Cocolog Diary

聖書の教え、神への賛美、思いを日記として綴ります。
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集会でヱホバ(神の名前)、神に依り頼む機会として、慢性的な状況で介護しているクリスチャンや難しい問題に直面したとき神との信頼関係が不可欠としいうことをパウロから学ぶことができました。


排斥になった場合も取り上げられました。

公式サイトで塔2015 4/15号 p. 26-27 14節より、読むことが可能です。


排斥とは、初めて読む方は分かりませんよね。

バプテスマ(献身) 受け 組織の一員(ヱホバの証人)となった人が神の基準、淫行、性道徳,偶像礼拝,盗み,ゆすり取ること,殺人,心霊いっ(コリント第一6章9節 )、神の基準からみてクリスチャンらしくない行動をとったとき、当時のコリント会衆で、使徒パウロコリントたちに,故意犯したち会衆とどめおくことは、パン種働き例え,「少しパン種固まり全体発酵せる」と述べ、危険性つい警告ました。そう影響を,固まり全体膨らませていく、それから,「その邪悪あなた方から除きなさい」と助言ました。会衆の中の清さを保つためです。


今日の集会で、排斥は愛ある措置で、胸の張り裂けるようなその状況を,ヱホバとの関係をいっそう現実的なものにする機会としてください、ヱホバとの信頼関係が強まるでしょうとありましたが、諸外国と比べて復帰の期間、バプテスマの期間は日本は特に長い。


の司会者は排斥したら復帰まで早くて2年くらいと言っていたので、私がなぜ、そんなに期間がかかり、挨拶もしないことを尋ねると、司会者の姉妹は根拠となる聖句は、ヨハネ第二9章11節を開いて、「決して家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません。その人にあいさつのことばをかける者は,その邪悪な業にあずかることになるからです」と、復帰するまではそのような態度をとります。ヱホバの愛ある取決めですと。


さらにコリント第一5章11節を開き会衆のすべての成員は,排斥された人との接触や会話を避けることによって,原則に基づく愛を示せるのです、排斥がその目的を達成するうえで,わたしたち一人一人には,果たすべき役割があるのですと言われました。


私はそうなのかもしれない、しかし、インターネットでは理不尽に排斥処分をされた人の体験、復帰委員会での人権を蹂躙した内容を聞くと、聖書的であってそうでないのかと思うことがありました。


排斥された人は「〇〇さんはヱホバの証人でなくなりました」これだけですので、全く状況がわかりませんしその方の家族もいるので理由は公開しないかもしれません。

排斥した人は、いつも後のパイプ席に座り、歌が終わる頃に王国会館から出て行ってしまう。そして、駐車場で見かけても姉妹は避けて道を歩く。こうした態度は少し愛に欠けてしまうのかと思ったことがあった。


排斥の悔い改めの期間、個人研究や黙想、集会の出席が求められる。その間は、クリスチャンとの接触が一定期間なく、祈り、個人研究だと、とても難しいように思う。支えがないと、献身した人でも難しいのでは日本の場合排斥期間がとても長く持たないのではと思ってしまう。私はまだ学びの途中ですが、司会者姉妹がとても立派ですが、親が長老、弟がベテル奉仕者、小6でバブテスマを受けた今は50代の司会者姉妹が私の動機を疑い、常に窺った研究、時間は2-3時間と長く、信頼関係は難しいので聖書レッスンを断ったとき、長老が従順でないと、それで我々の組織に入れますか。とクリスチャンの型に合わせないと言われました。


一方で補助開拓の姉妹が70代姉妹の聖晝レッスン生にはいつも交わりにも参加させていた。伝道者の主婦が司会者は、シングルマザーの聖晝レッスン生には司会者姉妹宅で研究後夕食を姉妹の交わりがあった。司会者にあたる姉妹によってこんなに差があった。50代の司会者姉妹はアパートでパート、経済的には事情はわかりますが、小6でバブテスマ、ずっとJ’Wしか知らないのです。世を知らなすぎるのです。開拓を40年、ずっと兄弟姉妹に支えられて、私の場合は時間入れ、お茶の時間を入れると2時間30分以上、他の姉妹との交わりなど、研究生は誘わないんですと言われ、ずっと時間だけが長い聖書レッスンが続いた。親しくもなれず、司会を断ってしまった。


