世界が核戦争の危機一歩手前の緊張にあった時代…アメリカソビエト東西両陣営の熾烈な覇権争いが繰り広げられていました。
この冷戦の時代日本は大国と向き合いながら自らの外交政策を求め続けていきます。
「シリーズ戦後70年ニッポンの肖像」。
今回は「外交」の2回目です。
経済大国となった日本。
世界の中で懸命に歩んだ道のりを見つめます。
冷戦のさなか日本は戦後最大の外交課題沖縄返還に挑みます。
(佐藤)万歳!
(一同)万歳!返還交渉の舞台裏でアメリカの首脳部が極秘に行った協議の録音が発見されました。
1971年。
敵対していたアメリカと中国が電撃的に和解。
日本は日中国交正常化に乗り出します。
中国への経済援助を進める日本。
それはアジアが経済発展していく時代の扉を開いたのです。
冷戦の中で選択を迫られた日本の外交。
新たな資料と証言でその舞台裏に迫ります。
こんばんは。
こんばんは。
「戦後70年ニッポンの肖像」。
今月は「世界の中で」と題し戦後の日本外交の歩みをお伝えしています。
今回は経済大国となった日本が冷戦という時代の大きな荒波に立ち向かっていくその姿を見つめてまいります。
この時代世界はアメリカそしてソビエト2つの陣営に分かれて対立をしておりました。
日本はソビエト中国などの共産主義諸国と向き合う冷戦の最前線に位置していました。
この冷戦の時代に日本は沖縄返還と日中国交正常化という戦後の外交を代表する2つの大きな課題を成し遂げました。
まずは沖縄返還です。
実はその舞台裏で世界が大きく変わる事態もひそかに進んでいました。
在日アメリカ軍基地専用施設の74%が集中する沖縄。
日本は多くの壁を乗り越えながら沖縄返還を成し遂げました。
1965年。
首相の佐藤栄作がアメリカの施政権下にあった沖縄を訪ねます。
当時沖縄の基地からはアメリカ軍の爆撃機が次々とベトナム戦争に出撃していました。
東アジアの安全保障の要だった沖縄には核兵器が配備されていました。
佐藤はその核兵器を全て取り除く返還を目指します。
外務省で沖縄返還交渉に取り組んだ栗山尚一さん。
今年4月に亡くなりました。
生前最後のインタビューです。
条約局法規課長としてアメリカとの交渉に臨んだ栗山さんは佐藤の強い決意を感じていました。
密使の若泉敬など独自のルートも用いて交渉を進めた佐藤。
1969年。
ニクソン大統領との首脳会談で返還交渉が大きく動きます。
3年後の返還という合意。
その裏で緊急時に核兵器を沖縄に持ち込むという密約を交わした事が明らかになっています。
更に佐藤はもう一つの密約も交わしました。
日本からアメリカへ輸出される繊維製品にシーリング…上限を設ける密約です。
日本はこの前の年西ドイツを抜いて世界第2位の経済大国となりました。
アメリカにとって大きな脅威となった日本経済。
最大の課題が繊維製品を巡る貿易摩擦です。
日本の安い繊維製品が輸出されアメリカの繊維産業は大きな打撃を受けていました。
問題の解決を大統領選で公約に掲げたニクソン。
経済外交に力を入れました。
ニクソンとの会談で佐藤は輸出規制を約束します。
「最善をつくすことを信頼してほしい」。
しかし佐藤は繊維産業の反発に遭い規制を実現できません。
アメリカから突きつけられた貿易摩擦の解消。
佐藤はその重要性をどこまで認識していたのか。
同じ頃アメリカは冷戦の外交戦略を大きく転換させようとしていました。
アメリカが介入した…ソビエト中国が支援する北ベトナムとの戦闘が泥沼化していました。
