NHKアーカイブス「戦後70年 総力戦 なぜ敗れたのか〜破綻した輸送計画〜」 2015.06.29


国内外に甚大な被害をもたらした太平洋戦争。
日本人だけでも300万人以上が亡くなりました

日本はなぜ大国アメリカに戦いを挑みそして敗れ去ったのか。
そこには国と国とが国力を懸けて戦う近代総力戦に対する戦争指導者の認識の甘さがあったといわれています
NHKには当事者の証言や貴重な記録映像を基に日本の敗因について検証した番組があります
昭和16年10月発足したばかりの東條内閣は開戦に踏み切るかどうか国策の再検討に入った。
中心は日本の国力判断であった。
資源の少ない日本にとって頼みの綱は南方からの資源輸送ルートでした。
しかしアメリカの潜水艦や機動部隊の攻撃によって輸送船は次々と沈められていきました
日本人は実に見事に戦いました。
だが一つだけ…それは日本の生命線である…
ずさんな海上輸送計画はやがて破綻し日本は破滅への道を突き進んでいきます。
無条件降伏に終わった戦争から70年。
日本の敗因から今何を学び取ればいいのか考えます
こんにちは。
戦後70年の今年「NHKアーカイブス」では戦争をテーマにしたさまざまな番組をお送りしています。
4月と5月は日本はなぜ戦争へと向かったのかを検証しましたが今月と来月は日本はなぜどのように戦いに敗れたのかを見てまいります。
ではゲストの方をご紹介致しましょう。
昭和史にお詳しいノンフィクション作家の保阪正康さんです。
この戦後70年のシリーズでは4月からご登場頂いていますが今回もどうぞよろしくお願い致します。
保阪さんはかねがね太平洋戦争というのは今の私たちにとって最良の教科書だとおっしゃっていますが今回の資源の輸送をテーマにした番組どんなところに注目されますか?そうですねこの番組はですね近代国家としてスタートした日本は資源小国という宿命が付きまとう訳ですね。
でその道を抜け出るために軍事という選択で資源小国から脱却しようとしたんですね。
しかしその軍事という手段で脱却しようとしたけども失敗した。
でその失敗のプロセス。
どういうところが欠陥だったのかっていう事を余すところなく伝えている番組だと思いましたね。
では早速番組をご覧頂きましょう。
太平洋戦争のさなかアメリカの潜水艦による魚雷攻撃を前になすすべもなく海底に消えていく日本の輸送船。
ベトナム沖の海底に眠る日本の大型輸送船団ヒ86。
昭和20年1月。
アメリカ軍機の襲撃を受けて全滅した。
この夏47年ぶりにこの船団を発見し船名を確かめる事ができた。
航空機の生産に不可欠なボーキサイトを積んだ…日本への石油を満載していたタンカー…南方からの重要資源の海上輸送はこの船団の壊滅を最後にほぼ途絶え日本の生命線は断たれたのである。

(山本)太平洋戦争の開戦から既に半世紀がたちました。
この間日本は驚異的な経済成長を成し遂げて経済大国として世界の中に大きな位置を占めるまでになりました。
しかしその一方で経済摩擦が起こりアジアの国々からは従軍慰安婦などの戦後補償の問題と関連して日本は昔と少しも変わっていないといった批判の声も聞かれます。
また国内でも政治改革や行政改革などが叫ばれていながら一向に進んでいません。
まあいろんな意味で歴史の転機を迎えている日本なんですがその日本に今何が問われているんでしょうか。
今回私たちはその問題を50年前の太平洋戦争で日本が敗れた原因を現代の視点で改めて分析する事によって考えてみる事にしました。
そこには国家とか企業などの在り方について現代に通じる貴重な歴史の教訓が横たわっているからです。
この「ドキュメント太平洋戦争」ではそうした戦争の教訓を今日から6回にわたって放送してまいります。
第1回目の今日は当時の戦争指導者がいかに日本の国力を度外視して戦線を拡大し破綻を招いたかその膨張主義の付けともいうべき問題を今まであまり知られてこなかった海上輸送という戦争の一つの局面に焦点を当てて見ていきたいと思います。
