ここに2枚の集合写真があります。
どちらも今から105年前の明治43年に撮影されたものです。
1枚はロシアにある日本大使館に集まった官僚たち。
後列左から2番目の男はこのあとあのタイタニック号に乗る事になります。
男の名は…そしてもう1枚は浜松の楽器メーカー後のヤマハの職人たち。
前列右から2番目の男はその後日本を代表するピアノ調律師となります。
男の名は…この2人はあるミュージシャンの父方と母方の祖父です。
細野晴臣さん67歳。
80年代あのYMOのリーダーとして世界を熱狂させました。
次々と新しいジャンルに挑戦した伝説のミュージシャン。
そんな細野さんは2人の祖父の半生やそのルーツについて分からない事が多いといいます。
番組では細野さんに代わって家族の歴史をたどりました。
タイタニック号に偶然乗り合わせた祖父。
九死に一生を得たものの一族はある重荷を背負う事になります。
そこにタイタニックの真実が記されていました。
そして母方の祖父は日本の音楽界を支えた調律師。
小学校を卒業して入った楽器メーカーで頭角を現します。
荒廃した日本に希望をもたらした…激動の歴史を乗り越えた2人の祖父。
ミュージシャン細野晴臣誕生に大きな影響を与える事になるのです。
この日細野さんは知られざる家族の歴史と初めて向き合う事になります。
細野さんの父方の祖父正文。
103年前あのタイタニック号に乗り合わせた唯一の日本人です。
細野家のルーツ。
まずは細野さんの曽祖父九左衛門から遡ります。
戸籍に書かれた住所保倉村下吉野。
市の公文書センターに残された江戸後期の古文書に九左衛門の名前がありました。
ここ長百姓九左衛門という名前が出てきます。
江戸時代細野家は集落をまとめる豪農として知られていました。
すみません突然。
あの〜私NHKの者でですね…。
ここに暮らしている人が細野家について聞いているといいます。
当時の建物は改築され公民館として使われています。
柱や梁は江戸時代に造られた時のままです。
明治3年そんな細野家の四男として生まれたのが正文。
細野晴臣の祖父です。
幼い頃から勉強家で村きっての秀才として知られていました。
その後難関の東京高等商業学校へ進学します。
日本初の駅新橋駅に配属されます。
急速に近代化を進める日本。
全国に鉄道網が延びていました。
鉄道の世界に飛び込んだ理由を伝え聞いています。
働き始めて1年後同郷の土肥トヨと結婚。
三男一女の子宝に恵まれます。
明治38年日露戦争に勝利した日本はポーツマス条約を締結します。
そしてロシアが建設した南満州の鉄道を租借。
ロシアの鉄道事情を知る人材育成が急務となりました。
明治43年8月正文は鉄道院の中から選ばれロシアへの留学を命じられます。
向かったのは当時のロシアの首都…教員の年収が120円の時代年間1,800円という破格の公費をもらっての留学生活。
このころの資料が正文の孫の正比古さんの家に保管されています。
これはロシアにある日本大使館で撮影された写真です。
後列左側にいるのが正文。
中央にはロシア大使。
エリート官僚として将来を嘱望されていました。
留学から1年後…「汽車は速い。
中も広いから速力も速いのだ。
西洋人は偉い。
日本人も負けてはならぬ。
ただぼんやり見て驚いただけではいかん」。
明治45年2月正文は1年半の留学を終えました。
日本にいる子供たちは父の帰りを待ち望んでいました。
長女から正文に宛てた手紙です。
正文は帰国のためロシアからイギリスに向かいます。
この時鉄道院の同僚だった木下淑夫がある船に乗って帰るよう勧めました。
それが完成したばかりの…全長270メートル。
当時世界最大の豪華客船でした。
豪華絢爛な船内。
最新技術で造られ絶対に沈まない船と評判でした。
4月10日ニューヨークへ向けての処女航海。
多くの貴族や富豪を含む乗客乗員2,200名。
その乗客名簿に正文の名前が残されています。
2等客室の乗客でした。
4日後の…タイタニック号は氷山に激突し僅か2時間後に沈没。
助かったのは700名余り。
その中に正文もいました。
帰国直後正文は「奇跡の生還者」として大々的に報じられます。
ところがしばらくすると風向きが変わります。
正文を非難する声が高まったのです。
「生きて帰った事は間違いだったのか」。
当時の様子を正文の孫たちが聞いています。
