今日は、久しぶりにだいぶん長めです。かなりショッキングな内容かもしれませんが、ぜひ最後までお付き合いください。
現実は存在しない?
オーストラリア国立大学の研究者が、量子論の奇妙な性質を実験により立証、とのニュースがありました。
論文が掲載されているサイトはこちら。
→http://www.nature.com/nphys/journal/vaop/ncurrent/full/nphys3343.html
世界的な科学誌『Nature Physics』に掲載されたこの論文、物理学の専門的な理論や概念は一般人には難しく感じますが、実験に当たった教授の次の言葉は、改めて量子の世界のシンプルな本質を明確に物語っています。
"It proves that measurement is everything. At the quantum level, reality does not exist if you are not looking at it," said Associate Professor Andrew Truscott
〈観測が全てであることを証明している。量子のレベルでは、あなたが観ていないのならば現実は存在しない。〉
科学理論の要点を単純化する際は、それが理論や実験本来の意味するものとのズレが起きないような理解と表現に氣をつける必要があると思います。
その前提で、今回の実験で立証されたことを私なりにシンプル化するならば、ニールス•ボーア以来の量子力学の理論通り、
「観測することで、その瞬間に量子の特性は波動性なのか粒子性なのかが決定される。」
という事実がやはりまた明らかになった、ということでしょう。
その本質的な意味をさらにシンプルにいえば、つまりは、
「認識するから存在する。」
逆に言えば、認識するまでは、現実は存在していない、ということ。
そうなると、現実は、大前提として「有る」ものではない、ということになります。
実はこの観点は、現実世界の決定論、固定論、因果論の土台を完全に崩壊させる、強烈な問題提起です。
なにしろ、「観る」までは「現実は存在しない」のですから、現実が「有る」という状態の観点を根こそぎ否定してゼロ化してしまいます。私たちの常識的な全てのものの見方を覆す、革命的な世界観なのです。
ただ、物理学者の理論や実験では、あくまでもこれは「量子のレベルでは」という、カッコつきの話。
私たちの日常のスケールや、それ以上大きなスケール、銀河や宇宙全体といったマクロのスケールに適用されるものではない、という線引きがありますし、根拠の足りない拡大解釈を物理学者は嫌います。
しかし、例えば興味深いのは、『nature』のサイトに見られる次の一文。これも意訳をつけます。
This result is encouraging for current work towards entanglement and Bell’s theorem tests in macroscopic systems of massive particles3.
〈この実験結果は、現在進められている大規模粒子の巨視的システムにおける「量子絡み合いとベルの定理の実験」の励みとなっている(促進している)。〉
macroscopic systems of massive particles、というのは、カンタンにいえば私たちの日常や、よりマクロなスケールの世界のこと。
質量が安定した粒子が膨大に集まった、地球や太陽、銀河系、宇宙空間に対しての研究です。
ここで言われる「量子絡み合いとベルの定理の実験」が意味するものは何でしょう?
ベルの定理の要点としては、「局所原因の原理が間違っていると、数学的に証明されたこと。」
むつかしそう?
私の表現でシンプルに言うならば、部分存在というものは実はありえない。すべてはつながっている、ということの証明です。
であれば、「ここからここまで」と分離して部分的な境界線をもった存在は、実は「有るように観える」というだけで、実在してはいない、つまり現実と真実は全く異なる世界である、ということになります。
ここでもやはり、私たちが日常的に直観的に「有る」と思う部分存在に対する疑問を提示しているのです。
実は、この世界を正しく認識するためには、全体がつながったひとつの実在を想定することが必要なのではないか、と。
どうやらそういう世界が真実であって、そこから、観測した結果、現実が存在すると。
他にも、素粒子物理学の分野において、この宇宙を構成する基本単位である素粒子の世界では、粒子がずっと「有る」ものではなく、どこか異質な次元に消えてしまい、またそこから生まれて来る、ということが科学的事実として明確になっています。
素粒子は、ずっと存在していない。
有ったり無かったりする。
出来たり消えたりする。
生じては滅し、滅されたところからまた生じる。
ということは論理的に、生成•消滅を司るその「独特な動き」が、存在の背後でずっと繰り返されている、ということが想定されます。
また素粒子が生滅するならば、自然に考えて、素粒子で構成されている私も、あなたも、地球も、そして宇宙も、ずっと「有る」ものではない、ということになります。
実は、人間と人間の宇宙は、ずっと「有る」ものではなく、むしろその背後の認識不能な独特な動き、いうなれば「無」の世界のほうが、普遍的実在なのです。
さらに、理論物理学の最先端である超ひも理論のさらに先にあるM理論の世界では、この宇宙を理解するには11次元が必要になる、という結論が導かれています。
ところが、11次元が成り立つためには、宇宙の向こう側、宇宙の外、という概念を取り入れないと、理論的整合性がつきません。
逆に宇宙の外、宇宙がないところ、を取り入れると、一般相対論、量子論、そして超ひも理論のすべてが矛盾なく統一される理論になります。
しかしまた驚いたことに、11次元の宇宙論においては、なんと10の500乗個(!)の宇宙の存在が予測されうると。
これを一体どう理解すればよいのか、研究者たちは頭を悩ませているようです。
これは、NHKスペシャル、『神の数式』でも語られていました。
他にも挙げれば様々な物理理論があると思いますが、実は、これらの理論が根底において共通して私たちに投げかけている、本質的なひとつの問いがあります。
それは、宇宙は本当に「有る」のか?
