5年前からトレーニングを開始。
今も週に3回欠かす事なく行っています。
そんな鳥越さんは10年前65歳の時に厳しい宣告を受けました。
その後4年の間にがんは肺や肝臓にも転移し手術は全部で4回にも及びました。
ところが奇跡とも言える回復ぶりで2012年72歳でホノルルマラソンに挑戦。
見事完走を果たします。
最後の手術から6年元気で多忙な日々を送っています。
しかし完全にがんの不安がなくなった訳ではありません。
今も定期的な検診は怠りません。
運動睡眠食事には特に気を遣っています。
番組では鳥越さんの日常に密着。
毎朝自分で作る鳥越流おなかに優しい朝食も紹介します。
心安らぐ…田丸美寿々さんとのコンビで評判になった報道番組。
その舞台裏では激しいバトルも。
今回はがんを乗り越え75歳の日々を謳歌する鳥越俊太郎さんの人生に迫ります。
今日の「D’sスタイル」はジャーナリストの鳥越俊太郎さんです。
はい。
何回かこの番組にもねゲストで来て頂きましたけどパワフルでいつもね元気なのに4回も手術されてたなんて私思えません。
我々の世代から見るとちょっと上。
団塊から見ると。
兄貴分なんですがいつもソフトでダンディーで。
ダンディーですね。
かっこいいですね。
早速ご本人にお入り頂きましょう。
鳥越俊太郎さんです。
よろしくお願いします。
どうもお久しぶりでございます。
鳥越さんは今もありましたけど70歳を過ぎてからマラソン。
70歳の時にジムに通い始めて体づくりをちょっとやりましてその延長線上でじゃあ「ノルディ」行こうと。
でホノルルで走ってきた。
行くのはいいけど全部走ってるからフルマラソンを。
あと中で胸を見せてらっしゃいましたけど。
やっぱりジムに行って鍛えますから上半身の筋肉なんかは随分つきましたからね。
自分で見ても「あ〜たくましくなったな」と自分では思います。
がんにかかる前よりもたくましく…?もう全然違います。
僕は細いきゃしゃな体でしたから。
今はこの辺の筋肉のつき方が…。
いいですか?触っても。
あっ!ちょっと比べたりしていいですか?いや私は…。
鍛え方が違う。
鍛えてらっしゃいます確実に。
そんな鳥越さんですけど今どんな生活を送っているんでしょうか。
その日常に密着させて頂きました。
起きるのが早いので朝ごはんは毎日自分で用意します。
5年ほど前から同じメニューです。
そもそも鳥越さんががんの予兆を感じたのは2005年の夏でした。
その様子を記した手帳です。
「朝トイレ出血真っ赤痔か腸がんか?今回はやられたかな?覚悟は?」。
鳥越さんはすぐに大腸の内視鏡検査を受けます。
鳥越さんのがんとの闘いぶりはユニークなものでした。
闘病記録をすべて映像に残し自らを取材対象としたのです。
3時間40分に及ぶ腹腔鏡を使った手術は成功。
大腸の一部である直腸にできたがんは無事取り去る事ができました。
がんの進行度合いを示す数値はステージ2。
周りの臓器にがんが広がっていなかったからです。
ところが…。
無情にも左肺に大腸から転移したがんが見つかります。
鳥越さんはすぐに手術を受けます。
左肺そして右肺さらに2年後には肝臓と全部で4回もの手術を行ったのです。
最後の手術から6年。
鳥越さんは週に3日スポーツジムで汗を流します。
がんとの闘いで弱った筋肉を専属トレーナーの指導の下5年かけて鍛え直してきました。
内容は通常の75歳が行う健康維持のレベルをはるかに超えています。
負けず嫌いな鳥越さんのために特別に作られたメニューで太もも肩腹筋背筋などを2時間みっちりと鍛えます。
背筋では50キロのおもりを10回持ち上げます。
この日は3か月に一度の検診です。
実は鳥越さんの左の肺にはここ数年気になる影があります。
影の大きさにほとんど変化はありませんが今のところ良性か悪性かの判断ができません。
この日の診察結果は「経過観察」となりました。
今のがんの状態は?ゆっくりとがんが進行してるから…。
医者がまだねOKと言ってくれないんですよ。
僕のがんは非常に進行が遅いと。
だからひょっとしたらまだこれから可能性があるというので無罪釈放ではないんですね。
影は疑わしいものがあるだけですね。
医者もまだがんとは思ってないんだけど「何だろなこれは?」という。
