2012年3月、超党派の国会議員約140人から成る「尊厳死法制化を考える議員連盟」が「終末期の医療における患者の意志の尊重に関する法律案」を公にした。
国会への提出が検討されたものの、見送りになったまま現在に至っているが、これを機に、日本では「尊厳死法制化」をめぐる議論が活発に行われるようになった。
尊厳死法制化をめぐっては関連諸学会の内部だけでなく、学会の公開シンポジウムや市民団体等の主催シンポジウムなどでも広く議論されているものの、法制化を推進しようとする側とそれに反対する側とのあいだで議論がかみ合っているとはほとんど言えない状況が続いている。
その原因として「尊厳死」や「終末期」といった言葉の曖昧さが挙げられることも少なくない。しかし、単に個々の概念や用語が曖昧であるからそれらをしっかり定義してから議論すればよいという問題ではなく、安楽死や尊厳死をめぐる言葉の歴史的・社会的文脈やそうした言葉自体の性質によるところが大きい。
むしろそうした歴史的・社会的文脈や言葉の性質がほとんど意識、自覚されないままに、各論者が自分たちの主張に都合のいいような用語を使うことで、議論がかみ合わなくなってしまうことが多いように思われる。
小論では、安楽死や尊厳死をめぐる言葉を解きほぐすことによって、議論を混乱させるいくつかの要因を明らかにするとともに、終末期医療をめぐる現在の医療文化のなかで、私たちが真に議論すべき問題は「尊厳死」法制化をめぐる議論のもっと手前にあることを示してみたい。
日本における「尊厳死」の用法
「安楽死」や「尊厳死」という語に、世界共通の定義などはない。しかし現在の日本で「尊厳死」という語が用いられる場合には、患者本人の意思に基づく延命治療(措置)の手控えや中止を指すことが多い。
では、「延命治療」とはなにを指すのであろうか。一般的には、医学的治療によってはもはや回復が見込めず、患者のQOLを維持することもできなくなった状態(多くの場合、死が近づいた終末期の状態)において、生命だけを延長するための医学的措置(たとえば人工的な栄養・水分補給や人工呼吸器の装着・使用)について「延命治療」という言葉が使われている。
そして、こうした「延命治療」によってQOLがたいへん低いまま「生かされている」(「人工的に」「機械的に」といった形容がつくことも多い)状態は、その人の「人間としての尊厳」が奪われた状態であるとし、そうした医学的措置の手控えや中止によって「尊厳のある死」へと導く、というのが「尊厳死」という言葉で意味されていることの大枠である。
さて、日本の場合、「尊厳死と安楽死はまったく異なる」という主張がなされることが多い。尊厳死と安楽死を別のものとするこの理解は、尊厳死法制化推進勢力の中心である日本尊厳死協会の歴史から来ている。
1976年に設立した「日本安楽死協会」は、医師が薬物を注射して末期患者を死なせる安楽死の合法化を目指す団体であった。しかし、1983年に「日本尊厳死協会」と名称変更するともに、その方針をトーンダウンした。世論の反対などもふまえ、少なくとも当面は延命治療の手控えや中止の合法化に目標を定め直し、それを「尊厳死」と呼んだのである。
その後、同協会は「安楽死=積極的安楽死」/「尊厳死=延命治療の手控えや中止」として「安楽死と尊厳死はまったく異なるもの」という主張を重ねてきた。
つまり、「尊厳死」と「安楽死」についての上記の区別は、もともとは日本尊厳死協会という一市民団体の用語法にすぎないものの、現在日本ではかなり広く普及している。
安楽死や尊厳死をめぐる議論の歴史を知らない一般の人々は、「尊厳死と安楽死は異なる」というこうした理解が日本の尊厳死賛成派にほとんど特有の一つの「主張」であるということすらわからなくなってしまう。
後で述べるように、世界的に見れば「安楽死」と「尊厳死」のあいだには重なりが大きく、まったく同じとは言えないものの、両者は少なくとも位相を異にする概念であり、「安楽死」と「尊厳死」を対比するという発想はほとんど見られない。
しかし、「尊厳死」と「安楽死」の区別・対比が上記のような歴史を背景にもっていることが忘れられ、世界的にも通用する事実に関する説明や用語説明であると受け取られてしまうと、私たちはとんでもなく混乱する事態に陥ることになる。
