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【戦後70年~沖縄(4)】
祖国復帰(下) オルグされた教師たち「僕たちは労働者…」 主婦らが政府動かす「私たちこそ沖縄代表!」
教職員会が母体となっていた祖国復帰協議会(復帰協)も「即時・無条件・全面返還」を唱えるようになり、ついには「返還協定粉砕」を掲げた。復帰協3代目会長の喜屋武(きゃん)真栄(しんえい)は、45年11月の沖縄初の参院選で当選しながら返還協定の批准反対を説き続けた。
復帰を翌年に控えた46年9月、教職員会は解散し、沖縄県教職員組合(沖教組)に変わった。すでに学校で国歌斉唱、国旗掲揚は行われなくなっていた。
「僕の気持ちは愛唱歌の通り、『友よ仰げ日の丸の旗』『沖縄を返せ』のままだった。でも復帰運動は変わり果ててしまった…」
祖国復帰を求めて運動に参加していた英語・音楽教師の崎山用豊(78)は沖教組に強い違和感を覚え、運動から距離を置くようになった。指揮棒代わりに日の丸の小旗を振っていた男性教師はいつのまにか「日の丸・君が代反対」を唱えるようになっていた。
◇
組合員数1万人を有する沖教組はストライキを繰り返し、小中学校の授業は朝から自習が続いた。教師たちは「自衛隊は人殺し」などと書いたビラを配り回った。8児の母である主婦の金城テル(88)=那覇市=はこんな現状に憤りを感じ、小学校の正門前で「先生はちゃんと授業をやりなさい」と訴えた。
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