NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 −世界の中で−「第3回」 2015.06.26


アメリカの首都ワシントンを望む高台。
先の大戦の激戦地硫黄島での勝利を記念して建てられた兵士たちの像です。
70年前激しい戦闘を繰り広げた日本とアメリカ。
戦後平和国家として歩み始めた日本はアメリカと同盟関係を結びます。
そのもとで日本は驚異的な経済成長を遂げ先進国の仲間入りを果たします。
ところが1989年ベルリンの壁が崩壊し東西の冷戦が終結。
日本は国際社会の荒波にのみ込まれていきます。
「シリーズ戦後70年ニッポンの肖像」。
今月のテーマは「外交」です。
世界と共に歩みながら戦後の豊かさを築いてきた私たち。
今回は冷戦後激動する世界に向き合った日本の姿です。
冷戦が終わり各地で頻発する紛争。
そして…新たな脅威にさらされた日本は国際社会の一員として自ら責任を果たす事を求められました。
その後国際世論が割れる中でアメリカが始めたイラク戦争。
日本はどこまでの役割を担うのか。
自ら判断する事を迫られました。
冷戦後日本はどのような試練に直面したのか。
世界の中で模索を続けてきた日本外交を振り返ります。
こんばんは。
こんばんは。
「戦後70年ニッポンの肖像」。
今月は「世界の中で」と題して「外交」をテーマにお伝えしています。
前回は東西の冷戦が続く中沖縄返還そして日中国交正常化を果たし経済大国への道を歩んでいた時代をご覧頂きました。
今日はそのあとの時代冷戦終結後の日本の外交を見つめます。
東西対立の緊張がなくなり世界には秩序と平和がもたらされると誰もが考えたと思いますが現実はそうはならなかったんですね。
ならなかったんですね。
1991年世界を揺るがす大きな事態が起き日本の外交の有り様が厳しく問われる事になります。
東西を分断してきた壁が崩壊した1989年。
米ソの歴史的な会談で44年続いた冷戦の終結が宣言されました。
このおよそ1年後日本外交は試練に直面します。
イラクのクウェート侵攻をきっかけに始まった湾岸戦争です。
国連の安全保障理事会はイラクに対する武力行使を容認する決議を採択。
アメリカとソビエトが初めて歩調を合わせたこの決議によって日本を含む全ての加盟国に支援が求められました。
当時海部内閣で外務大臣を務めていた中山太郎氏です。
この時アメリカから思いがけない要望が突きつけられたといいます。
戦後一度も海外で任務に就いた事がなかった自衛隊の派遣を含む支援でした。
日本は国連の多国籍軍に協力するため自衛隊の派遣を検討します。
この時急きょ作られた国連平和協力法案です。
自衛隊を海外に派遣し多国籍軍に対して物資の輸送など後方支援を行うとしていました。
当時外務省でこの法案作りに当たった柳井俊二氏です。
自衛隊を派遣しなければ日本は国際社会で孤立しかねないと考えたといいます。
であるにもかかわらず…自衛隊海外派兵法案を葬り去るまで頑張ろう!
