EBook2.0 Magazine
デジタル出版に関する市場/技術動向分析とニュース
6月26日、取次準大手の栗田出版販売が倒産した(民事再生申請)。同じ日、アマゾンは「夏の読書推進お買い得キャンペーン」で、(かつての)ベストセラーを含む110タイトルの2割引販売を開始した。再版制の下で、出版社と書店の間のインタフェースとして機能してきた取次というビジネスに何が起こっているか。
2つのイベントの間には、もちろん直接的関係はないが、日本の再販制度(独禁法の適用除外として認められてきた業界慣行)の空洞化を示すものだ。東日販の2社が寡占する市場で、3位の大阪屋が半死半生、4位の栗田が消滅という事態は、シェア云々という以上に、いわゆる「唇歯・輔車」(唇と歯、上顎と下顎)の関係にあった業界の安定化要素が欠損し、国策会社・日本出版配給(1941-1949)を母体としない取次会社が消滅したことになる。昨年9月に発表された栗田の年間売上高は329億円。業務は関係の深い大阪屋が引き継ぐようだが、問題は135億円(以上)の負債がどうなるかだろう。いや、それ以上に取次に将来はあるのだろうか。
取次は、出版社と書店の間にあって<物流・決済・金融・情報>の機能を担う。出版に特殊化した物流という業態の意味が希薄化している時代にあっては、金融と情報のみが独自の存在意義といえるが、問題は、オンライン(通販とE-Book)を扱いきれていないこと。この時代にインターネットの外の世界に身を置いていては金融・情報機能の現代化は不可能だ。このままでは取次機能の危機的水準への低下は避けられないだろう。
市場経済の例外といえる再版制とは、単純に言って「小売価格は不自由だが(書店からの)返本は自由」というものだ。返本が少なければ三者ともハッピーなのだが、需給を調整可能とする発想を基本としており、需要が安定している同じ性質の本を扱い、競争を制限する閉鎖系でないと十分に機能しない。耐久性のあるコンテンツと消費的コンテンツを同じシステムで同じように扱えば、ロスは大きくなり、矛盾は流通段階と古書を含めた市場に堆積する。それが返本問題だが、筆者のように、これが出版文化にとって破壊的要因と見る人は、出版社にはそういない。返本が多いほど効率は低下し、やがてシステムは自壊する。
上述した“出版社会主義”は、紙と活字とインクと輸送手段が限られていた時代のサプライチェーンの最適化として、元々は上から(つまり機能的に)構築されたものだが、出版は一つ一つ、とても人間的行為なので、システムもそこに生きる人間と環境に合わせて社会(世間)化してきた。江戸時代の木版出版を仕切ってきた「仲間」や「版元」といった経済=社会システムがステレオタイプとして人々の頭にあったのかも知れない。
仲間はそう大きくなれないが、分業化、階層化することで数百ものメンバーを組込むことが出来る(ジャンル別に大中小があるだけでいい)。出版業界は階層化された閉鎖系として安定的に存在してきた。書店で優遇され、納本すればおカネが入ってくる大手と、販売機会が少なく、決済が遅く、リスクの高い中小出版社との格差は、市場が右肩上がりでなくなった段階から加速度的に開いていく。社会主義的「再販制度」と市場交換としての出版活動の矛盾と言ってもいい。需要と供給をつなぐ部分に「価格」があり、調整機能を果たすのだが、これが硬直すれば、ギャップ(返品率)は拡大し、それを圧縮しようとすれば逆に需要の減退を招くという悪循環に陥る。市場の復讐(呪い)である。読まれずに殺された本、読めずに諦めた読者、著述への意欲をなくした著者の無念。それらは数字しか気にしない人の前に数字となって現れる。
