今年3月89歳でこの世を去った桂米朝。
戦後滅びかけた上方落語を復活させた立て役者です。
米朝は古典芸能から大衆文化まであらゆる芸を取り込みまして上方落語をそれまで以上に発展させました。
超大作「地獄八景亡者戯」。
上方落語のエッセンスが凝縮されております。
「ちょっとお尋ねしますけどなこの前流れてる川がこれがあの三途の川とかいうやつ?」。
「ああこれがかの有名な三途の川でございます」。
腕によりをかけてこぎ出した。
「いやうんとしょ〜い」。
地獄巡りを盛り上げておりますのはにぎやかなお囃子。
(お囃子)「なかなかきれいな水でんな」。
「やかましゅう言うてやって参ります。
その道中の陽気な事!」。
多彩で洒落たしぐさ。
歌舞伎や狂言などさまざまな芸に接したたまものでございます。
「何をぐずぐずしてんねん。
早う来ん」。
「んな言われたかてわてらこんな裾模様のこんな着物着ててそんな早う歩かれしまへんやないかい。
ちょっと待ってもらわん事には」。
「わてらそない早う歩かれたらかなわんわ」。
舞妓はんのビラビラのかんざしが風に揺れてるところ。
古典の世界を大切にしながらも時代風刺の笑いも満載です。
「へえ〜やっぱりこっちにも入試何とか何とか。
こっちにも…」。
「こっちにもってあら大体こっちが本場だっしゃないかな。
『受験地獄』ちゅうてな」。
(笑い)「ああ受験地獄ね」。
粋で洒落た芸なら何でも取り入れる懐のふか〜い噺家。
(拍手)これやるとしばらく元に戻りまへんのや。
そんな桂米朝の信条。
それは…では桂米朝が復活した上方落語の豊穣なる世界にさあご案内しましょう。
(拍手)僭越ながら桂米朝の孫弟子桂吉弥がご案内を相務めます。
私米朝師匠のお宅で3年間内弟子をさして頂きました。
衣食住ず〜っと一緒でね一緒に使わなんだんはパンツぐらいのもんでございますが。
私が入りました1年後に師匠が人間国宝になりました。
私の頭の中では私が師匠を人間国宝にして差し上げた。
てな妄想になっておりますが。
アホかお前は!
(笑い)さて。
米朝師匠といいますと何というても「上方落語の復活」。
米朝なくして今日の「上方落語」はない。
つまり私もここにはいてないわけでございますな。
米朝師匠のおかげでしゃべれまんねん。
ありがとう。
サンキューベリーマッチ!米朝さんの落語。
それは「上方」つまり関西のさまざまな芸の粋を集めたもの。
米朝さんが芸を養うた取って置きの場所。
それが京都・祇園の花街だす。
杯を重ねながらなじみの芸妓と歌舞音曲に興じておりました。
・「釣ろよ釣ろうよ」お座敷遊びを扱こうた「お茶屋噺」。
・「旦那どんを釣ろうよ」年季を積んだ遊びが舞台に華を添えます。
・「もっとこっちへおいなはれ」・「そっちへ行ったら落とされる」「知ってんねやこの人!」。
米朝さんのお座敷遊びとはどんなもんだったんでしょうかな。
おおきに。
こんにちわ。
ようこそ。
うちらお商売させてもうてすぐぐらいかも分からへんのですけどね大きいお姉さんばっかり呼んで頂いて。
怖い怖いお方ばっかり。
(笑い声)米朝さんが好んで座敷に呼んだのは年配の芸妓ばっかり。
(笑い)なんで年季の入った芸妓ばっかり呼んだんかといえば…。
彼女たちの歌や踊りの洒落た味わいに米朝さんほれ込んだんでございますなぁ。
祇園は長い年月の中で育まれた芸が息づく場所。
祇園に店を構え半世紀になるという…義太夫に小唄もう何でもござれ。
米朝さんが来るといつも盛り上がったのはひいきの歌舞伎役者の話題でした。
役者の…役者の声色なんて十五代目羽左衛門ちゅうたらパーッとするのはやっぱり羽左衛門の声。
私ら分かるから羽左衛門になんねん。
「かように候者は」とくると…。
こうしていつも扇子で顔隠してやな。
おっしょさん好きなの「勧進帳」の富樫や。