アメリカ・カリフォルニア州…この基地の映像ライブラリーには太平洋戦争中アメリカ軍が撮影した膨大な記録が保管されている。
ここに一つの貴重な映像が埋もれていた。
終戦直後の昭和21年アメリカ戦略爆撃調査団が撮影した東京からの報告である。
太平洋戦争の半ばまで海軍の作戦の最高責任者であった…開戦の直前日米交渉に当たった…日本はなぜどのようにしてアメリカとの戦争を決断したのか。
昭和16年7月。
日本軍は南部仏印へ進駐。
当時日中戦争の泥沼に陥っていた日本は中国を支援するアメリカやイギリスなどの経済的圧迫に遭いその活路を東南アジアに求めた。
しかし日本の予測をはるかに超えてアメリカはこれに激しく反発した。
ルーズベルトは直ちに在米日本資産の凍結と日本に対する石油の全面的な輸出禁止に踏み切った。
大国アメリカを相手に戦争をするのかそれともアメリカに屈して中国大陸から手を引くのか。
資源の少ない日本は重大な選択を迫られた。
当時の日米の国力を比較したデータ。
昭和16年日本の原油生産量は721分の1。
しかも戦争に欠かせない石油の90%くず鉄の100%近くをアメリカからの輸入に頼っていた。
昭和16年10月。
発足したばかりの東條内閣は開戦に踏み切るかどうか国策の再検討に入った。
中心は日本の国力判断であった。
しかし鈴木企画院総裁や陸海軍当局の判断は開戦を前提とした希望的観測に傾いていく。
当時の日本経済の現状はむしろ悲観的な材料にあふれていた。
長引く日中戦争による軍事費の増大で国民総生産が昭和14年をピークに下降線をたどり始めていた。
軍需生産に必要な物資の供給と配分の計画さえ行き詰まり国民を動員しての金属回収も始まっていた。
この時国策再検討会議の資料の作成に携わった…この貧弱な国力でアメリカとどう戦うのか。
日本の戦略は楽観的なものであった。
開戦と同時に東南アジアの資源地帯を迅速に占領する。
その資源を持ち帰って生産を拡大しアメリカと長期持久の戦いができる国力を維持する。
その間ドイツがヨーロッパで勝利を収めるならば日本も有利な条件で講和できるであろう。
しかしこの戦略が可能かどうかの鍵はただ一つ海上輸送力に懸かっていた。
その見通しを政府と大本営はどう判断していたのか。
当時日本が持っていた輸送船は合わせて600万トン。
このうち資源や食糧を運ぶためには半分の300万トンの船が最低限必要である。
一方で戦争になれば軍が兵士や武器を運ぶために大量の輸送船が必要となる。
これを残りの300万トン以内に抑える事が長期戦を戦う絶対条件とされ陸海軍もこれに同意した。
開戦の1か月前企画院の最終報告書。
「資源輸送用の300万トンの船は確保できる。
従って国力維持のためには今開戦した方が有利である」。
しかしこの結論には大きな落とし穴があった。
アメリカ軍の攻撃によって沈没する輸送船の損害をどの程度と見積もるのか。
ここで重大な誤算を犯す事になる。
海軍が慌てて引っ張り出した資料は第1次世界大戦でイギリスが失った船舶の資料だった。
その損耗率は10%程度。
海軍はこれを基に日本の損害を1年におおむね60万トン前後と推定した。
しかし損害は予想をはるかに超えたのである。
昭和16年11月5日。
戦争か和平かを決定する御前会議が開かれた。
この席で資源の輸送を巡って進行役の原枢密院議長が質問に立った。
(原)南洋の敵艦のために物資輸送に影響はないものと考えてよろしいか?
(永野)海上輸送は日本の生命線であるので保護には手段を尽くすが被害は年に相当あると思う。
しかし防御を強化するので日本の海運には差し支えないと思う。
(原)イギリスアメリカオランダの海軍から妨害を受けても日本の物資は差し支えないと考えてよろしいか?
