去る6月15日(1992年)、自民党とそれに寄生する民社・公明両党の“数の論理”による強行採決で、悪しき国連平和維持活動(PKO)協力法が可決された。多数決=民主主義という論理そのものの誤りがこれで明白となり、そればかりか日本=民主主義という思い込み自体が幻想であったことも歴然とした。日本は、依然として〈封建主義国家〉のままだったのである。そう言われてみれば〈天皇制〉の存在理由もしかと頷けよう。軍国主義教育を受けて育った政治家によって“成立”させられたこのPKO協力法は、言うまでもなく憲法違反である。このことは、全国の憲法学者らが「PKO協力法は憲法の平和主義に反する内容を含んでいる」として反対声明を出したことからも知れるように憲法学上、明らかに「違憲性」が認められる。したがって憲法違反の法律は、たとえそれが国会で“成立”したとしても「その効力を有しない」(憲法第98条)。しかも空恐ろしいのは、憲法違反の法律を憲法を変えることなくデッチあげた政治家どもの醜態であり、これなど憲法第99条の「この憲法を尊重し擁護する義務を負う」本来の政治家の立場を公然と否定するものである。“脱法改憲”──即ち、改憲することなく違憲の法律を作り、それを既成事実とし改憲に持ち込むやり方の典型が、まさにこのPKO協力法の“成立”だった。だから遅かれ早かれ第9条は、改憲(改悪)へと持ち込まれるだろう。
PKO協力法がなぜ憲法違反なのか。なぜ第9条に違反するのか。そもそもPKOとは〈Peace-Keeping Operations〉の略なのだが、これを“平和維持活動”と訳すのは政府がよく使う手である言い換えにすぎない。Operations は軍事的な「作戦」を意味するから、正しくは「平和維持作戦」である。同様のことは自衛隊の英語読みにも言える。〈Self-Defense Force〉のForceは「軍」であり、PKFのF(Force)のことである。したがって「軍隊」である自衛隊の存在もおのずから憲法違反であり、たとえ国内でいくら「自衛隊は軍隊でない」と言い張ろうが、日本以外の国では「自衛隊は軍隊」と見なされる。その自衛隊が、PKO協力法の“成立”によって海外派兵されるのである。
今回のPKO協力法の真の狙いは、日本政府と自民党にとっては、自衛隊の海外派兵実現にこそあった。が、それを本当に“歓迎”するのは、実はアメリカをはじめとする大国の軍需産業である。仮想敵国としてのソ連が崩壊して、米ソ冷戦が終結したと思いきや、今度は中東で「湾岸戦争」が勃発した。この戦争がアメリカとクウェートの共同謀議によって仕組まれ、その挑発にイラクが乗ったのは隠された事実であるが、この戦争の裏には石油の利権が絡み(原油価格の高騰を生じさせた)、そして軍需産業の「ビジネス」(新兵器の実験・開発と大量の武器・弾薬の消費)が取り行われた。むろん、戦争は継続されてこそ意味がある。サダム・フセインを暗殺せずに生かしておくことで、イラクの脅威はなお継続されるのである。軍需産業の「ビジネス」はまた、アジア各国をも恰好の兵器市場として食指を動かしている。そのため米ソ冷戦の終結で日本の自衛隊や沖縄在日米軍の軍備縮小がなされないよう、またその“存在意義”を新たに見出すため、ソ連に代わる新しい「敵対国の脅威」や「民族紛争」を必要とした。それが湾岸戦争でありボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でありカンボジア紛争だったというわけだ。
またPKOに自衛隊を派遣することは、国内法はもとより国際法上からも違法行為である。なぜなら国連のPKOは各国の軍事要員には派遣を要請できても、そうでないものに要請することは断じてありえないからである。まして「軍隊」としての性質は帯びていても憲法上そうでない自衛隊が、武器を持って海外に出ていく法的根拠はどこにも存在しない。かりに政府が、自衛隊を他国の侵略から自衛するための〈自衛権〉に基づいた組織という見解をとっていても(もっとも憲法上、国の交戦権=自衛権を認めていないので、必然的に自衛隊は機能せず違憲となるわけだが)、それは他国からの侵略を受け、しかも自国の領域内に限って正当に行使できる権利なのであって、わざわざカンボジアへ出かけていき正当防衛だとして〈自衛権〉を行使するいわれはない。軍隊組織でなく交戦権すらない、違憲で非合法の自衛隊が、武器を持ってカンボジアへ出かけていけばどうなるか。当然予想されることとして、クメール・ルージュのポル・ポト派はそれを躊躇なく侵略行為とみなし、自衛隊員を捕まえた場合には国際法(ジュネーブ協定)上は捕虜とされないから、犯罪者として好き勝手に処罰するだろう。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を見てわかるとおり、PKOがたとえ「紛争からの中立と当事者間の同意、武力不行使」を原則としていても、矛盾するとはいえ国連の武力行使容認決議により戦争状態となれば、原則は撤廃されPKOも質的に転換され武力行使が容認されるに決まっている。そのとき自衛隊の立場として、自分たちだけのこのこと日本へ引き上げてくるわけにもいくまい。