反戦運動が高まり戦争の終結はアメリカの大きな課題となっていました。
ニクソンはその解決に向けた新たな外交戦略をヘンリー・キッシンジャーに命じます。
東側の大国中国への接近です。
アメリカは中国を通じて北ベトナムとの和平を引き出そうとしました。
中国もまた大きな問題を抱えていました。
政治路線の違いからソビエトと対立し国境で衝突。
双方に多数の死傷者を出す大規模な紛争に発展します。
ソビエトの核攻撃の脅威に直面した毛沢東。
極秘にアメリカとの接近を図る中国。
中国の国営通信社が尖閣諸島の領有権を主張します。
中国と敵対していた台湾はこの主張に反発。
台湾も尖閣の主権を主張する事を決定します。
1895年。
日本政府は領土に編入しました。
戦後サンフランシスコ平和条約で沖縄がアメリカの施政権下つまり行政下に置かれた時そこに含まれたと日米共に考えていました。
1968年の調査により周辺に石油の埋蔵の可能性が指摘されました。
外務省の栗山さんは尖閣の主権は日本が持つ事を沖縄返還の協定文に明示するようアメリカに迫りました。
栗山さんと交渉したアメリカ国務省のシュミッツ法務官です。
アメリカは尖閣の主権に関する衝突が生じた場合関係する当事者同士で解決する問題だとしました。
同じ頃日本が解決できなかった貿易摩擦が尖閣諸島と複雑に絡み合っていた事が近年明らかになりました。
それはアメリカと台湾の秘密交渉記録から浮かび上がってきたのです。
アメリカは繊維製品の輸出規制を台湾にも求めていました。
日本が実現できなかった繊維の輸出規制。
アメリカは経済外交を台湾などアジア諸国に広げていました。
アメリカの重要な同盟国だった台湾。
米中接近が極秘に進む中でアメリカの動きに注意を払っていました。
台湾を代表してアメリカとの繊維交渉に当たった銭復さん。
これを受けアメリカは繊維交渉の解決と尖閣諸島を結び付けた交渉案を作成します。
それは台湾の譲歩を引き出すために沖縄返還で尖閣諸島の施政権を日本に返還しないという案でした。
この提案を受けてホワイトハウスに緊急会議が招集されます。
沖縄返還協定の調印10日前の事でした。
ニクソン大統領とキッシンジャーが極秘に協議します。
この時の記録が3年前に発見されました。
ニクソンは執務室で交わされる会話をひそかに録音していたのです。
キッシンジャーがニクソンに提言します。
尖閣諸島の施政権は日本に返還される事が決まりました。
1971年6月。
沖縄返還協定は調印されました。
協定文に「尖閣を含む」と明示を求めた日本。
しかし尖閣の文字はありません。
緯度経度でアメリカが施政権を返還する地域が示されました。
そこに尖閣諸島は含まれます。
返還交渉の舞台裏で佐藤は繊維の輸出規制を約束していました。
しかし実現できずにいました。
佐藤のもとにニクソンからの手紙が届きます。
「失望と懸念を隠す事ができない」。
7月。
キッシンジャーが極秘に訪中し周恩来との会談を実現させます。
日本政府には全く知らされていませんでした。
世界を揺るがすニュースが発表されます。
佐藤政権がこの知らせを受けたのは発表の僅か2時間前。
1か月後日本は再びニクソンに翻弄されます。
金とドルの交換を停止するいわゆる…日本の為替市場が開いた直後発表は突然行われました。
ドルが暴落し日本経済は混乱に陥りました。
翌年2月。
ニクソンは訪中を実現します。
沖縄返還の裏で進んでいた米中接近と貿易摩擦を巡る経済外交。
日本はその重要性を思い知らされたのです。
(佐藤)万歳!
