タクシーに乗って行き先を告げると「お客さんは中国の方ですか?」と聞かれました。「はい。」と答えると「私は中国生れです。1956年に日本に帰ってきました。両親に絶対中国人と仲良くしないとダメだと言われ続けました。」と言うのです。
日本の敗戦は1945年でした。中国は「日本国民も同じ戦争の被害者」という考えの下でその後の数年間で日本の軍人と民間人を船に乗せて送還したはずです。孤児達は地元の人達が育てましたが、両親のいる家族がその後10年以上、奥地の西安で暮らしたとは理解できないです。その好奇心に掻き立てられ、彼の話を聞くことになりました。
「奥地に逃げたので帰国できるとは知りませんでした。両親は山形県から満州に渡った開拓民でした。敗戦後、軍人と役人が先に逃げたので、開拓民達は各自の判断で逃げ道を決めました。山形県の開拓団は満州から西の方に逃げることにしましたが、赤ん坊の姉が泣くということで団長に殺されました。私は西安に着いて暫くたってから生れました。」(ドライバー)
「悲しい話ですね。殺さず地元の百姓に託せばいいじゃないですか。」(宋)
「団体行動なので皆が赤ん坊を団長に預けました。おっしゃるようなことは後になって思い付くものです。それは母の一生の悔いでした・・・。奥地に居たので帰国できるとは知らずに10年近く西安で暮らしていました。
日本に帰ってきてだいぶ年数がたったある日、居間にいくと母が激しく泣いていました。テレビで残留孤児の帰国ニュースをやっていました。母が姉のことを思い出したのでしょう・」(ドライバー)
「・・・・・・。」(宋)
この会話は数カ月前の話です。今日になって読者の皆さまに紹介する気になったのはある本を読んだからです。それが今回「宋メール」のタイトルの「この生はあるは」です。
著者の中島幼八さんは上述のドライバーと似た経験しています。2歳の時に家族と満州に渡り、敗戦後に生まれた妹さんを飢餓で亡くしました。違うのはご両親が万策尽きた時息子を生かすために断腸の思いで地元の中国人に預けて帰国したことです。
ぎりぎりの生活する貧しい養父母達が13年間にわたり彼を育て上げ、最後に日本の実母のもとへと送り返しました。
悲しい出来事でありながら、この本の内容はユーモアに溢れ、暗くありません。中島幼八さんの養母はたくましく知恵に溢れる女性でした。
若い独身の養母は中島さんをもらってから結婚しました。最初の養父は貧しい農民でした。自分の子供として大切にしてくれましたが、中島さんが8歳の時に病気で亡くなりました。養母は中島さんを連れて二番目の養父と結婚しました。中島さんは12歳の時に重い病気にかかって養父が彼を牛車に乗せていろいろな漢方医を訪ねて歩きました。
中島さんの三番目の養父は港の日雇い労働者でした。僅かの稼ぎの中から学費を捻出し、彼を学校に通わせました。
1958年、中島さんが16歳の時、最後の日本人送還船に乗って日本に帰国しました。上述のドライバーさんのお母さんがテレビでみた帰国の日本人残留孤児達は日中国交回復後の話であり、敗戦後30年以上も経ちました。中島さんは敗戦13年後に送還船に乗って帰国できた珍しい残留孤児でした。
中島さんの家の壁に中国農村の画がかかっています。
「それは私が住んでいた黒竜江省安寧県です。日本は私の祖国ですが、中国は私の故郷です。」と中島さん。
P.S.