分からない?分からないんですよCTの画像だけでは。
がんといえば亡くなる方も多い訳ですよね。
そうですよね。
僕も心のどこかでがんにやられるかもしれないという気持ちはない訳ではないんですよ。
だけど負けてたまるかという気持ちの方がありますから。
人間誰しもそうですけども恐怖というのはですね何か「怖い」と思うとどんどん恐怖感というのは広がっていくものなんですよね。
それで恐怖から逃れようとするとますます恐怖があとから追いかけてくるんですよね。
それと関連するのかもしれませんけれど当初見つかって自分の闘病記と言いますか全部ドキュメンタリーで撮ってほしいと。
あれはどういうつもりなんですか?いつも人に言いたくない事つらい事なんかを無理やり聞き出してる仕事を我々はしてる訳ですよね。
自分ががんになったからといってね「いやもうやめてくれ」というのはそれは違うだろうと。
聞かれる前に自分で全部オープンにしようという事で患者・鳥越という人格とそれから取材者・鳥越という人格をちゃんと2つ作り出してちゃんと切り分けてつらがったり痛かったり苦しい思いをしているところは現実にある訳ですけどそれを見ているもう一人の自分がいて「あ〜今つらいんだなお前大丈夫か?」というそういうふうな思いで見ていると。
そうすると患者・鳥越だけで「あ〜もう大変」というのとちょっと違うんですね。
もう一人客観的に見ている自分がいるのでそんなにつらくなかったですね。
あ〜逆に?逆に。
あれ患者・鳥越だけだったら大変つらかったと思いますよね受け身で。
ネガティブになってしまいますよねどうしても。
手術4回されたあとの筋トレがちょっと驚きです。
筋肉というのは裏切らないんですよ。
鍛えればちゃんとそれなりに応えてくれるんですね。
ついてくるんですよ。
おっしゃってましたね。
胸についたり。
鏡で見て「おっ!ついたな」と思うじゃないですか。
さてこういう鳥越さんの「前向きな」と言っていい精神的なものってどのように生まれてきたんでしょうか?生い立ちからご覧頂きたいと思います。
1940年鳥越さんは商社マンの父俊雄さんと母綾子さんの子として誕生します。
お父さんは繊細でもの静かなタイプ。
一方お母さんは太陽のように明るい人だったそうです。
5人きょうだいで一番上の俊太郎少年は幼い頃から活発に遊び回るやんちゃ坊主でした。
しかし学校に上がると大勢の前で発表するのは大の苦手。
シャイな男の子でした。
子供ながらにそんな自分の弱い一面に気付かされたと言います。
それでも本を読むのは大好き。
貸本屋で借りた歴史小説の講談本を毎日読みふけっていました。
シャイな少年は時には思いもよらぬ大胆な行動に出る事もありました。
なんと電話交換手の女性をデートに誘い出していたのです。
そんな鳥越少年は1958年現役で京都大学文学部に合格。
勉強は好きではありませんでしたが持ち前の記憶力と集中力で見事難関を突破します。
大学では合唱団に入りなぜかマネージャー役を買って出ます。
合唱団は200名の大所帯。
マネージャーともなれば大勢の前で話さなければなりません。
合唱団の活動にのめり込んでいった鳥越さんは7年かけてようやく大学を卒業するのです。
弱虫でとても緊張する性格だった。
今でもそうだと思いますけどね。
基本的には変わってないと思うんですけども。
そうですか?みんな欠点持ったり弱点持ってる。
うちのおやじは非常に神経が細くて神経症的なね。
神経症を患ったんです。
対人恐怖症とかね。
人前で話をしなきゃいけない時はウイスキーの小瓶を持っててウイスキーをちょっと飲んで話してました。
それをずっと見てたんですよ。
こんな弱い人間には僕はなりたくないと。
父親のようにはなりたくないなというのが僕の子供の頃のずっと思いでしたよね。
そういう父親を見て育ってるからああいうふうにはなりたくないと思ってるんだけどやっぱり手が震えたりする自分もある訳だから俺もやっぱり父親の血をどっかで受け継いでるなと。
これはどっかで克服しなければならないというのが僕の人生の命題だったんです。
なるほど。
一方でお母さんは?歌がうまいんですよ本当に。
だからよくNHKのね「のど自慢」に出てはね鐘3つ鳴らしてましたよいつも。
そうなんですか。