ここへベターッとこうして「かように候…」。
(笑い声)これは好きが高じて余興で富樫を演じた米朝さん。
米朝さんおっしゃいました。
こちらは歌舞伎を取り込んだ「芝居噺」。
(柝の音と拍手)「草木もなびく御勢い。
君の万世。
万万世。
ただただおめでとうぞんじ…」。
いっぺんに「たてまつりワワァ…」。
(笑い)桂米朝が落語界に入門したのは昭和22年。
そのころ上方落語はえらい窮地に立たされておりました。
戦争で落語を演じる場であった寄席がもう全滅。
そして落語と入れ代わるように漫才ブームが到来します。
噺家たちは漫才師への転向や廃業にまで追い込まれていきました。
更に上方落語を支えてきた大御所が相次いでこの世を去ります。
そして昭和26年には米朝さんの師匠桂米團治も死去。
上方の噺家はたった10人ほどになってしまいます。
まさに滅びる寸前やったんですなぁ。
このままでは師匠から弟子へ口伝で伝えられてきた上方落語が途絶えてしまう。
米朝さん一念発起いたします。
師匠米團治の通夜の席。
師匠のネタのほんの一部しか受け継ぐ事ができなかった事を悔やんだ米朝さん。
弔問に訪れた噺家をつかまえ師匠のネタを必死に聞き出したのです。
更に米朝さんは一線を退いた噺家を訪ねてはネタを聞き書きしてゆきました。
たとえ20でも30でも体でこれを残せたら。
「その気やったら」って熱心に教えて頂いた。
兵庫県にある米朝さんのご自宅です。
遺品の整理が今も行われています。
落語研究家の小澤紘司さん。
米朝さんからの信頼があつく生前から資料の整理を任されておりました。
米朝さんが集めた膨大な文献。
上方落語の復活は米朝さんの旺盛な研究心に支えられていました。
江戸時代の小咄から上方言葉の辞典や風俗を記した文献とまあまあ。
米朝さんが「落語界の百科事典」と呼ばれてるゆえんですなぁ。
遺品の中から米朝さんがいかにして上方落語を復活したのかを物語る資料が見つかりました。
昭和24年から始まる「聞き書きノート」。
一線を退いた噺家から聞き出したたくさんのネタが記されております。
例えば京都に隠居していた「文の家かしく」からは当時既に忘れ去られようとしていたネタを聞いております。
「天狗さし」。
「わてな今度は食べもん商売を始めようちゅうねん」。
珍しい料理で一もうけしようと思い立った男たちの珍道中です。
「何のすきやきや?」。
「天すき屋」。
「えっ?」。
「天すき屋やろう思いまんねん」。
「天すき!?」。
「大きな声を出したらあかん。
誰が聞いてんもんでもない。
こういうのは人に聞かれて『あっおもろい!』と思って先やられたらわてえらい目に遭うさかいな」。
「そりゃまあそやけど。
天すきって何やねん?」。
「天狗のすきやきでんねん」。
(笑い)「そりゃ結構やけどその天狗てなもん一体どっから仕入れるねん?」。
「それをあんたに相談にきた」。
「アホかお前は!」。
(笑い)天狗をつかまえる男「天狗さし」が道具の竹を担いでいると向こうからた〜くさんの竹を担いだ男がやって来ます。
「競争相手か!?」と問いただすとこういうサゲになります。
「あれ?お前も鞍馬の『天狗さし』か?」。
「いやわしゃ五条の『念仏ざし』じゃ」。
(拍手)実は米朝さん聞き書きした当初このサゲの意味が理解できませんでした。
「念仏ざし?何やろ?」。
分からなかったんです。
教えてくれた当の文の家かしくも師匠から口伝で伝えられただけでその意味までは知りまへんでした。
「念仏ざし?何やろ?」。
自分で納得できなければ人前で演じる事はできない。
米朝さんは会う人ごとに尋ねます。
するとある日。
京都の道具屋が「念仏ざし」を送ってくれはったんです。
それは江戸時代京都で作られていた「竹の物差し」でした。
米朝さんにとってはもう大発見。
