泗水康信、木村司
2015年6月23日14時49分
県民の4人に1人が亡くなったといわれる沖縄戦。犠牲者を悼む沖縄県糸満市の「平和の礎(いしじ)」では23日、朝から人波が続いた。戦後70年がたっても沖縄への極端な基地集中は変わらず、安全保障関連法案の議論も進む。壮絶な地上戦を体験した人たちからは、平和を強く求める声が聞かれた。
扇状に並ぶ黒い石板。南城市の島袋ヨシ子さん(79)は、夫の押す車いすに座り、刻まれた家族の名前を探していた。
1945年、米軍上陸を知って一家は本島南部からいったん首里(現・那覇市)に避難。だが、米軍が迫っていたため再び南部に戻ったという。
「一面血の海でね」。木陰で食事をしている時、艦砲射撃が一家を襲った。祖母は箸を持ったまま、頭に破片が突き刺さって即死。父も足が太もものあたりで切れて亡くなった。爆風を受けた母は顔から大量の血を流していた。
ヨシ子さんは奇跡的に無傷だった。乳児の妹を背負い、姉とともに母を連れて南部をさまよったという。米軍に収容された後、母と妹は息を引き取った。
碑には、家族ら8人の名前が刻まれている。「来られるうちは毎年来たいけど、私もあちこち具合が悪い。『安らかに眠って。そして見守っていてください』とお願いしました」
糸満市の山城清和さん(80)は、礎の傍らに一人、たたずんでいた。数年ぶりに訪れた。目も悪くなり「家族」がすぐには見つからなかった。
登助、登一、敏政、敏男……。家族や親族11人の名前が刻まれている。その場で出会った人の手を借りてようやく見つけると菓子や茶を供え、手を合わせた。
日本の統治下だったサイパン島で生まれた。約2万人の日本人が暮らし、約6割が沖縄出身者だった。44年、米軍が上陸。地上戦で両親や2人のきょうだいを奪われた。遺骨の代わりに、土を持ち帰った。引き揚げた沖縄も焦土と化していた。両親のふるさと、糸満市を訪ねると、祖父らが亡くなっていた。
「艦砲射撃もこわかった。死体の上も歩いた」。地上戦の記憶は鮮明だ。それにも増してつらかったのは「戦後、両親がいなかったこと」。クリスマスや正月がくるたびに、寂しく、苦しかったという。
「平和でほがらかであってほしい。安倍首相らに言えるような言葉は持ち合わせていません。ただ、戦争がまた起こるんじゃないかと、不安です」
「平和の礎」は完成して20年。新城美枝さん(79)は毎年、石垣島から来ているという。「ここでたくさんの名前を目にすると悲しみが膨らむ。でも、刻まれてよかった。こういうおばあさんがいた、こういう女の子がいたんだねと、ずっと誰かに思ってもらいたい」
警察官だった父は沖縄本島の地上戦で45年6月16日に死亡。弟は兵士として県外で戦死した。石垣島にいた新城さんらはマラリアに侵され、祖母や親戚が次々に命を落とした。背中におぶっていた幼い妹も、7月に亡くなった。
「70年はあっという間だった。結婚もして子どもも生まれて。苦しみも和らいだ。ただ、戦争での苦しみを味わっているからとしか言えないけど、日本は戦争をまたするんでしょうか。心配です」と話した。(泗水康信、木村司)
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