共有地の悲劇 共有時間の悲劇

「共有地の悲劇」をご存じだろうか。「コモンズの悲劇」とも言う。

経済学の用語だが、よくある話でもある。

複数の農民が共有している土地があるとしよう。それぞれの農民はそこに牛を放牧する。牛は草をはむはむと食べる。はむはむ。それでも草はまだまだたくさんある。そこで農民の一人がもう一頭牛を購入し、放牧地に放す。はむはむ、はむはむ。気をよくした農民はさらにもう一頭牛を購入する。

それを見た他の農民も、「あっ、それいいじゃん」と牛を増やす。牛を増やす。はむはむ。はむはむ。牛の数が少ないうちは、牛が食べる草の量と、新しく生えてくる草の量はバランスしていた。しかし、牛の数が増えすぎるとそうはいかない。時間が経つにつれ、牧草地の荒廃は進んでしまう。

こうした状況は、農民が「自分勝手」だから起こる、というものではない。

たとえば、共有地ではなく、それぞれの農民が個人の土地を有していたとしよう。そこに牛を放牧する。もちろん、草が無くなっては困るから、農民は牛の数を調整するだろう。共有地の場合、なぜそれが起こらないのだろうか。

共有している場合、土地はあまりにも広くなる。だから、牛を一頭増やしたときの変化がわかりにくい。というか微量過ぎて、誤差で切り捨てられてしまう。システム的に「一体増やしても大丈夫」というフィードバックを得られるのだから、さらにもう一頭となるのは自然なことだ。個人所有の土地でも、「これはヤバイかな」と思うところまでは牛の数を増やすのだから、その点はかわりない。

ただ、そうした行動を複数人の農家が同時発生的に行った場合、誤差が誤差ではなくなってしまう。結果、フィードバックが返ってきたときには、もはや手遅れという状況に陥る。

ある状況に置かれたときの、個人の振る舞いは、同じ状況に置かれた他の個人においても発生する。だから、たとえそれが小さな振る舞いであっても全体には大きな影響を与えてしまう。いや、むしろ小さな振る舞いである方が、より大きな影響を与えるだろう。

なぜならば、大きな振る舞いであれば、その時点でフィードバックが返ってくる可能性があるからだ。「小さな」振る舞いの場合、それが返ってこない。だから、結果的により大きな影響を生んでしまう。

さて、考えたいのは「共有時間」である。ここで「分人」という考え方を参照しよう。

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一人の人間を確固たる「私」の統一体と見るのではなく、複数の「私」の集合体として考える。それが「分人」である。

そのような視点に立つと、私が持つ一日24時間という時間は、複数の分人によって所有されていることになる。自分A、自分B、自分C……。

それぞれの分人が、それぞれに最適な行動を取ろうし、また個々の連携が分断されているとする。すると、「共有時間の悲劇」とも呼べる現象は発生しないだろうか。

自分Aは5分だけさぼる。自分Bは7分だけ息抜きする、自分Cは6分だけ動画を見る……。一日が24時間あるのだから、たいしたことはない。はむはむ。

そうして、気がついたらほとんど何もできないままに一日が終わってしまっている。荒れ果てたタスクリストだけが私の目の前に残ることになる。

さいごに

問題はフィードバックなのだ。

今の私が6分だけ何かをサボろうとも、一日24時間という大きな資源には影響を与えない(ように思える)。しかし、一日の中で、そうした分人が何人も出てくれば、誤差は誤差ではなくなる。もし、何かしらのフィードバックが機能していれば、時間の使い方強制ギブスなど使わなくても、何かが変わるかもしれない。

私が推測するにタスクシュートというシステムは、この認識(フィードバック)に関与している。ただし、他にも方法はあるだろう。どちらにせよ、肝はフィードバックである。

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