取次の危機は最終段階に入った。取次も書店もそれぞれ淘汰が進み、現在は、取次による書店の吸収、書店による流通機能の拡張という段階に入っている。これに大手印刷会社による書店の吸収も加わる。とうにメディアが大好きな「仁義なき…」の段階に入っているのだが、身近なことには使えないようだ。それに、出版社から書店まで、最近のトレンドは「脱出版」が目立っている。システムの再構築を避けるために、出版社は貸しビルに、取次は一般物流に、書店は雑貨屋に転じている。出版に強い動機を持っているのは、皮肉なことにアマゾンだ。アマゾンがいなければ、出版の衰退は放置され、知識は飾りに、本は小物になるのに任されていたろう。◆ (鎌田、06/30/2015)
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日本的出版システムの命数(1):取次の空洞化
「3位、4位」の不幸と再版制の空洞化
取次は、出版社と書店の間にあって<物流・決済・金融・情報>の機能を担う。出版に特殊化した物流という業態の意味が希薄化している時代にあっては、金融と情報のみが独自の存在意義といえるが、問題は、オンライン(通販とE-Book)を扱いきれていないこと。この時代にインターネットの外の世界に身を置いていては金融・情報機能の現代化は不可能だ。このままでは取次機能の危機的水準への低下は避けられないだろう。
市場経済の例外といえる再版制とは、単純に言って「小売価格は不自由だが(書店からの)返本は自由」というものだ。返本が少なければ三者ともハッピーなのだが、需給を調整可能とする発想を基本としており、需要が安定している同じ性質の本を扱い、競争を制限する閉鎖系でないと十分に機能しない。耐久性のあるコンテンツと消費的コンテンツを同じシステムで同じように扱えば、ロスは大きくなり、矛盾は流通段階と古書を含めた市場に堆積する。それが返本問題だが、筆者のように、これが出版文化にとって破壊的要因と見る人は、出版社にはそういない。返本が多いほど効率は低下し、やがてシステムは自壊する。
「抹殺された市場」の復讐
上述した“出版社会主義”は、紙と活字とインクと輸送手段が限られていた時代のサプライチェーンの最適化として、元々は上から(つまり機能的に)構築されたものだが、出版は一つ一つ、とても人間的行為なので、システムもそこに生きる人間と環境に合わせて社会(世間)化してきた。江戸時代の木版出版を仕切ってきた「仲間」や「版元」といった経済=社会システムがステレオタイプとして人々の頭にあったのかも知れない。
仲間はそう大きくなれないが、分業化、階層化することで数百ものメンバーを組込むことが出来る(ジャンル別に大中小があるだけでいい)。出版業界は階層化された閉鎖系として安定的に存在してきた。書店で優遇され、納本すればおカネが入ってくる大手と、販売機会が少なく、決済が遅く、リスクの高い中小出版社との格差は、市場が右肩上がりでなくなった段階から加速度的に開いていく。社会主義的「再販制度」と市場交換としての出版活動の矛盾と言ってもいい。需要と供給をつなぐ部分に「価格」があり、調整機能を果たすのだが、これが硬直すれば、ギャップ(返品率)は拡大し、それを圧縮しようとすれば逆に需要の減退を招くという悪循環に陥る。市場の復讐(呪い)である。読まれずに殺された本、読めずに諦めた読者、著述への意欲をなくした著者の無念。それらは数字しか気にしない人の前に数字となって現れる。
取次の危機は最終段階に入った。取次も書店もそれぞれ淘汰が進み、現在は、取次による書店の吸収、書店による流通機能の拡張という段階に入っている。これに大手印刷会社による書店の吸収も加わる。とうにメディアが大好きな「仁義なき…」の段階に入っているのだが、身近なことには使えないようだ。それに、出版社から書店まで、最近のトレンドは「脱出版」が目立っている。システムの再構築を避けるために、出版社は貸しビルに、取次は一般物流に、書店は雑貨屋に転じている。出版に強い動機を持っているのは、皮肉なことにアマゾンだ。アマゾンがいなければ、出版の衰退は放置され、知識は飾りに、本は小物になるのに任されていたろう。◆ (鎌田、06/30/2015)
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