2012年 5月12日 No.7 観世音寺 観世音寺(かんぜおんじ)は、福岡県太宰府市観世音寺五丁目にある天台宗の寺院。本尊は聖観音。開基は天智天皇である。九州を代表する古寺で、造営開始は7世紀後半にさかのぼる。東大寺、下野薬師寺とともに「天下三戒壇」のひとつとされ、平安時代以降は徐々に衰退したが、仏像をはじめとする文化財を豊富に有する。 現地案内板より 『 大宰府政庁の東に接して建てられた観世音寺は大宰府の庇護のもと九州中の寺院の中心となり、「府の大寺」と呼ばれた。 百済を援(たす)けるため九州に下った斉明天皇が朝倉橘広庭宮で亡くなり(661年)、その子天智天皇が、母の菩提を弔うために此の地に観世音寺建立を発願したことが「続日本紀」に記されている。 寺は80数年かけて天平18年(746)に完成し、天平宝字5年(761)には僧尼に戒を授ける戒壇を設置、奈良の東大寺・下野(栃木県)の薬師寺と並んで日本三戒壇の一つに数えられている。 かつては方3町(約330m四方)の寺域を占め、講堂・金堂・五重塔などの建物が整った大寺院であったが、その後火災や大風にあい、創建時の建物は失われている。現在の金堂と講堂は江戸時代に黒田藩主が再建したもので、県指定文化財となっている。 』 現地案内板より 『 国宝 梵鐘 この梵鐘は京都妙心寺の鐘と兄弟と云われ、その古さに於いても亦優秀さに於いても正に日本一と称せられ糟屋郡多々良で鋳造されたと伝えられています。 』 この梵鐘は、正確な鋳造年次は不明ながら、「戊戌年」(698年)の銘がある京都・妙心寺の梵鐘と同一の木型によって鋳造された兄弟鐘とみなされている。これらのことから、観世音寺は7世紀末ころまでにはある程度の寺観が整っていたものと推測される。 配所の「榎社」にいた菅原道真の詩に「都府楼は纔(わず)かに瓦色を看る 観音寺は唯(ただ)鐘声を聴く」とあるのはこの鐘である。1100年以上も前に道真が聞いた鐘の音が今でも聞けるのは不思議な気がする。 観世音寺境内から出土した瓦のうち、創建時の瓦とされるものは、老司 I式と称され、飛鳥の川原寺や藤原京の瓦の系統を引く、複弁八弁蓮華文の軒丸瓦と偏行唐草文の軒平瓦の組み合わせからなるものである。この老司 I式瓦は現在の福岡市南区老司にあった瓦窯で焼造されたもので、7世紀にさかのぼる。 現在残る観世音寺の建物はすべて近世の再建で、昔の面影はないが、発掘調査によると、回廊で囲まれた内側の東に塔、西には金堂が東面して建つ、川原寺式に近い伽藍配置であった。川原寺は観世音寺と同じく斉明天皇ゆかりの寺であり、前述の出土瓦の形式等からも両寺の結びつきが推定される。 川原寺は天智天皇が母の斉明天皇(皇極天皇重祚)が営んだ川原宮の跡地に創建したとする説が有力となっている。川原宮は、斉明天皇元年(655年)に飛鳥板蓋宮が焼失し、翌斉明天皇2年(656年)に岡本宮へ移るまでの間に使用された仮宮である。 観世音寺は平安時代後期以来、東大寺の末寺であったが、明治時代以降は天台宗寺院となっている。 観世音寺は80数年かけて天平18年(746)に完成したとされる。開基である天智天皇は672年に亡くなり、天武天皇も686年には亡くなっている。天智も天武も斉明の子である。観世音寺が完成されたとされる天平18年(746)は既に奈良時代で、天平17年(745年)頃からは東大寺の建立が始まっている。大仏開眼会が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであり、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)だという。東大寺も伽藍が一通りできあがるまでには40年近い時間を要し、完成は780年以降とみてよいだろう。既に長岡京への遷都が計画され実行にうつされた頃に東大寺は完成したのだ。そして、最終的には794年には平安京に遷都する。 川原寺は、飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ飛鳥の四大寺に数えられた。しかし、正史『日本書紀』にはこの寺の創建に関する記述がない。そのため「謎の大寺」とも言われている。