(鈴木)船舶の損害は陸海軍共同の研究の結果であります。
海上輸送を巡る判断には何ら科学的合理的な検討がなされる事なく虫のいい楽観論がそのまま認められた。
この日御前会議はアメリカとの戦争を決意する事を決定した。
太平洋戦争の開戦と同時に日本軍は一斉に東南アジアに侵攻した。
開戦にあたって日本は2つの戦争目的を掲げた。
第1に「自存自衛」。
第2に「大東亜の新秩序建設」。
アジアへの侵略を正当化しようというものであった。
インドネシアでは日本軍は植民地支配からの解放者として迎えられた。
日本は広大な大東亜共栄圏の建設を目指した。
そこには石油鉄鉱石ボーキサイトなど豊かな資源がありこの資源を手に入れる事が植民地支配からの解放を掲げた大東亜共栄圏建設の裏のもう一つの日本の目的であった。
東南アジア各地から日本へ5,000キロに及ぶ資源輸送作戦が始まった。
後にベトナム沖で沈んだタンカー…昭和17年夏。
ボルネオからの石油輸送に加わった。
さんるいす丸は海運国日本を代表するタンカーであった。
しかし輸送船の長いシーレーンをどう守るのか。
日本海軍にはその戦略も装備も欠けていた。
日露戦争のあと海軍はアメリカを仮想敵国とした。
その戦略は相変わらずの大艦巨砲主義であり巨大な戦艦が重んじられた。
開戦当初輸送船を護衛する艦艇はゼロに等しい状態であった。
アメリカは全く別の戦いを考えていた。
開戦の直前11月26日。
アメリカ海軍はアジアの潜水艦部隊にひそかな指令を出していた。
「日米が開戦した場合にはたとえ武装していない商船でも警告なしに攻撃してもよい」。
無制限潜水艦作戦の指令である。
当時この戦法は多数の民間人が犠牲になるおそれがあるため国際法で禁止されていた。
しかしアメリカは日本を海上封鎖し兵糧攻めにするためその最も有効な手段としてこの作戦を準備していたのである。
日本人は実に見事に戦いました。
だが一つだけアキレス腱ともいうべき弱点があったのです。
それは日本の生命線である海上輸送の船への攻撃にまるで無力だったという事です。
真珠湾攻撃の3時間後アメリカ海軍は直ちに全潜水艦に無制限作戦を発令。
51隻の潜水艦が太平洋全域に散っていった。
しかしアメリカの潜水艦攻撃はこの時期意外な欠陥を抱えていた。
トラック島近海をパトロール中のアメリカ潜水艦ティノーサが単独で航海していた大型タンカーを発見。
ティノーサは15本の魚雷を発射。
12本が命中した。
爆発したのは僅か2本。
残りは全て不発に終わり図南丸は沈没を免れた。
魚雷には全く頭に来た。
ひどくがっかりしたよ。
敵に近づくだけでも大変でベストの位置から正確な操作で全部命中させたのにそれで不発だったんだから。
ティノーサの艦長はこの失敗を克明に書いた抗議書を海軍省兵器局に送り魚雷の改善を求めた。
日本軍はアメリカの潜水艦を侮り輸送船に単独航海を続けさせた。
(山本)太平洋戦争中日本の輸送船はどのような動きをし戦局に伴ってそのシーレーンはどう変化したのでしょうか。
私たちは当時の輸送の主力であった5,000トン以上の輸送船700隻について戦争中にたどった航路を防衛庁や運輸省船会社などに残された資料を基にできる限り克明に調べました。
そしてそれをコンピューターに打ち込んで映像化しました。
戦争の初期昭和17年の5月から6月にかけての日本の輸送船の主なシーレーンです。
占領地域の拡大に伴って西太平洋の全域に網の目のように広がっています。
中でも日本からシンガポールにかけてのシーレーンで輸送船が最も活発に動きこれが資源ルートの日本の生命線でした。
この当時は沈められる船の数も少なく輸送量も順調に伸びていました。
このころアメリカは大西洋で潜水艦との戦いに苦しんでいた。
ドイツのUボートがアメリカ東部の海岸に現れ護衛もなく航行するアメリカのタンカーを次々に撃沈。
1942年前半だけで被害は580隻300万トンに上った。
このため都市ではガソリンが不足して配給制に追い込まれ世論は海軍の無策ぶりを激しく非難した。
1942年夏。
アメリカ海軍はキング作戦部長が陣頭に立って潜水艦対策に乗り出した。
キングはまず護衛専門の駆逐艦の大量建造を始めるとともに輸送船の単独航海を禁止し大船団を組んで航行する事を命じた。
更にUボートの暗号解読を専門に行う部隊を作った。
暗号解読によってUボートの作戦海域が分かると輸送船団には航路の変更を指示Uボート攻撃専門の航空部隊を現場に急行させた。