一方で非常に明るい感じの歌が大好きで上手な母親。
太陽のような感じですね。
何か明るい感じ。
お父さんは静かにある意味自分の内面の中で悩みを抱えてた。
両極端みたいな感じですね。
そうですね。
でもどちらの血か分かりませんけど積極的にお写真に電話交換手の女性と…ありましたね。
昔の電話って全部ガラガラってかける電話ですよね。
僕は高校生の頃は誰に電話をかけるんじゃなくて交換手と話すのが楽しいからかけて話するんですよ延々と。
交換手さんってお話してくれるもんなんですか?してくれるんですよ。
田舎の電話局ですから時間いっぱいあるんですよ。
顔も見た事ないからどんな人かも知らないんだけど若い女性って事は分かりますよね。
若い女性とそうやって話したりする経験ってあんまりない訳ですね。
僕高校は男子校でしたからね。
あ〜そうか。
「どうしてるの今?」とかいうそういう話して。
「暇なの?今」とか。
おませな。
「話していい?」とか。
山が好きだという事がお互いに分かって「じゃあいついつどっか山行こう」ってあの写真のように山に一緒に登ったりして。
かわいい人だなと思って。
年上だからお姉さんだ。
思春期の頃の本当にいい思い出ですね。
大学では合唱団に入りましたね。
200人もいる…。
200人ですね。
大きいですね。
京大の男子学生と女性は他の大学京都女子大だとか同志社女子大社会人の方々の京大の女子学生もいましたけども少ないですから合わせて200人ぐらい。
先ほどちょっとVでありましたけど人の前でしゃべるのはね苦手だったんででも人間って慣れてくるとそういう事ができるようになってくるんですね。
それで少し自分の弱点をこうやって乗り越えていけるんだなという事を…。
自分で追い込んでいくタイプなんですね。
次はジャーナリストの道を歩み始めた鳥越さんの人生を振り返ってみたいと思います。
1965年毎日新聞社に入社。
新潟支局に配属されます。
ここで鳥越さんは同期の新人記者とは別の扱いを受けたと言います。
新聞記者になって3年目の時に両親の勧めで後に奥さんとなる博子さんとお見合い。
4か月後に結婚します。
翌年…通信部を経て大阪府警を担当します。
ようやく新聞記者らしい仕事ができるチャンスが巡ってきました。
2人の子供にも恵まれ公私ともに充実。
大阪で6年にわたり「事件記者」として土台となる時を過ごしたのです。
1975年鳥越さんはついに念願の東京本社社会部への異動が決まります。
そして翌年。
世紀の大事件「ロッキード事件」に遭遇するのです。
少し前まで総理大臣だった人物が東京地検特捜部に逮捕されるという大事件。
鳥越さんは社会部の記者として第一線で取材し活躍してやろうと意気込んでいました。
ところがそんなやさき…。
鳥越さんが新聞社の中では傍系と思っていた週刊誌の編集部に異動を命じられたのです。
しかし鳥越さんはそこで腐る事なく週刊誌ならではのユニークな切り口で田中角栄を追う企画を提案します。
その人気を支えている田中角栄の地元新潟県西山町に50日間泊まり込んで年末に迫った選挙を住民の目線で見つめるというものでした。
「郷土の田中田中角栄…」。
東京地検によって逮捕起訴された田中角栄は保釈中の身ながら選挙に立候補しました。
戦後最大の疑獄事件。
その選挙は「みそぎ選挙」とも言われ日本中の注目を集めました。
鳥越さんは単なる地元批判とは一線を画したリポートを8回にわたって連載し西山町の人たちの心情を浮かび上がらせ評判になったのです。
その後も特派員としてイラン・イラク戦争を取材。
ここでも砲弾が飛び交う戦地に赴くなど現場主義を貫きます。
新聞週刊誌の記者として数々の修羅場をくぐってきた鳥越さんは元号が昭和から平成に変わった1989年49歳の時テレビの世界に転身します。
現場主義を買われての事でした。
活字人間だった鳥越さんがテレビキャスターとしてしゃべりでニュースを表現する事になったのです。
テレビに出演して1年。
次第に慣れていきました。
しかしある女性から厳しい言葉を浴びせられます。
鳥越さんと同じ番組でキャスターを務めていた田丸美寿々さんです。
面と向かっておっしゃるとは厳しいですね田丸さん。
僕は鏡に向かってメークをドーランを落としてたんですよ。