(一同)万歳!戦後最大の外交課題を達成した日本。
沖縄には返還後もアメリカ軍の基地が存続する事になりました。
核。
繊維。
尖閣諸島。
さまざまな課題に取り組んだ末の沖縄返還の実現でした。
米中接近という衝撃の事態。
その中で沖縄返還交渉は行われました。
この時の日本の外交沖縄返還交渉どうご覧になりますか?沖縄返還交渉というのはやはり戦後を終わらせる一大交渉でありましていわば佐藤内閣が最大の努力を傾けた大きな外交課題でありました。
その中で繊維の事がですねあのように問題になってたっていうのは知らなかったっていう方も多いんじゃないかと思いますけど。
まさにニクソンからすれば沖縄返還でいわば譲歩をしたと。
だから今度は繊維問題で日本側佐藤首相が譲歩すべきだと。
いわばそれはギブアンドテイクで成立するものだという考え方がニクソン大統領の中にあった訳ですね。
だからニクソン大統領からすれば何で佐藤首相は約束を守らないんだと。
こういう怒りがああいう形でですねニクソンショックという形で出てくる訳ですね。
そして米中の接近にも気付かなかったというのは。
これは大変な衝撃でありましたね。
何しろ日本側からすれば信じて疑わない同盟国ですから。
それまで一貫してアメリカ外交の後を追ってきたと言っても言い過ぎではない訳ですね。
一方アメリカ側からしてもですね日本というのはアジアの優等生であり民主主義を忠実に発展させてきたそういう模範生ですよね。
そのミニアメリカであるというふうに見ていた日本がこのころになりますと非常に経済力を強めてきてアメリカ側からすればライバルに近いような状況になってきたと。
そういう事があったとしてもですね日本はまだまさかアメリカがですね敵対している中国とある日突然握手をするというふうな事は想像できなかった訳ですね。
米中接近の動きと軌を一にするように水面下で尖閣諸島の事が議論に上ってきますね。
これはどう考えたらよろしいんでしょうか。
台湾は何て言うんでしょうねアメリカが大陸中国を選ぶ新たに選ぶ再婚の相手として選ぶという時に自分たちはまあこういうはしたない言葉を使っちゃいけませんけど捨てられてしまうという非常に深刻なですねやっぱり将来の安全に対する不安を70年ぐらいから台湾の当局者は抱いたに違いないと思いますね。
それでやはり強硬に尖閣を巡る問題についての対米交渉というのを非常に強い形で要求した。
アメリカはそれに対してすげなく断るという訳にはいかないと。
キッシンジャーはこの台湾側の要求を入れる訳にいかない。
のみならず沖縄返還協定から外すという事になると日本政府の反発を招いて協定そのものがですね10日後に予定されている協定そのものの成立すら危うくなるかもしれない。
こういう判断でキッシンジャーはこの提案を退ける訳ですね。
1970年代沖縄を巡る日米交渉の中でやっぱり尖閣が浮かんできます。
ある意味でものすごく広域化したそれから政治化したというそういう意味で今日まで続くトゲのような存在として尖閣があるのではないかと私は考えております。
いや〜あの世界史を塗り替えていく米中接近。
それによって日本は外交このままでいいのかという事になってまいります。
さあその後日本は日中国交正常化へどう取り組んでいくのでしょうか。
戦後27年にわたり日本と国交がなかった中国。
かつて日本との戦争で大きな被害を受けていました。
日本では経済界が中国市場に注目し1960年代から日中貿易の重要性を訴えていました。
米中接近を受けにわかに国交正常化への機運が高まっていきます。
外相に就任した大平正芳。
中国との国交正常化に取り組みます。
このころ大平のもとに中国の周恩来からメッセージが届きます。
「毛主席は賠償請求権を放棄する」。
「尖閣列島の問題にもふれる必要はありません」。
大平の首席秘書官として20年間支えた森田一さんです。
そういう状況なんです。
1972年9月25日。
北京の空港に戦後日本の首相として初めて田中角栄首相が降り立ちました。
訪中初日。
人民大会堂で田中を歓迎する晩さん会が開かれます。
「田中のご迷惑の発言は軽々しい」と中国側が激しく反発。
翌日周恩来は日中戦争の被害に触れ田中の発言は中国人の反感を呼ぶと主張します。
この局面を打開しようと大平は中国の外相に車中での会談を持ち掛けます。
中国側の通訳を介しての2人だけの会談。
通訳周斌さんはただ一人の生存者。
この体験を証言し続けています。
(取材者)侵略戦争…。
深く言えば現在ですよ。