正文はタイタニックの事を一切語らなくなります。
そして事故から1年後には鉄道院副参事の職を退く事を余儀なくされます。
その後嘱託として鉄道院にとどまったものの表舞台からは遠ざかりました。
家族の暮らしも一変します。
当時中学1年生だった長男日出児はこの騒動に巻き込まれ東京から新潟へ転校せざるをえなくなりました。
46歳の正文に男の子が誕生します。
細野晴臣の父です。
定年まで鉄道院に勤めた正文はその後岩倉鉄道学校の講師となります。
当時の卒業アルバムが残されていました。
正文の教え子たちは国内はもとより朝鮮半島や旧満州で活躍しました。
そして昭和14年正文は68歳で亡くなります。
最後までタイタニックでの体験は語ろうとしませんでした。
ところが家族が正文の遺品を整理していたところ思わぬものが見つかりました。
タイタニック号から生還した一部始終を書いた手記でした。
それは現在横浜の博物館に保管されています。
他の船に救助された直後この出来事を記憶にとどめておこうと記していました。
タイタニック号の船室からたまたま持ち出した便箋に走り書きされています。
家族には語らなかったあの事故の事がつづられていました。
(銃声)「大事件の発生せし事を知り命も本日にて終わる事覚悟し別に慌てず…」。
正文の目の前で降ろされた救命ボートは既に満員。
周りの乗客たちは次に降ろされる救命ボートに向かっていきました。
もはやこれまでと正文は諦めその場にたたずんでいました。
するとその時満員のはずの救命ボートから声がかかります。
「あと2人乗れる」。
その声を聞いたのは正文と隣にいたアルメニア人男性の2人。
すぐにアルメニア人が飛び乗ります。
その時の正文の心境。
正文も思い切って飛び乗ります。
そして生還を果たしたのです。
決して卑怯なまねはしていない。
昭和17年家族はこの手記を発表しました。
しかし戦争中とあって注目を集める事はありませんでした。
細野家はその後もタイタニックの重荷を背負う事になるのです。
細野さんにとってもう一つの大切なルーツ母方中谷家。
戦前の実家の様子を覚えています。
玲子さんの父は調律師として活躍した中谷孝男。
小学校しか出ていないにもかかわらず大学で教べんをとったたたき上げの人物です。
そんな中谷家のルーツ。
曽祖父卓二の代からたどります。
向かったのは…卓二の孫が暮らしていました。
中谷節三さん92歳。
晴臣の大伯父の四男に当たりますが晴臣とは面識はありません。
67年前節三さんの仲人をしたのが祖父孝男でした。
趣味はルーツ調べ。
家系図を作っています。
曽祖父卓二はもともと河島家からの養子でした。
その河島家は今も市内にあります。
(取材者)おはようございます。
河島幸夫さん夫婦です。
幸夫さんで19代目だといいます。
江戸初期からの家系図によると卓二は幕末の安政4年に河島家の次男として生まれています。
案内してくれたのは家の裏山。
(砲撃音)幕末の…河島家など遠州一円の神職は報国隊を結成し「勤王」を掲げる新政府軍に加勢します。
応接係を担当したのが卓二の祖父近江。
田畑を売り払い武器や食料の調達に奔走しました。
ところが新政府軍が勝利したものの土地を失った代償は大きく河島家は傾きます。
困窮する河島家から農家の中谷家の養子に入った卓二。
しかし農作業は好きになれませんでした。
明治16年周囲の反対を押し切り卓二は単身上京。
陸軍に入ります。
陸軍の施設が多かった東京・北区で卓二の辞令書が見つかりました。
卓二は陸軍の経理や書記の仕事に就き下士官にまで昇級しています。
間もなく長男に続き次男の孝男が誕生します。
晴臣の祖父です。
明治36年47歳で陸軍を退官した卓二は故郷の浜松へ戻ります。
当時9歳の孝男。
浜松高等尋常小学校に転校。
この学校にはかつて1台の外国製のオルガンがありました。
明治20年それが壊れた時修理を任されたのが当時機械職人だった山葉寅楠。
後の楽器メーカーヤマハの創業者です。
この修理をきっかけに寅楠はオルガンの製造に乗り出します。
孝男は寅楠が設立した日本楽器で働きたいと考えます。
明治以降の小学校では唱歌が歌われるようになりオルガンの需要が伸びていました。
寅楠は楽器職人を育てるため徒弟養成所を設立します。
明治39年小学校を卒業した孝男はその養成所に1期生として入所。
オルガン部に配属されます。
