皆、暇や退屈を嫌っている。
恐れと欲望に生きているからだ。
自分の価値は、人生の価値は、努力して生み出さなければならないと思っている。
黙っていることは無価値で、何か行動しなくてはと思っている。
でも、多分それは、真面目とは違うのだと思う。
生活のためにと言い、人や社会のためにと言い、忙しい・辛い仕事や何かの活動を抱え、満たされない心の隙間を埋めたり、自分や自分の人生を肯定しようとやっきになっている。
そして、豊かさは、行動に比例し、行動がなければ手に入らないと信じている。
恐れとは、何かを失うこと、何かの状態に抵抗するということだ。
そして、欲望とは、自分自身をもっと満たそうと、更に何かを手にする必要性に駆られることだ。
だが、恐れと欲望に囚われるのは、実はエゴの策略(罠)だ。
何故なら、人生の成功(幸・不幸)は、何かをどれだけ苦労するかとは全く関係ないからだ。
そして、苦労は、未来のある状態に到達する必要性、ある結果を引き出す必要性を暗示している。
つまり、「いま・この瞬間」を否定しているということだ。
エゴは、自分の正体を悟られないようにしながら私に近づき、私ををうまくコントロールしようとする。
エゴにとっては、自分の正体が見抜かれることは、どうやら都合が悪いらしい。
それゆえエゴは、常に私に真実から目をそらさせ、私に偽物の私(人生)を見つめさせようとする。
常に私に、未来を追いかけるよう主張してくる。
だが、そうすると、私は「いま・この瞬間」を、必ず何かの目的のための手段としてしまうことになる。
「いま・この瞬間」を台無しにしてしまう。
私がもし、自分を自由にするために、自分の価値を高めるために、何らかのゴールを達成しようとしているのなら、私はたとえそれを達成できたとしても、その満足はつかの間であり、最終的なゴールにはならないだろう。
何故なら、そのゴールは単にエゴ的なゴール、つまりエゴの自己満足であって、私自身にとっては全く幻想にすぎないからだ。
私の真実に、ゴールは必要ない。
私は、未来ではなく、常に「いま・この瞬間」完全に幸せでいれる。
私たちの幸・不幸は、状況や努力や苦労によって決まるわけではないからだ。
常に、「あり方」の問題だ。
私たちは、与えることも取り去られることもできない絶対的な存在であり、完全な存在だ。
私は、過去にも未来にも、本当の自分を見つけることはできない。
本当の自分を待つけることのできる唯一の場所は、「いま・この瞬間」でしかないからだ。
求道者は、未来に悟りを開こうとし、目的を達成しようとし、幸せになろうとする。
だが、「求める者」であるということは、既に未来を必要としていることを暗示している。
幸せになるために見つめる未来は、実はエゴの罠だ。
本当の自分になるためには、幸せになるためには、「時間は必要ない」、「苦労は必要ない」と気づくまで、時間と苦労が必要になるのだろう。
「何も必要はない」というあり方が、全てを変える。
私には、恐れと欲望が引き出す世界と、「いま」をありのままに受け入れて、努力や苦労をしない未来に生きないあり方が引き出す、二つの世界がある。
私は、エゴには私に「いまの私のあり方」を伝えてくれる大切な役割があると思っている。
私は、エゴを否定すると、ネガティブな感情を抱く。
そのため、私は様々なエゴを様々に肯定する考え方(思考)を整えなければならない。
エゴを肯定する考え(思考)を引き出した時、私はエゴで苦しむことはなくなる。
つまり、エゴとは、思考の別名なのだ。