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狂乱の中にも、1922年になると米国経済復調の兆しが見えはじめる。1921年に750万ドルまで落ち込んだデュポンの収益も、1922年には2倍近くに回復。1923年には2,100万ドルにまで跳ね上がり、1926年には4,300万ドルを記録。また、GM社からのデュポンの配当収益は年々巨額になり、1929年までデュポンの総収益の半分以上を占めていた。その年デュポンが計上した収益は8,200万ドルという驚異的な数字だった。
景気を押し上げる要因のひとつに自動車産業の発達があった。20年代後半には、米国の車所持率は平均5人に1台と、世界第二の車消費国である英国の平均 43人に1台を大きく引き離していた。世の中は自動車好景気に沸きたった。道路建設企業からゴムメーカー、オイル産業、観光業に至るまで数多くの関連産業が活況を呈した。もちろん、デュポンにとっても自動車関連製品の生産はまたとないビジネスチャンスだった。この頃から車や冷蔵庫などの大型消費財の購入に ローンを組むことが当たり前となってくる。ピエール・デュポンの片腕だったジョン・ラスコブはここでも先見性を発揮し、1919年に設立したファイナンス 会社の成功により自動車ファイナンスの第一人者となっていく。また、大量消費をさらに後押ししたのは広告の力だった。電化製品や電話、ラジオ、タバコ、石鹸、マウスウォッシュなどの花形産業の宣伝に、広告業界は年間25億ドルをかけて消費者の購買意欲をあおった。
また、1920年代はアメリカ国民がレジャーに目覚めていく時代でもあった。レコード、ラジオ、ゴルフやテニス、映画、ビーチ、フットボールゲーム観戦など、楽しみの幅は大きく広がっていった。レジャー熱は、デュポンにとってもチャンスだった。1920年代の主要製品のうち、ファブリコイド(人造皮革)と パイラリン(プラスチック)を武器に、デュポンは夥しい種類の商品を編み出す。ビーチ用にはゴム製のビーチボールやビーチサンダル、ビーチボートを。フッ トボール球場の雨対策に、グラウンド用巨大ゴム製シートを、スタンドにはファブリコイド製シートを開発。さらには、発掘した恐竜の骨を修復するセメント、 カーペット滑り止め鋲、食肉チキンの足を留めるパイラリン製ベルトまで作られた。
こうしたあらゆる用途での製品化を試みるうちに、いつしかデュポンはこのコンシューマー革命にふさわしい市場(ニッチ)を見出していったのだった。

1920 年代初頭の自動車塗料は油性で耐久性がなく、しかも塗装して乾くまでに時間がかかった。実際、15,000台もの新車は、塗装が乾くまで何週間も放置されなければならず、自動車生産のスピードアップを阻んでいた。速乾性の期待できるスプレー式塗料が開発されれば、自動車業界の生産効率が飛躍的に向上するこ とは明らかだった。デュポンは他社と共同で耐久性のある速乾性ニトロセルロースベースの塗料とラッカーを開発した。しかし、この塗料は粘着性が強くスプレー塗装には不向き だったため、さらに改良を重ね広い塗装面にスプレーできる薄さを兼備した塗料の開発が待たれることとなった。
そのような状況の中、市場動向に適応しながら地道な研究にも余念がなかったデュポンに、ひとつの幸福な偶然が訪れる。
この塗料のベースとなったセルロースとは火薬と源を一にするもので、実に豊潤な可能性を秘める原料だった。ある特定の酸と適切な化学反応を起こすことに よって、この植物の基盤材料は爆薬に、プラスチックに、人造皮革に、そして人絹に、あるいはラッカーや塗料にまで変化することができるのだ。薄いシートの上に広げ、上から感光乳剤で覆うと映画用フィルムができ上がり、デュポンのフィルム製造参入を可能にした。その後、フィルムにトラブルを起こす静電気を抑制するため、少量の酢酸ナトリウムをニトロセルロースに加える方法を発見したデュポンの化学者たちは、1921年の7月、粘性の混合物を大型のドラム缶に 入れ大規模な実験に取り掛かかろうとしていた。いよいよ実験開始というとき、事件が起こった。工場が突然停電、修復作業に数日もかかってしまった。その 間、密封のドラム缶は真夏の炎天下に放置。缶内では、酢酸ナトリウムが熱反応を起こし、予想外の結末へと進行していたのだった。電力復旧作業が終わり、ド ラム缶の蓋をはずしたとき彼らが見たものは……数日前に混合した厚いジェル状の物質ではなく、奇妙にも薄いシロップ状に変化した物質だった。化学者のJ・ D・シールズと工場長のエドモンド・フラハティーはこの化学反応の謎をすぐさま究明、高価値の特許に値する物質が生まれたことを知った。
偶然の悪戯によって生まれた新たな物質こそが、待望の低粘着性高ニトロセルロース塗料だった。3年間の試験の後、淡青色のデュコ塗料が完成、GM社のオークランド事業部の組立ラインで初めて使われることになった。翌1924年、GM社は全事業部にデュコ塗料を導入。デュコは家具メーカーにも紹介され、防汚・防水加工によってメーカーは大いに恩恵を受け、消費者も家具を傷つける心配が少なくなった。また、家庭向けの刷毛塗り専用デュコのマーケティングにも力が入れられた。