(一同)頑張ろう!法案が国会に提出されると野党は強く反発。
国会での審議は紛糾しました。
国会では自衛隊が物資の輸送などをした場合多国籍軍の武力行使と一体化し憲法に違反するといった指摘が相次ぎました。
世論の反対も強く法案は廃案となりました。
自衛隊の派遣を見送った日本は結局戦費など…戦争終結後クウェート政府が世界30か国に感謝を示した新聞広告。
しかしそこに日本の名前はありませんでした。
1990年代の初め。
冷戦終結後いきなり湾岸戦争という試練に直面をした日本の外交の姿をご覧頂きました。
スタジオにはお二人のゲストにお越し頂きました。
よろしくお願い致します。
(2人)よろしくお願いします。
冷戦までと冷戦後世界はどのように変わったと感じられましたか?まあ20世紀最後の大変動がこの冷戦終結という事だったと思うんですが。
それまでは米ソ二極の秩序というのがそれなりに機能していて折り目正しい国際関係だったと思うんですね。
それがこれ以後何でもありの世界になっちゃったというのが実感ですね。
冷戦中はこう抑えられていた地域地域のねやっかいな歴史的にもめてきた問題それが全部再生する。
民族紛争宗教紛争。
そしてけしからんと思ったら力を使ってでもやるんだ。
これね第2次大戦後はあんまりそういう事許されなかったんですね。
それが何でもありになってきたと。
国際社会アメリカは湾岸戦争直後の日本の対応どう見ていたんでしょうか?当時やっぱり日本バブル時代で相当思い上がってたところもあると思うんですね。
日本はただ乗りしていて応分の責任を果たしていないんじゃないかという見方がかなり強かったと思うんですけどもそれに合わせてアメリカでも非常に厳しい対日世論というのが勢いを増していて。
まあ当時この日本異質論っていうのが出てきたんですけども。
これは外から圧力をかけないと日本とは変わらないんだっていうそういう見方ですね。
この湾岸戦争直後の日本の対応には大変厳しい声が寄せられます。
日本の外交の何が問われたんでしょう?戦後日本はあの戦争に次ぐ戦争をやったあの時代を悔いて…明治の日本は富国強兵でしたけどね。
強兵抜きの富国を築きたいというので平和的発展主義で経済中心に頑張ってきた訳ですね。
戦後はすっかりねいい子になったと乱暴な事はしないと褒めてもらえていると思ってたんですね。
ところが湾岸戦争に至って国際安全に貢献しないと悪い子だといきなり叱られたという感じなんですね。
結果としてこの130億ドルっていうもう本当に巨額のお金を払った訳ですけどもその政治的外交的なインパクトはなくてむしろその人を出さなかった事だけというのが記憶に残ってしまったという事で外交敗北というふうに言えると思うんですけども。
ただこれがその後の日本外交を恐らく突き動かすある種の原動力になったと思うんですね。
冷戦後世界各地で地域紛争や民族対立が頻発。
その中で日本外交は顔の見える貢献を模索していきます。
国連が進めるPKO平和維持活動への参加です。
1992年の宮沢内閣。
停戦後の平和維持に限って自衛隊を海外に派遣するPKO協力法案が国会で審議されます。
野党の強い反対の中法案は可決されます。
委員長の報告のとおり可決致しました。
(拍手)カンボジアに派遣された自衛隊は停戦監視やインフラ整備などを実施。
内戦後カンボジアで初めて行われた総選挙の実現に大きく貢献しました。
その後モザンビークやゴラン高原にも自衛隊を派遣。
国連の枠組みの中で国際貢献を進めたのです。
湾岸戦争で揺らいでいたアメリカとの関係も見直されます。
東アジアで緊張が高まったためでした。
北朝鮮では核開発疑惑が浮上。
台湾近海では中国が大規模な軍事演習を行いアメリカが空母を派遣する事態も起こります。
日米はアジア太平洋地域での協力を強化し日本が地域の安定に向けて努力を続ける事で合意しました。
日本は国連の平和維持活動に参加する決断を行った訳ですけれどもこの判断どうご覧になりますか?私何度か宮沢元総理にねその時のお話を伺ったんですがそしたら「自分はもちろん平和主義でそれを大事にする。
