2015.07.03
断食月のいま、イスラム世界のひとびとは
坂井定雄(龍谷大学名誉教授)
イスラム世界はいま、断食月の最中だ。この時期、中東やインド亜大陸をはじめ世界のムスリム(イスラム教徒)たちは、日中、猛暑と空腹に耐えながら、静かにアラーの神に近づこうと努力している。ラマダンこそ、神への信仰を自ら試し、自ら立証する一か月なのだ。
6月26日にはクゥーエートで、チュニジアで、フランスで、ソマリアで、イスラム過激派「イスラム国」と関わりのある若者たちによって爆弾テロが実行され、計百人を超える人々が殺害された。「イスラム国」は神聖なラマダンに「神の教えの敵」を攻撃するよう、呼びかけていた。圧倒的多数のムスリムたちは、イスラム過激派による、これらの残虐な殺戮を憎み、犠牲者たちへの深い同情、悲しみに包まれているに違いない。
わたしは、レバノンとエジプトで計6年間暮らし、多くの、普通のムスリムたちと親しくなった。彼ら、彼女らが、ラマダンをどう暮らしていたか、鮮明に思い出す。いまも変わることなく、ラマダンの日々を過ごしているだろう。
レバノンの首都ベイルートは、イスラム教徒とキリスト教徒がほぼ半数ずつ住んでいる。わたしたち一家が住んでいた、大きな住宅アパートのオーナーはアルメニア正教の女性。アパートのコンシェルジェ(管理人)はムスリムだった。このため、居住者にはキリスト教徒も多く、ラマダン中でも地上階の商店やバーはいつも通り開いていた。そのなかで、コンシェルジェは昼間、一滴の水も、一切れのパンも断固として口にしなかった。時に苦しそうな顔や動作を見せてはいたが、親切さも、働きぶりも全く変わらなかった。
エジプトの首都カイロには、ラマダンの最中に赴任した。表通りの肉屋さんには、皮をむいた羊が何本も店頭にぶら下がる。富裕な住民が買って、貧しい人々に分けて配る。夕方になるとモスクの周りの道路、高架道路の下をはじめ街中の空き地にテーブルが並べられ、日暮れにモスクのスピーカーがその日の断食の終わりを告げるときには、ほとんどのテーブルが貧しい人々で埋まっていた。富裕な住民やおもにムスリム同胞団系の青年グループが、パンと野菜ときには鶏肉のはいった紙箱と水ボトルを配る。この光景が、ラマダンがおわるまで毎日、続く。そして最後の夕べ、紙箱の中は、さらに豪華に野菜や鶏肉が入っている。
1928年に活動を始めたムスリム同胞団は、こうした福祉活動と知識人の医療活動や法律家による法律支援などの活動で支持者をひろげ、弾圧されても弾圧されても地下で根強く生き残った。2011年の「アラブの春」による民主的選挙で大勝し、12年6月の大統領選挙でもモルシが勝利して、同胞団主体のモルシ政権を樹立した。しかし13年6月、軍のクーデターで打倒され、モルシ以下、同胞団幹部と活動家数千人が逮捕投獄された。モルシ以下主要幹部100人以上に様々な罪状がかぶせられ死刑判決が下された。このため、今年のラマダンで、貧しい人々への夕食提供がどうなったか、心配だったが、カイロの友人の話では、ほぼ例年通りだという。クーデター後の軍事政権は、トップのシーシ将軍が軍から離脱し、大統領選を経てシーシ政権となったが、同胞団の福祉活動まで禁止することはできなかったのだろう。
カイロの夏は、日中しばしば50度を超す。そうなると学校や官庁は休みとなる。その中でも、モスクでは指導者の金曜講演が行われる。わたしの利用するタクシー運転手も必ず行くので、その間、車は使えない。とくにラマダン中、講演はいつも超満員だという。モスクには冷房などない。モスク内がどれほど高い温度になるのか。非ムスリムの私も許可を得て入れるよ、と誘われたが敬遠した。
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