僅か半年でアメリカの輸送船の被害はに減少した。
アメリカが着々と戦力を整えていったのに対し日本は専ら国民の精神力の高揚を図っていた。
およそ戦争に勝つためには物質的な武装とともに精神的な武装が大切であります。
物には限りがありまするがただ無限にして無尽蔵なるものは実にこの精神力であります。
「振るハンマーの一つ一つ撃ちてし止まんの闘志が籠もる」。
低い技術力も生産力も精神力によって克服できると日本の戦争指導者は国民に説き続けていた。
初戦の勝利に酔った日本は昭和17年3月更に作戦地域の拡大を決定する。
北はアリューシャン列島東はミッドウェー島南はフィジー諸島までこの大幅な作戦地域の拡大が日本の国力を崩壊させる引き金となった。
昭和17年6月。
日本軍はまずミッドウェー海戦の敗北でつまずく。
それまで日本が優位に立っていた太平洋での制海権制空権が崩れ始めた。
次いで昭和17年8月。
ガダルカナル島で攻防戦が始まった。
日本軍の補給基地ラバウルからガダルカナルまではおよそ1,000キロ。
兵隊や物資を積んだ輸送船はこの長い距離を満足な護衛もないまま何回も強行突破を図った。
しかし船団が島に近づくとアメリカ軍の攻撃機が待ち受けていた。
ガダルカナルを巡る半年間の戦いで日本は軍が徴用した輸送船30隻余りを一挙に失った。
船舶不足が緊急の問題として浮かび上がった。
大本営は政府に対し資源輸送用の船を新たに62万トン軍用に回す事を要求。
作戦優先か国民生活優先か政府はぎりぎりの選択を迫られた。
東條首相は軍の要求の半分を認めた。
大本営はこれでは戦争ができないと強く抵抗。
東條首相は要求を認めれば国が破産してしまうと断固拒否。
ついには陸軍部の田中作戦部長が東條にじか談判。
田中の吐いたばか野郎発言で政府と大本営の衝突という重大な事態になった。
昭和17年12月10日。
船舶問題を巡る大本営政府連絡会議が天皇の出席を求めるという異例の会議になった。
結局政府側は大本営の要求をのんだ。
日本は国民生活の維持よりも軍の作戦を優先する道を選んだのである。
この結果開戦にあたって国力維持のための最低条件として政府と軍が合意した資源輸送の船舶300万トンの維持は崩れ242万トンに落ち込んだ。
日本の戦争経済の崩壊の始まりである。
(山本)ここは50年前に日米の戦場になりましたガダルカナルの海岸です。
海の近くには沈没した日本の輸送船がご覧のように今もそのさびた姿をさらしております。
このガダルカナルは日本から直線距離にしますとざっと6,000キロも離れています。
こんなに遠くまで占領地域を拡大した事自体そもそも日本の輸送能力ひいては国力をはるかに上回るものであった訳なんですが開戦から僅か1年足らずで始まったガダルカナルの戦いによりまして日本はその海上輸送能力の弱点というものも早くもさらけ出す事になりました。
そしてこのあとは南方からの資源の輸送もがたがたになりまして国内の軍需生産だけでなく日本の国内経済全体を圧迫していく事になります。
船舶の不足はたちまち国民生活を直撃した。
南方からの米の輸入が減り米不足が深刻となり政府は芋も主食にする事を決定。
九州や北海道の石炭輸送も大幅に低下した。
石炭が減ると工業地帯の生産力も落ちていった。
鉄鉱石の輸入の減少は船舶事情を更に悪化させた。
造船所に回る鉄鋼材が減ると船の外板は薄くなりエンジンも粗悪品が増えていった。
こうした中で大量生産されたのが…ベトナム沖で沈んでいた辰鳩丸もその一隻。
これらは速度が遅く故障がちで輸送力は更に低下する事になった。
100トンクラスの小型木造船まで貴重な輸送力として大量生産された。
日本の船舶の不足は大東亜共栄圏の中にも深刻な影響を及ぼし始めた。
戦前東南アジアの国々は資源や物資を貿易によって互いに補い合っていた。
しかし日本軍が現地の船舶を次々に挑発していくにつれ貿易が断たれ各国は自給自足を余儀なくされていた。
インドネシアのジャワ島ではスマトラからの石炭が途絶えたため日本軍は島内のバヤで炭鉱と鉄道の開発を始めた。
2万人のインドネシア人がここに動員された。
食糧不足の上マラリアや赤痢がまん延しておよそ1万人が犠牲になったといわれている。
南方占領地行政実施要領。
太平洋戦争の開戦直前日本がひそかに策定していたものである。
重要資源の獲得を最優先し地元住民の生活への重圧は我慢させる方針がはっきりと示されている。
