黒田勝弘(産経新聞ソウル駐在特別記者兼編集委員)

朴正熙と岸信介の因縁


 この6月は日韓国交正常化50周年にあたるが、何とも皮肉な状況になってしまった。祝賀ムードなどどこにもない。周知のように日韓関係が過去最悪といわれるほど冷え込んでいるからだ。背景には韓国の度を越した自制なき反日と、日本での反韓・嫌韓感情の広がりがある。

 これまでにない冷たい関係の象徴は、双方の首脳が2年以上にわたってまだ一度も首脳会談を開いていないことだ。日本の安倍晋三首相は「いつでも門戸を開いている」と言い続けているが、韓国の朴槿惠大統領は慰安婦問題を理由に会談を拒否している。こういう場合、国際的には「会いたい」といっている相手に「会いたくない」といっているほうが分が悪い。

 ということもあって、朴槿惠大統領にとってその外交的環境は次第に厳しくなりつつある。

 国交正常化50周年を考えるとき、日韓関係を最悪にしてしまったのがよりによって朴槿惠大統領時代とは、歴史的な皮肉というしかない。

 彼女は50年前、日本と国交正常化を実現した朴正熙大統領の娘である。彼女が大統領になれたのは、歴代大統領のなかで最も国民的な人気がある父のイメージ、つまり「朴正熙の娘」だったからといってもいい。その父が政治生命を懸けて決断した、歴史的業績である日韓国交正常化の50周年を娘が祝えないとは。親子の絶対的関係を重視する儒教的価値が強い韓国では、これは「親不孝」ということになる。

 日本はそれほど儒教的ではないが、似たようなことは安倍晋三首相にもいえないことはない。

 というのは日韓国交正常化を実現した佐藤栄作首相は、安倍首相の外祖父・岸信介の弟で、安倍首相の縁戚になる。岸信介元首相も親韓派として国交正常化の影の立役者だった。安倍首相にとってはこの日韓の歴史は政治的にひときわ感慨深いはずである。にもかかわらず50周年に際しその歴史を祝う雰囲気にないことは、内心忸怩たるものがあるだろう。

 余談だが、安倍首相サイドの歴史的エピソードには岸信介と朴正熙とのあいだの逸話がある。以下のことは岸信介元首相から直接聞いた話である。

 朴槿惠大統領の父・朴正熙は1979年10月26日、内政上の葛藤から側近に暗殺され18年にわたる長期政権は幕を下ろした。彼は国葬(11月3日)となり、日本から岸信介が弔問特使として訪韓した。そのとき、筆者は同行記者として同じ飛行機に乗った。機内で岸信介にインタビューした際、こんな思い出を語ってくれた。

 朴正熙は1961年5月、クーデターで政権を握ったあと、過渡期の国家再建最高会議議長として訪米しその帰途、日本に立ち寄った。朴槿惠大統領の父・朴正熙の日本訪問は後にも先にもこれだけだ(戦前、満州軍官学校から日本の陸軍士官学校に留学はしている)。その後、長期政権にもかかわらず大統領としての日本訪問は諸般の事情で一回もなかった。余談中の余談だが、朴・父娘にとって日本公式訪問は鬼門?

 岸信介によると、朴正熙は軍事政権スタート直後の唯一の訪日の際、岸に対し「自分は幕末・明治維新の吉田松陰、高杉晋作の気持ちで国作りをやっています」といって日本の協力を要請したというのだ。

 これは岸が山口出身で松陰、晋作と同じ旧長州の出であることを踏まえたうえでの発言ではなかったか。そして安倍首相自身が日ごろこの旧長州の政治人脈を意識していることは、つとに知られている。

 こうした政治的因縁と世代を同じくする「朴槿惠と安倍晋三」が、いまだに首脳会談を開けないことは皮肉を超えて悲劇(?)に近いが、ここにきてやっと韓国側に日韓関係改善に向けた前向きの機運が出ている。とくに4月の安倍首相訪米のあと、首脳会談早期開催必要論が広がっている。反日好きで“安倍叩き”を続けてきた韓国メディアだが、このところの論調はほとんど一致して首脳会談の早期開催を政府に促している。

 メディアで見るかぎり、あとは朴槿惠大統領の決断だけという雰囲気だ。メディア論評のなかには50年前、反対世論を抑えるため戒厳令まで宣布し日韓国交正常化を決断した父を例に、「父にならえ」と決断を求めるものもある。

 韓国側の“変化”の背景には、政治・外交的には安倍首相訪米による日米蜜月ムードのほか、日中首脳会談の実現と日中関係改善の流れがある。とくに前者の影響が大きい。安倍訪米による日米同盟関係強化に対し韓国の反応は「米国は韓国に冷たい」「米国は日本寄り」との声がもっぱらだ。そこから出てきているのが「韓国孤立論」である。

 安倍訪米をめぐる韓国の異様な関心と狂騒の意味についてはあとで触れるが、韓国における外交的孤立化論は対日関係でもうかがわれる。「こんなに長く日本との関係がよくなくていいのか」という不安感、孤立感は安倍訪米の前から徐々に出ていた。それが安倍訪米によって一気に広がり、日韓首脳会談早期開催論を強く後押ししているのだ。

 日韓関係については日本人と違って韓国人の心理はいつも微妙である。端的にいって、現状のような日韓関係悪化とその長期化に対し日本人にどれだけの不安感や孤立感があるだろうか。もちろん政府当局者や識者にはそれなりに懸念はあり、その打開を模索する声や動きはうかがわれるが、不安感、孤立感ということではないだろう。

 しかし、韓国では国民心理としてそれがあるのだ。日韓関係の長期悪化や首脳会談不発が続くなか、当局者や識者、メディアばかりではなく街の声にもそれが出はじめている。筆者の周辺でも街の声として、事態を懸念する声が多く聞かれるようになった。