後ろへ来て後ろから「1回しか言わないからちゃんと聞いて」って言われて。
「えっ」と思って。
あれ言われたんですよ。
当たってるだけにもう私血が逆流致しまして殺意を覚えましたけど。
番組やってる最中にねCMが流れたりしてるでしょ?けんかしてる訳ですよ。
「あんた言いすぎだとそこは」。
「そんな事ないよ君こそしゃべりすぎだよ」とか。
お互いに領土の取り合いですから。
でスタジオにカメラがパッと戻ってきたらニコッとして。
そういう事の繰り返しだったですね。
その田丸美寿々さんからメッセージを頂いております。
うそでしょ?そんな。
え〜。
いやいやそんな事ないですよ。
感謝してますよ。
ところで。
いつまでもしっかりとチクチクときますね。
でもね本当に美寿々さんのおかげですよね。
彼女は…普通の人はねMCをやってる仲ですのでやっぱり遠慮ありますからそんなに踏み込んできて言わないですよ。
思ってもね。
でも美寿々さんはズバッと言ってくれたので本当に言われた瞬間は殺意を覚えましたけどもやっぱりあの時があったのでテレビというものもテレビ言語というものをね見つめ直すことができた。
記者時代自身はどうだったんですか?例えば主流とか傍流とか。
記者時代はだから新潟支局は警察1回も回してもらえない訳ですからね。
もう窓際ですよね。
大阪社会部に行って最初に行ったのは岸和田通信部というとこですから通信部ですから。
大阪万博が開かれたんです。
万博の…万国博の担当記者というのはやっぱり何ですか…エースが行く訳ですよね。
私なんか声もかからなかったですよ。
私の同期で行った人もいましたけど。
万博の担当になった僕の同期の記者は後に毎日新聞の社長になりましたよ。
そういうところには私全く縁がなかったんです。
鳥越さん奥様と恋愛結婚ではなくて意外だったんですけど。
これお見合いなんですね。
昭和43年ですかね。
親から5枚写真が送られてきて。
見合いの写真が。
5人分?5人分。
で夜会議室で写真を広げて僕の後輩の牧太郎というのと2人でどれがいいかと品定めをして「これがいいんじゃないかな」とか「これにしよっか」と言って「これ」って言ったのが女房なんですね。
そうなんですね。
で東京で見合いしました。
まあお互いに気が合ったんですかね。
僕はもうすぐ新潟へ帰らなきゃいけなかったんで上野駅まで彼女がタクシーで送ってくれて僕その時に持ってた本を「これちょっと読んでみたら」って貸したんですよ。
で受け取ったんですよ。
それで「あっこれは話うまくいくな」と思ったんです。
ダメなら受け取らないじゃない。
最後にもう一度プライベートな鳥越さんの日常を見せて頂きたいと思います。
書斎は本であふれていました。
これでも引っ越しの際随分処分したそうです。
新聞は一般紙を3紙とスポーツ新聞1紙に目を通します。
気になる記事は必ずスクラップするのが鳥越さんの日課です。
今は講演活動にも忙しい鳥越さん。
この日は横浜に向かっていました。
講演のテーマは「がんとともに生きる」。
会場には団塊の世代を中心に多くの人が集まっていました。
(拍手)皆様どうもこんにちは。
2人に1人はがんになると言われる時代。
集まった人たちの表情は真剣そのものです。
(インターホンの音)りう君こんちは。
こんにちは。
汗かいてるなりう。
近所に住むりう君は月に2〜3回遊びにきます。
2人の娘の子育ては経験してきましたが男の子は初めてです。
りう君とのひと時が鳥越さんの何よりの楽しみです。
おかしいな。
「メガ進化」なんて何であんな言葉知ってんだろうと思いました。
でもメロメロというか。
あと対等にとっても普通に話してらっしゃいますよね。
そうですね。
僕は基本的に誰とでも同じ目線と言いますか同じ立場で話をするように心がけてますので孫も全く同じ自分を上から目線でものを言うという事はなくて同じ対等の人間として話してる。
ところで講演はよくいらっしゃるようですけれども先ほどの講演がんの話されてましたけれども本当に皆さん熱心に聴いてらっしゃいましたね。
2人に1人はがんになると言われる。
そういう時代ですよね。
お二人のどっちかががんになる。
…という事になっちゃいますよね。
そのぐらいの確率なんですよ。
会場でも「翌日娘さんが手術それをこれから見舞う勇気を頂いた」というふうにねおっしゃってましたね。
