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田口八重子さん 拉致から37年
6月28日 18時50分

田口八重子さん 拉致から37年
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田口八重子さんが幼い子どもを残したまま北朝鮮に拉致されて、今月下旬で37年になります。
当時1歳だった八重子さんの長男がインタビューに応じ、今の心境を語るとともに、被害者の帰国実現に向けた着実な交渉を政府に求めました。
田口八重子さん(当時22)は、昭和53年の6月下旬、1歳と2歳の幼い子どもを残したまま北朝鮮に拉致されました。
それから37年が経ったことについて、当時1歳だった長男の飯塚耕一郎さんは「申し訳ない気持ちだけです。『もうすぐだから待っていて』と言いたいところですが、もう何年も同じせりふを言っていて、このことばを聞いたら八重子さんは希望と絶望の両方を味わうのではないかと思い、今はただ『待ってて』としか言えません」と語りました。
拉致問題を巡っては、北朝鮮が被害者などの調査委員会を設置して今週末の来月4日で1年になることから、来月上旬が調査結果の報告期限の目安とされています。
耕一郎さんは、「今回の再調査はキム・ジョンウン(金正恩)政権になってから初めてのものなので、いったん『死亡』と報告されると、覆すのにまた長い時間がかかってしまいます。政治的な決断だけだと思っていますので、報告書という紙はいりません。帰国させてほしい」と話しました。
そのうえで「日本政府が、中途半端なまま調査結果を受け取らないか懸念しています。われわれが望んでいるのはあくまで帰国であり、『早く』という気持ちはありますが、帰国が実現するなら、多少、先に延びても我慢できます。政府は焦らず着実に交渉を進めてほしい」と求めました。

田口八重子さんの消息

田口八重子さんは、拉致されてしばらく北朝鮮当局から朝鮮語の指導を受けたあと、昭和56年から58年にかけて、当時、工作員で、のちに日本人になりすまして大韓航空機爆破事件を起こしたキム・ヒョンヒ元死刑囚の(金賢姫)日本語教育係を務めました。
昭和59年には、「チュンリョンリ」と呼ばれる(忠龍里)ピョンヤン市南東の山あいの地区に移され、厳しい監視の下、拉致被害者の横田めぐみさんと共に、別の女性工作員に日本語を教えていたことが分かっています。
北朝鮮は、これまで、八重子さんについて、「昭和61年7月に自動車事故で死亡した」と説明しています。
しかし、八重子さんは、その年の夏以降に「敵工部」と呼ばれる軍の拠点に連れて行かれ、韓国人の拉致被害者と結婚した可能性があることが、帰国した拉致被害者の証言などから明らかになっています。
また、平成22年には、当時の中井拉致問題担当大臣が、2000年に入って以降も八重子さんが元気でいるという情報が寄せられたことを明らかにしていて、北朝鮮の説明の信ぴょう性には疑問が持たれています。

母親の思いを手繰り寄せ続けて

母親が拉致されたとき、よちよち歩きを始めたばかりだった耕一郎さんに八重子さんの記憶はありません。
母親とのつながりを示すものは、へその緒と母子手帳、それに一緒に写った1枚の写真だけです。
耕一郎さんは、この間、母親の面影を手繰り寄せる作業を続けてきました。
平成19年には、母がいる北朝鮮を一目見ようと韓国と北朝鮮の軍事境界線にあるパンムンジョムを(板門店)1人訪れました。
2年後の平成21年には、八重子さんが、北朝鮮で一時、日本語を教えていたキム・ヒョンヒ元死刑囚との(金賢姫)面会が実現。
去年は、八重子さんが拉致された可能性がある宮崎県の青島海岸を初めて訪れました。
しかし、38歳になった今も、母親との時間を取り戻す長い道のりに終着点は見えないままです。
耕一郎さんは、今回のインタビューの中で、「私には実の母親との思い出がありません。キム・ヒョンヒさんが八重子さんについて書いた本だとか、へその緒や母子手帳はありますが、それだけで母親との関係を構築するのは無理です。いまだスタートラインにも立てていない状況です」と胸の内を語りました。

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