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【戦後70年~沖縄(5完)】
「4本爪」の龍柱を誰のために建てるのか? 揺れる普天間移設 テント村住民の正体は…
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普天間飛行場をどこに移設するか。「県内」が米側の返還条件だった。当初は空軍嘉手納基地(嘉手納町など)と統合する案もあったが、米国が難色を示したこともあり頓挫した。
政府は9年11月5日、キャンプ・シュワブ内の辺野古沖に海上ヘリポートを建設する案をまとめ地元に提示した。これを受け、名護市は12月21日に住民投票を実施したが、反対が賛成をわずかに上回った。
3日後の24日、名護市長の比嘉鉄也は上京し、橋本を訪ねた。
「私はここで移設を容認します。その代わり腹を切ります」
比嘉はこう語ると琉歌を紙にしたためた。
●(=歌記号)義理んむすからん ありん捨らららん 思案てる橋の 渡りぐりしや
運命の分かれ道の思案橋を渡るか渡るまいか悩んだが、やはり渡らなねばならぬ-の意。橋本は涙を浮かべ、深々と頭を下げた。
比嘉は記者会見で「名護市が負担を受け入れることで普天間の危険が解消されるなら批判はあってもあえてその道を選びました」と語り、約束通り辞任した。