ノートに「遂に入手する」とそのうれしさを記し職人の名前まで書き写しております。
あの「おかしな事を言って笑わす事と違うよ」といつも言っておられた人ですものね。
そこまでいかなければ米朝師匠自身としてもやる方としても自信持ってしゃべられなかったんじゃないでしょうかね。
噺の落ちがようやく分かった「天狗さし」。
人に聞いてもらい笑いを取って初めてネタとして完成します。
当時を知る…上方落語の復活を目指す米朝さんのもとに同志たちがはせ参じました。
後に上方芸能を代表する重鎮となる面々も集う中で米朝さんは「天狗さし」を披露したんです。
権藤さんは発表の場として能楽堂の稽古場を手配しはりました。
(取材者)こちらですか?米朝さんが。
(権藤)ええここです。
ここで披露された「天狗さし」の録音が残っております。
米朝さんはマクラで「念仏さし」に触れサゲへの伏線を張ってはります。
(笑い)「天狗さし」と「念仏ざし」。
言葉の洒落でございますなぁ。
ハッハッハッ。
すんで終わって下りてくると「どうでした?」って言うたら「あれ面白いなぁ」とかあまり率直に言ったりですね「あっこれは何とかなるでぇ」とかねぇ。
上方落語のですね量を増やしていくという質を高めていくという事にはこだわってましたねぇ。
上方落語の復活劇。
米朝さんの苦労がしのばれるエピソードでございました。
(拍手)師匠は私がついた70代になっても「落語の虫」でした。
毎晩マッサージして差し上げるんですが…。
「おいもみながらやってみい」。
「はい。
『一段高席にはござりますれど…』」。
「ああもうちとなきびきび言わないかん」。
「『一段高席にはござりますれども御免お許しなこうむり不弁舌な…』。
師匠?」。
(いびき)「寝てまんの?」。
(いびき)「起きてまんの?」。
(いびき)「返事してるがな」。
朝から晩まで落語三昧。
この落語三昧師匠は小学校の頃から始まったちゅうんですから厚みが違いますわ。
兵庫県姫路市に暮らす米朝さんの…本邦初公開!小学生の米朝さん。
ハハァ。
かわいらしいですなぁ。
このころからラジオにかじりついてネタを覚える落語少年だったといいます。
満州に生まれ兵庫県姫路市に育ちました。
実家は格式のある神社。
神主だったお父さんが落語の愛好家でした。
清少年が小学校2年生の時お父さんが大阪の寄席に息子を連れていきました。
道頓堀。
戦前は芝居小屋がずら〜っと立ち並んでおりました。
その一角。
法善寺横町に寄席がありました。
そこでは落語だけではなく江戸時代から息づくさまざまな芸に触れる事ができました。
清少年の心をわしづかみにしたのは庶民が生き生きと活躍する落語の世界でした。
初めて寄席の世界に触れた清少年。
その後お父さんの持っていた落語全集を読みふけりそこに登場する人間の面白さに心を動かされてまいります。
落語への情熱が日増しに高まっていった米朝さん。
「神社の跡継ぎに」という親の期待をよそに東京の大学に進学します。
その目的は名人がひしめく東京で落語三昧の日々を送る事。
米朝さんは寄席に通い詰め名人の話芸を次々と吸収していきました。
米朝さんの寄席通いの仲間だった大西信行さん。
その情熱の裏には時代の空気がありました。
(砲撃音)米朝さんが上京した昭和18年4月以降日本の戦況は徐々に悪化していました。
兵隊にとられるっていう時代だったからそれこそもう一生懸命ね授業が終わったら東京中の寄席を懸命に聞き歩いたんだと思うし。
命あるうちに見るもの聞くもの見られるだけ見たい聞かれるだけ聞きたいって貪欲だったわけ。
昭和20年2月。
ついに米朝さんも招集されます。
米朝さん19歳。
地元姫路の陸軍の連隊に学徒動員されました。
訓練を始めて20日余り。
米朝さんは腎臓炎にかかります。
失意のうちに陸軍病院へ収容されます。
