やっとで見ました。
映画代けちって、月初め安い日まで見てませんでした。
もう公開から2週間も経っているというのに。
というのも、廃校寸前の音ノ木坂学院を救ったμ'sのメンバーは学生たちにとっての救世主であり、その中心となった穂乃果は英雄です。
そして雪穂と亜里沙が語り部となって、μ'sの伝説を後輩たちに語るの姿は、マッドマックス2や3のラストシーン、マックスの伝説を下の世代に語るあの場面そっくりです。
マッドマックスは英雄譚とか神話的とか言われますが、劇場版ラブライブも古典的な英雄譚の形に沿って話が進みます。
親元を離れ、離れた場所で試練にぶつかり、武器を手に入れ、そして戻ってくる。
今回で言えば、穂乃果の迷子が試練にあたり、マイクが手に入れた武器ということになるのでしょう。
そして日本に帰ってきた彼女たちはドームで最後のライブを行い、練習着は脱ぎ捨てられたまま。彼女たちの姿は映りません。
μ'sの物語は終わりましたが、雪穂や亜里沙が語り続けることで、μ'sの伝説は続きます。
そしてその伝説を聞く新入生たちは、観客である我々の立場です。
現実に雪穂や亜里沙はいませんが、我々は映画館に何度も観に行ったり、DVDを観ることで、繰り返しμ'sの姿を見ることはできます。これはつまり語り部から伝説を繰り返し聞くことと同じです。
姿の映らないラストシーンに、μ'sは伝説になったのだと強く感じると同時に、μ'sの9人が向こう側へ行ってしまったようにも感じました。
あのつまらないニューヨーク編で、穂乃果が迷子になったところから、みんなとはぐれたところを境に、現実からも剥離し始めます。
穂乃果は路上で歌う女性歌手に出会いますが、彼女のこの世の者でない感じは、その後の別れのシーンからもすごく感じられました。
そしてみんなと合流したことで、穂乃果は一旦現実に戻るのですが、また現実感は徐々に無くなり、話は夢でも見ているような展開になります。(夢のような展開といっても、秋葉原の中央通りをあんなにも豪華に飾り付けたり、それが高校生が集めただけで出来てしまったり、画面に収まりきらない程のの大人数を集めた大規模な企画を高校生がやり遂げてしまったり……そういうことではないです。)
空港に着いて、「これは夢なのでは?」と疑いながらぐるぐるとカメラが回るシーンはビューティフルドリーマーの胡蝶の夢を語るシーンのようでもあります。
登場人物にしても、ニューヨークのライブを依頼した人やスタッフの姿はなく、ニューヨークの街には年齢や性別、肌の色も様々なタイプの人がいたというのに、帰国してからは若者ばかり(少子高齢化なんてなんのその)、男は穂乃果の父親のみ(しかも顔が映らない)。
テレビシリーズの頃から変わらない部分ではありますが、ニューヨークのシーンが前にあるので、どうしても比べてしまいます。
本来なら批判的に見られるこれら登場人物たちの奇妙さも、現実感のなさが高まる展開にマッチして、見ている方としては気分が高揚してきます。
さらに秋葉原の通りを占拠してのライブシーンは画面全体を花びらが舞い続け、フレーミング・リップスのライブでも見ているかのような多幸感は、観るドラッグです。
ダルいニューヨーク編から帰国後の盛り上がりっぷり、そしてその盛り上がり具合に従って剥離していく現実。女性歌手の言っていた「飛べるよ」の言葉は間違っていません。
そして秋葉原でのライブ直前、穂乃果が空に手をのばし、画面中央で輝く太陽を掴んだ瞬間はその極みです。
太陽は世界各地で神として崇められるものですから、その太陽を掴むということは、穂乃果は神に等しい存在になったのだというのは、言い過ぎですが、スターなんて照らされるだけの存在なんかではなく、さらにその上の自らが光輝ける存在にまで彼女は高みへ登り詰めました。
それは小さな和菓子屋の娘であったときや、一介の高校生でもあったときに比べると、遥か遠い存在なのです。
現実から徐々に離れていったはμ'sのメンバーは、穂乃果に導かれ、ついに現実から飛び立ち、向こう側へと行ってしまいました。
ライブ終了後、全員集合しての写真撮影のシーンで、パシャっと固まった絵は少し怖かったです。
極みに達し、その結果、完全に世界が閉じてしまったように見えて。笑い声のする向こう側と見ているこちら側に大きな壁ができ、もう本当に手の届かないところへ行ってしまったかのような感じで……。
その後のドームライブの背景なんてどう見てもドームのそれではありません。
花の形をしたステージも蓮の花のように見えて、天国の映像でも見てしまっているのではと思ったくらいです。
(さすがに彼女たちが死んだとは言いませんし、見ている方の気持ちからそんな想像をしてしまっただけで……)
しかしこの映画、現実離れした展開ばかりではなく、きちんと現実的な問題にも立ち向かっています。
そしてその問題こそ、今回の映画での一番の肝だったと思います。
一度解散を宣言したにも関わらず、まだ続けようとしている問題は、作品内だけでなく、作品の存在している現実世界での問題でもあります。
今回の映画を作るにあったって、この問題について制作陣が考えに考えぬいたことが映画を見ていて感じられました。
μ'sを終わらせることはもう決まっているが、彼女たちの物語が続いてほしいと願うファンもいる。それはスクリーンの中のμ'sも同じ。
スクリーンの中でのμ'sとファンの関係、制作側と観客の関係は同じものなのです。
映画の中での問題は、現実での問題と同じであり、これをどう解決するか。ラブライブを好きな人たちがこれっきりになって離れてしまうか、これからも作品にお金を出してくれるほどに好きでいてくれるか。
観客としてはもっとずっと彼女たちを見ていたい。しかしそれは大学編へと続いてしまったけいおん!のような寒いことになります。
作品が終わり、ブームが去ってしまうのは嫌だ。ファンにとっても、作品を売る側にとっても。
その解決策として、穂乃果をはじめμ'sのメンバーを旅に出させ、劇場版ラブライブを英雄譚にしたことはなるべくしてなったのかもしれません。
古典的な物語の形なので、安定しておもしろい話を作ろうとすれば、この形に落ち着くのかもしれません。
しかしラブライブという作品について、穂乃果とは?μ'sとは?彼女たちは何者だったのかについて、真剣に考えぬいた末、今回の映画の形になったのだと思います。
ラブライブはマッドマックスでしたが、マッドマックス怒りのデス・ロードは新堂エルの純愛イレギュラーズでした。義手とか搾乳とか。