平城京遷都とともに他の三大寺(飛鳥寺、薬師寺、大官大寺)はその本拠を平城京へ移したが、川原寺は移転せず、飛鳥の地にとどまった。 川原寺は平城京への遷都の後、顧みられなくなっていくが、観世音寺は奈良時代まで建設が続き完成したことは、天皇家の母なる寺(斉明の寺)の中心は結果として九州に移ったのかも知れない。 戒壇院は先ず東大寺に天平勝宝6年(754)に鑑真和上によって設けられた。続いて天平宝字5年(761)に下野薬師寺と筑紫観世音寺に設けられた。 京から遠く離れた、この戒壇院のある下野薬師寺と筑紫観世音寺は、僧の左遷の場所でもあった。これは太宰府が官人の左遷の場所であったのに似ている。 下野薬師寺には天平勝宝6年(754年)薬師寺の僧・行信が、そして宝亀元年(770年)には道鏡が流されている。 そして、筑紫観世音寺には745年(天平17年)に玄ムが左遷されている。 玄ム(げんぼう)は、奈良時代に僧正まで上り詰めた法相宗の僧。俗姓は阿刀氏(安斗氏)とされる。 玄ムは阿倍仲麻呂、吉備真備らとともに遣唐使に学問僧として随行し入唐した。18年後(735)に帰国した。真備、玄ムらの乗った船だけが種子島に漂着して帰国でき、あとの3艘は遭難した。 玄ムは橘諸兄政権(反藤原政権)のもとで吉備真備とともに出世した。740年(天平12年)、太宰府に左遷されていた藤原広嗣(藤原宇合の長男)は、玄ム・真備を排除しようと九州で兵を起こした(藤原広嗣の乱)。乱は大野東人を大将軍とする追討軍に鎮圧され、敗走した広嗣は肥前国松浦郡で捕らえられ、同国唐津にて処刑された。 反逆者・広嗣の起こした乱に連座し捕らえられた者は、死罪26人、官位を剥奪された者5人、流罪47人、杖罪177人の計255人にも及んだというが、なんと、一年も経たない天平13年(741)9月8日、恭仁宮への遷都に伴う「大赦」の名目で罪人となった者すべてが赦免された。影で藤原氏に繋がる者が動いたことは確かだ。(光明皇后か?) やがて、藤原仲麻呂(後の藤原恵美押勝・藤原武智麻呂の次男)が台頭すると、反対に745年(天平17年)には玄ムが筑紫観世音寺に左遷されている。藤原広嗣の残党の残る太宰府に左遷されることは、玄ムの死を意味する。まるで狼の群れに子羊を放すようなものだ。 観世音寺は80数年かけて天平18年(746)に完成した。その太宰府観世音寺落成供養の日に玄ムは殺された。それは左遷から半年たったころのことであった。伝承から想像するに残酷な殺されかたをしたようだ。当時の人は、藤原広嗣の亡霊に殺されたと噂した。 玄ムの盟友・吉備真備も750年に筑前守(次いで肥前守)に左遷された。更に57歳になった752年に遣唐副使となって再び渡唐した。これは渡海の危険を負わせる藤原氏の策略だろう。(後世、同じ手を菅原道真の時にも使おうとした。)しかし、真備の闘魂が勝った。翌年、真備は鑑真をつれて帰国した。帰りの航海も暴風により、鑑真と真備の乗った船は屋久島に漂着し、危うく命を落すところであった。鑑真は実に6回目の挑戦でようやく日本に到着することができた。この時、すでに在唐35年を経過していた阿倍仲麻呂も帰国しようとしたが、阿倍仲麻呂の乗った船は難破してしまった。阿倍仲麻呂は帰国が叶わず大陸に骨を埋めることになる。 「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」 これは阿倍仲麻呂が唐でつくった歌だとされる。菅原道真は“平安朝きっての秀才”と云われたが、阿倍仲麻呂が帰国していれば“平城朝きっての秀才”と云われるのは間違いない。 鑑真はその後、入京を果たし、戒壇院創設などの功績を挙げることができたが、真備はその後も京の都に復帰することはできず、754年太宰少弐、759年太宰大弐として、学校院の設立や、唐の内乱に対応して伊都城を築いたりしている。 雌伏すること10年、孝謙女帝が僧の道鏡を寵愛、重用するにおよび、長く権力を握っていた藤原仲麻呂の力が弱まった。そして真備は764年造東大寺長官として帰京した。齢70歳であった。 764年秋に藤原氏の中でも孤立していた藤原仲麻呂(恵美押勝)は反乱を起こした。