今でこそあらゆる製品において利用されている人造皮革。この製品の価値に、デュポンは1909年に早くも注目していた。当時、無煙火薬製造の独禁法 (シャーマン反トラスト法)違反裁判により打撃を受けたデュポンは、火薬以外の多角化戦略に拍車をかけていたのだ。人造皮革とは、ニトロセルロースにひまし油を混ぜたものをメッシュ生地にかけ強度をもたせたもので、染めと型押しでレザーの風合いを出す。この分野での研究でファブリコイド社に遅れをとってい たデュポンは、1910年当時開発本部長だったイレネー・デュポンの意向で同社買収に動いた。デュポンの研究者から「将来性がない」と見限られたこの事業はしかし、先見性に優れたピエール社長にとって成功を確信させるものだった。デュポンはファブリコイド社買収ののち、雨具、ブックバインダーなどの日用 品、家庭調度品、自動車業界などの中に格好のニッチ市場を見出したのだった。真正レザーに比べ安価だが耐久性に欠けるという難点もありながら、自動車関連の好調はファブリコイドの売上も伸ばし1923年には66%も増加した。

塗料と人造皮革、そしてニトロセルロースの獲得によって1920年代の自動車ビジネスは黒字を続けた。1915年には国内一のプラスチックメーカー、ニュージャージー州のアーリントン社を買い取り、デュポンは国内プラスチック市場の40%を占めることとなる。さらに、1925年にはビスコロイド社を買収してプラスチック事業を強化するなど、デュポンは新素材製品のシェアを次々伸ばしていく。
デュポンの成長は自動車分野ばかりに起因するわけではなかった。1924年デュポンは、フランス企業のエア・リキード社が開放したアンモニア合成工場で、化学肥料、爆薬、冷媒など貴重な窒素化合物の生産に加わる。翌年、アンモニア工場建設が開始され、1928年にはクリーブランドの名門グラッセリー化学会社を買収、23番目の重化学、塗料用顔料、火薬工場としてデュポンの資産に加えられた。
一方、開発されながらもまだ光を浴びていない素材にレーヨン、セロファンがあった。これらは基本的に同じ化学物質から生成されるもので、レーヨンは処理済のセルロースを小さな酸性溶液に浸して合成した糸。かたやセロファンは脆さを防ぐためにグリセリンを加え、薄い透明シートの上に拡げ乾かすことによって生成する。研究レベルの発見を商業化につなげるには、創造 的な研究や生産革新、マーケティングキャンペーンなどを展開して認知度を高める必要があった。

光沢としなやかな感触で、現代のテキスタイルに欠かせないレーヨン。この第一号が産声を上げたのは、1921年5月、デュポンの工場においてだった。
そもそも、デュポンの開発本部が人絹に代表される魅力的な新製品の調査のため、化学者をヨーロッパに派遣したのは1909年のこと。デュポンが初めてセルロース繊維分野に参入する7年も前だった。ヨーロッパでは19世紀後半、さかんに新繊維の研究がなされ、1891年にはフランスの研究室内で蚕の営みを再現することに成功、翌年には二人の英国人がもっと太くしなやかな糸の製造方法を発見し、ビスコースと名付けていた。1910年、英国の繊維会社コータールド社が北米にビスコース工場を設立し大成功を収める。デュポンは1916年にその工場を買収しようとしたが、コータールド社は利益率の高い生産拠点を手放さなかった。1919年後半になると、今度はフランスのコンプトワール・デ・テキスタイル・アーティフィシャルズという会社が、デュポンに米国での合弁化 を申し入れてくる。1920年4月、デュポン・ファイバーシルク合弁会社が設立され、人絹生産がスタートした。初めての紡糸品から3年後、繊維製造関係者 はこの合繊の製品価値を上げるために、レーヨン(rayon)と名付けた。レーヨンとは、光沢を意味するラスター(luster)からとった“レー (ray)”と”木綿のコットン(cotton)の“ン(-on)”を組み合わせた言葉である。こうしてレーヨンは製品としての地位を確立、それに伴いデュポン・ファイバーシルク社は1925年3月デュポン・レーヨン社に社名変更された。

