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Critical Life (期限付き)

2015-06-29 百田尚樹講演(6月25日:自民党議員「文化芸術懇話会」)について

百田尚樹の講演の精確な記録は見当たらなかったので、新聞報道の要旨の記述を使わざるをえないが、それによるなら、百田は、「左翼がうまいことを言う」姿勢に対決しようとしたようである。

議論の運びはこうである。百田自身も「沖縄の米兵がレイプ事件を犯したことが、過去何例もある」という事実は認めるのであるが、しかし、「沖縄に住む米兵が犯したよりも、沖縄県全体で、沖縄県民自身が起こしたレイプ犯罪のほうがはるかに率が高い」という事実があるにもかかわらず、「左翼」は「こういうことは絶対に言わない」。百田から見るなら、そのようにして「左翼」は、沖縄県民の犯罪についてはダンマリを決めこむ一方で米兵の犯罪だけを大袈裟に取り上げることによって「うまいこと」をやっているのである。だからということで、百田は、「そういう左翼の扇動に対して、立ち向かう言葉とデータを持って対抗しなければならない」と自民党議員に対して活を入れたようである。

■先に、小さな批判を書いておく。百田は、この講演では、左翼に対抗するための「言葉とデータ」を提示していないようである。ひょっとすると、百田は、米兵によるレイプ件数より沖縄県民によるレイプ件数の方が多いという「データ」でもって左翼に対抗できると思っているのかもしれないし、若手自民党議員もそのように学習したのかもしれないが、まさか百田はそれほどまでに馬鹿ではあるまい。仮にこの件で百田が持ち出せる「データ」がそれだけであるにしても、百田が言うように、左翼に対抗するためにはそこに「言葉」が継ぎ足されなければならないはずであろう。では、百田自身に、その類の「言葉」の用意はあったのだろうか。講演後の弁解の仕方から推すならそこでさえも怪しいので、あえて、こちらから言葉を補填してやることにする。したがって、この小さな批判は、いくらか捩れていくので注意されたい。

この件を議論する上での根本的な前提を確認しておく。軍事問題・基地問題と米兵犯罪問題は基本的に区別されるべきである。また、米兵が沖縄に「住む」問題と米兵が沖縄で犯罪を起こす問題も基本的に区別されるべきである。おそらく、百田は、いうところの左翼が、それらの問題を党派的・恣意的に混同させるところに、政治的な志操の低さを見て苛立ってきたのであろう。その苛立ちには、いくばくかの理はあるように見える。しかし、結局は、そのような理は成り立たない。そこがわかっていないから、百田は駄目なのである。解説しよう。

百田は、過去の(一時期の)反基地運動が、米兵による犯罪を契機として盛り上がったという現象を見て、本来は純粋な軍事問題として争われるべきであるのに、そこに犯罪問題が持ち込まれたということ、また、あたかも犯罪による被害を好機とするかのようにして、しかもそれが軍事問題として押し出されたということに、どこか倫理的に不純なものを感じとったのであろう。あたかも、犯罪の発生を待ってましたとばかりに反基地運動が盛り上がったかのように見えたのであろう。たしかに、被害者や犠牲者の発生を俟って盛り上がる運動は、倫理的に高貴であるように見えても、どこか倫理的にいかがわしいところがあるし、政治的には不純であるように見えるものである。一旦は、その感触にいくばくかの理はあると認めておかなければならない。

これに対して、軍事問題・基地問題は、そこからほとんど不可避的に発生する犯罪問題と不可分であり、そうであるがゆえに、犯罪の発生を運動の契機とすることは倫理的にも政治的にもなんら疾しいところはないと反論することもできるが(私自身は採らない)、いまはその反論は的を射ぬかないのである。なぜなら、基地の存在を肯定する立場に立つ百田のような人物は、米兵による犯罪問題を、米兵個人の資質の問題として捉えるはずだからである。つまり、米兵が安保体制を政治的に正しくに理解しているなら、おのずと習得すべき軍人のモラルがあり、犯罪を起こした米兵は、そのモラルに欠けていたのであって、そもそも軍務に就くべきではなかった人材であったと言うはずだからである。そして、百田のように低劣な人物ならば、左翼にだって犯罪者が出ていると言い募るはずである。

しかし、仮にその苛立ちにいくばくかの理があると認めてやるとしても、百田のような人物がまったく理解していないことは、政治的な情勢というものがあるということである。一見したところ、レイプ被害の発生を契機として運動が盛り上がったことには倫理的に疾しいところがないではないようにも見えるが、しかし、政治的に見返してみるなら、情勢次第では、レイプですら契機にならない場合もありうるし、あるいは、万引きであっても契機になる場合もありうる。何が契機になるかは情勢によるのである。その点で言うなら、左翼は戦後期を通してほとんど常に契機を逃してきた。むしろ右翼こそが「うまいこと」を言い続けて、闘争を予防し抑止することに成功してきたのである。

ここまで辿ってくると、百田のような人物が、現時点で何に苛立っているのかということが明確に見えてくる。現在の反基地闘争と反安保法制運動は、左翼が「うまいこと」を言って盛り上がっているのではない。軍事問題・安保問題とは別の問題として扱いうる事件を契機として盛り上がっているのでもない。端的に、軍事問題・安保問題として争われているのだ。本来は、百田が望むはずの純粋な正面衝突として争われているのだ。にもかかわらず、百田が、その主戦場から外れた「言葉とデータ」を欲しがるとはどうしたことなのか。どうして、百田は、主戦場から逃亡したがっているのか。答えは簡単だ。追い込まれて危機感をいだいているからだ。正面で闘える根性を持っていないからだ。たしかに、百田は低劣であるだけではなく卑怯である。しかし、これで話は終わらない。

■百田は、代議士に向かっての講演であるからには、本来は、安保法制と基地を正当化するための新たな「言葉とデータ」を持ち出すべきであった。基地の存在でもって地元が利権と利益を享受しているかどうかなどといった不純な論点は措き(簡単に注記しておくが、基地を撤去するにしても、跡地を再利用するにしても、地元に金は落ちる。現時点の運動は、その程度のことは弁えて、それ以上の次元で起こっているのだ。そのことに百田のような人物は怯えている)、現在の国際情勢と国内情勢の下で現政権を擁護する新たな「言葉とデータ」を持ち出すべきであった。「沖縄のどこかの島でも、中国に取られれば目を覚ます」などという、まさしく被害を好機としたがる卑しい心情を述べ立てるのではなく(ここも簡単に注記しておくが、このような人物だから、左翼が「うまいこと」をやっているように見えるのである。また、現在の闘争は、対中国、正確には、対中国国家権力との関係など乗り越えている)、現政権の「大陸政策」が政治的に正当であると論ずるための新たな「言葉とデータ」を持ち出すべきであった。ところが、百田は、何も持ち出せていない。講演後も、つまらぬ言い訳に終始している。しかし、それが百田の役割であるのだ。そして、百田は十二分にその役割を果たしている。

左翼はしっかりと気づくべきであるが、現在の情勢で安保法制と軍事基地を正当化する「言葉とデータ」をもたらしている学者・知識人エコノミストが実に数多く存在しているのだ。そうした連中と百田のような人物は役割分担を行っていると見るべきである。

だから、百田を軽視してはいけない。百田に対しては、その水準に合わせて、あるいはむしろ、百田的なもの(それは現首相手法にもなっている)の最高の鞍部があるとして、そこを乗り越える批判を向けなければならない。それと同時に、百田や現首相のような顔つきはしていないものの、かれらを政治的・理論的にバックアップしている膨大な数の人物に対しても、その一人一人の実名をあげて批判を向けなければならない。