懐かしの昭和メロディ 2015.06.25


敗戦ということを知らない日本が初めて味わった敗戦に1億総国民が虚脱状態に入りました。
その中に爽やかに聴こえてきた歌声…
皆さんいかがお過ごしでしょうか?宮本隆治です。
テレビ東京アナウンサー松丸友紀です。
今日は懐かしい名曲を思い出の映像でお届けする『懐かしの昭和メロディ』をお送りいたします。
今年は戦後70年という節目の年にあたります。
あれから70年万感胸に迫るという方多いことでしょう。
これからの2時間は戦後のヒット曲の数々を思い出とともに懐かしんでいただきましょう。
先ほどお送りした『リンゴの唄』は昭和21年の曲でした。
続いては昭和22年のヒット曲です。
藤山一郎さんの伸びやかな歌声は戦後の日本を大いに勇気づけました
昭和23年になると海外旅行が人々の夢になりました
戦後ブギというリズムが流行りました
松丸さん戦後になって日本の音楽界で起きた最も大きな変化何だったと思いますか?そうですね…海外から文化の薫りが入ってきたということでしょうか?そうなんですよ。
戦前から洋楽というものが少しずつ入ってはいたんですけども戦争でそれが禁止されてしまったんですね。
今洋楽が聴けなくなるなんてことちょっと考えられないですよね。
ところが戦争が終わったことでアメリカから音楽が一気に日本に入ってきたわけですね。
今まで聴いたことがなかったすばらしい音楽に人々は衝撃を受けました。
どんな曲がヒットしていたのかぜひ聴いてみたいですね。
お届けしましょう。
ここからは洋楽カバーの特集です。
風船をいち早く輸入された西部劇の中に…
「I’llloveyouinbuckskin」「OrskirtsthatI’vehomespun」「ButI’llloveyoulonger,strongerwhere」「Yourfriendsdon’ttoteagun」「Mybonesdenouncethebuckboardbounce」「Andthecactushurtsmytoes」「Let’svamoosewheregalskeepusin’」「Thosesilksandsatinsandlinenthatshows」「AndI’mallyoursinbuttonsandbows」「バッズァンボゥーズ」「バッズァンボゥーズ」
続いては『アイ・ラヴ・パリ』。
淡谷のり子さんです
いろんな雰囲気が楽しめるさまざまなジャンルの音楽が流行っていたんですね。
そうですね。
人々が楽しんだ洋楽は他にもあります。
続いては戦前から人気があったシャンソンなんですが戦後その人気に改めて拍車をかけた方がいらっしゃいます。
その方は…。
シャンソンといえばやはりあの方ですよね。
そう越路吹雪さんです。
私の祖母は昭和2年の生まれです。
この番組を担当するようになって祖母と一緒にカラオケで昭和のヒット曲を歌い合うことができるようになりました。
祖母の十八番は天津羽衣さんの『お吉物語』。
私の十八番は久保幸江さんの『トンコ節』です。
皆さんにも得意の曲がおありでしょう。
この曲がそうだという方も多いと思います。
昭和25年の大ヒット曲伊藤久男さん『イヨマンテの夜』。
さてこの歌が全国に出ましてから全国の国鉄のホームというホームでは必ずかけたというメロディです
花柳界から生まれた大ヒット曲です
おそらく今夜のお風呂屋さんは人がいっぱいだろうと思います。
かつては風呂屋を空にしたという曲があります。
今は亡き菊田一夫作詞。
古関裕而のメロディに乗せて。
『君の名は』織井茂子です
裾野は青く夢大きい若人の心を高らかに歌いつつ明るさの中に歌唱力を誇るベテラン岡本敦郎。
歌も弾む『高原列車は行く』
ご紹介しましょう。
今年御年89歳。
ということは来年卒寿90歳をお迎えになる歌謡界のレジェンド伝説青木光一さんです。
どうも。
よろしくお願いいたします。
青木光一です。
お元気ですよね。
まぁ相変わらず元気でやっております。
今年は戦後70年という節目の年です。
いろんな思い抱いてらっしゃるでしょう?そうですね。
終戦当時19歳?あああの…。
終戦を迎えたのは満州北部の戦地でしたね。
旧満州でお迎えになって。
旧満州の最北端の…。
その前日までソ連軍と戦争状態にありまして戦っておりました。