がんの手術を4回やって生きてるという事自体がやっぱりがんになった人もしくは家族にはその事自体が僕の存在自体がある種勇気づけられるというところはあるんだと思うんですね。
がんというのはねみんなが考えてるほどマイナスなものではないんですね。
交通事故で突然バサッと亡くなるとかね脳血管障害で突如倒れて何の準備もないまま死んでしまうよりは余命が告げられてそれなりにちゃんと身辺整理をしたり心の準備をしたりして人生を終えていくという意味では決してがんはマイナスだけではない。
私は亡くなる事を死ぬ事をそんなに恐れてはいません。
人間の宿命ですからやがて来ると思います。
死を恐れてはいないんですけどもただ一つ悲しい事はあります。
自分の家族とね別れてしまわなきゃいけないというそれは彼らにとってもつらい事でしょうし私にとっても大変残念な悲しい事であるなというのは時々思います。
それは私が75歳になって得た到達した一つの死生観です。
奥様の博子さんからメッセージを頂いています。
…との事でした。
それはそう思ってます私もね。
でも奥様から「面白い人です」と改めて言われるってのは非常に新鮮ですね。
それ初めて聞きましたねその言葉は。
「面白い人です」ってすてきな言葉ですね。
面白いと思ってんだね。
今日はいろいろトレーニングする姿といいいろいろ触発されました。
ありがとうございます。
ありがとうございました。
どうも。
今日のお茶は何ですか?石古坪ウーロン茶。
広東省の潮州市という所海抜1,000メートル以上の高い所で採れたウーロン茶。
そこの少数民族シャ族が400年にわたって作り上げてきたお茶。
あ〜これは私でも分かるな。
匂いがすばらしい。
いい香りですよね。
甘〜い。
甘〜くてそして…。
少しずつ飲んでいきたい。
楽しんで飲みたい感じがします。
さて今日の「私の団塊スタイル」は東京都にお住まいの平林貴男さん67歳の方から頂きました。
「22歳の時からバレエを習い今日まで続けています。
週2回息を切らし汗だくでたまには湿布薬を貼りながらバレエの稽古をしています。
定年までエンジニアとして働いていましたが休日は踊る事に費やしました。
今は高齢キャラクターの中でも王様市長悪魔などは大きな体の私には適役です。
バレエは健康にもよく舞台は生命力と夢でいっぱいです」。
いや〜すごいねジャンプしてますけど。
体が軽くてすてきですね。
「私の団塊スタイル」では皆さんから写真とお便りを募集しています。
仕事や趣味何でも結構です。
輝いている姿をお寄せ下さい。
皆様からのご投稿お待ちしています。
今日の「D’sスタイル」は鳥越さんでした。
やっぱりダンディーだしあの筋トレは驚きました。
苦しい状況というように思うところでもあの好奇心と何か遊んでやろうというそういう遊戯遊ぶ心ですね。
豊かな人だなと思いましたね。
見習いたいですよね。
いや本当にそうですね。
2015/06/26(金) 20:00〜20:45
NHKEテレ1大阪
団塊スタイル「がんを乗り越えて〜鳥越俊太郎(75歳)〜」[解][字]
ジャーナリスト鳥越俊太郎さん。65歳の時に、大腸がんが見つかり、肺、肝臓へも転移、4度の手術を受けた。がんを乗り越え、75歳の今をおう歌する鳥越さんの人生に迫る
詳細情報
番組内容
ジャーナリストとして今も活躍を続ける鳥越俊太郎さん(75歳)。65歳の時に、大腸がんが見つかり、その後、肺、肝臓へも転移。4度の手術を受けたが、その闘病の記録を全て映像に収めてきた。最後の手術から6年たった今、「がんになる前よりも健康」だと言う。その秘けつや、がんを乗り越えるための心の持ちようを、「鳥越流健康朝食」を始めとする日々の暮らしぶりや、これまで歩んできた人生から、ヒントを探る。
出演者
【ゲスト】ジャーナリスト…鳥越俊太郎,【司会】風吹ジュン,国井雅比古,【語り】バッキー木場
ジャンル :
情報/ワイドショー – 暮らし・住まい
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
日本語(解説)
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