ということ。
宇宙は本当は「無い」
実は今、最先端物理の様々な理論と実験を総合的に考えたとき、最終的にはこの問いに答えざるをえなくなってきているのです。
そして、この問いに対する観術の答えをまず明々白々に提示するならば、
実は、宇宙は本当は「無い」。
ということです。
あらゆる物理理論は、現実が有る、存在が有る、宇宙が有る、そして当然「自分」が有る、ということを前提にしています。
ところが、真実の世界において、宇宙は本当は「無い」のです。
ということは当然、普段私たちが思う「自分」という存在も、本当は「無い」のです。
人間と、人間の宇宙は、本当は実在していない。
人間が観測する前は、宇宙自然は実在していない。
間違いなくこれが、未来のパラダイムにおける常識的世界観になっていきます。
21世紀初頭、時代は今明確に、「有の時代」から「無の時代」へと、人類史上にない壮大なパラダイム大転換のときを迎えているのです。
実際、視野を広げてみれば、人類の歴史上、それまでの世界観を完全に覆すパラダイム転換は、何度かありました。
古代•中世の迷信や信仰の時代から、ルネッサンス、地動説など世界観の大転換を経て、近代の科学的理性が花開いた時代。
この世の中に対する認識の仕方、常識、生き方の全ては全く違うものになりました。
そして、デカルト、ニュートン的な、部分存在として分離独立した「物体」が大前提である近代的世界観から、エネルギーと質量、時空間と質量が実は別のモノではないという、アインシュタインの相対性理論がもたらした世界観の大転換もありました。
そして相対性理論が誕生したのと同時期に産声をあげた量子論は、そもそも存在や現実が「有る」のが大前提、という世界観すら、正しいものではないのではないか?という問いを投げかけました。
冒頭の『nature』の論文も、この問いに対しての物理学者たちの今に至る挑戦の日々の結果です。
さて、では21世紀、次なる世界観の大転換とはいったい何なのか?
それこそが、真実、実は宇宙は「無い」ということ。
「有る」ように観える自分も自分の宇宙も全て、壮大なるマトリックスであり、認識作用の結果態のホログラムにすぎない、ということです。
おそらく、物理学者、数学者の中でも、この世界観に気づき始めている人はいるだろうと私は思います。
しかし、はっきりと120%の確信、自信、勇気、そして何よりも明確かつ客観的に理解可能な論理体系を持って、それを断言することが困難なのでしょう。
このことは、人類の歴史を大きく500万年間と捉えるとして、500万年間の人類史上の常識を覆す衝撃的な事実だからです。
そして同時に、もし宇宙は「無い」ということが真実であれば、有るように観えるこの現実世界を一体どのように理解すればよいのか、大混乱が起こってしまうからです。
しかし観術は、遠くない未来、この明確かつ客観的な真実が世の中の共通理解になっていくことや、10年、20年、50年先の未来において、「無」の秘密を誰もが明確に理解してそれがグローバルスタンダード教育化されていることに、揺るがぬ確信を持っています。
それは、観術創始者のノ•ジェスが1996年の発見から変わらず提唱し続けていることですし、その全く新しい世界観を誰もが共有できる理論体系と、その理解のために発明した新しい言語、「イメージ言語」の普及も、だいぶ進んできました。
ちなみに2008年に出版された大著『国家革命』の紹介動画でも、著者自ら「宇宙は初めから、今も、無い、ということを言っている本。」というように、この本の読みどころを話しています。
まだお読みでない方は、ぜひご一読をオススメいたします。
ただもちろん今の時代常識の中で普通に聞けば、言っている事自体が意味不明で、そしてそのことが一体どんな価値を持つのか、ワケが分からないと思います。
しかし、このThink Differentのパイオニアの道に物理学、数学の理論や実験が収斂されて行くのは、時間の問題だけだと私は思っています。
究極の「リアリティ」としての「無」
ここで再度、今回の『nature』の内容に戻って、さらに先に触れた科学のいくつかの理論をざっと整理してみましょう。
検知器によって観測されたその瞬間に量子の特質が決定されること。これは、理論においても実験においても明白な事実です。