終戦を告げられたときのお気持はどういうお気持でしたか?ついに終わったかという感じですね。
まぁでも正直なところこれで死ななくて済むんだという安堵感でホッとしました。
そうでしょうね。
当時どういう生活をなさってらっしゃったんですか?当時?シベリアへ行ったんですよ。
抑留されたんですかそのあと。
ええシベリアへ抑留されたんで。
強制労働だから…。
私の入った収容所は町全体が炭鉱石炭。
炭鉱で成り立ってる町でしたからそこの炭坑に行って石炭を採る作業とそれから石炭を運ぶ作業。
貨車に積み込んで…積み込み作業ですね。
この3つの大きな仕事があったんですけど。
大変な労働でしたね。
すごいですよ。
僕も石炭を積み込む作業も行ったんですがこれが1日3交替でやってるんです。
それが昼間の仕事はいいんですけど夜12時から朝の7時頃までやる仕事にぶつかるともうこれが大変。
何が大変でした?寒さが冬ね。
真冬になると零下40℃45℃これはもうザラですから。
食事はどうされてました?食事がまたこれがひどいんですよ。
ソ連から配給される食糧が極端に少なくて。
しかもこれが粗末なもので。
例えばどういうものが配給されたんですか?食事は。
黒パンっていうやつ。
黒パン。
今日本にある黒パンのような上等じゃないですよ。
麦の殻みたいのが中に見えるような…。
ちょっと酸っぱくありませんでした?酸っぱいですよね。
酸っぱいんですよ。
スープがまたひどいんだよ。
お湯を沸かして食塩…塩を入れてそしてジャガイモの小さいやつが3つか4つ入ってるんです。
それだけですよ。
へぇ!今だったら食べられたもんじゃないホントに。
抑留されていた当時日本の歌でいちばん心に残っていた歌は何だったんですか?『誰か故郷を想わざる』でしょうね。
これは他の仲間たちもよく歌いましたね。
みんな作業から帰ってきて宿舎で…なんていうんだろう。
休みますね。
休みますね。
そのときに何人か選ばれて。
歌の上手い方が選ばれるわけですね。
その人たちが行って歌を聴かせるんです。
そうすると注文が一番多いのが『誰か故郷を想わざる』。
ところがねソビエトは共産圏でしょ?1年目は日本で歌って…流行歌歌謡曲を歌ってもよかったんですよ。
2年目から規制が入りまして日本の流行歌は一切口にしてはいけない。
それでね2年目からねソ連の要請でソビエトの要請で楽劇団ですかね結成しろということで楽劇団っちゅうのが結成されて。
そこで私が昔兵隊に入る前に合唱団にいて…。
テストがあるんですよそこに入るのには。
で私の歌を聴いてオーケーと。
あなたは楽劇団で専門に労働はしなくていいから歌専門にやっていきなさいということであとは楽しましたよ。
ただ日本の歌は禁止されて…。
あぁもう全部ソ連の歌。
それから日本人で楽劇団で作曲した歌ですね。
労働歌みたいなやつ。
じゃあ歌をお歌いになって歌お上手だったからちょっとその労働もしなくて済んだわけですよね。
芸が身を助けました。
そうだったんですね。
それではここで青木光一さんの最初のヒット曲をお送りします
ご苦労なさいました。
帰国が決まった瞬間どんなお気持でした?いやぁ…一日千秋の思いで待ちに待った帰国でしたからね。
その知らせを聞いたときはもう本当に嬉しくて嬉しくて。
みんなで抱き合って泣きましたよホントに。
で昭和24年に復員船で帰ってこられたわけですね。
どこの港に着いたんですか?舞鶴ですね。
舞鶴の港に足を踏み入れたときはどんなお気持でした?いやぁ日本はやっぱりいいなと思いましたね。
何がよかったですか?船の上でね近くなったときに港に入る直前にずっと日本の陸地が見えるんですよ。
そうすると松原…松の並木…。
松林というか。
松林ですかああいうところが見えるんですね。
日本はやっぱりすばらしいと思いましたね。
松を見てその景色を見たときに日本に帰ってこられた実感。
実感がねガーッとわいたんですね。
で帰ってこられました。
どういういきさつでプロの歌手になろうと思われたんですか。
私が舞鶴へ着いたときに身体検査があるんですが肝臓が少し弱ってるっていうことであなた病院に入ってちょっと残って病院で療養しなさいということになりまして入院生活送ったんですがそのときに病院で娯楽室でレコードをいろいろかけてやっぱり好きだから聴きますね。
