自分を自分だと認識できるものは何か、すなわち何が自同律を保証するのかそれを人格であるとしよう、ここで人格を入力された情報によって出力される結果にある種のパターン(=傾向)のようなものであると定義し、そういったパターンを持って自分を自分だと認識できるとする
けれど細かく切り分けた個々の傾向を一つ一つなぞらえても「これはまさしく自分だ」などと思えない。数百、数千、数万という傾向の総括こそが「自分だ」と思えるもの、つまり人格だと考える。
例えば私は毎朝オナニーするが、他人が毎朝オナニーしていたとして「あいつは私だ」なんてことを思うはずがないことと同じだろう。
個々の傾向を見てもそれはただの事象に過ぎないが、それらが一纏めになり「全体としての傾向」を帯びればそれは「私だ」と認識するようになる。
例えば私の目の前に外見からは私とは思えない人間がいたとしよう。要するに他者だ。しかしその他者の中に入っている人格が「私が考える私」の特徴を全て捉えており、それらが五感で判断できるかたちに表出していれば(少しばかり時間が架かるかもしれないが)私はそれを私だと認識するようになるのは大いに考えられる。
そしてもし「私が考える私」を考えるにあたって参照する記憶を失ってしまった場合、自分が自分だと支えてくれるものを失ってしまったも同然だ。
「私が考える私」とは過去を振り返ってこそ認識できるもの類だからこそ、その過去のデータが失われてしまえば比較することも参照することもできなくなってしまう。
故に「自分」というものが分からなくなり、最終的には「世界」すらも信じられなくなることが多い。何故なら世界への信頼度は間違いなく自分を中心にしているからであり、それがガタつき・揺らぎ・倒れそうになっているのならば目に見えているもの耳で聞いているもの肌で感じているものさえどこか虚ろで実感さえ希薄になっていくものだからだ。
自分が自分であるという感覚こそが、世界への猜疑を掻き消し、信頼を置く第一ステップ。そしてエピソード記憶の連続性こそが人格を、ひいては自我を保証してくれるということになる。
ここで沼男という問題を紹介しよう
以下wikiから転載
スワンプマン(Swampman)とは、1987年にアメリカの哲学者ドナルド・デイヴィッドソンが考案した思考実験。「私とは何か」といった同一性やアイデンティティーの問題を考えるのに使われる。スワンプマンとは沼 (Swamp) の男 (man) という意味の英語。
ある男がハイキングに出かける。道中、この男は不運にも沼のそばで、突然 雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。
この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える[1]。沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。
じゃあまぁエロゲから引用するね
『水月』という作品では主人公である瀬能透矢は事故によって記憶喪失になり、前述した事も含め「過去への猜疑」と「周囲から過去の自分を押し付けられる」ことで心が壊れていくようになる。
そこで瀬能透矢が那波をとおして得た現実への接し方は「今」を見続けるものであった。過去も未来も存在しなく、ただ今だけを捉え今ここだけを見ては感じ認識することで「過去への猜疑」と「周囲から過去の自分を押し付けられる」懊悩を取り払った。以下引用
「ええ。わたくしは、生まれた瞬間から、この年齢で、こういう記憶を持っていたのかもしれませんわ」
「極論だね」
「そうではないと、どうして言い切れますの?」
「少なくとも、僕はここでナナミが倒れていたのを覚えている」
「ですから、その記憶が確かなものだと、どうして言い切れますの?」
透矢、ナナミ
そして世界の転移・世界の改変とでも呼んでもいいような事が『水月』で幾度も繰り返されるのは、まさに「今」だけを見続けなければ心が壊れることを示すものであったと考えている。
人の認知方法は「空間」と「時間」の2つを主軸にしており(だからこそ同じ経験をした場合人が感じる有り様は全く別物になるのではなくある程度近似値になっていく)、これらが乱される(あるいは無視した)事象を起こされると脳がパニックなる。うまく認識できなくなるからだ。
「時間の連続性」を無視したこれらは生きている日常ではまずお目にかかれない出来事だ。更にこの「体験しえないもの」ということは、「現実世界のルール」は「時間の連続性」によって成り立っているとも言える。
親しい人は突然消えていなくなっては、自我が空転していく。そして戸惑いつつも、徐々に夢世界に慣れ、最後には『いまここ』を見続けることが出来るようになっていた。そんな見方も可能だろう。
以下引用
まだ、何をしたらいいのか、誰のことが好きかとか、よくわからないけど、自分の生きる世界、みんなのいる、この世界が好きだ。
だから僕は、もっとこの世界に生きたい。もっと、いっしょうけんめいに勉強をして、弓道をして、恋をして―――
辛いこともたくさんあるけど、そうやって、生きていこう。
透矢(牧野那波√ラスト)