また、量子の世界では、実は局所的な部分の存在は実在せず、量子が絡み合ってどこにでも広がっている、ひとつながりの実体としての場があること。
そして、存在はずっと「有る」ものではなく、生成•消滅のオン•オフを繰り返す「何かの作動原理」が、実は現実の背後に隠れていること。
これはちょうど、0と1のデジタルの動きひとつでPC画面がすべて作動するのと全く同じ原理です。
私たちが「有る」と思いこんでいるこの現実、この宇宙は、実は壮大な立体コンピューター画面、情報宇宙、ホログラム宇宙にすぎません。
さらに、M理論では、宇宙の外、という世界と概念を取り入れると、宇宙の数が10の500乗個になってしまうと。
ところで、物理学者、特に実験物理の観点の正当性を重視する人は受け入れたがらないかもしれませんが、物理学が明らかにしたこういった成果は、心の世界の歴史的先覚者たちが残した世界観と全く矛盾しません。
たとえば釈迦•仏教は、五感覚で認識する現実世界はすべて幻覚だと断言しました。
また、存在(色)は実在せず、実在するのは「空」だけ(諸法空相)とも言いました。
真実の世界は、「不生不滅」(生成•消滅の世界を司る何か)であり、また真実の世界の性質は、「諸行無常、諸法無我」(我•部分存在はなく、無常•動きだけが実在する)とも言いました。
老子は、「和光同塵」(すべての局所的な部分存在を完全にほどいていけば、すべてはひとつである)と言い、また、道(タオ)の世界の性質を指して、「虚しくして尽きず、動きていよいよ出ず」と言いました。
→http://www.1-em.net/sampo/sisyogokyo/Laozi/index.htm
意味するところは、現実•現象の裏には、物理学で言う真空•虚数空間が無限に広がる世界があり(虚しくして尽きず)、そこに作用する何かの「動き」によって、宇宙自然の様々な存在が生成化育される(動きていよいよ出ず)、ということです。
そうやって、宇宙創成前のカオス(混沌)からコスモス(秩序•宇宙)が生まれると。
また、10の500乗の宇宙を理解する上では、実は「存在の宇宙•物理宇宙」だけに観点を固定するのではなく、認識によって存在する「認識の宇宙•心の宇宙」を裏付ける必要があります。
なぜなら、認識によって存在するなら、認識主体の数だけ無限に宇宙がある、という観点も取り入れなければ、論理的整合性がつかないからです。
いわゆるマルチバース宇宙論に欠けている観点も、この「認識の宇宙」というポイントです。
そして、実は認識の宇宙という点では、最も重要なひとつの質問があります。
それは、認識の主体とは、一体何なのか?ということ。
量子力学は検知器の観測により、あるいはそれを認識する人間の五感覚脳が認識することにより、存在の状態が確認されます。
大前提がまだ、存在としての認識主体が「有る」のです。
しかし脳を構成する物質も、素粒子であり、そして量子であることは間違いありません。
であればそもそも、認識主体である脳がずっと「有る」ということは理解と理論の前提にできないのです。
脳を生み出す何か、素粒子を、量子を生み出し、一秒も休まずに作動し続ける何か、それこそが実は、量子の世界のさらに根底にある真実の世界であり、真実の認識主体なのです。
それは「有」の世界を生み出し、「有」の世界の全てに作用する世界。
言い換えればそれこそが、現実の背後にある「無」の世界の秘密です。
これは何も無い、という意味での無ではなく、「究極のリアリティ」という意味あいでの「無」です。
全宇宙のプログラミング言語、「イメージ言語」
その世界を明確に理解した時、今回の『nature』の実験結果の意味と、さらに補うべき観点もよく見えてきます。
量子論、素粒子物理、相対論、超ひも理論、M理論、釈迦、老子などの世界観すべてを矛盾なく統合する、たったひとつのイメージ。パズルの最後のワンピース、究極の世界。
宇宙全部のプログラミング•コードを解明し、「無」から「有」を解析することが出来るメタレベルの認識方式である、イメージ言語。
それを知るには、ホログラム画面に過ぎない「有の世界」の常識の全てを完全に一度ゼロ化して、宇宙は本当は「無い」こと、「無の時代」が当然である世界観へのパラダイム大転換が必要不可欠です。