そのなかに『山小舎の灯』というレコードをかけたんです。
そしてラベルを見たんです。
そしたら米山正夫作詞・作曲。
これ見てビックリしました。
どうしてビックリされたんですか?米山先生はね昔はポリドールレコードにいて戦争が激しくなって満州へいらっしゃった…。
はい旧満州行きました。
満州奉天に来たんです。
奉天の放送局合唱団の指導者であり指揮者をやってた。
僕はそのとき合唱団の一員だった。
そのときのおつきあいだった…。
なるほど。
このレコードが出てるってことはもうすでに日本に帰って成功されてるんだと…。
なるほど。
ビックリしました。
それでコロンビアにハガキを送ったんですコロンビア気付。
そしたらすぐに返事が来て速達で来ましたよ病院へ。
そしたら来なさいと。
東京へ早く来なさいと。
東京へいらっしゃい。
私の家へいらっしゃい。
嬉しかったですね。
地図もちゃんと書いてある…。
東京の…僕は全然わかりませんからどこで降りてどこで電車に乗って自分の家の地図をちゃんと…。
克明に丁寧に…。
丁寧に書いて。
そのとおりに行きました。
そこの家がですねまあ米田先生の家が柿の木坂なんです。
目黒の柿の木坂。
目黒の柿の木坂。
それは偶然のことなんですけどねそこにそうですねシベリアから帰ってきたのが24年の10月。
デビューしたのが翌年の6月ですから。
早いですね!早いですよ。
トントン拍子。
トントン拍子です。
入るのがね米山先生のご紹介でテストを受けてオーケーで専属になった…。
続いては歌手青木光一さんの名を不動のものとしロングセラーとなった名作です。
昭和32年のヒット曲
いやぁ実に粋に歌ってらっしゃいますよね。
やっぱり若さですね。
これは米山先生の目黒の柿の木坂ではなくて…。
関係ないですね。
石本美由起さん作詞をされた石本さんのふるさと。
そう。
大竹の実家に大きな柿の木あったらしい。
それにまつわるいろいろ思い出がいろんなものがあったらしいんでそれによって作った詞なんです。
こういう曲と出会ったことどういうふうに思ってらっしゃいますか?ホントに幸せなことだといつも思っております。
まだまだこれからも歌い続けていきたいですね。
来年卒寿90歳をお迎えになります。
お気持はどうでしょう?もう卒寿迎えたら今度は次は白寿ですね99歳。
これは大丈夫でしょう。
大丈夫ですよ。
ねぇ。
ますますお元気で。
はい。
ますます元気で頑張ります。
はいありがとうございました。
青木光一さんでした。
(拍手)昭和30年代に入りますと四人衆と呼ばれる皆さんが日本の歌謡界を席巻いたしました。
私は四人衆のうち三波さんとそして村田さんとお仕事をご一緒いたしました。
三波さんは歌はもちろんなんですけども日本の歴史にそれはそれは造詣の深い方でしたね。
そして周囲に気配りができる方でもございました。
一方村田英雄さんは太い声を出すには肉が一番だということで肉ばっかりを召し上がっている豪快な方でございました。
それでは昭和30年代の四人衆の名曲をお届けいたしましょう。
ふるさとのぬくもりふるさとの村はずれ。
ひょっとすると小さなお地蔵さんとそのそばに大きな木が一本。
そんな情景を浮かべてください
さあそれではここで再び戦後のビッグヒットをお楽しみいただくことにしましょう。
遠ざかっていく街明かりにそっとつぶやく別れの言葉。
涙の向こうにテールランプが滲んでとけていきます
祭囃子が聞こえてくらぁ。
おいっちゃん元気かな?思い出すぜ下田港を。
バチのさばきも揺れては戻る。
祭り…小倉の祇園
四人衆の歌声のあとは夜の大人のムードでヒットした曲をお送りします
この『有楽町で逢いましょう』のちょうど30年前の都会の歌というのがこの『君恋し』でした。
フランクさんは昭和36年にこの歌に新しい命を吹き込み直しました
本日お越しいただきましたすばらしいゲストをご紹介いたします。
ペギー葉山さん。
こんばんは。
よろしくお願いいたします。
よろしく。
こんばんは。
よろしくお願いいたします。
お三方は洋楽を日本語でカヴァーするパイオニア。
先駆者でいらっしゃいます。
戦後になって洋楽と出会うきっかけ。
あるいは当時の洋楽ブームについていろいろお話を伺ってまいりたいと思います。