入院生活の中米朝さんにとっての落語の意味が大きく変わる事になります。
当時の米朝さんの心の内を知る手がかりが遺品の中にありました。
昭和20年に記された…爆撃のけたたましい炸裂音。
実家の神社も空襲で全焼。
死と隣り合わせの日々が続きます。
入院してひとつき。
敗戦の色が濃厚になる中米朝さんは戦友たちの前で落語を披露します。
ベッドの上が高座ですな。
語ったのは落語には珍しい純愛もの。
線香のようにほれたおなごの命がこと切れる物語「立ちぎれ線香」。
米朝さんの語りは病室で聞いていた戦友たちに大きな感銘を与えていました。
夜の庭に出て感慨にふけります。
落語が人を笑わせるだけではなく生きる力を人に与える事を米朝さん実感した瞬間であります。
普通の人が普通のようにしてそしてそれぞれがちょっと違った事をしながらもまあまあ進んでいって楽しく幸せな感じ幸せというのはそういうもんじゃないかなと思われたんじゃないでしょうかね。
「どんな夢でも見なはれ!」。
(笑い)終戦後の昭和22年米朝さん桂米團治の弟子となり噺家としての道を歩み始めます。
(張扇と小拍子)「ようよう上がりました私が初席一番叟にございます。
お後二番叟に三番叟。
四番叟には五番叟」。
(張扇と小拍子)「うるさいな」。
「いや『うるさいな』ってこれが米朝師匠直伝のたたき稽古。
上方落語の必須科目ですがな」。
「『上方落語上方落語』言うけど江戸落語と何が違うねん?」。
「どちらも江戸時代に出来ましてんけど。
江戸落語はお座敷芸で始まった。
上方落語は神社とかお寺の境内のむしろがけの小屋で始まりました」。
「へえ」。
「そやからこんな小さい机の見台ちゅうのを張扇とか小拍子でたたいて大きな音出したり『そのまた陽気な事!』」。
(お囃子)「てな事言うたら生の三味線やとか太鼓お囃子で盛り上げる。
まそういうのが今の上方落語の基礎になったんでござい」。
…と米朝師匠に教えて頂きました。
(小拍子)大阪の町にまた活気がよみがえってきた昭和30年代。
米朝さんは豊富なネタと洒落た語り口で関西で頭角を現します。
昭和40年代に入るともう独演会を開けば満員御礼。
誰もが認める上方落語の旗手となります。
関西のラジオ局のディスクジョッキーとしても大活躍。
(ラジオ)「今夜のおしゃべりは…」。
「桂米朝」。
「小松左京」。
「菊地美智子です」。
「『値上げでよいしょ』というレコードが出て…。
佐藤栄作と東京デモクラティクス」。
「デモクラティクス!」。
時代の空気をつかんだ笑いで人気を博しその活躍の場は落語の世界にとどまりませんでした。
そんな桂米朝に東京から熱い視線を送っていた人物がおりました。
東京の落語の公演をプロデュースしていた…文楽志ん生同じ日に出てた事あるんだから。
信じられないですよね今だったら。
矢野さんは桂米朝の落語を東京の聴衆に届けたいと思い立ちます。
米朝の東京デビューの場所に選んだのが出来たばっかりの…矢野さんは大阪に出向き米朝さんに独演会の企画を持ちかけました。
(矢野)とにかく向こう行って挨拶して「これこれこういうのを考えてるんだけど」って言ったら「いやそれは無理でしょう」ってまずおっしゃいましたね。
それで「まだ東京ではちょっと私も自信ないし」みたいな事をおっしゃってたんだけど。
それまで上方の落語家で東京で成功した例はありませんでした。
大阪の爆笑王初代桂春團治でさえ「泥臭い」と敬遠されてました。
名人とうたわれるのは桂文楽古今亭志ん生など東京の落語家ばかりです。
米朝さんには不安の一方で秘めた思いがありました。
米朝さんは東京公演を決意。
その演目に選んだのが…。
江戸時代の作でめったに上演される事のなかった上方のネタでした。
米朝さんが先人たちから聞き取りながら再構築。
1時間を超す大作に仕上げました。