それが大東亜共栄圏の建設という美名の裏の日本の本音であった。
バヤでの大規模な炭鉱開発は計画の僅かしか生産できず失敗に終わった。
分断された大東亜共栄圏の国々でも物不足は日増しに募っていった。
昭和18年2月8日。
深夜の伊豆沖で突然悲劇が起こった。
日本の豪華客船竜田丸が魚雷攻撃を受けて沈没。
乗っていた軍人軍属など1,400人全員が死亡した。
アメリカ潜水艦の本格的な反撃の始まりであった。
闇夜の海での魚雷攻撃という当時の常識を破る攻撃を可能にしたのはアメリカ潜水艦の新兵器…SJレーダーはアメリカ海軍の依頼を受けた電信電話会社ベルが電波技術の技師や研究者を総動員して開発した精度の高い最新レーダーである。
アメリカ軍の悩みの種であった魚雷も改善された。
これには強力な民間の頭脳が加わった。
海軍省兵器局の顧問をしていたアインシュタインである。
アインシュタインが兵器局に宛てて書いた手紙。
今回我々の取材で初めて見つかった。
アインシュタインは魚雷の不発を防ぐために起爆装置の改善方法について具体的な提案をしている。
昭和18年秋にはアメリカ潜水艦の戦力は飛躍的に向上している。
(山本)アメリカ海軍は日本の海上交通の本格的な破壊作戦に乗り出します。
目標は日本のタンカーでした。
タンカーが最も頻繁に行き来していたのはシンガポールやボルネオと日本を結ぶ石油輸送ルートです。
このルートにアメリカ軍は開戦時の2倍を超える118隻の潜水艦を投入し日本のタンカーを次々に襲いました。
南シナ海フィリピン沖。
タンカーを待ち伏せしていた2隻のアメリカ潜水艦が日本のさんるいす丸を発見した。
直ちに魚雷を4本発射。
雷跡右何度ってこう言う訳だね。
ドカ〜ンとね…さんるいす丸は辛くも沈没を免れた。
昭和18年9月を境に潜水艦による輸送船の被害は急激に増え始めた。
それに伴って物資の輸送量も大きく落ち込んでいった。
これは日本の戦争経済の根幹を揺るがす大問題となった。
資源輸送の実績は予定をはるかに下回り軍需生産に必要な資材の供給と配分つまり物資動員計画も立てられない事態に日本は追い込まれていったのである。
昭和18年9月30日。
御前会議は日本の勢力圏を守るため絶対に欠かせない地域を絶対国防圏と定めた。
ここでアメリカ軍を食い止めようという方針である。
しかしこの作戦に必要な船舶もまた撃沈され日本は太平洋でのありじごくに落ちていく。
会議の席上原枢密院議長が質問に立った。
(原)絶対国防圏を確保する自信はあるのですか?
(永野)絶対確保の決意はありますが勝敗は時の運であります。
戦局の前途を確言する事はできません。
(原)統帥部が作戦に自信を持てないのでは困ります。
(東條)今次戦争は自存自衛のためやむにやまれず起こったものであります。
今後の戦局のいかんに関せず日本の戦争目的完遂の決意には何らの変更もありません。
この御前会議では初めて輸送船の護衛を強化する事も決定された。
これは海軍が提出した護衛強化の方策である。
潜水艦による被害を抑えるには対潜攻撃機が2,000機護衛艦を360隻も必要とするというものであった。
当時潜水艦攻撃用の航空隊は皆無。
護衛艦も50隻足らずしかなかった。
その実情からすれば海軍の方策は「絵にかいた餅」であった。
その2か月後日本海軍はようやく海上護衛総司令部を設立した。
司令長官には及川元海軍大臣が就任したが実態はお寒い限りであった。
護衛総司令部の主力はこの海防艦といわれる小型の護衛艦であった。
排水量は500トンから1,000トン。
速力は遅く装備していた武器も貧弱なものであった。
日本の輸送船も単独航行をやめて必ず船団を組む事に変わったが一つの船団に派遣される海防艦は僅かに1隻から3隻程度で質量ともにアメリカ潜水艦の敵ではなかったのである。

(山本)団地の池の中に浮かんでいるこの船は戦争中海防艦志賀として使われていた船です。
現在はこのように千葉市の海洋公民館に生まれ変わっています。
こうした海防艦は戦争が始まった当初日本には僅かに4隻しかありませんでした。
この事自体当時の日本の海軍がアメリカの潜水艦攻撃を全く頭に入れていなかった事を物語っているんですがその後も一年に30隻程度しか建造されませんでようやく拍車がかかったのは戦争も終盤の昭和19年以降でした。
しかも建造された海防艦は浮上してきたアメリカの潜水艦と撃ち合っても負けたという証言があるくらいにその性能は劣っていました。