まずはペギーさん。
ペギーさんはもともとは音大を目指していらっしゃった。
そうです。
クラシックの歌い手になりたくて内田るり子さんっていうクラシックの先生に習って。
あなたの声はソプラノじゃメゾソプラノよって。
だからオペラに出ても主演はなれないわよって言われてね。
はっきり言われたんですか。
ええ。
でも…なんて言ってるうちにもうとにかく私たち戦争中の子ですから軍歌ばっかり歌ってたでしょ。
童謡とね軍歌と。
それがある日アメリカのビング・クロスビーとか…。
モーリス・ブラウンオーケストラとかそういうジャズが米軍のいわゆる進駐軍の兵隊さんのための放送が始まってそれをラジオで聴いてあっこちらのほうがいいな。
主演で歌えるなと思ったの。
なるほど。
路線を変更したわけですよね。
そうそうそう。
もう進路を変えまして。
私のクラスメートはやっぱり帰国子女で英語はベラベラだし英語の歌をいっぱい知ってたんで彼女からどんどんどんどん大学ノートに歌詞を書いてもらって譜面なんて入らないじゃない手にね。
だから彼女が歌ってるのを耳で覚えてで何曲かジャズを歌えるようになったことからそろそろ米軍のキャンプで歌うようになってであの頃アメリカの兵隊さんが横田厚木調布。
全国にありましたもんね。
東京も丸の内のへんのマッカーサーの本部のGHQのへん。
あの通りは全部アメリカの人たちが接収してましたから。
ホテルというホテルはね。
ですからもう日本中にジャズがとどろいててこんな世界があったって思ってやっぱりやらなきゃこれはと。
その発表する場は随所にあったわけですね?結局米軍のキャンプです初めは。
そのうちにジャズブームが到来して日比谷公会堂とかいわゆる東京にある公会堂。
それからホール。
すべてがもう今度はジャズのコンサート。
でそこにシャンソンタンゴそれからウエスタン。
デキシーランドモダンジャズフルバンドもうすべてが洋楽がそこに網羅されたコンサートが午前中から夕方にかけてやる。
一日中ジャズやっていたんです。
そういう時代ですね。
それで私も学校行きながらそういった歌を歌ってるっていうのをなんとなく人知れず聞いて歌ってくれない?っていうことでそういうことをまたレコード会社がじゃペギー葉山…。
ペギー葉山っていうのはそれはまた話が長いんですけどもう同じレコード会社では江利チエミさんが6か月先にデビューなさって天才少女で。
天才のあとは天才はちょっといらないっていうことで。
いや天才2で…。
しようがないんで私はやっとつけていただいたキャッチフレーズがあるの。
美貌の歌姫。
ハハハハハ!看板に偽りありじゃない?でデビューされたのが昭和27年。
そうです。
当時ヨーロッパのブームだったの。
ですからシャンソンとかカンツォーネとかタンゴ。
全部それを英語に訳してカバーしてたんです。
もともとはアメリカ本土がヨーロッパブームだったんですか?ヨーロッパの音楽ブームだった。
それがまた日本に入って。
日本に入ってきてだからまずシャンソンを…イングリッシュなんですね。
英語でシャンソンタンゴマンボラテン。
だから私は『ドミノ』っていう歌を。
それはフランス語の有名なシャンソンで裏は『エル・チョクロ』で。
『キッス・オブ・ファイヤー』っていうんですけど。
どんなお気持で『ドミノ』デビュー曲お歌いになったんですか?「ドミノドミノ…」っていうのね。
それが私が「ドミノ…」って歌うと「ダメよ」って聞こえるからちゃんと「ドミノ」って言いなさいってディレクターに言われて「ドミノ」って「ダメよ」って聞こえるんですって。
ちょっとアメリカ風の英語を。
そうなの。
でその発音が…。
英語だと「ダメノ」なんですよ。
で日本語だと「ドミノ」なの。
で真ん中とって「ダミノ」って言ったら「ダメよ」って聞こえた。
なるほど。
確かに…そうですね。
そういう秘話がおありだったんですね。
はい。
はいそれではペギー葉山さんのデビュー曲『ドミノ』ご覧ください。
「Domino,Domino,」「you’reanangelthatheavenhassentme,」「Domino,Domino,」「you’readevildesignedtotormentme,」「Whenyourheartmustknow」「thatIloveyouso,」「Tellmewhy,Tellmewhy,」「whydoyoumakemecry,Domino,」平成8年の映像でございました。