矢野さんは桂米朝を東京で売り出すため動き始めますが当初人々の反応は鈍いものでした。
「桂米朝上方落語の会って何ですか?」って。
アッハッハッ!米朝なんてほんとに東京ではあれだったんだろうなぁ。
米朝さんには上方落語ならではの武器がありました。
「お囃子」です。
東京でお囃子が使われるのは「出囃子」くらい。
米朝さんはお囃子を効果的に使うて地獄で繰り広げられる珍道中をより面白くしようとしはりました。
師匠である父親から「地獄八景」を学んだ…「『地獄八景』を演じる時は噺家とお囃子の呼吸が何よりも重要だ」。
教えられました。
はい。
もうお囃子さんあっての噺でございますから。
もうお囃子さんあっての噺。
もうこれはこの3人プラス三味線が必要でございますんで本来ならばここで祝儀を切らなあかんねんけど。
(出囃子)
(拍手)「あのこれの前の川これ三途の川とかいう川でんな」。
死んだ者たちが地獄巡りをまるで物見遊山のように楽しむ破天荒な物語。
「その道中の陽気な事!」。
(お囃子)この陽気な唄はお座敷唄の歌詞を変えて作られました。
楽しい地獄をお囃子が演出します。
これはお囃子の「きっかけ帳」。
場面に合うた雰囲気を演出するためにた〜くさんのお囃子が登場します。
「閻魔の出御下に居ろう!」。
(お囃子)
(拍手)あの世に旅するみたいなお話なのでほんとに上方らしいにぎやかな世界を出すのにやっぱりはめものすごく重要なネタだと思います。
自ら復活した上方落語の大ネタ「地獄八景亡者戯」。
米朝さんの自信作を東京のお客さんは果たしてどう受け止めたんでしょうか?東京で初めての独演会。
場内超満員でございます。
その中には……などああ芸にうるさい面々の姿もありました。
「地獄八景亡者戯」は江戸落語を聞き慣れた聴衆に大きな衝撃を与えました。
僕は客席じゃなくて袖で聞いてたんですずっと。
「地獄八景」の時は全然それが違った感じだったですね。
もうほんと強烈なアッパーカット食ったみたいなあれが袖でいて分かる。
「地獄八景」はあれはもう落語とか何とかってものを超越した反応だったような気がする。
「やかましゅう言うてやって参ります。
その道中の陽気な事!」。
「地獄八景亡者戯」。
その後米朝さんの代表作となりました。
「ちょっとお尋ねしますけどなこの前流れてる川がこれがあの三途の川とかいうやつ?」。
「ああこれがかの有名な三途の川でございます」。
「なかなかきれいなええ川ですな」。
「ああこの水なんかも〜っときれいな水だしたんやけどなずっと上手の方に工場が出来てこのごろだいぶ汚のうなりました」。
「ああこっちもやっぱり公害問題が起こってますかな。
いろいろなものが立ち並んでおりますな。
はあ…。
ほほう。
地獄文化芸術会館。
こういうのもあるんや」。
「すごいなぁ。
えらい顔ぶれが並んでます。
見てみなはれ。
有島武郎芥川龍之介。
ああ。
川端康成太宰治三島由紀夫。
テーマが『自殺について』。
ああこれはいっぺん聞いてみたいなこういうのは。
ああ自殺した人の気持ちは分からんよってにな」。
「寄席かてあんたこっちの…」。
「あっ寄席も?」。
「寄席はあんた娑婆のなんかあんなの聞いてられん」。
「ああ笑福亭松鶴立花家花橘米團治文團治桂米朝…。
米朝という名前で死んだ噺家ないと思いますが。
あれまだ生きてんのんと違いますか?」。
「よう見てみなはれ。
肩の所に近日来演と書いてある」。
(笑い)「ああなるほど。
もうじき来よりまんねやな。
かわいそう!今時分何にも知らんとしゃべってるやろ」。
「閻魔の出御下に居ろう」。
(せきばらい)
(お囃子)
(笑い)
(拍手)これやるとしばらく元に戻りまへんねん。
(笑い)聴衆の心をつかんだ「地獄八景亡者戯」。
その魅力とは何か。
米朝落語に魅せられた各界の人々にお聞きしました。