大平の粘り強い交渉で共同声明の文案がまとめられていきます。
訪中3日目の会談で触れる必要がないとされていた尖閣諸島について田中首相が発言します。
周恩来が答えます。
中国側はこの時の発言は尖閣諸島の問題を一時棚上げしたものだとしています。
日本政府は尖閣諸島は固有の領土であり領有権の問題は存在しないという立場で一貫しています。
9月29日。
日中両国は共同声明に調印します。
「日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えた事についての責任を痛感し深く反省する」。
「中国は日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」。
日本と中国は国交正常化に至ります。
ニクソンの訪中から半年余りの事でした。
ひと言言いまして。
中国の方も逆に…そのひと言で。
日中国交正常化まで見てきました。
アメリカニクソン大統領が訪中してから僅か半年後。
すごく早いですよね。
すごいですよね。
電撃的ですよね。
日中国交正常化を実現した訳なんですけれどもなぜそれが可能だったんでしょうか。
もちろんその時代に先駆けて1950年代の末から石橋湛山松村謙三高碕達之助といったような人物に代表される人たちの土台作りがあったという事は見逃してはいけないと思うんですよね。
土台作り…。
つまり日中の経済提携をこれら三者が努力をしていった訳ですね。
そこから一番真っ先に動きをしたのが日本の経済界ですよね。
これから中国市場を見逃しちゃいけないと。
毛里さん。
日中国交正常化の日本の外交に与えた意味をどういうふうにご覧になりますか?その戦争の問題もあって日本はなかなかアジアを語れない。
アジアの盟主としての日本なんていう事を言うとですね戦争の時代がダブってきてしまうという事である種足がすくんでたというふうに思います。
それが72年の日中国交正常化でその大陸中国をいろんな事があったけれども認めると。
しかも大陸中国そのものが賠償請求を放棄してくれた。
これで公式上は対等の関係ですよね。
そういうふうになれたという事で普通の対アジア政策というのができる条件が出来たというふうに思いますね。
こうして日中国交正常化が成し遂げられました日本。
新たな役割を求められていきます。
1970年代。
東南アジア諸国と経済関係を深めていた日本。
平和と繁栄を目指す福田ドクトリンを発表。
アジア諸国も日本型の産業化を目指し動き出します。
そんな中中国との経済交流を進める事が日本外交の大きな課題となっていきます。
日中国交正常化から6年後の1978年。
日本は中国との平和友好条約の交渉に取り組みます。
園田直外相が北京を訪問。
中国の副総理小平と会談します。
この時園田は一つの懸案を抱えていました。
会談の4か月前。
100隻を超える中国の漁船団が尖閣諸島の周辺に押し寄せる事件が起きていました。
会談で小平は事件の再発防止を約束します。
しかし尖閣を巡る会談記録は公開されておらずその全容を知る事はできません。
田島高志さんは当時外務省の中国課長として会談に同席していました。
今回田島さんは正確な会談内容を伝えるため初めて自ら書き留めたメモを手に証言しました。
小平が2,000年の交流があったと。
だけど100年いろいろ問題があったけどそれは短いという発言から始まった訳ですけどもね。
尖閣諸島についての小平の言葉です。
(田島)ここに書いてあるでしょ。
「数年数十年100年おいておいてもよい」と。
これは数年数十年100年おいておけばいいんだと。
これを機に日本の経済協力が本格化していきます。
当時中国ではようやく文化大革命が終結。
小平は経済の立て直しと中国の近代化を目指します。
条約締結から2か月後中国の首脳としては初めて小平が来日。
高度経済成長を遂げた日本。
小平はその姿に目を光らせます。
スピードを出さなければ…日本を中国近代化のモデルにしたい。
小平は製鉄所や自動車工場など精力的に日本の企業を視察します。
大平と会談した小平は中国の産業化への支援を求めます。
翌1979年。
日本で初めて先進国首脳会議サミットが開催。
議長となったのは首相に就任した大平正芳でした。
日本は経済大国のリーダーとして国際社会で主導的な役割を求められます。
半年後の12月。
大平首相は中国を訪問します。
中国では改革開放政策が始まっていました。
この時大平は500億円の政府借款供与を約束します。