そうですね。
英語と日本語の歌詞。
微妙に「ドミノ」を使い分けてらっしゃいましたね。
あのころは半分日本語。
必ず。
いくら英語で全部歌ったってアメリカの歌い手さんにはねとても追いつかないっていうことで必ずあのころのポップスシンガーっていうのは半分日本語。
半分英語。
そういうパターンで歌ってたの。
ありがとうございました。
さあ続いて浜村美智子さんにお話を伺います。
浜村美智子さんはカリプソの女王と呼ばれています。
このカリプソというのは西インド諸島トリニダード島の民族音楽なんですよね。
そうですね。
全然知りませんでした。
当時は。
カリプソとの出会いというのは?私はね銀座のとあるナイトクラブで歌ってましたらねある男性がいらして初めての方なんですけど明日ビクターのスタジオに行きなさいってそれだけ告げてお帰りになったんです。
それはビクターって聞いたときにこれレコード会社ってピンときましてで築地のビクターレコードへ行ったんですね。
そしたら『バナナ・ボート』という曲がそこにありまして。
でピアニストの先生もいらして私の音の幅…キーを調べて。
もう有無を言わさずこれ歌いなさいっていうことだったんですね。
『バナナ・ボート』っていうの聴かされたときこれお経みたいなの…何これ!?っていう。
軽快な2拍子ですよね。
それでコーラスがあってね。
掛け合いで。
男性コーラスがあって。
そのスタイルがカリプソらしくてそれあとから知ったんですけれど。
すっごく…ところがもう一曲ね…。
昔はSP盤。
裏面と表面両面ありましてね。
そのB面の曲が『恋のベネズエラ』っていってとってもメロディックな曲なんですよ。
あっこれがあるんだったらこれどうでもいいからこっちっていうそんな感じで。
むしろB面の方がご自分には向いていたと思ってらっしゃる。
好きでした。
これはとっても好きでしたね。
だから今聴いても恥ずかしいです。
なんか…よくなくて。
そうですかね。
当時かなり斬新な衣装も着てらっしゃったという話伺ったんですけれども。
コーヒー袋。
コーヒーの豆が入ってる大きな袋ありますね。
あれを真ん中ハサミで切って…。
でそれを首から…。
それでウェストをちょっとしばってで裸足で歌ってましたね。
衣装代がずいぶん安かったんですね。
当時。
いやそうじゃないんです。
衣装代が安いんじゃないんです。
お金がなかったんです。
衣装を買うお金がなかった。
ああ!それで考えたんですか。
コーヒー袋。
それしかなかったんですね。
それでは浜村美智子さんの『バナナ・ボート』ご覧ください。
いやぁ浜村さん。
清潔感のある妖艶さ。
そうですね。
ちょっと恥ずかしいですね。
いかがでした?いやぁなんとも言えない。
続きまして菅原洋一さんにお話をお伺いします。
菅原さんはタンゴバンド早川真平とオルケスタ・ティピカ東京のボーカリストとしてまず歌手デビューされたわけですね。
そうですね。
当時のことは?当時のこと?鮮明に?当時はフルバンドもあったけどタンゴのオルケスタもいっぱいあったんですよね。
なぜタンゴをお選びになったんですか?それなんですよ。
僕の場合は中学2年のときにおばさんがねアンタのお母さんもういないよって言うわけですよ。
今お母さんと思ってたのにそう言われたらえっ?って頭が真っ白になっちゃって。
お母さんが…。
僕を産んですぐ亡くなったんですって。
顔知らないんですよね。
それを知ったのが中学生のとき。
2年のときに…。
どこかでお母さんは生きてらっしゃると思ってらした。
育ての母がそうだと思ってた。
ああ〜。
ポカンとしてるときにタンゴが流れてきたんですよ。
バンドネオンが切なくバイオリンが悲しそうでタンゴのリズムが自分の今のこういう心臓の鼓動のようにドッドッドッと。
これはもう自分に今の心境にピッタリだと。
でこれでハマったんですね。
体が子供の頃悪かったので音楽でもやらそうということで国立音大行ってその間もずっとタンゴをいつも聴いてたんですよ。
まあ譜面も何もないです。
おっしゃるとおりねペギーさんが言ったとおり聴きながら覚えたっていう。
そうね。
それがあったからよかった…。