米朝さんが生み出した時代への風刺をきかせた笑い。
それが権威に反発する60年代の空気を捉えたとおっしゃいます。
現代のそのギャグであるとか時事的なものねそういったものいっぱい入ってるんだけど死というものを一応テーマにはなってるんですよね。
だけどもそれをブラックユーモアにしてしまう。
基本的にはブラックユーモアですね。
でしかもそれを非常に明るくやるというね。
「地獄八景」の魅力は日本人が抱いてきた地獄への恐怖をひっくり返してしまう面白さにあるといいます。
しかも落語の芸の世界でそれをやったというところはちょっと他に比較する落語家はいないのではないのかという。
「自分もあの『地獄八景』を話したい」。
米朝さんじきじきに稽古をつけてもろうた桂文珍さん。
「地獄八景」に至ってはもう長いですから朝の10時ごろから終わったんが夕方の6時ごろまで。
昼ご飯も頂いてそれで稽古して頂いてね。
目の前で国宝がやってくれるわけですからこんな贅沢はないと思いますね。
「閻魔の出御下に居ろう!」。
文珍さんにとっても「地獄八景」は噺家として忘れられない演目となっております。
(拍手)うちの父親ももう亡くなりましたんですけど亡くなる前に「『地獄八景』っていう噺があんねんで」言うて「どんな噺や?」って言うんで父親に稽古も含めて90分ほどやりましたらものすごい落語家になるの反対してた父親が「地獄八景」を聞いて安心してあっちへ行けると。
「地獄はこんなに楽しんだ」みたいな反応をしてましたですね。
にやにや笑ってくれまして。
あれはなんかありがたかったですねぇ。
桂米朝が現代によみがえらせた「地獄八景亡者戯」。
その後東西の落語家が取り組む金字塔となりました。
上方落語を全国に広めた米朝師匠。
弟子もどんどん増えまして孫弟子ひ孫弟子玄孫まででけて総勢60人を超える大所帯。
いろんな個性がいてますわ。
いらちもいればずぼらなやつもいる。
酒飲みもおればギャンブラーもいてる。
それを束ねる師匠はビシビシしばく猛獣遣い!とは違いましたな。
いろんな人間がいてこそ面白い「落語国」。
そう受け止めて下さる度量の大きい…。
(小拍子)いよ大旦那!おはようございます。
弟子と共に迎える米朝さんのお正月。
まあひとつ…
(一同)よろしくお願いします!ではついで下さい。
はい。
それにしても米朝さん実に個性豊かな噺家たちを育てはりましたなぁ。
思いもよらぬ発想で師匠と全く異なる芸風を打ち立てた…「バーン!」。
破天荒で人情味あふれる…「バーン!バーンバーンバーン!」。
「お前は暴走族か!」。
師匠の芸風を受け継いだ正統派の…「どこが違うの?どこが!」。
愛嬌のある語り口で人気の…上方落語の立て役者桂米朝は弟子たちにとってどんな師匠だったんでしょうか?
(出囃子)
(拍手)ここは大阪市西成区山王1丁目の動楽亭でございます。
ここの席亭はざこばさんでいらっしゃいましてですね。
まずは15歳で住み込み弟子となったざこばさん。
当時の名は「朝丸」。
住み込んでてやったら稽古日決まってないと呼ばれるわね「朝丸稽古しようか!」って。
「ええっ!?」。
急に言うからそれが一番嫌やったね。
「ほなこないだのやってみい」っていや繰ってないがな。
ねえ…早めに言うといてもろうたら繰るで。
あさって稽古するあした稽古するやったらええけど今の今「朝丸!上がってこい稽古や!」って言うからいやそれ勝手に決めるなよって。
こっちにもいろいろ段取りがあるやろ。
怖かったですよね。
あかんもっとね米朝いう人は冷静にならなあかん。
(笑い)案外いらちやん。
あれはいかん。
あの時に必ずキセルでたばこ吸いながら…。
刻みいうのを吸うてはってこうやってこう…。
じかにコーンやってな。
僕の時に吸う回数が多いねん。
いらついてるから。
「ああ!あっああ!ああ!」これ稽古か?