孝謙は当時造東大寺司長官であった吉備真備を召して従三位に叙し仲麻呂誅伐を命じた。藤原仲麻呂のために久しく逆境にあった真備は、ここぞとばかりに在唐中に取得した軍学の知識を駆使して藤原仲麻呂を追いつめた。ついに藤原仲麻呂は斬られ、その一家も皆殺しにされた。真備はついに盟友・玄ムの仇をとった。玄ムにはスキャンダラスな逸話があるが、これは藤原氏を敵に回した結果であり、それなりに立派な人だったのではないかと思う。 藤原仲麻呂の乱の後、孝謙が重祚し称徳天皇となる。真備はこのあと右大臣となって775年80歳で亡くなった。当時としては稀な長寿だが、やはり唐で学んだ妙薬の知識でもあったのだろうか。その真備も藤原氏の牙城を崩すまでには至らなかった。藤原氏はしぶとい。 道鏡の野望をくじいたのは和気清麻呂であることは前に述べた。私は吉備真備(下道真備)と和気清麻呂が同じ吉備(地域はちがう)の出身であることに興味を引かれる。古くからの下道氏に対して後進の和気氏はどこかでライバル意識を持っていたのではないか。和気清麻呂が活躍するのは桓武天皇の時代である。藤原 対 反藤原の闘争の時代である奈良時代が終わり、桓武天皇の平安京遷都により藤原氏中心の貴族の時代 平安時代が始まる。勿論、桓武天皇を擁立したのは藤原氏だ。 ( 関連記事 和気清麻呂 旅 171 和気神社 ) 学者から大臣の地位に昇進したのは、吉備真備と菅原道真だけだ。そして二人の共通点は、どこかでスサノオにつながる部分があることだ。そのことは、また改めて記したい。 さて、話を玄ムに戻そう。玄ムは義淵(ぎえん)の弟子である。義淵には義淵七上足と呼ばれる高弟がいた。それは玄ム、行基、宣教、良敏、行達、隆尊、良弁である。奈良時代に活躍した錚錚たる僧侶たちである。一体、義淵とはどんな人物なのだろう。 義淵は奈良時代の法相宗の僧。『続日本紀』によると俗姓は市往氏であるが、『扶桑略記』では大和国高市郡の出身で俗姓を阿刀氏とする。出家して元興寺に入り唯識・法相を修め、龍蓋寺(=岡寺)などの5ヶ龍寺を創建した。703年(大宝3年)に僧正に任じられた。市往氏であれば百済系の渡来氏族、阿刀氏であれば饒速日命の後裔といったところか。龍の名の付く寺を創建しているので龍門寺義淵ともいう。 私が注目するのは、天武天皇により草壁皇子とともに岡本宮で養育されたということだ。「東大寺要録」では義淵の父方の姓が津守氏、母方が阿刀氏とされる。「七大寺年表」では、津守氏・阿刀氏は義淵の養父母とある。これが義淵捨て子伝説の元となっているのだろう。そして、義淵は「鬼室福信」「鬼室集斯」という百済系の名門の子弟ともいう。日本に来た百済遺民の記事の中に、「天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)鬼室福信の功により、その縁者である鬼室集斯は小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)。」とある。私は義淵は戦死した(豊璋に殺されたのではなく)鬼室福信の子どもではないかと考えている。 天武天皇は大海人皇子の時、百済を援(たす)けるため九州に下った斉明天皇や中大兄皇子と一緒に朝倉橘広庭宮へ来ている。中世の古文書に大海人皇子は中大兄皇子の弟ではなく兄であると記されたものがある。 天武の妃の鸕野讚良(後の持統天皇)は天智天皇(中大兄皇子)の娘だ。中大兄皇子は鸕野讚良だけでなく大田皇女、大江皇女、新田部皇女の娘4人を大海人皇子に与えている。 天智と天武の母・皇極天皇(後に重祚して斉明天皇)は37歳で舒明天皇と結婚する前、高向王(用明天皇の孫、父は不詳)と結婚して、漢皇子を産んでいる。私はこの漢皇子が天武ではないかと考えている。つまり、中大兄皇子と大海人皇子は異父兄弟だった可能性が高い。だから天智は自分の娘を4人も天武の妻にすることに抵抗がなかったのではないか。勿論、舒明天皇の子である天智の方が正統な嗣子である。 高向王とはどんな人物だろう。高向王は高向玄理(黒麿)だという説がある。 高向玄理、姓は漢人のち史。冠位は大錦上。608年、遣隋使小野妹子に従い留学生として隋へ留学し、640年に南淵請安とともに帰国する。