積み重ねがあったから。
でもクラシックとタンゴってやっぱりどっちにしようと悩まれたことは?まさか歌手としてデビューできるとは思ってませんでしたからね。
音大出ても仕事がないときにタンゴ喫茶ができた。
シャンソン喫茶とか。
カントリージャズそういうつまり150円のコーヒーでずっとライブを…。
レコードではなくてライブだったんですか。
150円のコーヒーで。
そういう場所に出会ったんです。
だからペギーさんが進駐軍のそこで歌う場所があった。
僕もそういうタンゴ喫茶っていうのできたからそこで歌う場所ができて歌ってる間にオルケスタ・ティピカ東京の早川真平さんがどっかで男性のうまいのがいるよ僕…。
で呼ばれて専属歌手になって…。
でも歌い手っていうのはタンゴだけじゃなくていろんなものを歌いたいじゃないですか。
でそこを辞めてでまたはじめからはじまったんですよ。
いろいろあってポリドール・レコードから呼ばれてでレコーディングしたのが『恋心』。
まずは『恋心』。
シャンソンですよね。
それで今度はB面でしょ。
僕もB面に自分の好きなの入れていいって言われた。
そこで音楽喫茶で歌ってて『黄昏のワルツ』って…『IReallyDon’tWantToKnow』。
『知りたくないの』ですね今の。
これ歌っていいかって。
いいよっていうことでレコーディングしたんですよ。
こっちのほうが好きだったんですよ。
『知りたくないの』はB面だった。
B面です同じですよ。
そうだったんですか。
『知りたくないの』が代表曲に…。
カントリーですもんね。
タンゴではなかったんですよ。
それではその菅原洋一さんの大ヒット曲『知りたくないの』ご覧ください。
聴きたくないの。
ご本人はVTRが入る直前に聴きたくないのとおっしゃいましたがやっぱり気持がこもって歌ってらっしゃいますよ。
いかがでした?ハンバーグのときですからね。
ハンバーグというニックネームをお持ちだった…。
50代の半ばでしたね今の映像は。
そうですか。
ご覧になっていかがでしょう。
見たくない。
いやいや…。
今日は貴重なお話を伺いました。
どうもありがとうございました。
ありがとうございました。
オース!
この掛け声が戦後どれだけ元気を与えてくれたことでしょう
さて戦後の日本の歌謡界を語る上で忘れてはならない方々がいらっしゃいます。
はい石原裕次郎さんと美空ひばりさんお二人とも昭和を代表する歌手ですよね。
今日はお二人の最初のヒット曲を続けてご覧いただきましょう。
美空ひばりさんの初ヒットといえばこの曲ですよね。
当時12歳で映画の主演を務め天才少女歌手として一躍有名になりました。
歌謡界が誇る永遠の歌姫が誕生した瞬間です。
『悲しき口笛』
あっという間の2時間でしたよね。
そうでしたね。
戦後たくさんの曲が日本人の心を支え元気づけてきたんですね。
歌は時代を映す鏡といいます。
その鏡に昭和の思い出が映し出されそれが永遠に色あせることなく続くわけですね。
戦後70年ヒット曲は数々あります。
いずれまたそれをご紹介してまいりたいと思います。
『懐かしの昭和メロディ』今日はここまでです。
それでは皆さん。
(2人)ごきげんよう。
2015/06/25(木) 19:58〜21:48
テレビ大阪1
懐かしの昭和メロディ[字]

昭和の歌謡界を彩った懐かしの名曲を過去のVTRとともに振り返る音楽番組の第14弾。今年は戦後70年。今回は昭和20、30年代に戦後日本を元気にした曲をお送りする。

詳細情報
出演者
【ゲスト出演】
青木光一、菅原洋一、浜村美智子、ペギー葉山(50音順)

【司会】
宮本隆治、松丸友紀(テレビ東京アナウンサー)
番組内容
昭和の歌謡界を彩った懐かしの名曲を過去のVTRとともに振り返る音楽番組「懐かしの昭和メロディ」第14弾。今年は戦後70年の節目にあたるため、昭和20、30年代にスポットを当て、戦後日本を元気にした曲をお送りする。

ジャンル :
音楽 – 歌謡曲・演歌
バラエティ – 音楽バラエティ
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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