もう一つの「尊厳死」
欧米では現在、医師が(必ずしも終末期とは限らない)患者に致死薬を処方し、患者がそれを飲んで自殺すること、すなわち医師幇助自殺(physician assisted suicide、PAS)の合法化がどんどん進みつつある。
世界ではじめて医師幇助自殺を合法化したのは米国オレゴン州(1997年)であったが、そこで成立した法律は「オレゴン州尊厳死法」という名称であった。
ここで明らかなのは、「尊厳死」という語が「医師幇助自殺」とイコールではないにしても、少なくともそれを含む形で用いられており、日本で言うような「延命治療の手控えや中止」とはまったく異なった行為を含む形で用いられているということだ。
もともと、世界的に「尊厳死(Death with Dignity)」という言葉が用いられるようになったきっかけとしては、1975~76年にかけてのカレン・アン・クインラン裁判(植物状態になったカレンの人工呼吸器取り外しを求める裁判で、患者本人の明確な意思表示がなかったことを除けば日本でいう「尊厳死」に近い)や、1981年の世界医師会総会で採択されたリスボン宣言における「尊厳を保ち、安楽に死を迎える権利」という文言にあると言われている。
しかし、少なくとも「尊厳死」という言葉が、日本尊厳死協会が言うような何らかの特定の行為を限定的に指して用いられているのではない、ということにはくれぐれも注意が必要だ。
たとえば、現在欧米において「尊厳死」という語はこの医師幇助自殺を指して言われることが多いのはたしかである。かと言って、「欧米の『尊厳死』は『医師幇助自殺』を指す」、「日本の『尊厳死』は『延命治療の手控えや中止』を指す」というような単純な対比はできないのも事実なのである。
実際、20年近く前にオレゴン州尊厳死法が成立した際も、最初から「尊厳死」をめぐる議論があったわけではなかった。合法化の是非をめぐって議論されていた「医師幇助自殺」について、その推進派の人たちが安楽死協会の意識調査などをもとに「尊厳死」という名称を選んだにすぎない。
同法の住民投票の前に行われた安楽死協会の意識調査では、他に「安楽死」「医師幇助による死」「致死薬処方による死」「医療処置による死」などの名称も候補に挙がったが、圧倒的多数で「尊厳死」が選ばれた(1)。
また、昨年、悪性の脳腫瘍を患った29歳の米国人女性(ブリタニー・メイナードさん)がこの医師幇助自殺を行うことをマスメディアを介して公に宣言し、その通り命を絶ったことは、日本でもかなり報道された(メイナードさんの住んでいたカリフォルニア州では医師幇助自殺は合法化されておらず、そのため彼女はオレゴン州に転居して処方を受けたが、メイナードさんのメディアでの訴えは、その他の州でのPAS合法化への議論を急速に進めた)。
その際、日本のほとんどのメディアは、これを「尊厳死宣言」「尊厳死」と報じた。なかには「安楽死」という表現をしたメディアも存在したが、日本で合法化の是非が議論になっている「尊厳死」との違いをきちんと指摘したのは少数で、安楽死・尊厳死をめぐる世界の状況のなかにそれを位置づけて解説したものは、筆者の知るかぎり皆無であった。
このように、たとえ日本国内で「尊厳死は延命治療の手控えや中止を指す」という限定や定義を行ったとしても、それをはみ出す「尊厳死」のニュースは世界中からどんどん入り続け、混乱が治まることはないだろう。
先にオレゴン州尊厳死法の成立について見たように、「尊厳死」という語は特定の行為を指すというよりはむしろある「イメージ」を伝える語であり、単に概念が曖昧だからきちんと定義すればよいという話ではなく、そうしたイメージがどのような行為にまで及んでいくかについて、言葉の政治学(ポリティクス)をふまえた別種の考察が必要なのである。
生命倫理学における(広義の)安楽死の分類
「安楽死」や「尊厳死」には世界共通の定義などはない。ただ、生命倫理学においてこうした問題が論じられる場合には、次のような区別、分類を行い、少なくともどういう行為についてその倫理的是非を問題にするのかをある程度定めた上で、議論が行われることが多い。