その後、私が、何回手を上げても長老は注解させない、次の司会者姉妹をつけさせない、そういう措置をとられたとき、何人かの姉妹が心配して下さり、司会者姉妹になってくれるよう言ってくれても、ヱホバの宇宙主権、組織、指導の任にあたる人に従順でないと言われ、次の司会者姉妹はMTS長老の兄をもつ必要できた姉妹、集会で一度も声をかけてくれない姉妹、開拓者同志でいつも話しをしない姉妹で、大会でも話しをしてくれなかったのです。越境した長老夫人は大会のときでも私を探してくれたので地元に戻ったとき、それを伝えても長老は理解してくれなく、いつも私の側に、S姉妹かY姉妹がいてくれたので理解できなかった。


MTS長老からそこをクリアしないとあなたは組織に入れませんと言われてしまった。


半年間、地元の集会へ行っても司会者姉妹がなく一人で集会へ行っていたが、やはりサポートをする人がほしいと思ったことは何回かあった。そのたびにS姉妹がいつも電話をくれたこと、そうした支えで行くことができた。


話しはそれてしまいましたが、排斥した人はそれ以上にきつい態度をとられるのであり、必要な会話、無言の目で見られるのである。一年だけでなく、3年かかるとか知ると、ガラテア6章1節に、霊的に資格のある人たちが『温和な霊をもってそのような人に再調整を施すことに努めるよう』諭しています。と書かれています。しかし、それも会衆によって違う。他会衆に行って思ったことは長老によって会衆の霊が違う。


ヱホバと個人の関係も大切です。しかし、個人には限界があります。

使徒の20章28節にあるように仲間の兄弟姉妹における関心を排斥した人にもある程度必要であると思ってしまう。ネヘミヤ、このネヘミヤの手本から,どんな時も神に頼るべきであることを学べますが、ネヘミヤは仲間のユダヤ人たちが霊的に落ち込んでいた時に自分から、立ち上がって…励ましましたとありました。どんなことでもやはり排斥した人達であっても定期的に長老たちが励まして愛を進んで率先しなければならないと思うのです。


また、エフェソス会衆の良い牧者の働きとして、あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのですと書かれています。


インターネットで検索して背教者が多いと、内容を読むと理不尽な排斥、復帰委員会などを知ると、各会衆の違いにより長老次第で、1回でなく2.3回、復帰員会のやり直しがあったり読みますと、少し行き過ぎるように思ってしまう。


悔い改めとは、本来は、方向転換という意味で、自分の罪に気付き、神に再び心を向けるという意味です。

悔い改めは永遠の命の望みを伴う,神のみ前における正しい立場に導き入れられるための主要かつ不可欠な段階なら、指導の任にあたる長老からの暖かいサポートが必要です。その方を立ち直らせます。


集会に勇気を出して来られている排斥した人にも憐れみを。


エレミヤ7章13節や25章を読むと、ヱホバは憐れみ深くも預言者や宣べ伝える者を遣わし,人々に悔い改めを呼びかけてこられました。


逆に、信仰の期間と悔改めとは関係ありませんと、良心的にヱホバとの、神の道を歩んでいるなら,喜びを保っていられるのでないですかと言われるかもしれません。


排斥と復帰の概念は、人間ではなく、神ご自身に依り頼むための「機会」ととらえて下さいと言われるかもしれませんが。


良い結果を得るには,愛と毅然とした態度が必要かもしれません。ダビデは,詩編141編5節に「義にかなった者がわたしを打つとしても,それは愛ある親切です。彼がわたしを戒めるとしても,それは頭の上の油で(す)」と書いています。


このような誰もが納得して復帰も早く、ヱホバのもとに戻れるような愛ある排斥の取決めを願わずにいられません。






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