https://twitter.com/mas__yamazaki
>若松英輔 「言論の自由」とは、何を語ってもよいということではない。恫喝や権力による威圧は「言論の自由」の埒外にある。それは根源的な意味における存在の自由を奪う行為だからだ。どうしてこのことを、もっと言論人は語らないのか。今、私たちが、本当に守らなくてはならないのは「自由」なのである。
自民勉強会:青年局長、更迭へ 安保審議、影響を懸念(毎日)
http://bit.ly/1ebSKwe
「世論の批判が強く、安全保障関連法案の審議に影響が出ていると判断。29日朝の審議再開までに木原氏に辞表を提出させ、問題の早期収拾を図ろうとしている」
行動の内容自体は問題にしない。
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「世論の批判が強く、安全保障関連法案の審議に影響が出た」から「問題の早期収拾を図る」。
逆に言えば、安保法案の審議がなければ、更迭する必要は無い、という判断ということになる。
自民党幹部の発言も全て「法案成立の邪魔をするな」というものばかりで、言論圧力自体は問題視していない。
首相も与党幹部も、首相側近が同席して行われた党本部での勉強会で、首相の親友の作家や現職国会議員によってなされた「メディアに対する恫喝」を、政治倫理上の問題とは全く認識していない。
相手の萎縮効果が狙えるなら、汚いファウルでも平気でやる。
「元NHKプロデューサーの永田浩三武蔵大教授(メディア社会学)は、非公開の気安さで出た発言ではないと考える。声は室外に漏れ、そこに記者がいるのは、出席者も分かっていたからだ」(東京)
http://bit.ly/1LOjJsI
「(外部にいる記者に)伝わるように言ったのだろう。若手議員が鉄砲玉みたいに親分が言えないことを言う。形勢が悪くなれば、党幹部が『若手が内々で冗談言っただけ』と収める」
「言ったもの勝ち、脅したもの勝ち。メディア側の萎縮、忖度につながることがある」
「強権を発動しないで、マスコミ側が自主的に制限してくれるのが(政治家側の)理想」
百田尚樹氏は27日、福岡市であった福岡大学の同窓会の会合で講演、自民勉強会での発言を弁明(毎日)
http://bit.ly/1fXkvd0
「弁明」という形式を盾にしつつ、さらに暴言を重ねてメディアへの恫喝を継続している。
騒動の責任を野党やメディアに転嫁し、一切非を認めていない。
誰かがひどい暴言を吐いたり他人を恫喝する態度をとった時、昔なら社会的な制裁を受けて地位を失うことが多かったが、最近は「暴言や恫喝の何が悪い」と居直る人間が、社会のいろんな場所で制裁も受けずに、堂々と地位を保っている。
そういう人間が、「美しい国」などの正反対の言葉を好んで口にする。
自分が標的になるのが怖いからか、「暴言や恫喝の何が悪い」と居直る傲慢な人間の側について、茶坊主のようにご機嫌取りをする人間も、昔より増えたように思える。
「やっていいことと悪いこと」の区別がつかない、あるいは区別を重視しない、状況の権力関係の序列に身を委ねる人間が、社会に増加した。
百田氏発言「耳を疑うほどありえない」放送関係者(毎日)
http://bit.ly/1IkXLi8
「『沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない』と述べた百田氏の発言について、在阪民放関係者は『反中央の意識が強い関西のテレビの世界で放送作家として育った人物の言葉としては悲しい限りだ。東京の価値観しか分からない人ではないのに、(沖縄の)地方ジャーナリズムへの理解も低い』と憤った」
「ただ『発言を自分が聞いたわけではない』とコメントに消極的な民放関係者も多く、取材に応じた関係者も匿名を強く求めるなど与党の目を気にする様子もうかがわれた」確実に萎縮している。
大阪で生まれ育った「在外大阪人」として、大阪のテレビがある時期からおかしくなったと私も感じる。
官僚特権の問題を毎週厳しく追及していた、やしきたかじんの「そこまで…」が、第二次安倍政権成立を機に「隣国ヘイト」に変質した理由も気になる。
>佐藤 嘉幸 百田が「探偵ナイトスクープ」のもと構成作家で、その司会者だった上岡龍太郎が、京都の有名な人権派弁護士の父の下で育った反骨の芸人だったことはほとんど知られていない。上岡龍太郎が、理不尽な行為を行う番組スタッフを番組をつぶして「叱って」いたこともいまではほとんど知られていない。
