。

          《了》