孝男の写真が元同僚の家で見つかりました。
大橋さんの義理の父が孝男の後輩でした。
(取材者)中谷さんがいらっしゃる…。
(大橋)この方。
会社は順調に成長。
ピアノの生産にも乗り出していました。
孝男が入社して1年後会社設立10周年のパーティーが開かれます。
ピアニスト澤田柳吉が演奏を披露しました。
そこで孝男はピアノの持つ豊かな音色に魅了されます。
その時の感動を後年こう記しています。
ピアノに魅了された孝男はある日調律する先輩に弦の張り方をどう調節するのか質問しました。
(ピアノ)すると先輩は「このぐらいだ」とそっけなく答えます。
孝男は納得いきません。
「きっと決まりがあるはずだ」。
孝男の教え子の大津直規さんはその時の事を聞いています。
ピアノの奥深い音の世界に興味を持った孝男はイギリスの技術書を取り寄せ辞書を片手に独学で勉強を始めました。
そこには基本となる調律の原理が記されていました。
例えば音叉を使って測る「ラ」の音の振動数は1秒間に440回。
この音を基準に弦の張りを調節して他の音の振動数を変えていきます。
(ピアノ)その差が「ドレミファソラシド」の音階を作っていくのです。
研究熱心な孝男は調律を任されるようになりその世界にのめり込んでいきます。
教え子の島影宏介さんは孝男の音へのこだわりを覚えています。
孝男は自分の調律したピアノを弾いた人が満足そうな顔を浮かべる瞬間が何よりの喜びでした。
入社から9年後の大正3年孝男は銀座にある東京支店へ転勤となります。
このころ同じ会社で働く古屋花子と結婚。
その2年後長女玲子が生まれます。
晴臣の母です。
そんなやさき会社が揺れます。
大規模な労働争議が発生したのです。
これは後に「日本楽器争議」と呼ばれるほど激しいものでした。
思うように仕事ができなくなった孝男は会社を辞め独立する事を決意します。
この時孝男31歳。
調律師として一人生きる覚悟を決めたのです。
あっ…ここで終わるか…。
ハハハハ。
いや〜驚いた。
ハハ…。
会社を辞め独立した孝男は調律師としての技術を極めようと必死でした。
海外のピアノ技術書の翻訳にも挑みます。
書き上げた「ピアノ構成論」。
調律につながるピアノの構造を解説した本でした。
しかし調律師という職業は世間からなかなか認められませんでした。
それでも孝男は信念を貫きます。
「私たちが追求するのは美しい音を出す事。
表に出ない縁の下にいるべきなんです」。
軍事色が一層強まります。
ぜいたく品のピアノの販売は減少し調律師の仕事は激減します。
そんな孝男にうれしい知らせが届きます。
長女玲子の結婚。
相手は自動車メーカーで働く細野日出臣でした。
そして昭和20年終戦。
復興と同時に人々は音楽を求めるようになります。
孝男のもとにあるピアニストから調律の依頼が舞い込みます。
東京音楽学校教授でドイツ国籍のユダヤ人でした。
戦時中はナチスからの迫害を逃れるため日本で暮らしていました。
こちらになります。
孝男は演奏会にも同行します。
昭和22年6月金沢に向かいました。
新聞にも取り上げられチケットは完売。
クロイツァーの戦時中の不遇を知る観客たちはどんな演奏をするのか楽しみにしていました。
孝男はクロイツァーのしなやかなタッチが生きるようにピアノを仕上げるつもりでした。
ところが会場のピアノを見てがく然とします。
長期間手入れされていなかったため弦は切れ音が外れていました。
応急処置として弦を結び懸命に調律を行いました。
そして開演。
クロイツァーのしなやかなタッチで奏でられた「ピアノソナタ」。
優しい音色が響き渡りました。
(拍手)演奏終了後観客からは「ブラボー」の声があがり拍手が鳴りやみませんでした。
「まるでヨーロッパの演奏会のようだ」。
音楽専門誌にこの時の様子が記されています。
「ボロ楽器を弾いてくれた感謝が全聴衆を熱狂状態に陥れたのである。
クロイツァーの影に常に忠実に寄り添う調律の名家中谷氏の苦心があった」。
孝男は後年調律師にとって大切な事を教え子たちに語っています。
その1か月後長女玲子が出産。
細野晴臣の誕生でした。
そんな晴臣は幼い頃ある行動で周囲を驚かせました。
このころ孝男にある思いが芽生えます。
「日本の音楽界の将来を担う調律師の育成をしたい」。
そして誕生したのが国立音楽大学の調律のコースでした。
調律に対する孝男の姿勢は終始一貫していました。