そこでは広い意味の安楽死(何らかの形で患者の死をもたらすか、それに直接つながる行為)は、以下の三つに分けられる(2)。
第一は「積極的安楽死」であり、医師が致死薬(通常は筋肉弛緩剤)を患者に注射して死に至らせる行為を指す。現在これが合法化されているのはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのいわゆるベネルクス三国であり[※1]、こうした行為が合法化されていない場合は、もちろん発覚すれば殺人罪に問われることになる。
[※1]南米の国・コロンビアでは独自の法律によってではないものの、憲法裁判所の判断によって事実上、積極的安楽死も医師幇助自殺も合法となっている。
第二は「医師幇助自殺(PAS)」であり、医師は致死薬(強力な睡眠薬)を処方し、患者はそれを飲んで自殺する。薬をいつ飲むか、あるいは飲まないのか(病状が悪化して飲めなくなることもある)は患者の自由である。患者が薬を飲むときに、医師が立ち会う場合もあればそうでない場合もある。
先に挙げた米国オレゴン州で最初に合法化され、その後、米国の他の州(ワシントン州、モンタナ州、バーモント州、ニューメキシコ州)やカナダのケベック州で合法化されている。
また、スイスでは、(医師に限らず)自殺幇助は以前から合法であり、自殺幇助サービスを旨とする団体が自由に活動している。積極的安楽死の場合と同じく、合法化されていない国や州でこのような行為を行ったことが発覚した場合には、自殺幇助罪に問われる。
第三は「消極的安楽死」であり、延命治療の手控えや中止を指す。積極的安楽死が「何かをすることによって死なせる」行為であるとすると、消極的安楽死は「何かをしないことによって死なせる」行為であるとも言える。
すでに述べたように日本ではこれを「尊厳死」と呼ぶことが多いが、欧米では「自然死」と呼ばれることも多い。たとえば、1976年、先に触れたカレン・アン・クインランの裁判をきっかけとしてリビングウィル(生前の意思表示)をもとにこうした延命治療を中止することを認める法律がカリフォルニア州で制定されたが、この法律は「自然死法」と呼ばれている。
現在、名称などは異なるものの、欧米の多くの国や州で消極的安楽死は合法化されている。ただ、積極的安楽死や医師幇助自殺の場合とは異なって、たとえ合法化されていない場合でも、医療現場では日常的に行われているものであり、安楽死の一つというよりは終末期における「治療の選択」の範囲内であるととらえられていることも多い。
また、「積極的安楽死」「医師幇助自殺」「消極的安楽死」のいずれの行為の合法化についても、基本的にはそれが患者本人の意思に基づくこと(死の自己決定権)、注射や処方、措置の担い手は医師であることが前提となっていることを付け加えておきたい。
さて、日本では第三の「消極的安楽死」を指して用いられる「尊厳死」という語が、現在欧米では第二の「医師幇助自殺」を指して用いられることが多いことを述べたが、「尊厳死」という語が第一の「積極的安楽死」をも含んで用いられる場合もある。
日本尊厳死協会による独特な用法(安楽死=積極的安楽死、尊厳死=消極的安楽死)とは異なって、「安楽死」と「尊厳死」というのは本来、その行為による形容ではなく、「行為の目的」による形容である。
すなわち、「安楽死」の目的は「(耐えがたい)苦痛からの解放」であり、「尊厳死」の目的は「人間としての尊厳を保つこと」である。耐えがたい苦痛に苛まれることで、人間としての尊厳が保たれない(と感じられる)状態になることは大いにあり得るので、「安楽死」と「尊厳死」が内容的にはかなり重なり合うことがわかるだろう。
ただ、植物状態などのように本人がまったく苦痛を訴えていなくても、人間としての尊厳が保たれない(と感じられる)こともあることを考えれば、「尊厳死」の方が「安楽死」よりも広い内容を指すとも言い得る。
このように、「安楽死」と「尊厳死」の主たる違いは、いわばその目的における強調点の違いである。指している内容がまったく同じであるとは言えないものの、別の内容を指すものとして両者を対比し、区別するというのは、言葉自体の意味からしても無理があるように思われる。