これにより鉄道や港湾設備が拡充するなど飛躍的にインフラ整備が進みます。
以来日本の円借款は3兆円を超えました。
当時大平は世界の構造の変化にいち早く着目していました。
今回特別に撮影が許された大平ノートです。
日本とアメリカを中心にしながらも脱イデオロギー化したソ連や中国などと共存を目指していました。
大平は1980年から日本語教師を育成する事業を始めます。
5年間で延べ600人の日本語教師を輩出し今北京日本学研究センターとなっています。
日本政府や企業の支援を得て運営される大学院です。
いろんな…卒業生は日本語教師をはじめ学会や経済界で幅広く活躍しています。
この時代の日本外交どうご覧になりますか?80年代というのはやっぱり日中国交正常化が成立ししかも大平さんの援助外交も含めて日本と中国の経済関係そして近代化支援策というのが比較的うまくいって日中はいわゆるエズラ・ヴォーゲルさんの言葉を使えばゴールデンエージの時代を迎えます。
20年間日本が供与したODAが中国が受け取った政府借款の42%に達するんですね。
それが中国経済を非常に大きくした。
その結果今日のような世界第2の経済大国中国という形で日本がやられてしまうという状況になってしまってこれは困るじゃないかというご意見もあるかもしれませんけれども実際にはやっぱり安定した中国大陸の人々の生活がよくなる。
中国の購買力がどんどん上がるという事は日本経済に非常に貢献する材料だと思うんですね。
そういう意味では持ちつ持たれつの関係というのが80年代以後できてきたのかなっていう。
みんながウインウインの関係みたいな事が言えるのでしょうか。
大変上手におっしゃいました。
うん。
冷戦時代の日本の外交を今日は見つめてきました。
1960年代から見てきたんですけれどこの時期の外交から私たちは何をくみ取れるでしょうか。
戦後の日本がもう平和国家になったと。
だから軍事大国の道は絶対駄目だと。
それに代わる消去的な方法として経済外交があり経済大国があるぞと。
決してそういう消去法ではなくてむしろ経済外交経済大国こそ日本の国家的な条件を考えた時に一番合理性のある一番ぴったり合う方向性なんだと。
こういう事を深くいろんな面で認識して日本外交はやってきたと。
気が付いたらアメリカからすれば1989年冷戦の終結というのは結局日本が一番得したんじゃないかと。
戦後の日本が国際社会で論じられる場合にやっぱり一つとても大きな事っていうのは特にアジア諸国にとっては発展のモデルになったという事だと思いますね。
単に経済が何%成長したという事だけじゃなくて日本が市民社会を含めて経済発展の中で社会的文化的にも成長して非常に大きな安定勢力になってきたというところが評価される。
やはり東アジア全体の発展と安定につながった。
それが結果的には日本外交のその後の大きな資産になったのではないだろうかというふうに考えてます。
国際関係難しい時代ですけどその原点として冷戦の時代の外交っていうのは見つめてみる必要があるかもしれないって思いましたね。
戦後世界を40年にわたって二分した冷戦。
1989年。
ベルリンの壁が崩壊。
新たな時代が幕を開けます。
2015/06/25(木) 02:15〜03:05
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 −世界の中で−「第2回」[字][再]
冷戦の時代、日本は沖縄返還と日中国交正常化という外交成果を上げた。米中接近の中進められた尖閣諸島をめぐる秘密外交にも光を当て、アジア太平洋の時代の出発点を描く。
詳細情報
番組内容
冷戦の時代、日本は沖縄返還と日中国交正常化という外交成果を上げた。しかし、1971年頭越しの米中和解という外交的試練を受ける。この時期、尖閣諸島をめぐって米、台湾の水面下の交渉があった。近年発見されたホワイトハウスの秘密録音から繊維交渉も絡んだ舞台裏を追跡する。日中平和友好条約締結後、日本は中国への経済援助を続け、アジアの経済発展の時代を迎える。大平正芳の外交を中心に冷戦終結までの外交を見つめる。
出演者
【出演】早稲田大学名誉教授…毛里和子,東洋英和女学院大学教授…増田弘,【司会】三宅民夫,首藤奈知子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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