「黒子に徹する事」。
大学生になっていた晴臣。
バンド活動に熱中し音楽漬けの日々を送っていました。
そんなある日祖父の孝男に調律師になりたいと相談します。
すると孝男は即座に晴臣に言いました。
「お前には向いていない」。
孝男はこう考えていました。
「音楽的耳のよさが調律的耳のよさと必ずしも一致しない。
音楽を相当やった人が途中から調律志望に転向した場合より初めから調律に進んだ方がよい」。
晴臣の適性を見抜いていたのです。
晴臣は大学卒業後本格的に音楽活動を始めます。
(「風をあつめて」)昭和45年ロックバンドはっぴいえんどを結成。
日本語でロックを歌うという斬新さで注目を集めました。
その7年後孝男は83歳で亡くなります。
残念ながらその後YMOを結成し世界的に活躍する晴臣の姿は見る事ができませんでした。
でも…やっぱ…1956年アメリカでタイタニック号を書いた本が出版されベストセラーとなります。
するとある一節が注目されます。
日本人は正文ただ一人。
あの正文の手記の存在は無視され「卑怯な日本人」という誤解が海外でも広まったのです。
晴臣さんは若い頃から細野家が背負った宿命を感じていました。
本の出版から41年後の1997年。
映画「タイタニック」が世界的に大ヒットします。
この年細野家にある依頼が舞い込みます。
アメリカにあるタイタニック財団が映画公開を機に祖父正文の手記を調べたいと申し出たのです。
当時調査を指揮した人物を訪ねました。
これまでに乗客1,500名分の情報を集めてきました。
ブラッケンさんは手記が事故直後の救助船で書かれていた事を知り驚きました。
そして過去の証言と照らし合わせると手記の信憑性が極めて高い事が分かったのです。
その最大の根拠となったのが正文の隣にいたアルメニア人のクレコリアンの証言でした。
「10号ボートには日本人がいた」。
ブラッケンさんたちは10号ボートについて調べました。
すると10号ボートはなんの混乱もなく降ろされその後定員に満たない事が判明し2人が乗った事が分かったのです。
細野家の長年の苦しみを知った財団は会報で12ページにわたって特集記事を組みこの事実を世界中に伝えたのです。
この調査結果はすぐに日本に伝わります。
「祖父の汚名が返上できた」。
1998年晴臣さんは一族に声をかけ祝賀会を開きます。
会った事のない正文の孫やひ孫総勢35人が集まりました。
66年前晴臣さんの母方の祖父中谷孝男が設立しました。
これまで送り出した卒業生は540人に及びます。
24期生で孝男の最後の教え子だった大津直規さん。
この大学で教えています。
職員室には孝男が書いた色紙が今も飾られています。
孝男の座右の銘。
その志は今も受け継がれています。
ミュージシャン細野晴臣さんの「ファミリーヒストリー」。
「タイタニック号からの生還者」という重荷との闘い。
日本の調律師のパイオニアとして奮闘した日々。
激動の時代を生き抜いた家族の歳月です。
「調律」と「タイタニック」というのは自分の中のやっぱりテーマですね。
一生これからも…。
2015/06/19(金) 14:05〜14:55
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「細野晴臣〜タイタニックの宿命 音楽家の原点〜」[字][再]
父方の祖父は、日本人唯一のタイタニックの乗客。しかしそのことが、細野家に重荷を背負わせることに。また母方の祖父は、日本のピアノ調律師の草分け。2人の祖父の物語。
詳細情報
番組内容
父方の祖父は、日本人唯一のタイタニック号の乗客。ある偶然で、九死に一生を得た。しかしその後、細野家はタイタニックの生き残りという重荷を背負うことに。タイタニック事故の前と後の家族の姿が明らかになる。また母方は、ヤマハの前身、日本楽器製造でピアノ調律を学び、調律師の草分けになった人物。晴臣は大学生の時、そんな祖父に調律師になりたいと言った。しかし、祖父は「ダメだ」と。その真意が、初めて明らかになる。
出演者
【ゲスト】細野晴臣,【語り】余貴美子,大江戸よし々
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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