戦後日本が強兵抜きの富国として経済中心の国づくりをした事を絶対に支持する。
それは変わらない」と。
けれども平和的な枠内でのね自衛隊の国際活動。
それをせめてやらなければねもう日本は国際社会のメンバーとして立ち行かないと。
だから進んでこの自衛隊による国際平和活動それ以外に守る方法はないんだという判断から自分はねやったと。
この事はですね当時のその日本の世論人々そして日本の外交にどういう影響を与えていきますか?やり始めたところねご記憶でしょうか。
国連ボランティアの中田君がね犠牲になり続いて高田文民警察官が犠牲になる。
この相次ぐ悲劇を見てね日本の世論は大きく振れまして撤退すべきだという世論がわっと高まったんですね。
緊張するところだったんですが半年後にカンボジア全土での総選挙が行われたんですね。
その選挙によって正当性を得てあの長い戦乱からカンボジアは立ち直れる。
その事を見てね日本の世論が変わるんですね。
それまでこう半々だったのが国際貢献の活動はねいいものだとやるべき事だというのがどっと増えるんですね。
一方で日本周辺でさまざまな事態が起きましたよね。
アメリカはその事と日本の役割どう見ていたんでしょうか?そもそも冷戦後日米同盟それ自体がですね存在意義が問われて。
更にこの非常に激しい日米間の通商交渉などで日本国内にもかなり強い反米感情が蓄積しているような状況があったと。
そうした中この94年ですけども北朝鮮で核危機が発生してそうした時にこの自衛隊は実はそういうその事態に対しては何もできる準備ができてないという事が明らかになっていってこの同盟が漂流しているという感覚が日米双方でかなり強く共有されるんですね。
こういう難しい時に微妙な時にね世界の安定とか開発とかを支えるんだと。
そういうふうな価値をね経済国家というのにプラスしたと。
それは非常に大事で同時に90年代は安全保障もやらなきゃいけない。
そういうふうな重層的対処があの湾岸の大変な衝撃を受けてねつらかったあと進んでいったという事が大事なんじゃないかなと思います。
国際貢献それからその日米同盟の強化手探りの中で何かこう何かを広げようとしてきたという状況なんですね。
そうした中21世紀を迎える訳ですけれどもそこで更に世界に衝撃を与える大事件が起き日本は大きな決断を迫られる事になります。
世界はこの日を境にテロとの戦いの時代へと入っていきます。
アメリカはアフガニスタンが事件の首謀者をかくまっているとして攻撃。
日本をはじめ国際社会も支持を表明しました。
日本はテロ対策特別法を成立させ自衛隊をインド洋に派遣。
アメリカ軍への給油活動など後方支援を展開し各国から評価されました。
しかし2002年国際社会の結束に亀裂が生じます。
きっかけはブッシュ大統領がイラクが大量破壊兵器を開発していると非難した事でした。
イラクに対する武力行使へとかじを切っていくアメリカ。
(拍手)国連の枠組みを重視してきた日本外交はアメリカの動きを警戒していました。
当時外務省で事務次官を務めていた竹内行夫氏です。
アメリカは国連の決議がなくてもイラクへの攻撃に踏み切るのではと危機感を持っていたといいます。
例えば…日本はアメリカ国務省のアーミテージ副長官を通じて外交交渉による説得を試みます。
竹内氏がイラク戦争に至る経緯をまとめたメモに日本側の発言が記されていました。
「大量破壊兵器の問題は国際社会対イラクの構図の問題でありアメリカ対イラクの問題とすべきではない」。
「国連安保理に問題を持ち出して国際社会の連帯を得るべきだ」。
日本はイギリスとも連携しアメリカに国連の枠内で行動するよう働きかけました。
会談の2週間後ブッシュ大統領は武力行使は国連の決議に基づいて行うと宣言しました。
(拍手)しかしその後日本は外交的に難しい立場に追い込まれていきます。
国連安保理でフランスやドイツがアメリカの武力行使に強く反対。
国際社会が大きく2つに割れてしまったのです。
世界各地で反戦デモが起きイラクに大量破壊兵器が本当にあるのか査察を続けるべきだという声が高まります。
しかしブッシュ政権内ではイラクに対してより強硬な姿勢をとっていた国防総省の発言力が強まります。