このように日本の戦争指導者が潜水艦から輸送船を守るために重い腰を上げた時にはもう手遅れで既に日本の国力では守り切れない事を思い知らされた訳です。
輸送船にとって潜水艦以上に恐ろしい敵が中部太平洋に進出してきた。
アメリカの高速空母艦隊である。
昭和19年2月17日。
アメリカ艦隊の攻撃機が日本海軍の基地トラック島を奇襲攻撃した。
一挙に輸送船34隻20万トンが沈没。
この中には大型タンカー5隻が含まれていた。
(山本)昭和19年2月は日本の輸送船にとって記録的な損害の月になりました。
トラック島を含め失った船舶は122隻54万トン。
当時の日本が持っていた全船舶の1割以上を僅かひとつきで失ってしまったのです。
この時点で資源を運ぶ船は開戦の時より100万トンも減っています。
その上軍の要求で更に30万トンが軍用船に引き抜かれます。
日本はまだ作戦優先の考えを変えていません。
昭和19年の夏。
軍需省は今後の国力の見通しについて極秘の報告書をまとめていた。
最低限の国民生活の維持も既に困難になっており19年の終わりには国力は弾力性を喪失するとして日本経済崩壊の暗い見通しが示されている。
このころ軍需省総動員課長に転じていた田辺さんにある日突然近衛元首相から呼び出しがかかった。
東京の近衛の別荘荻外荘に来るようにとの指示である。
荻外荘には近衛のほか若槻礼次郎平沼騏一郎岡田啓介。
元首相であった重臣たちが顔をそろえていた。
昭和19年7月。
東條内閣が倒れ小磯内閣が成立。
田辺さんはその閣議でも説明を求められた。
日本の戦争指導者はそれでも戦争をやめなかった。
逆に国民を「一億玉砕」に駆り立てる自滅の道を選んだのである。
アメリカ潜水艦による日本本土への海上封鎖を記録した貴重な映像が残されている。
アメリカの潜水艦が日本の沿岸に近づき輸送船を次々に狙い撃ちしていった。
日中堂々と浮上して砲撃する潜水艦まで現れた。
日本は既に大型船の大半を失い小型の木造船を動員して米などの輸送に充てていた。
この木造船を狙ったのである。
日本に持ち込もうとした米はアメリカ軍によって徹底して海中に捨てられた。
アメリカの潜水艦はついに日本の港の中まで侵入する。
この映像は昭和20年5月アメリカ潜水艦ティランテが長崎市に近い軍艦島を攻撃した時の記録である。
この攻撃で石炭の積み込みを行っていた貨物船白寿丸が沈没。
日本の船にとって安全な海はもうどこにもなかった。
この攻撃の時ティランテの副艦長だったビーチ大尉。
日本軍は何の反撃もしてこなかったよ。
我々は全く自由だった。
その後も港の中まで行った事はあるし東京湾にだって行けたと思いますよ。
味方が仕掛けた機雷が怖かったので行かなかったけどね。
大東亜共栄圏のアジアの国々も分断され日本の占領地域はアメリカ軍の絶え間ない攻撃にさらされていた。
スマトラやボルネオの石油も運ぶタンカーが無くなり捨てられるかアメリカ軍の攻撃で燃えてしまうかのいずれかであった。
昭和19年秋。
ベトナム北部は凶作に見舞われた。
日本軍への米の供出で人々に備蓄はなく未曽有の飢きんになった。
およそ200万人が餓死したと戦後ベトナム政府は報告している。
(山本)網の目のように広がっていた日本のシーレーンは昭和19年の終わりにはほとんど消えてしまっています。
辛うじて残っているのは南方資源ルートですがこれも切れるのは時間の問題でした。
昭和19年12月30日。
タンカーさんるいす丸はパレンバンで1万キロリットルの石油を積み込んだ。
そして9隻の輸送船と共に船団を組みアメリカ潜水艦の目をかいくぐって日本を目指す事になった。
船団の名前はヒ86。
どの船もボーキサイトや石油錫ゴムなど日本が待ち望んでいる重要な資源を満載していた。
潜水艦攻撃を警戒し海軍はこの船団に異例の6隻の護衛艦をつけた。
だがこの時アメリカ軍の高速空母艦隊が南シナ海に進入していた。
航空機1,000機を持つアメリカ軍最強のハルゼー艦隊である。
ベトナム南部まで進んでいたヒ86船団はこの情報に接すると北上を急いだ。
しかし昭和20年1月12日アメリカ軍の偵察機によって船団は発見された。
午前11時攻撃が始まった。
戦いは一方的であった。
延べ250機に及ぶアメリカ軍の執ような攻撃で輸送船も護衛艦も次々に沈んでいった。
最後に残ったさんるいす丸。
せめて船体だけでも残そうとベトナムの海岸近くに乗り上げた。
日本が大きな期待を懸けた大型輸送船団は全滅した。