中島幼八さんの「この生あるは」は数年前に既に完成しましたが、出版してくれる出版社がなかなかないため、自費出版しました。
販売チャネルがないので中島さんは近所の本屋に営業に行きました。本の内容に感動した本屋のオーナーが協力してくれて一気に売れました。本屋のオーナー曰く「私が売ったのは本ではなく感動です。」
その後、この本にマスコミも注目し始めました。6月10日の朝日新聞も取り上げました。この本を読みたい方はどうぞ↓
http://www.amazon.co.jp/dp/4990832302
来月、この本は中国でも出版される予定です。翻訳ではなく、中島さんがもう一度中国語で書きあげたのです。
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国や時代は違っても、人間の感情は同じだと思います。よきこころには、リスペクトでお返ししたいです。すばらしいエピソードをありがとうございました。
今回のお話にも感動しました。命をかけて命を育ててくれた方々が沢山いたことを、我々は謙虚に知る必要があります。
メルマガに載せていただきまして、ありがとうございます。
中国とつっぱりあいをせず、ぜひ国同士もよい関係を保ちたいものです。
早く我々が尊敬していた中国に戻って欲しい!!切実です。今の日本人は戦争で侵略するなど、毛頭考えていません。あの安倍首相ですらそうです。
中島さんの本売り切れです。
作家の瀬戸内寂聴氏はその時のことをこう記しています。「私は敗戦を北京で迎えた。日本人は皆殺しにされるだろうと、その夜は一睡もできなかった」と。
恐らくその時、中国にいた日本人は皆そのような気持ちだったと思われます。特に中国人に対して残虐なことをして来た日本軍にどんな仕返しがされるだろうか、本当に不安な気持ちだったと思います。しかし、中国側は次のような声明を出して中国国民に呼びかけました。「我々は報復を考えてはならず、まして敵国の無垢の人民に汚辱を加えてはなりませ。もし、暴行を持ってかっての敵がおこなった暴行に報い、奴隷的な辱めを持ってこれまでの彼らの優越感に報いるならば、報復は報復を呼び、永遠に終わることはありません。これはけっして我々仁義の士の目的ではありません」。この声明が、「怨みに報いるに徳をもってす」という有名な言葉です。これは、終戦後の日本国内でも報道されました。
中国は“敗戦国”日本にたいして歴史上まれに見る寛大な処置をおこないました。それは一千万人を上回るといわれた中国軍民の血の犠牲と天文学的な物的損害にたいする膨大な戦争賠償金の全面放棄であり、中国大陸に残留する日本軍民二百万人の安全帰国の早期実現などでありました。また、宋さんの記事にもあるように、満州で残された多くの残留孤児も、養父母によって育てられました。その当時の中国人は、お金持ちであったわけではありません。非常に貧しい中で、苦労して育ててくれたのです。
このような歴史を顧みるとき、細部にはそうでない事例もあったかもしれませんし、帰れなかった日本人もいたことでしょう。しかし、やはり全体として日本は歴史に借りがあると言わざるを得ません。
最近、宋さんに対するコメントの中で、宋さんと中国に対してかなり感情的に反発している記事が見られます。しかし、明治以降の100年間で、実際に日本が中国から受けた害悪と、日本が中国に対して行った害悪を冷静に考えるべきだと思います。終戦時にソ連のやったこと、アメリカが行った原子爆弾の投下などの事実もよく考えるべきだと思います。
中国との関係をきちんと見直すためにもとても大切な内容だと私は思います。
さっそくアマゾンで注文しました。読んでみます。
中国残留孤児の話も、感動的な話から、悲惨、残酷極まりない話まで、地球同様に360度でしょう。
山崎豊子さんの「大地の子」は小説ですが、これもまた何かを伝えています。
また、この小説が自分の著作の一部を盗用していると訴えた、遠藤誉さんの著書「チャーズ(卡子 )」は心が痛くなります。
私にはこのような経験はありませんが、小学校の恩師は旧満州長春で育った方で、70歳を過ぎて里帰りの旅行をしたそうです。
昔の街並みと、自分が遊んだ小川もそのままあったそうです。
それ以上に、親切に迎えてくれた中国人の方に感謝してました。
また、会社の上司だった方は、会社が中国事業を重要事業とリソースを投入しているにも関わらず、何故かあまり積極性を感じさせませんでした。
飲み会の席でポツンと私に語ったのは、
「僕が中国事業に気が乗らない理由は、引み揚者だからだよ。家族全員無事に引き上げられたけど、僕は幼かったので記憶はないが、母親や姉たちから聞いた話から、どうも中国は好きになれないんだね。ビジネスと割り切れないんだ」
でした。
宋さんが紹介している「日本国民も同じ戦争の被害者」という件ですが、コンサルタントの大前研一氏の解説も興味深いと思います。
中国残留孤児のことは詳しくはないのですが、山崎豊子さんの大地の子を読むと、兄と妹で全く正反対の人生を歩みます。妹は牛馬のようにこき使われて、祖国に戻れず亡くなります。
養父母によって、いろいろだとも思います。
それでも生かしていてくれたことは確かだと思います。
ところで、山崎さんの小説でも、宗さんのお話でも、共通することが一つだけあります。それは、当時の軍人が一般人を置いて我先に帰国したことです。
日本人として、この歴史の事実には怒りとともに恥じいるばかりです。