ところで、このPKOに自衛隊を派遣できるようその後ろ楯・錦の御旗となったのは、ほかならぬ国連である。実に多くの日本人が誤解しているが、国連はそれほど「中立」でも「平和の使者」でもない。それについては『国連の死の商人』(広瀬隆著・八月書館発行)に、国連=連合国の人脈と軍需産業との密接なつながりが暴露されているが、国連の安保理常任理事国であるアメリカ・旧ソ連・イギリス・フランス・中国の超大国は、何を隠そう対立する紛争当事国または紛争当事者の両軍に大量の兵器を売り込みながら、同時に国連の武力行使容認決議を強権で“成立”させ、自国の軍隊を投入し戦争を惹起しているのである。
本来国連とは、国連憲章にあるように「武力を用いないことを原則」とし、「平和的手段によって」国際の平和および安全の維持を実現しなければいけないはずだが、実情はその正反対である。この7月、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が事実上カンボジアの行政(国防・外交・財政・治安・情報)を移管し、直接に統治・掌握したことからも察するように、国連PKO・PKFの役割とは、要するに新しい侵略手段であり植民地政策だと容易に理解されてくる。おそらくは軍隊のみならず、利権の獲得のために多国籍=無国籍企業が“復興援助”という名目で経済侵略をはじめるにちがいない。PKOの活動資金(使途不明金)は、したがって国連軍=連合軍の軍隊を養い、国連=連合国の軍需産業の兵器を購入する資金として調達される仕組みであるが、それを肩代わりして負担(つまり防衛費増額と軍備拡張)するのは、すでに「湾岸戦争」で多大な実績を作った非連合国/非常任理事国/敵国のドイツと、そして日本である。これこそが、今回日本とドイツをPKOに参加させた真の狙いだった。言ってみれば、UNTACの特別代表に明石康という日本人を起用したのも、日本をその気にさせるための巧妙な心理的戦術であり、国連事務総長でも何でもない人間が、国連から正式な要請がないにもかかわらず、沖縄にPKO要員のための共同訓練基地や物資集積センターを建設しろだの財政面でPKO資金の3分の1(8億ドル)を拠出しろだのと勝手に口をはさむなど、明らかに日本への「内政干渉」ではなかったか。
以上のことから、PKOに自衛隊を送り込むのはきわめて危険なリスクを負わざるをえないゆえ、私は海外派兵に反対である。おそらくこれに対して、では「国際貢献」はどうするのかという当然の反論が予想されるが、自衛隊の海外派兵を「国際貢献」だと考えているのは、先にも触れたように軍需産業で潤う超大国のみのごく少数にすぎない。逆に、自衛隊が海外に出かけていくことでそれを脅威と感じる“声なき声”が、太平洋戦争で日本軍に侵略されたアジア各国にあることをこそ感じとらなくてはいけない。アジアの人びとにとって、自衛隊は紛れもなくアジアを侵略した日本軍と同じ「軍隊」なのであって、その「軍隊」が海外派兵するとは〈軍国主義日本の復活〉と認識されても致し方ないのである。日本人は実に能天気だから、「国際貢献」のため「アジアの平和」のためとどうせ詭弁を弄するだろうが、あの太平洋戦争=大東亜戦争もやはり同じく「アジアの平和」のためと謳いながら突入していったのだ。それと今度のPKOが、まったく同じパターンを踏襲しているということに日本人の多くは気づかない、いやすっかり騙されて見抜けないでいる。
戦争は何も突然はじまるのではない、ということはもはや自明の理である。太平洋戦争の開戦当時、誰も戦争するなど多くの日本人は思いもしなかったが、知らぬ間に戦争遂行を可能にする状態が段階を踏んで築かれていき、やがて気づいたときには時すでに遅く戦争が免れない事態へと到ったのである。またこれはあまり知られていないが、今回のPKO協力法のなかに〈徴兵制〉を可能にする条文が確固としてある事実は見逃せない。それは第5章「雑則」第26条の「民間の協力等」と称する条文だが、そのなかに「国際平和協力業務を十分に実施することができないと認めるとき」「役務の提供について国以外の者に協力を求めることができる」とある。ここでいう“国以外の者”とは国家公務員および国の行政機関以外、即ち民間人すべてを指す。まさかと思うだろうが、ひとたび非常事態となればこの条文は現前と生きてくるのである。
繰り返すが、「国際貢献」は自衛隊の海外派兵によってはなされない。武力による平和的解決は歴史的にありえないばかりか、自衛隊が海外派兵されることはそのまま波状効果的にアジア各国の軍拡へとなだれ込むだけだ。まず日本が手がけるべき「国際貢献」とは、自衛隊の軍備を増強させるのではなく、その機能を〈災害救助隊〉へと振り向けること。そうして世界でもっともたぐい稀で貴重な「平和憲法」の第9条の理念、即ち戦争の永久的な放棄を、戦後これまで日本がまったく戦争を行わずに平和を貫きとおしてきたことの証(あかし)として、誇りをもって国内外に向けてアピールしていくべきであろう。それこそが、戦争をなくし平和を実現させる解決の道への、力となりうる有効な方法である。
【1992/08 江原・記】
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