>佐藤 嘉幸 上岡龍太郎が引退していなければ、同じ毒舌タレントだがはるかに品のない右翼のやしきたかじんがあれほど大阪でちやほやされることもなく、従ってたかじんがひいきにして日の目を見させた政治家橋下と維新の会もなかっただろう。今から考えれば、上岡龍太郎の引退は本当に惜しかった。
>佐藤 嘉幸 上岡龍太郎が引退していなければ、いまごろ構成作家の百田を番組でどなりつけて、理屈ずくめでいびりたおしていただろう。その光景が見られなかったことは本当に残念だ。
百田尚樹氏は、かつて上岡龍太郎氏の司会する「ラブアタック」という番組で、もてない「みじめアタッカー」として何度も出演していたが、現在の百田尚樹氏の言動について、上岡龍太郎氏はどう思っているだろう。
「口が悪い」のと「権力側に立って逆らう人間を居丈高に誹謗・恫喝する」ことは全く違う。
日本人としての沖縄県民が今、というか戦後ずっと直面し続けているのは、駐留する外国軍基地の問題と、日米地位協定などが障害となって解消されない様々な人権侵害という問題、つまり性質の異なる二種類の問題だと思うが、無意識に両者を混同した言説と、意識的に両者を一体化した言説が存在している。
先日の『報道ステーション』の特集が示す通り、ドイツやイタリアでは、この二つの問題を明確に区別した上で、前者が後者を正当化する理由にはならないとの前提に立ち、ドイツ政府やイタリア政府は自国民を代表する立場で、駐留外国軍に対し、自国民の人権を守るために行動する。
両者を混同していない。
日本ではどうか。
現政権もそれを支持する「自称愛国者」も、意識的に両者を混同した上で、後者の人権侵害を前者の「安全保障上の理由」で正当化する。
政府は自国民を代表せず、「自称愛国者」は自国民に対する外国軍基地に起因する人権侵害を容認し、逆に傷口に塩を塗るような誹謗や暴言を平気で吐く。
駐留する外国軍基地の問題と、日米地位協定等が障害となって解消されない様々な人権侵害という問題を、一体化して論じる日本政府と、明確に区別して考えるドイツ政府やイタリア政府の違いは何かと言えば、人権という価値に対する認識の違いだろう。
日本政府も「自称愛国者」も人権の価値を重視しない。
駐留外国軍基地の問題で、例えば基地に反対する「陣営」の一部に、道義的に問題のある行動をとる人間が含まれていたとしても、それが「日米地位協定が障害となって解消されない様々な人権侵害」を正当化する理由にはならない。
にもかかわらず、後者を正当化する方便として、前者を持ち出す人間が多い。
人権侵害の被害を訴える自国の市民に「中国の手先」「反日」「金目当て」と誹謗中傷を嬉々として投げつけ、自国の市民を「ゆすりたかりの名人」と侮辱する外国人と親しげに交際する。
そんな人間が「愛国者」ではないことは明白だが、この国ではその錯覚が根強い。
政府の上層部がその錯覚を後押しする。
ニューズウィークの最新号は、沖縄の問題を取り上げていたので買ってみたが、鳩山元首相のインタビュー以外で掲載されていた沖縄関係の記事は日本人記者の書いた一本だけだった。
その内容は、沖縄の基地反対運動を本土の人間が歪めている、というもの。
「基地ではなく反対運動に迷惑している」という県民の声、基地反対運動に本土の労働組合や過激派が参加している事実、反対派の米兵家族への心ない振る舞い、「地元にとって反基地運動は降って湧いたような災難でしかない」との説明。
多面的な情報という意味では参考になるが、人権侵害への関心は薄い。
戦後70年慰霊祭を報じた6月24日付産経新聞も、同じような角度で報じた。
東京出身の反対派の首相批判に、地元の若者が反発して食ってかかる、という構図を切り取って、一面に掲載する。
産経とニューズウィークの沖縄問題の報道には、本土と沖縄の間に楔を打ち込んで分断しようとする意図を感じる。
「基地ではなく反対運動に迷惑している」「地元の若者が本土から来た反対運動支援者に反発する」という形の報道は、「本土の人間が反対派を応援すれば、沖縄県民は迷惑するかもしれない」「本土の人間は現地の人々の問題に口出しすべきではないかもしれない」という萎縮効果を、本土の人間にもたらす。
しかし本土の日本人が認識しなくてはならないのは、基地問題への賛否とは別に、沖縄県民が今なお苦しむ理不尽な「人権侵害」と、自国の政府がドイツやイタリアのように解消の努力をしていないという現実だろう。
性質の異なる二つの問題を混同し、白か黒かの二択に誘導する言説には注意が必要だと思う。

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