645年(大化元年)の大化の改新後、僧の旻とともに新政府の国博士に任じられる。646年(大化2年)、遣新羅使として新羅に赴き「任那の調」を廃止することを引きかえに「質(人質)」を差し出させる交渉を取りまとめ、翌647年(大化3年)に新羅王子金春秋を伴って帰国する。649年(大化5年)に八省百官を定めた。654年(白雉5年)遣唐使の押使として唐に赴くが、長安で客死した。 高向氏は魏の曹操の末裔を称する渡来人の子孫とされる。これは秦氏が秦の始皇帝の末裔とされるというのと同じで信憑性がない。ほかに出自については、倭漢氏族説、武内宿禰裔説が存在する。高向氏は河内国錦部郡高向邑(大阪府河内長野市)を本拠としていた。ここには今も高向(たこう・たくが)と云う地区があって、蘇我氏や物部氏の本拠地であり、仏教渡来や飛鳥時代以前のからの歴史がある所だ。私は倭漢氏族説に魅力を感じる。倭漢氏は東漢氏とも書く。住んだ場所により西漢氏が区別されるが、両者の大きな違いはないと考える。最終的に東漢氏の名が残るのでそれに収斂されていったと考えてもよい。 東漢氏はそれ以前の秦氏と同じく製鉄技術をもたらしたと考えられている。東漢氏は蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当している。崇峻天皇暗殺の際にも東漢氏の東漢駒(東漢直駒)が暗殺の実行役となっており、蘇我氏の与党であったが、壬申の乱の際には、蘇我氏と袂を分かって生き残り、奈良時代以降も武人を輩出し平安時代初期には蝦夷征討で活躍した坂上氏の苅田麻呂・田村麻呂親子が登場する。 高向王が高向玄理だとすれば、608年、遣隋使小野妹子に従い留学生として隋へ留学するとき宝皇女(後の皇極天皇)は14歳で結婚していてもおかしくない。しかし、子を産むには少し早い気がする。 608年の小野妹子の遣隋使の際の留学生に気になる名前がある。それは東漢直福因(倭漢直福因)だ。彼は高向玄理と同じ608年の小野妹子の遣隋使の際に留学生として同行、623年に帰国し、「唐国に留まる学者は皆学びて成業したので帰国せしむるべきであり、大唐国は法式備わり定れる国であるゆえ、常に通交すべきである」と朝廷に奏上したと『日本書紀』に記されている。東漢直福因が帰国したのは623年でこの時、宝皇女(後の皇極天皇)は29歳である。宝皇女は37歳で舒明天皇と結婚するくらいだから、巫女的な資質ばかりか魅力的な女性だったのだろう。宝皇女が舒明天皇と結婚する前に産んだ漢皇子とは東漢直福因の子ではないかと思う。そしてこの漢皇子が大海人皇子だとすれば、大海人皇子は朝鮮との関係が深い。私は乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺した首謀者は、大海人皇子と中臣鎌足(豊璋の可能性あり)ではないかと考えている。正統な嗣子である中大兄皇子を前面に押し立てながら裏で糸を引いていたのは大海人皇子と中臣鎌足(豊璋)ではなかったか。百済滅亡直後、百済復興にすぐに動いたのも渡来系の大海人皇子と豊璋ならば頷ける。 そして、壬申の乱では東漢氏は天武についた。そして、天武、持統と時代が進む中でいつの間にか藤原氏も石上氏(物部氏系)も復活してくる。また、東漢氏の中で阿智使主の直系の子孫は天武天皇より「忌寸」の姓を賜り、他の氏族とは姓で区別がなされることとなった。 鸕野讚良(うののさらら)は斉明天皇3年(657年)13才のときに、大海人皇子に嫁した。讚良皇女は斉明天皇7年(661年)には、夫とともに天皇に随行し、九州まで行った。その地で662年に讚良皇女は草壁皇子を産み、翌年に大田皇女が大津皇子を産んだ。天智天皇6年(667年)以前に大田皇女が亡くなったので、讚良皇女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高い妃になった。そして天武亡き後、持統天皇として即位する。 以上の事を勘案すると、天武天皇により草壁皇子とともに岡本宮で養育された義淵は、戦死した鬼室福信の子どもで、身寄りがなくなったため捨て子伝説もあったのではないか。 義淵は643年生まれで728年に亡くなっている。