今回イラク戦争後に初めて日本のメディアの単独インタビューに応じた当時の国防長官ラムズフェルド氏。
改めて戦争の正当性を主張しました。
アメリカは武力行使を支持する国々との有志連合による攻撃も辞さない構えを強めます。
外交による説得が行き詰まる中日本は判断を迫られます。
イラク戦争が始まる2か月前竹内氏から小泉総理大臣に対してある提案が行われていた事が竹内氏のメモに記されていました。
「日本は軍事活動が終了したあとの民生復興支援において主導的な役割を果たすべきである」。
「自衛隊の派遣が決定される事を想定し新たな法律の準備作業を内々に開始したい」。
アメリカの武力行使は避けられないとして自衛隊をイラクに派遣する事を開戦前から検討していたのです。
アメリカは新たな国連決議のないままイラクとの戦争に踏み切ります。
小泉総理は各国に先駆けてアメリカへの支持を表明しました。
日本が支持した背景の一つには核開発を進めていた北朝鮮の存在があったといいます。
戦闘終結後の人道復興支援で自衛隊をイラクに派遣する準備を進めていた日本。
しかしイラクではアメリカが大規模な戦闘の終結宣言を行ったあともテロや戦闘が相次ぎます。
ラムズフェルド長官の指示を受け来日したローレス次官補代理。
日本に対し人道復興支援ではなくイラクで治安の維持に当たるよう求めてきました。
当時防衛庁の防衛局長だった守屋武昌氏です。
戦闘が続くイラクで日本が治安の維持に当たる事は憲法上難しいと伝えたと言います。
2004年1月日本は人道復興支援のためにイラクのサマーワに自衛隊を派遣。
そのために作られたイラク支援法では自衛隊の活動地域は戦闘が行われないと認められる非戦闘地域に限るとされました。
撤退するまでの2年半の間自衛隊の宿営地にはロケット弾などが13回撃ち込まれました。
オランダなど外国の部隊に守られ犠牲者を出す事なく現地での任務を終えました。
21世紀に入って9.11そしてイラク戦争と日本の外交はまさに真価を問われる事になりました。
そのイラク戦争を巡っては国際社会が分裂していきます。
…で五百旗頭さん日本は即座にアメリカを支持しますね。
これはどう思われますか?私はねちょっと不安を覚えてね大量破壊兵器を理由にしてるけど本当のところはどうもそれは示されないと。
それなのに熱くなってやらざるべからずと。
この調子でいくとねあのベトナム戦争の悲惨を繰り返す事にならないかという危惧を覚えてねこれは慎重にやった方がいいと思いましたですね。
9.11の攻撃を受けてねアメリカ人はもう人格が変わったというほどね熱くなって絶対に許せないと。
ブッシュ大統領は熱くなったアメリカ国民を率いてテロと戦う運命の人となったんですね。
その当時のブッシュ政権は自らの生存が脅かされているというふうに…。
今から振り返りますと若干その過剰な脅威認識に取りつかれていてそれと同時にこの中東を単独行動主義的にでもこのアメリカが先頭に立って民主化していくんだという何て言うんですかねこの恐怖感と理想主義がないまぜになってるような状況ですね。
それが非常に密度の濃い形で混ざっていてそうなった時の恐らくアメリカというのはもう止める事が非常に難しいと思うんですね。
その最終的なドイツやフランスが反対する中で日本が行くというそこのところの判断には五百旗頭さん。
非戦闘地域だなどといっても現実のイラクはもうテロが絶えず起こっている訳ですね。
それが悲惨な結果に陥りはしないかという危惧はありました。
例えばドイツはイラク派兵は拒否しましたけどもアフガニスタンはこれはテロとの戦いだからと派遣して北部の比較的安全な地域で復興支援的な事に行くんだと行ったんですが55名も犠牲になってるんです。
日本はサマーワは比較的安全だからといって誰も死なずに済んだんですね。
幸いなんですがねところがね後の対応を甘くする危険があるんですよね。
つまりね非常にうまくいった訳です。
ああ大丈夫だよやったって。