(笑い)何か思い出ほんなら。
米朝師匠やろ。
それは思い出だらけよ。
どんなん?と言われてもスッと出てけえへん。
(笑い)月亭可朝さんは米朝さんと地方公演に行った時の小ばなしを。
師匠は歯磨いてはんねん。
「君のなカバンからな歯磨きのチューブちょっと使わしてもろてるで」って言いはったんや。
「はい」って言うたもののわしがハッと浮かんだのがカバンの中にチューブ2つ入っとった。
一つは歯磨きや。
一つは靴の艶出しのやつ。
(笑い)どっちやろと思った。
それで艶出しやったら黒のチューブや。
どっちやろと思ってなるべく白にしてくれと思ってこうして見たんや。
ほんなら師匠は黒のチューブ。
師匠もガラガラガラブッガラガラガラ…ってゆすいではんねん。
もうその時には。
気付いた時には。
もう終わってるわけや。
今更言うても遅いと。
結局はまあ師匠は病気一つせんと90歳まで長生きしはった。
(笑い)そやから皆さん長生きしようと思ったら靴の艶出しで…。
(笑い)米朝さんはいくつになっても弟子たちに芸を仕込み続けはりました。
内弟子修業で3年間だけでも米朝師匠と一緒に住めるはもううきうきで私入りましたからね。
うれしいからご飯食べる時もですねテーブルの向こうに米朝師匠が座ってはるわけですよ。
向かい合わせでね呼ばれます。
向かい合わせですよ。
晩ご飯食べる時に。
「米朝師匠…米朝師匠や米朝師匠や」思いながらもおかずも何にもいりませんね。
米朝師匠の顔だけでご飯3杯ぐらい食べれるぐらい。
あんまり夢中でご飯食べてるんで僕の顔の横に米粒がポツンと付いてるんですよ。
気付かないじゃないですか舞い上がってるから。
必死やからね。
必死やから。
米朝師匠が教えてくれました。
「おまはんなここに米粒が付いてるやないかい」教えてくれはったんですよ。
「ありがとうございます!」取って取ったはいいんですがこれをどうしていいか分からない。
オロオロオロオロオロオロしてましたら米朝師匠が「口へ入れろ」と言わはったんです。
今やったら分かりますよ。
自分の口に入れろという事なんですよ。
(吉の丞)そらそうや。
今やったら分かるんですよ。
入って3日目4日目舞い上がって訳分かりません。
取って米朝師匠の口に入れようとしたんですよ。
その時のね米朝師匠のツッコミが若くて面白かったです。
「わしらは恋人同士か」言うてましたけどね。
(笑い)いっぺん僕ね米朝師匠がずっと舞台で「鹿政談」という落語「鹿政談」という結構大ネタをず〜っと1週間ぐらいやらはった時があって。
ほんである日突然内弟子部屋にプーッと鳴って恐怖の内線ですわ。
「何ですか?」「ちょっと来なさい」って言って。
「ほんなら今からそこで『鹿政談』をせい」って言うんです。
いきなり。
ほんで僕は「できません」って言ったら「わしこの1週間ずっとしてんのにお前は覚えてへんのか!」言うて「あしたどこどこの一門会でやるから袖で聞いて覚えろ!」言われて。
ありそうありそう。
あるでしょそんなん。
あるめっちゃ分かる今。
次の日米朝一門会で袖でず〜っと聞いて何べんも何べんも覚えてほんで1週間ぐらいして米朝師匠に「お稽古お願いします」「何をや」「『鹿政談』を」。
ちょっとピクッとしはったけど「聞いたるから下の稽古場で」って言うて「鹿政談」を始めた。
ほなもう始まって5分ぐらいで米朝師匠が止めはって「まあ待て待て待て」と。
「おまはんな大体『鹿政談』みたいなネタなお前ができるようなネタやないんや!」言われて。
「師匠が言わはったんでしょう?」言うて。
けどそっから一席まるまんま僕の目の前で僕のためだけにやって頂いて。
贅沢!米朝さん人々から忘れ去られようとしていた芸も大事にしてはりました。
(太鼓)こちらは「怪談噺」で使われたお化けのお面。
先輩の噺家から譲り受けたお化けのお面を米朝さん自分の芸の中に生かしてはりました。
(男性)こういうものでね。
この木の箱。
実は江戸時代の寄席で使われていた錦影絵の道具です。
「錦影絵錦影絵にございます」。
戦後姿を消そうとしていた錦影絵の技。
米朝さん弟子たちに学ばせました。
かつて寄席ではこうしたさまざまな芸が人々を楽しませてきました。
米朝さんは自ら司会を務めるテレビ番組で寄席を再現してます。
活躍の場を失うていた芸人を次々に登場させました。
「馬に飛び乗った!」。
(お囃子)
(笑い)「しっかり抱く男の体」。
(笑い)「会心の笑みを漏らしている」。
(笑い)