85歳まで生きたことになり、長生き過ぎるように感じる。やはり、草壁皇子と同じ660年頃生まれたのではないか。そうすれば没年が70歳前後で常識的範囲に収まる。 義淵が阿刀氏と関係があるとすれば、その縁で玄ム(俗姓は阿刀氏)が引き上げられたのは納得する。阿刀氏は物部系と考えてよい。 飛鳥から奈良時代の朝廷を見てみよう。天武の後、皇位を嗣がせようとした草壁が早世したので、鸕野讚良は自らが即位し持統天皇になった。目的は孫に譲位するためだ。持統は58歳まで生きて目的を果たした。天皇家を自分の血筋で繋ごうとする執念は実った。しかし孫の文武は25歳で崩御する。今度は文武の子である聖武に位を繋ぐために文武の母である元明(草壁の妃)が即位した。孫の聖武に繋ぐまでに元明が亡くなってしまうと大変なので自分の娘である元正に715年譲位した。つまり元正天皇は中継ぎの中継ぎである。独身女帝の登場である。そして724年無事に聖武に譲位することができ元正の役目は終わった。こうして持統の血脈は繋がれた。 独身女帝・元正の役割は中継ぎの中継ぎだけでは寂しすぎる。彼女にもロマンスはあったようだ。元正は美濃旅行をしている。彼女に親孝行の徳を強要したい母の元明は、元正を美濃の当耆(たぎ)郡多度山の美泉に行幸させて、養老の滝の故事によって元号を「養老」と改元させた。その後も元正は美濃に行幸した。その時の美濃の国司は笠麻呂であった。笠麻呂はその後、急速に出世し、やがて都へ呼び戻され、右大弁になった。右大弁は天皇と親しい関係にある官の一つだ。そして、元正の母元明が病気になると笠麻呂は出家入道する。そして、養老7年(723)に観世音寺建立のために筑紫に遣わされた。なぜ、笠麻呂は官僚としての出世をなげうって出家しなければならなかったのだろう。笠麻呂は沙弥満誓(さみまんせい)の名で大伴旅人の筑紫サロンに通い歌を詠んでいる。この沙弥満誓は好色な僧らしく、『三代実録』の記事によれば、観世音寺の家人、清貞、貞雄、宗主ら三人は笠麻呂五代の孫で、笠麻呂が寺家女の赤須と通じて生んだ子の子孫であると訴えて、これが認められ、家人の身分より改めて「良」に変えたとある。何を言いたいかはもうお分かりだろう。多分、元正と笠麻呂の間に醜聞があり、元明の病気平癒を名目に出家させられて、太宰府へ追い払われたのだろう。やはり中央から見て九州は遠い。太宰府は体のいい左遷場所だったのだろ。今でも本社から福岡支店への人事異動は都落ちなのかもしれない。私なら新しい土地での生活を楽しめる様な気がして、単身赴任という言葉にあこがれたこともあったが、実際は大変なことなのだろう。 戒壇院 観世音寺の西に隣接して戒壇院が建つ。戒壇院は観世音寺の一部だったが、江戸時代に観世音寺から独立し博多の聖福寺の末寺となり、宗派も臨済宗となった。 日本三戒壇の一つで「筑紫戒壇院」と呼ばれることもある。中央戒壇(東大寺)と東戒壇(下野薬師寺)に対して、西戒壇とも呼ばれた。 戒壇院は先ず東大寺に天平勝宝6年(754)に鑑真和上によって設けられた。続いて天平宝字5年(761)に下野薬師寺と筑紫観世音寺に設けられた。後の822年に延暦寺にも戒壇が設けられた。 戒壇とは僧尼として守るべき戒律を授ける所で、ここで戒を受けなければ正式な僧尼とは認められなかった。 重層入母屋造りの本堂。平成3年(1991)の台風17号と19号によって被害を受けたが、平成6年、本堂が復興された。 本尊の廬舎那仏(るしゃなぶつ)座像は平安時代末の作で重文である。両手を胸前にあげて、説法する姿だ。像高は148.5cm。両脇侍像は江戸期の作。 この五輪塔は鑑真和上の供養塔だという。 戒壇院の門は、創建当時は観世音寺境内に向かってのみ開かれており、現在の南門は江戸時代に入ってから造られたものである。 |
<< 前記事(2013/06/12) | ブログのトップへ | 後記事(2013/06/19) >> |
タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
---|
内 容 | ニックネーム/日時 |
---|
<< 前記事(2013/06/12) | ブログのトップへ | 後記事(2013/06/19) >> |