これによって南方の資源ルートはほぼ途絶え日本の生命線は断ち切られたのである。
ワシントンにある…ここには戦争直後太平洋戦争の原因や影響などをあらゆる分野から調査したアメリカ戦略爆撃調査団の膨大な報告書が保存されている。
輸送部門の報告書は潜水艦による海上封鎖の効果を裏付けている。
「昭和20年春にはもはや食卓用の塩さえ欠乏し飢餓と無力が待っているだけであった」と記している。
私は日本を降伏させるには潜水艦と機雷による海上封鎖だけで十分だと思っていました。
日本本土への上陸計画もソビエトの参戦もそして原爆を使う事ももはや必要ないと考えていました。
太平洋戦争中日本が失った輸送船は2,600隻860万トンに上った。
船員の死亡率はほぼ2人に1人。
陸軍や海軍の兵士の死亡率をはるかに超えその数は6万2,000人余りに上った。
戦争が終わった時満足な形で残っていた輸送船は僅かに31万トン。
開戦時600万トンのにすぎなかった。
戦前世界第3位の海運国を誇った日本の商船隊は太平洋を墓場に壊滅した。
(山本)アジアの資源を奪いながら戦争を続けるという日本の戦争計画はご覧のようにまるで穴が開いたバケツで水を運ぶような惨めな失敗に終わりました。
その敗戦から50年近くたった今も資源や食料を海外に依存するという日本の経済構造は全く変わっていませんしそれどころかますますその度合いを深めています。
そういう意味で戦争中に日本が掲げたあの自存自衛の旗印は身の程を知らない全くの幻想であったと言わざるをえません。
それを思い上がって現実のものと錯覚したところに日本の第一の不幸がありました。
しかし今の日本にその錯覚に似た経済大国への思い上がりとか日本さえよければいいといった独善的な姿勢が果たしてないと言えるでしょうか。
結局資源のない日本は自存自衛ではなく社会との共存共栄の中でしか生きていく道はありません。
その厳然たる事実をあの海の藻くずと消えていった日本の輸送船団の姿がまさに身をもって今の私たちに伝えているように思います。
日本の戦争経済は海上輸送の崩壊とそれに続く本土空襲によって完全に息の根を止められた。
昭和20年6月8日。
御前会議は今後の戦争方針を天皇制の護持と本土決戦へと変更。
太平洋戦争の開戦目的であった自存自衛と大東亜共栄圏建設の幻想はここに崩れ去った。
瀬戸内海の島陰にかくざした日本の連合艦隊最後の姿である。
戦艦日向3万5,000トン。
太平洋戦争中ミッドウェー海戦やフィリピン沖海戦に参加したかつての連合艦隊の花形戦艦であった。
終戦間際動かす油さえないこれらの艦船はむなしく本土決戦のための砲台として使われアメリカ軍攻撃機の標的となったのである。
戦後70年の今改めてこの番組見てみましてあまりに無謀で根拠も戦略もない戦いでどうしてあれほどの国民の生活そして命が失われなければならなかったのか強く感じるものですね。
一つは日本軍日本の軍事組織のものの考え方そこに何か基本的な欠陥があったんじゃないかっていう事ですね。
私たちは軍事組織というのは意外にきちんと合理性を持った組織かと思うとそうではなくてですねかなり精神性の強い組織なんですね。
特に日本の場合はその精神性が強いんですがいろんなその精神性の強さから来る実態事象現実をですね客観的にデータを通してきちんと分析する能力に著しく欠けているという感じがしましたね。
東條内閣は開戦にあたって軍の陸軍省の戦備課長にですね日米の戦力比はどのようなものかっていう事を調査させるんですね。
これは昭和16年の夏といわれてますけども。
そうするといろんな戦力比を計算するとまあちょっと甘い計算なんですが10対1ぐらいになるというその戦備課長はそういう報告をしたといわれてます。
そうすると東條首相はそれを見てですねいろんなものをそこへ条件を加えて10対1を変えてくんですがね。
一つは例えばこの戦争が太平洋であると。
太平洋ってのは日本にすれば庭のようなものだ。
しかしアメリカから見ればはるか遠い所に来るのであってその地域的な距離の近さ遠さが我が国に有利であるっていう事。
それからアメリカの軍事組織と日本の軍事組織を比べると精神力が全く違うと。
そこも精神力ですか。
そうですね。
最終的に東條さんは4対1ぐらいだろうと。
10対1から4対1ですか。
10対1という数字が出た段階でそれを基に理知的理性的に判断するのがデータの読み方だと思うんですよ。
それを自分たちの政策の側に都合のいいように解釈していく。
