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【戦後70年~沖縄(5完)】
「4本爪」の龍柱を誰のために建てるのか? 揺れる普天間移設 テント村住民の正体は…
背景には、7年9月に12歳の少女が米兵3人に暴行された事件がある。これに米統治時代からくすぶる反米感情が爆発し、10月21日に宜野湾市で大規模な県民総決起大会が開かれた。
日米両政府は11月、基地の整理・縮小に向け、沖縄特別行動委員会(SACO)を発足させた。米政府は1991(平成3)年にフィリピンのスービック海軍基地とクラーク空軍基地を返還した。沖縄で連鎖反応を起こすことだけは避けたかったとみられる。
橋本-クリントン会談後、話は急ピッチで進んだ。橋本は8年4月12日、駐日大使のウォルター・モンデールと会談し、普天間飛行場を5~7年以内に全面返還することで合意した。モンデールは記者会見で「私たちは沖縄のよき隣人でありたい」と語った。
SACOは12月、普天間飛行場の全面返還に加え、米軍区域面積の21%(約5千万平方メートル)の返還を盛り込んだ最終報告をまとめた。沖縄県民も多くは評価し、揺らぎかけた日米同盟は再び固まった。