聞き手・尾沢智史 聞き手 編集委員・駒野剛
2015年7月3日13時36分
私たちの友とは。そして敵とは――。集団的自衛権の行使容認と安全保障法制をめぐる国会論戦がかみあわない。政治風土だけでなく、日本社会全体にも敵味方を峻別(しゅんべつ)する世界観が広がっているようだ。政治思想に詳しい2人に聞いた。
■東京大学社会科学研究所教授・宇野重規さん
1990年代以降、世界を決して相いれない「友」と「敵」に分けようとする考え方が目立つようになりました。ハンチントンの「文明の衝突」や、欧米とイスラムの宗教対立とされるものが典型です。そこで想起されるのが、20世紀前半に活躍したドイツの政治学者カール・シュミットの「友・敵」理論です。
シュミットの思想は、政治思想の歴史の中では突然変異的です。通常の政治観では、「友」と「敵」は必ずしも固定的ではありません。「敵」が「友」になったり、その逆だったりする。妥協を図ったり、対立しながらも協力したりするのが政治の営みだと考えられます。
しかしシュミットは「友」と「敵」を非常に対立的に捉えます。「友」と「敵」の峻別こそが国家の本質であり、究極的には、一つの国家は「敵」を排除して「友」だけでつくられることになる。
■単純化は「逃げ」
日本でも、90年代以降、「政治は決断だ」といった俗流のシュミット的言説が広まりました。グローバル化が進み、民主主義が機能不全を起こす中で、みんなで話しあって決めるという教科書的な民主主義像がうそ臭く感じられるようになった。政治は利害の調整という考え方自体が間違いであり、誰が友で誰が敵かをはっきりさせることこそが政治の本質だ、というシュミットの主張が時代に合っているように見えたのでしょう。
とはいえ、いま本当にシュミット的な時代がやってきたのかというと、疑問が残ります。世界は本当に「友」と「敵」が真っ向から対立する状況に直面しているのか、市場メカニズムや国際秩序の調整メカニズムが崩壊しかかっているかというと、そうは思えません。
特に日本において、「友」と「敵」を真に分けるような根本的な対立があるかは疑問です。それなのに、あえて中身のない対立をあおることで政治を動かそうとする人たちがいる。橋下徹さんの大阪都構想もその一例です。大阪都が本当に機能するかよりも、橋下さんを支持するか、しないかという図式が先鋭化してしまった。「友・敵」の対立を作り出すことが自己目的化しているんです。
安保法制も同じです。アメリカの覇権が衰えを見せる中で、中国が台頭し、東アジアで秩序の流動化が起きているのは事実ですが、その中で秩序をどうやって維持するかという具体的な議論をしようとしない。最終的には「脅威が存在するのだからしかたない」という「友・敵」の図式に単純化してしまう。複雑な問題を解決できないために、わかりやすい対立に逃げているようにしか見えません。
残り:2430文字/本文:3611文字
おすすめコンテンツ
PR比べてお得!