そういうような解釈自体の中に日本の軍事組織のですね陥りがちなこの自己陶酔型といいますか希望的観測を客観的に事実にすり替えていく体質があったんだと思いますね。
はい。
昭和7年に日本でですねある本が出るんです。
「日米戦ふ可きか」って…。
今日お持ち頂きました。
昭和7年に出た本なんです。
いろんな人が書いてます。
それで日本とアメリカが戦った時にどういうような戦いになるのか。
実際問題戦えるのか。
いろんな事を客観的に書いていますね。
アメリカの国力が圧倒的に世界の資源のかなりの部分占めてると。
そういう事をきちんと分析してるんですよ。
結論を言えばですね戦争というものをですねアメリカとの間で選択する事の冒険主義的な危険性がある事はやっぱり誰もが述べてますね。
それから9年たって東條内閣で戦争を決定するんですがそれは今度さっき言ったような形の戦力比として解釈してくんですね。
いくら戦力というものを考えても国力の枠の中でしか戦力は組み立てられませんね。
はい。
国力が圧倒的に開きがある中に戦力を組み立ててそれも10対1ってのは甘かったんですがその組み立てる中でだんだんだんだん自分たちに都合悪いような分析の数字っていうものを…。
無視するという。
無視してくって事ですね。
今現在の私たちの例えば政治であったりまた経済であったりさまざまな事の決定の背景にもデータがありますよね。
そのデータに向かう時のまあ大切さというのは当時と変わらずありますよね。
このデータの数字はどういうところからどういうふうに出てきたのか。
そのデータを分析してるのは誰なのか。
でそしてこういうデータが出てきたのか。
データもある程度恣意的に取り扱えば初めから解釈をこっちへ持ってく事できますからね。
だから私たちはデータというものを安易にですね何でもデータでものを言えばいい。
データが正しいんだっていうのはその組織が社会が健全に動いてるっていう前提がある訳でそれがなければデータそのものはむしろ悪魔の所業と言ってもいいかもしれませんよね。
はい。
悪い方に使われますと本当にあのような戦争のきっかけにもなる…。
多くの人の犠牲を生む訳ですからね。
最後にこの資源というところで考えていきますと太平洋戦争と変わらず今も日本は資源の少ない国ですね。
ほかの国に頼らなければやっていけないという国ですね。
山本キャスターのあの言葉というのが92年ですからもう四半世紀近く前のものになりますね。
その当時と今日本のアジアや世界における立場随分変わってますよね。
変わってますね。
あのころは日本は経済が好調でどちらかというと図に乗るなと。
もっと自制的に振る舞えというあれでしたけど今はそういう経済が必ずしもそういう状態ではない。
だからこそ逆に共存共栄という言葉があの時代よりも今の時代の方がね説得力持つんだなと。
だから私たちはこの番組見ながらこれは全く23〜24年前の番組じゃないと。
今に通じてる問題をきちんと整理してるなっていうのが正直な印象でしたね。
保阪さんまた次回もどうぞよろしくお願い致します。
今日はありがとうございました。
ありがとうございました。
2015/06/29(月) 00:57〜02:07
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「戦後70年 総力戦 なぜ敗れたのか〜破綻した輸送計画〜」[字]

戦後70年、なぜ日本が総力戦に敗れたのか検証するシリーズ。勝敗の鍵を握る海上輸送計画がいかにずさんだったか、指導者の認識の甘さを検証、いま学び取れる教訓を考える

詳細情報
番組内容
1992年に放送されたNHKスペシャル「ドキュメント太平洋戦争」から、総力戦に日本がどのように敗れたのか2回シリーズで見る。1回目は、「破たんした資源輸送計画」。資源の少ない日本にとって海外から資源を運ぶことが勝敗の鍵。しかし輸送船は潜水艦などの攻撃を受け、あまりにも楽観的な海上輸送計画は破たん、敗戦への要因となった。近代総力戦の実態に対する指導者の認識の甘さを検証、いま学び取れる教訓を考える。
出演者
【ゲスト】ノンフィクション作家…保阪正康,【キャスター】森田美由紀

ジャンル :
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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