特定のイメージを伝える言葉としての「○○死」
以上述べたことで、「積極的安楽死」「医師幇助自殺」「消極的安楽死」といった「どういう行為によって死をもたらすのか」に基づいた区別がきちんとなされないまま、「安楽死」や「尊厳死」という言葉が使われると、いかに議論が混乱するかはおわかりいただけたであろう。
「尊厳死」という言葉が「安楽死」という言葉に比べて曖昧であるという指摘は以前から繰り返されてきた。たしかに、そこで何が行われるかではなくその目的だけに限って言えば、「安楽死」という言葉は「苦痛からの解放」における「苦痛」の存在がはっきりしているぶん、「尊厳とはいったい何か?」ということが曖昧な「尊厳死」よりは曖昧さが少ないと言えるかもしれない。
しかしながら、肉体的な苦痛だけではなく、精神的な苦痛もそこに含めて考えると、「安楽死」が曖昧でないとは言えない。そもそも、「安楽死(euthanasia)」という言葉の語源がギリシア語の「よい死」にあるということも記憶しておくべきだろう。
先に、「尊厳死」という言葉が何らかの内容を特定するというよりはむしろあるイメージを伝える言葉であると述べた。同じことが「安楽死」についても、「平穏死(3)」についても言える。また「自然死」という言葉も、「不審死」と対置されるような意味ではなく、欧米で日本の「尊厳死」に当たるような消極的安楽死を指して用いられる場合は、同じである。ここでは、「言葉のもつ性質」という観点からこのことについて分析してみたい。
「安楽死」「尊厳死」「平穏死」「自然死」といった言葉のもつ独特な性質とは何であろうか。このことを理解するためには、「○死」や「○○死」といった「死」の前にそれを形容、限定する語がついた他の言葉群と対比してみるのが手っ取り早い。
そのなかにはたとえば、「病死」、「事故死」、「自死」のように死をもたらした大まかな原因を示すもの、「がん死」のように死に至った病名や「水死(溺死)」「焼死」「窒息死」「圧死」「ショック死」などのように死をもたらした外的原因を特定するもの、「戦死」「震災死」「腹上死」のように死をもたらすことになった状況を示すものなどがある。
いま仮に、「安楽死」「尊厳死」「平穏死」「自然死」といった言葉をAグループ、「病死」、「事故死」などのそれ以外の言葉をBグループとしてみると、AグループとBグループの言葉の性質の違いはどこにあるだろうか。
第一に挙げられるのは、先にも述べたように、Aグループの言葉ではそれが指す内容が曖昧だという点だ。もちろん、Bグループの言葉についても、たとえば死亡原因の統計で用いられるような場合には分類や定義が違えば若干のずれはあるだろうが、その言葉で何を指しているかについてはほぼ一義的に決定できるだろう。
次に注目すべきことは、Aグループの言葉は死についてそれがどういう死であるかを形容し限定するだけでなく、そこでイメージされるような死を具体的に実現するための特定の行為を指して用いられるという点である。
「安楽死」は単に「安らかな死」を表しているのではなく、「安らかには死ねないような状況のもとで、安らかな死をもたらす」特定の行為を含んでいる。
「尊厳死」も単に「尊厳ある死」を表しているのではなく、「尊厳を保っては死ねないような状況のもとで、尊厳ある死をもたらす」特定の行為を含んでいる。「平穏死」や「自然死」についても同様である。こうした性質はBグループの言葉にはまったく見られない。
このことは、Aグループの言葉には見られてBグループの言葉には見られない第三の特質と深くつながっている。先に述べたことを別の言い方で置き換えてみれば、Aグループの言葉には、その前提としてまず、避けるべき「悪い死」のイメージがあり(苦痛に満ちた死、尊厳が失われた死、等々)、それを避けるために要請される特定の行為がありうべき「よい死」のイメージとセットになっているということでもある(4)。
また、死についての事実的形容だけではなくて、何らかの行為を含むことは、Aグループの「○○死」が倫理的な善悪や賛成・反対といった価値判断の対象になるのに対し、Bグループの言葉はそうではないという事実のなかにも現れている。【次ページにつづく】