例えば量子論の時代からニュートンの古典物理の時代を観れば、いかにその時代の常識が不完全だったのかは良くわかります。
同様に、未来から量子論はじめ現代の最先端物理の時代を観れば、「有」に固定されていた常識がいかに不完全だったのかは、きっと明々白々になっていると思います。
映画「マトリックス」でも象徴的に描かれているように、私たちが日常何の疑いもなく「有る」と思い込んでいるこの「現実」は、実は壮大なるバーチャルリアリティの世界です。
「マトリックス」の中では、主人公のアンダーソンも、そしてネオもプログラムの結果態にすぎない、というようなストーリー展開がありますが、それと同じようなこと。
「現実」という名の立体コンピュータースクリーンの中で、私たちはこの体だけが自分だと思い込んで生きているのですが、自分と自分の宇宙が「有る」と思うのは、マトリックスの中でバーチャルリアリティを「現実」と錯覚しているのと同じです。
もしも自分が映画の主人公だとして100%その世界に没入していたら、あたかもスクリーンの中にいる自分が実在しているように思いますが、それはあくまでスクリーンの中の虚像。実在するものではなく、本当は「無い」ものです。
ただ、そのスクリーンの裏で真実に働いている画面の作動原理として、「マトリックス」でシンボル的に描かれている緑色のプログラミングコードのように、また半導体回路と同様に、0と1のon,offというシンプルなひとつの動きの繰り返しだけはずっとあります。
そうならば、空間三次元、時間一次元の四次元時空間の中に閉じ込められた「現実」と呼ばれるこの超リアルな立体コンピュータースクリーンの裏で、同じようにずっと働いてる作動原理もあるはず。
コンピューターの作動原理、意識の作動原理、宇宙の作動原理。それら全てに共通する、たったひとつの永遠不変の動き、客観的絶対世界「1」を理解し、活用できるようにするのが、イメージ言語を道具とした認識OSです。
それは、いついかなるときもずっと働いている作動原理なのだけれど、五感覚脳の認識機能では認識不可能なため、一般常識になっていなかった世界でした。
しかし、自分と自分の宇宙は本当は「無い」ということが当たり前になったとき、その「無」の世界で常に働いているこのひとつの作動原理も、同じように一般常識になっていくと思います。
五感覚の認識機能の範囲内で認識しているホログラム宇宙をゼロ化して、「無」の秘密を得る教育。
宇宙が「無い」ゼロ感覚の世界を、論理とイメージで理解、共有可能にした認識技術•観術。
観術のファイナルアンサーと、最先端物理の探究が集約される世界が出会う日も、そう遠くはないはずです。
人間の尊厳性が輝くNext Renaissanceに向けて
「無のパラダイム」「無の時代」が当たり前になっていく時代。
では、なぜそんな認識方式の大転換が必要なのか?
今日は、ポイントだけいくつか列挙して終わりにします。
ひとつの動きで全てを解析できる、科学が求める統一理論を完成させ、知の大統合を導くために。
「無」を基準点とすることで、今ここの真善美と現実の神秘性を観ることができる、21 世紀の感性を広げるために。
モノと金の欲望に疲れた資本主義社会から、無の境地の心の平安という、美しい欲望次元の深化を満たすために。
ITとAIの急激な進化がもたらす人間のアイデンティティと存在価値の喪失をカバーして、体だけが本当の人間ではない、人間の再規定、アイデンティティの次元上昇をもたらすために。
「有」の時代の体の人間から、「無」の時代の尊厳性、無限の可能性そのものの心の人間のライフスタイルを得るために。
多様な認識宇宙を認め合うことで、無意識で自分が正しいというエゴとジャッジメントをゼロ化して、尊厳の関係で結ばれるために。
すべてがひとつながりの和心で、最高のチームプレーを楽しむために。
そして、西洋が引っ張ってきた「有の時代」の物質科学文明の限界を補い、日本から、「無の時代」の教育、経済、政治の、21世紀のNext Renaissanceを起こすために。
「有」が当たり前の時代から、「無」が当たり前の時代へ。
認識が、世界を変える。
歴史最高の大変革の時代、NRグループの挑戦が、時代の意志と交錯していきます。