あの時だってうまくいったじゃないかというふうにね成功が続くと必ずね安易な対処をしてね失敗の温床にしちゃうという事が多いので海外にこういう実際に戦闘状態にある所へ送る場合にはねイラクでうまくいったから大丈夫だよというんだったら教訓を学んでないという事になるんです。
それからもう一点。
私はこの戦争を考えた時に日本ははっきりと支持を表明したんですけどもその支持を表明した今戦争というのがアメリカでも間違ってたんじゃないかという。
イギリスでもブレア首相が責任を取る形になってますし日本では実はあの戦争を支持した事をきちんと捉え直してないところがあると思うんですね。
ですからそこの空白というのは私非常に気になりますね。
日本の外交アメリカとの距離感がやっぱりポイントかと思うんですけれども同時多発テロからの外交の流れの中で何をくみ取ればいいと。
やっぱり核とミサイルだとかね中国の台頭とかいう話になると日本だけではできないしアジアの国々と連携しても駄目。
アメリカという要因が非常に大事でアメリカしか結局は抑える事ができないというのが現実なんですね。
だけどもそのアメリカも全能の神ではなくて人間なんですね。
熱くなる。
熱くなった時には間違いも…。
結局我々が生きてる間にベトナム戦争イラク戦争2度アメリカは大きな間違いをしてるんですね。
やらずもがなの戦争をなさってるんですね。
だけど日本は「TOOLITTLETOOLATE」と言われやすくアメリカは力がみなぎってくるとやり過ぎる危険がある。
こういう国がやっぱり友人としてね協力し合ってお互いの判断を大事にしながらいかなきゃいけない。
21世紀に入り世界が不安定になりアメリカとの関係も深まり日本の外交は重く難しい判断を求められるようになっています。
さてそういう中で人道支援や復興支援といったいわばソフトな外交で日本が世界で新たな役割を果たせないかという動きも広がっています。
テロや人道危機がアジアやアフリカなど世界各地へと広がり混迷を深める時代。
日本外交は主体性を発揮できる役割を模索していきます。
日本が得意としてきた人道支援や復興支援でアメリカを補完しテロや紛争の再発を防ぐ事に力を入れ始めたのです。
この先駆けとなったのがアフガニスタンの復興支援です。
アメリカの対テロ戦争で荒廃した国の復興を支援し再びテロの温床とならないようにする新たな取り組みでした。
日本はアメリカやヨーロッパなど83の国と国際機関を東京に招いて復興支援会議を主催。
議長を務めたのが当時日本のアフガニスタン復興支援の特別代表だった緒方貞子氏でした。
日本は農業支援やインフラ整備などこれまでにおよそ58億ドルの援助を実施。
アメリカをはじめ国際社会から高く評価されました。
更にアメリカにはできない役割を日本外交が担い和平合意に結び付いたケースがあります。
政府とイスラム武装組織との戦闘が続いてきたフィリピンのミンダナオ島です。
アジアでの国際的なテロの温床になりかねないとして日米が懸念してきた地域でした。
現地では対テロ戦争を続けるアメリカへの強い反発がありました。
こうした中日本が和平に向けた取り組みを行ったのです。
2006年緒方氏はイスラム武装組織のトップと会談。
日本は開発支援を始めます。
(砲声)しかしその後戦闘が激化し各国が要員を引き揚げる事態となります。
この時日本は逆に要員を増やします。
戦闘が続く中でも学校建設などの支援を続けました。
リスクを背負いながらも継続した支援。
信頼を得た日本は和平の仲介役に指名されます。
イスラム武装組織とフィリピン大統領との初めてのトップ会談が日本で行われたのです。
この会談が後の和平合意への転機となりました。
踏み込んだ支援で地域の信頼を得た日本。
70年前の戦争を経て戦後アジアの大国となった日本には大事な役割を果たす責務があると緒方氏は指摘します。
日本の外交が復興支援や和平の実現に貢献し成果を上げていると。
この事をどうご覧になりますか?9.11で国際社会が直面している脅威の性質というのが大きく変わったという事で日米同盟も含めてですね新しい脅威にどうやって取り組んでいくのかという事を真剣に考えていかなきゃいけない状況になったと思うんですね。