(出囃子)こうした寄席の芸が米朝さんの弟子や孫弟子たちによって引き継がれました。
「ちょいと伸ばせば東京タワーに東京タワーに東京タワーに東京タワー…あさてさて…」。
(笑い)私が存じております晩年の米朝師匠は実に粋で風格のある方でございました。
思い出しますに「洒落てる」という言葉が好きで「あいつ洒落たやっちゃな」とおっしゃるとその人の事が大変お好きや。
「あれは洒落た芸やで」とおっしゃるとその芸への最高の褒め言葉でございました。
米朝師匠のお葬式出棺の時に大好きやったステーキを師匠の胸の上へ置かして頂きましてねこれはまああちらへ行かはった最初のお食事を大好きなステーキでとって頂きたいという我々の感謝の気持ちを洒落に託した心積もりやったんです。
「おい吉弥」。
「あっ米朝師匠あっちに行ってはんのと違いまんの?」。
「行ってんねんけどなちょっと心残りがあってな」。
「何の心残りがおますか?」。
「いやわしステーキはレアが好きやったのにあないに焼いてしもうたらいかんがな」。
「そらそうですけどね米朝師匠のお体も焼かなあかんのでレアで止めるっちゅうのはちょっと…」。
「ハハそりゃそうやな。
いやぁ向こうへ行ったらそない腹も減らへんしな。
けど洒落で送ってくれたあの気持ちわしゃうれしかったで」。
戦後風前のともしびとなっていた上方落語。
(拍手)今では噺家は250人を数え見事に復活を果たしました。
60年ぶりに大阪に復活した寄席。
そこに掲げられているのは桂米朝直筆の「楽」の字。
米朝さんこの一文字に上方落語への思いを込めていました。
これは言うてました。
本当は「楽」っていうのはね昔の旧漢字ではこの「白」っていう字を書いてこんなん…こんなん書くじゃないですか。
で下「木」でしょう。
これは太鼓なんです。
お祭りのドコドンドコドン…って打ちはやすあの象形文字的なものらしいですね。
だから太鼓が鳴ったら楽しくなるというのでそんな事は言うてました。
平成20年大阪・西成区にもう一つの寄席が生まれました。
そこにも米朝さん直筆の「楽」の字。
(桂ざこば)まず最初ここへこれ書いたんや。
こんだけ紙あるのにここへ書く。
バランスおかしいやんか!「もう何でも書きなはれや」言うて書いたらこの…バラバラや。
ほんでこれもやな横で新聞紙で墨を拭く思たらここでエイッエイッ…やってやなほんでこれ書いてなんやそれらしいなってもうたんや。
「もうこれでよろしいわ」言うて。
米朝さんの洒落っけあふれる額となりました。
80を過ぎてもなお米朝さんは高座への意欲を失いませんでした。
弟子たちと舞台に上がり客に笑いを届けました。
「米朝師匠好きな女性のタイプはどんな人ですか?」。
(笑い)そんなもんな…タイプて。
例えば原節子が良かったなとかそんな…。
そんな古い女優さん知らんで俺。
(笑い)ちょっと待っとくんなはれ。
なんで私が知ってて米朝師匠が知りませんのや!「米朝さん次に行かれるのは天国ですか?地獄ですか?」。
楽屋やな。
次行くのはな。
(笑いと拍手)「落語は人生肯定の芸である」。
噺家桂米朝の生きざまを表す言葉です。
さあて今夜は米朝さんの落語を聞きながら洒落た夢見せてもらいますわ。
「一体どんな夢見たん?」。
(拍手)2015/06/27(土) 00:00〜01:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集「洒落(しゃれ)が生命(いのち)〜桂米朝“上方落語”復活の軌跡〜」[字][再]
3月に89歳で他界した落語界の至宝、桂米朝。戦後滅びかけていた上方落語を復活し今の人気を作り上げた。遺品から発見された新資料からその復興の軌跡をたどっていく。
詳細情報
番組内容
「落語は人生を肯定し楽しく過ごすために編み出された、世界に誇る話芸だ」。今年3月に89歳で他界した落語家で人間国宝の桂米朝。当代一のはなし家だっただけでなく、戦後滅びかけていた上方落語を復活し今の人気を作り上げた立役者でもある。現在、遺品から次々と新資料が発見され、その復興の軌跡が明らかになりつつある。番組では、往年の高座を交えながら、上方落語の復活にかけた桂米朝のしん髄に迫る。【語り】近藤正臣
出演者
【語り】近藤正臣
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
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