1920年代になって急増したものに、食品パッケージがある。それまで、ほしい商品を店員の手から受け取っていたのが、自分で直接棚から選ぶスタイルに とって変わり、見栄えの良いパッケージに入った商品は飛ぶように売れていった。10年のうちに包装材マーケットは年間10億ドルに成長、国内すべての食料品売上の10%を占めるまでになった。
1923年初め、デュポン経営委員会のメンバーがフランスのコンプトワール・デ・テキスタイル・アーティフィシャルズ社から持ち帰った試作品は、実に不思議な素材だった。それは薄く半透明の物質で、海外ではまだ知られていなかった。その素材が生まれたのは1907年、スイス人化学者の発見による。彼の作った「セロファン」の商品価値はまだ高価なギフトラッピング止まりだった。さて、デュポンでは開発本部長フィン・スパーが精密に調査するが、正体がまるで掴めない。 釈然としないスパーをよそに、デュポンは1923年6月フランス企業と合弁契約を締結。デュポン・セロファン社はバッファロー工場にて1924年に生産を 開始する。包装材としての役割を期待されたセロファンだったが、その利用は当初限られたものだった。セロファンは水分に弱いため、生鮮食料品などのパッケージには不向きだったからだ。普通の油紙がセロファンよりも安価で防湿性も98%と優れていたのに比べ、セロファンの表面は多孔質のため中の水分が蒸発する恐れがあった。
閉ざされたかに見えたセロファンの未来に光を投げたのは、若き研究者の果敢な挑戦だった。ウィリアム・ヘール・チャーチ、27歳。GM社から解雇されたばかりの人のいい化学者に、最初デュポンの上役はまったく期待していなかった。そんな周囲の思惑をよそに、1925年からチャーチはセロファンの防湿性を高 める物質を見つける探求に着手した。合成ゴム、ワックス、ニトロセルロース類まで多くの物質を片端から試した末、チャーチはニトロセルロースとワックスの 混合物に注目する。ワックスをしみ込ませたラッカーをセロファンの上に特殊溶剤を使って極薄く塗るという実験をしたところ、溶剤が揮発したのちワックスのみがセロファンの表面に残った。しかも、透明度や強度を損なわず、べたべたした感触も残さなかった。1年も経たないうちに、チャーチと彼の助手はワックスと溶剤の最適の混合比を見出し、100,000分の5インチの厚みでセロファンの両面に塗布することに成功する。
1927年1月、新し い防湿性セロファンを特許申請。その後3年間に渡り、デュポンは『サタデー・イブニング・ポスト』紙に広告キャンペーンを掲載。油紙の2倍の防湿性を有す る製品は、堂々と販売された。わずか2,3年前に門前払いになりかけた駆出しの化学者は、1929年、個人としてはデュポン史上最高額のボーナスを受け取った一人となる。採算の合うことを計算した上での研究リスクは、やるだけの価値があるということがチャーチによって証明されたのだ。

デュポン躍進の理由は、製品の多角化に上手く乗じたということはもちろんだが、もっと根本的な理由はデュポン製品の根幹となる化学構造の共通性にあった。 この事実を見据え、誰よりも巧みにまた声高に表現した者は、化学者のチャールズ・M・A・スタインをおいて他にいないだろう。スタインは化学事業部有機化学課にて染料研究に従事していた人物で、デュポンの数多くの製品における“化学の類似性”を独自の視点で提唱し、デュポンの各事業部を活気づけ、化学者らの功績を再評価した。1925年の冬、ウィルミントンで催された火薬事業部の晩餐会の席上で彼はこう述べた。「会社の利益を論理的に追求していくことは、 製品の基礎である化学物質の構造から新しい物質を探求することによってなされるのです」
スタインの考えは、1926年にイレネーの後を継いだラモットが社長に就任して間もなく、新時代を迎えたデュポン研究の精神となった。純粋な研究でも、かといって直ちに実用化を目指す研究でもなく、いつかどこかで花開くであろう研究。それをスタインは「基礎」研究と名付けた。こののち、化学構造上の新たな連結を見出すことと新製品の発見とはますます深い 相互関係を示していく。デュポンは、まもなく化学的発見の神秘の時代へと一層深く関わっていくことになるのである。
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