そういう時に日本として得意な部分何かポジティブな貢献ができる所はどこなのかという事をやっぱりうまく特定していく必要があるんですけども。
復興支援っていいますと何となくソフトなイメージがあって日本人としては何となくサポートしやすいと思うんですけど実は復興支援というのは非常に今危険を伴うプロセスでもあって場合によっては紛争と同時並行で復興支援をやらなきゃいけないような状況アフガニスタンなんかそうですよね。
そこの発想の転換をしていかないといけないというふうには強く思います。
先ほど緒方さんのおっしゃってたフィリピンの例ね一層悲惨になったかに見えたけどもう一ふんばりしたところで超えた訳ですね。
スリランカでも似たような事があったと思います。
非常に偉大な努力ですね。
そういう努力をしっかりやる日本でなければいけないと思いますね。
戦乱の中で平和を取り戻していくというふうなリーダーシップも発揮する。
これは我々にとっての希望じゃないですかね。
冷戦以降の時代も含めて3回のシリーズで戦後の日本外交を見てきました。
私たちが戦後の日本外交から学べる事は何でしょうか?これからはやはり日本も積極的に秩序形成の責任を担っていかなきゃいけないという時代がやって来たんだと思うんです。
それから日本というのはアジア太平洋地域に位置する国だという事を明確に意識してこの地域の国際関係を日本が先頭になって進化させていくという事が大事だと思うんですけども。
やっぱり改めて日本がこの地域に貢献できる事というのを捉え直してそこをハイライトさせる形で地域の中での対話というのを醸成していくという事が非常に重要なのかなと思いますね。
冷戦期までの折り目正しい状況が何でもありのようになった。
それだけにね各国の対応力日本の対応能力がね重層的にいろんな事をしなきゃいけなくなったんですね。
だからこそね聡明な判断やたら勇ましくなったりするのではなくあるいはおじけて何にもしないんじゃなくて国際安全保障に参画していろんな活動をするんだけどその中でやっぱり日本は自制をきかせた聡明で的確な判断してるな。
そういう外交力が日本はこれからますます問われると思いますね。
いや〜日本って小さな島国ですよね。
資源はないし外国との交わりのおかげで今の暮らしっていうのはある訳で。
外交っていうのをやっぱり見つめたくなりましたね。
大事ですね。
世界の中の日本だという事を忘れずにいきたいですね。
お二人今日はどうもありがとうございました。
戦後国際社会に復帰し平和国家として歩んできた日本。
激動の中で試練に直面しながらもその役割を模索してきました。
そして今再び不透明な時代を迎えた世界でどう生きていくのか。
戦後70年日本の外交が問われています。
イタリア北部の街ボローニャ。
2015/06/26(金) 01:30〜02:20
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 −世界の中で−「第3回」[字][再]

冷戦後、世界各地で頻発する紛争、そしてテロとの戦い。激動の中で、日本は国際社会の一員としての役割を果たすことを求められた。揺れ動いてきた日本外交の姿を振り返る。

詳細情報
番組内容
世界各地で頻発する紛争、そして、テロとの戦い…。東西冷戦の終結後、国際社会が新たな脅威に直面する中で、日本は自ら判断し、責任を果たすことが求められた。外交の柱としてきたアメリカとの同盟関係、そして平和憲法の枠組みの中で、日本はどのような選択をしてきたのか?交渉の最前線にいた外交官たちの証言をもとに、この時期大きな転換期を迎え、揺れ動いてきた日本外交の姿を振り返る。
出演者
【ゲスト】熊本県立大学…五百旗頭真,慶応義塾大学総合政策学部教授…中山俊宏,【司会】三宅民夫,首藤奈知子

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ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
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